源義経死なず(当時の様子で思うこと6)
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当時の様子で思うこと6

当時の様子で思うこと6(泰衡はなぜ義経を逃がしたのか?)
義経は藤原泰衡の指示で中国北方に渡り、対頼朝軍のために傭兵を集めようとしたという説の紹介。私の乏しい常識を凌駕した説なので、当時の平泉と東北アジアとのつながりなどについても考えた。

 泰衡が義経を逃がした理由は、ズバリ、義経を大陸(中国東北部・シべリア)に派遣して、当地の遊牧民族を従え、服従した彼らを対鎌倉の主戦力とするためだそうです。
 当時の大陸はモンゴル帝国出現前夜。馬を巧みに操る遊牧民が各地に割拠していました。彼らは農耕民と違って、血統よりも実力のある者を尊ぶ傾向があるので、義経が彼らを軍隊として編成し、あるいは平泉の黄金で傭兵として雇い入れ、これで鎌倉軍を防ぐ計画があったのだという考えです。平泉軍は前九年・後三年の役以後、100年も戦争を経験していません。軍事の最高指揮官になった義経は、これではとうてい鎌倉に勝てないことを痛感しました。対木曽義仲戦・一の谷・屋島の合戦で見ても分かる通り、義経の作戦の基本は速さと意外さです。義経の作戦を実現してくれる兵をどうやって揃えるか。そのとき、大陸に優秀な戦力になりうる人々がいることを、義経は知ったのです。

 ここまで読んで、突拍子もない意見に失望した人もいるのではないでしょうか。正直、僕も似たような気分を持っています。ただ、この説の要点は、当時の奥州藤原氏が、どれだけ積極的に大陸とかかわりを持っていたのかということです。まだ証拠は見つかっていないようですが、現在とは比べものにならないくらい密接な関係を持っていた可能性は、研究者の間でも指摘されています。今の私たちの常識では想像もつかないような作戦が、彼らには自然に思いつくことができたかもしれないのです。

 当時、平泉と大陸との交通は頻繁であったと推測されています。藤原秀衡は、中国(宋)の皇帝に純金約55トンを送り、代わりに大部の経典を手に入れました。さらに、津軽半島には江戸時代頃まで、十三湊という港がありました。室町時代には博多と並ぶ国際貿易拠点として賑わっていたといいます。奥州藤原氏と十三湊との関係は、現在はっきり立証されてはいませんが、沿海州産の鷹の羽、北海のラッコ(アザラシだったかな?)の毛皮など、平泉には北方世界とのつながり深い品々が流入していました。また、一説によると、奥州が軍馬の産地になったのは、大陸の優秀な馬の血統を導入したからだともいわれています。奥州軍の中心は騎馬武者です。もしこの説が事実なら、馬だけでなく馬に乗る人の交流があったかもしれません。平泉は北東アジアに関する知識を豊富に持っていた可能性が高いのです。

 “東北に残る義経の足跡について”のところでも書いたとおり、義経北行伝説によると、義経は、義経が討たれたといわれる衣川の戦いの、1年も前に平泉を発っています。何らかの目的を持って、義経は密かに平泉を出発し、泰衡は始めその事実を隠していました。そして1年後、隠し切れなくなったか、あるいははじめから計算の内だったか、義経を殺したことにして偽首を鎌倉に運んだわけです。

 文治4(1188)年春、義経北行。その翌年早々、朝廷から義経追捕の宣旨を持った使者が平泉にやって来ました。泰衡は、それまでは一貫して「義経は平泉に来ていない、もし来たら捕らえて差し出しましょう」と、とぼけていましたが、この時初めて平泉に義経が来ていることを認めました。そして、義経を差し出すことを約束しました。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』文治5年2月26日の項には、「そんなこと言ってるけど、泰衡の心中は測りがたい。去年勅使が義経追捕の宣旨を平泉に持って行ったときは、義経はいないと言っていた。今回も、とりあえずごまかすために、義経を捕まえるなんて言ったんだろう。その場しのぎの言い逃れで、本心は義経を捕まえるつもりはないのだろう。信用できんよ。」と書いてあります。

 頻繁にやって来る義経追捕の勅命。そらトボケ作戦が限界にきたと感じたのか、それとも、実は本当に義経が不在であることを隠すためか、泰衡は、義経が帰ってくるまでの引き伸ばし工作として、義経追捕を約束し、やがて衣川の戦いを演じたのではないでしょうか。義経追捕の約束から衣川の偽戦まで数ヶ月かかっています。引き伸ばし工作としてはまずまず成功でしょう。史実では、鎌倉は平泉討伐の勅命(朝廷が発する命令)無しで奥州攻めを行ったので、衣川の偽戦後すぐに平泉は滅びました。しかし本来、勅命無しの平泉討伐はあり得ません。実際、朝廷はなかなか平泉討伐を認めませんでした。泰衡の想定では、文治5年いっぱいは大丈夫と考えていたかもしれません。

 中津文彦さんの説をもとにして、義経北行伝説を組み立ててみました。

 『武略あふれる義経に、大陸の騎馬民族を従え、援軍として連れてくるように泰衡は頼みました。文治四年春、冬の終わりと同時に義経は大陸(おそらくは津軽から沿海州へ出港)に向かいました。当時の平泉には鎌倉方のスパイの目が光っていましたが、木々に緑が生い茂る春は、山中を隠密に潜行するのに最適でした。翌年、厳しさの増す義経追捕令に、ごまかしがきかないと考えた泰衡は、義経帰国の時期を来年と考え、作戦を切り替えました。義経が平泉にいると認め、捕縛の時期をのらりくらりと、さながら国会野党牛歩戦術のように引き伸ばすのです。この作戦は、本当は平泉にいない義経が、未だ当地にいるという印象をもたせることもできます。京都にある平泉の出先機関(平泉第)からの報告では、朝廷は義経を討った平泉に討伐令を出さないであろう、ということでした。これで義経を討ったことにすれば、少なくとも来年までは安心と踏んだ泰衡は、義経の影武者(杉目小太郎行信といわれる)を、泰衡の祖父、藤原基成の館(衣川館)に討ちました。機密が漏れるのを恐れた泰衡は、祖父の館で偽戦を行うことにしたのです。

 ところが、泰衡の予測ははずれました。義経の首が偽物であることを知っていたのかどうかは分かりませんが、鎌倉軍が朝廷の許可無しで平泉を攻撃してきたのです。目論見が狂った泰衡は戦意を喪失していました。もとより、彼は軍事の最高司令官である義経抜きで鎌倉に戦うつもりがなかったのです。極秘資料を隠すため、やむを得ず平泉の政庁に火を放った後、義経の来援を求めて、秋田経由で北へ逃れました。比内まで来て、義経の来援はまだないと判断した泰衡は、頼朝に降伏しました。とにかく生きてさえいれば、いつか義経の援軍が来て平泉を取り返せると信じていたので、なりふり構わない降伏文でした。』

 義経が本当に衣川で死んでいないとすると、@なぜ泰衡は義経を逃がしたか。A義経を逃がした泰衡は、なぜ義経が平泉に義経がいると認め、わざわざ義経を殺したことにしたのか。この2つが疑問としてあがると思います。義経が単にかわいそうだから逃がしたというのは考えられないでしょう。充分逃げ切った頃合を見計らって偽首を提出したのでしょうか。しかし、これでは犠牲が大きすぎます。義経のために身代わりを殺さなくてはなりません。さらに、義経がいなくなった後鎌倉と戦うことになる泰衡は、義経を守るために全てをなげうったことになるので、なんだか妙な話です。中津文彦さんの説を使うと、一応2つの疑問に答えることができます。

 もし義経が北行したとすると、頼朝はその事実を知っていたでしょうか。それをこれから考えたいと思います。

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