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津軽一帯を流れる岩木川。かつてこの地方の流通において中心的役割を果たしていました。その川の河口に、十三湖という大きな湖があります。津軽中の川がここに流れ込んでいますが、湖の西口が小さく開いて日本海の海水が流れ込んでいるため、汽水湖になっています。太宰治の作品『津軽』に『気品はあるがはかない感じの湖』とかかれた十三湖は、その昔、「十三湊(とさみなと)」と呼ばれた博多クラスの国際貿易港だったのです。
十三湊とは、中世の昔、津軽半島にあった国際貿易港のことです。場所は現在の地名で言うと、青森県北津軽郡市浦村といい、今では小さな漁村になっています。十三湊に関する文献は少なく、謎が多かったのですが、1991年から国立歴史民俗博物館による発掘調査を契機に、かつての十三湊の様子が明らかになりつつあります。
発掘によって、この津軽の小さな漁村から、昔の繁栄の跡が続々とあらわれました。十三湊の北岸にある山王坊の僧、弘智(1363年没)が書いたといわれる『十三往来』によると、インドの王舎城、中国の長安城、わが国の平安京に肩を並べるくらいの大都会が十三湊であり、港には夷船京船(沿海州や中国の船)が群れ集っていたということです。発掘結果は、十三湊がそれに近い大きな貿易港であったことを我々に教えてくれました。
この貿易港を抑えていた安藤(安東)氏という豪族は、自らも水軍を率いて交易していたともいわれています。しかし、彼らがどんな人たちで、本当に伝承どおりの大活躍をしていた一族なのかは、まだ分かっていません。
昭和の40年代。分からないことの多い安東氏の出自に関する奇妙な書物が津軽の旧家から出現しました。『東日流外三郡誌』といわれる奇書で、十三湊の歴史を綴った古文書とのことでした。この本の編纂を企画したのは津軽安東氏の子孫で福島県三春の藩主、秋田信濃守倩季で、秋田孝季と和田長三郎に命じて現地調査を行わせ、1822年、600巻余りの歴史書を完成させたという触れ込みでした。
しかしこの歴史書(?)は正統派の歴史学者の大半によって、現代人が書いた偽書であるという判定を下されています。