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衣川の戦いから間もなく、頼朝軍は奥州に突入しました。平泉軍2万は泰衡の兄国衡を大将とし、阿津賀志山に二重の防護柵をひいてこれを迎え撃ちます。ところが鎌倉軍はこの要塞の状況を熟知していました。工作隊が堀を埋め、柵を壊し、さらに背後に回って平泉軍を攻撃したため本営は大混乱に陥ります。国衡は逃亡中に討たれ、敗報を受けた総大将泰衡は一戦も交えず平泉に自ら火を放ち北へ逃亡しました。
『鎌倉の命令によって義経の首を獲ったのは勲功に等しいもので、今回の討伐は納得できません。しかし、戦の趨勢が鎌倉の勝利に終わったのなら素直に鎌倉の下知に従うつもりでおります。もし御家人の列に加えてくださる情けがおありなら、自分は鹿角近くの比内に身を潜めておりますので、返事を比内に落としてください』。泰衡は山林に交わっても生き延びたいという意思を伝えましたが、頼朝の容れるところとはなりません。逆に比内に泰衡がいることが分かった頼朝は、比内に探索の兵を派遣しました。
泰衡の手紙の内容は、平泉の太守らしからぬ惨めなものです。あまつさえ自分の潜伏先を敵に知らせるなど、どういう見通しを持っていたのでしょうか。泰衡は暗愚だったのでしょうか。平泉に後継者争いが起こったのも、泰衡の暗愚故かもしれません。子を見ること親にしかず。秀衡が死にあたって、本来は泰衡に帰属すべき軍事の最高指揮権を義経に譲ったのも故なしとは言えません。
『泰衡は暗愚でしたが秀衡は後継に据えました。それに不満な忠衡は義経を担いで泰衡に反旗をひるがえしたので、頼朝の思惑通りになると分かっていながらも両名を討伐せざるをえませんでした。そして頼朝軍の侵攻。内紛直後の平泉は兵士の集まりが悪く、あっさりと敗北してしまいました。泰衡はなす術もなく降伏を願い出ました』。これが泰衡暗愚説の流れになるでしょう。
この降伏文を見れば、泰衡は暗愚だったというのが素直な意見でしょう。もし、暗愚ではないと考えたければ、別の見方をしなくてはなりません。何があっても生きていなくてはならない理由があった。だから惨めな降伏文書までしたためた。推理作家の中津文彦さんは、この考えにもとづいて義経が平泉を脱出した理由・泰衡が義経を逃がした理由を説明していらっしゃいます。彼の説については、次の章で紹介しましょう。