源義経死なず(当時の様子で思うこと1)
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当時の様子で思うこと1

当時の様子で思うこと1(義経は泰衡が攻めてくるのを予見していたか)
史実では、義経は、藤原泰衡が自分を殺すつもりであるなどとは露ほども疑わずにいたことになっている。しかし、同じ平泉に住んでいて本当に気付かなかったのか、という話

 これまで義経北行伝説そのものを、色々な角度から妄想してみました。しかし、北行伝説は本物なのか偽物なのか、はっきり分かりませんでした。ウソ臭い反面、ウソと決め付けるには気になるところもある。そこで、私の持っている鎌倉時代の知識を総動員して(殆どカラッポ)、義経が北行したのかどうなのか、考えてみたいと思うのです。

 まず、考えたいことは、「義経は、藤原泰衡が自分を殺そうとしていることを、知っていたのではないか」という問題です。史実では、泰衡は自分の味方であると信じていた義経は、不意を襲われたために、抵抗らしい抵抗もできず、あっさりと討たれてしまったということになっています。果たしてそうなのでしょうか。

 「義経記」では、泰衡が義経を襲う直前に、『常陸坊を初めとして残り十一人の者ども今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまま帰へらずして』逃げ失せてしまった一団がいたといいます。「義経記」は、義経の死から200年後に書かれたものなので、100%事実とは言えないのですが(常陸坊も、架空の人物と言われています)、おそらく本当に衣川の義経館から逃げ出した人がいたからこそ、このような話が残ったのでしょう。つまり、義経側からすれば実は泰衡の作戦は筒抜け。泰衡側からすれば、こんな手際の悪い話はなかったのです。実際に平泉に行って義経の館跡(高館)を見てみれば分かるのですが、平泉の政庁は以外に近く、そこの様子はすぐ分かってしまうような距離です。義経は、泰衡が自分を襲おうとしていることに気付いていたでしょう。おまけにその数ヶ月前、泰衡は自分の弟である忠衡を攻め殺しています(この藤原忠衡は、親義経派だったために殺されたそうです)。粛清ムードの真っ只中。義経は何を考えていたでしょうか。

 平泉で死んだのだと考える人たちのなかに、義経は北海道へあてもなく逃走するよりも武士らしい死に際の美しさを求めたのだ、という意見があります。無理に北へ逃がすのは、武士の美意識を無視した考えだと言いますが、なかなか鵜呑みにできません。武士としての教育を受けなかったために、当時の常識に反した戦い方(壇ノ浦では、敵船の操縦士を狙い撃ちにするという、卑怯な作戦を取りました)で平家を滅ぼし、武士的な美意識が少なかったために、梶原景時などの鎌倉武士と対立したのだ、と言っておきながら、その死に際に武士の倫理をあてはめるのは、都合の良すぎる話だと思うのです。だとすると、義経が衣川で泰衡に討たれたと考える人たちは、泰衡の意図を見抜きながらも平泉を逃げなかった別の理由を挙げなくてはなりません。

 頼みの綱だった藤原秀衡に死なれて将来を悲観した、事実上の自殺だったのか。それとも、泰衡の攻撃を予見して、あらかじめ逃げてしまったのか。はたまた別の隠された理由があったのでしょうか。

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