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独自の特徴として挙げられるのは、義経北行伝説は終着点がはっきりしないということです。
為朝伝説は琉球、真田幸村は鹿児島、という具合に、一般に不死伝説は落ち着き先、「ここに逃れて来て、そして天寿を全うした」みたいなのがあります。義経成吉思汗説はモンゴルということになりますが、これは義経北行伝説の進化版の1つであって、同一の伝説ではありません。義経北行伝説の内容は、平泉を去り、三陸・津軽の各所に立ち寄って、最後に津軽半島の竜飛岬から北海道へ旅立ったというものです。北海道でも、あちこち立ち寄りますが、結局最後は大陸に渡りそうな感じです。義経の伝説とされているものでは「ホンカイ様は黄金の鷲に乗って、大きな河のあるクルムセの国へ行ってしまった」が最後です。つまり、いわゆる義経の墓が無いのです。
もし英雄を惜しむ気持ちがあって、そこから生まれた不死伝説なら、「その偉大な英雄は、最後におら達の村に住み着きなさっただ」としたいのが普通です。そこに立ち寄っただけというのでは、スマートな話になるけど、なんか惜しいじゃないですか。東北の各地に義経北行伝説があるのに、そのいずれもが立ち寄った(あるいはしばらく滞在した)だけの話というのは、何か理由があるのではないでしょうか。
独自の特徴として次に挙げられるのは、義経の足跡が1本の線で結べてしまうということです。
「東北に残る義経の足跡について」でも紹介しましたが、義経北行伝説の残る土地をつなげていくと東北地方については、平泉−三陸−津軽という具合に一本の線で結べてしまうのです。これも、単なる英雄不死伝説なら、たとえば秋田あたりに、唐突に義経の立ち寄った話が残っていても良いわけです。実際、秋田には源頼朝軍に追われた藤原泰衡の奥方がここまで逃れてきたものの、泰衡の死を知って悲しみのあまり死んでしまったという話の残る土地があります。ついでに義経の話ができても良いはずなのに、作られなかった。なぜ、一本の線で結べるのか、偶然なのか、はたまた本当に義経が通った場所だからか、気になります。
義経北行伝説を否定しようとする人のなかに、「平泉滅亡後、多くの藤原氏関係者が北へ逃れたはず。その人たちが逃れて行った記憶が、義経と結びついて作られたのではないか」と考える人もいます。平家の落ち武者伝説みたいなものです。しかし、それだけでは、この一本線現象を解決できないのではないでしょうか。ひょっとしたら、この線上に平泉政権の隠し道があったりして。だとしても、先ほど挙げた義経伝説の終着点の問題が解決しきれません。どこかに平家の隠れ里みたいに義経の落ち着き先があってもよさそうなものです。