源義経死なず(なぜ義経を逃したのか)
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なぜ義経を逃したのか

結局、奥州藤原氏はなぜ義経を逃がしたのか
これまでウジウジと考えてきたが、結局、藤原氏が義経を逃がす理由があったのか。
これまで挙げてきたことをまとめてみたが、なかなか納得の行く理由がみつからない、という話

 仮に義経不死伝説が真実だとすると、奥州藤原氏は、なぜ義経を逃がしたのでしょうか。これまでのまとめのつもりで、もう一度考えてみましょう。

 義経がかわいそうだから逃がして、偽首をたてたのでしょうか。義経の次は自分たちだということが分かっていたであろう平泉が、こんなことをするのは、犠牲の大きい、おかしな話です。先代の藤原秀衡の遺言も「義経を大将軍に据えよ」ということだったそうです。義経を使おうと考えこそすれ、単純に逃がしてやろうとは思わないのではないでしょうか。何か積極的な理由があって、義経を逃がしたと考えるべきでしょう。

 作家の中津文彦さんの「騎馬民族を援軍として調達するために義経を北方に派遣した」という説は、これまで挙げてきた通り、周囲の状況と無理なく合うので魅力的な説ではあります。しかし、奥州政権が、騎馬民族の調達を現実的な作戦として採用することがあり得たのか、北東アジアも含めた当時の状況がよく分からない私としては、なんともいえないところです。かといって、他になにか理由があるでしょうか。

 藤原氏が逃がしたのではなく、義経が逃げたとみるべきでしょうか。もし義経が逃げたのだとしても、平泉から北は全て藤原氏の領土です。各地に伝承を残すような逃げ方では、おそらく津軽まで逃げ切れなかったでしょう。
 平泉政権の行政組織は、道路なら一町別に、村なら一村ごとに、規則的に定められた単位行政プログラムを一つ一つクリアして、横に平等に並べ、縦に均質に積み上げるという企画性のある組織原理に貫かれたシステマチックな政治を行っていました。後に平泉を滅ぼした源頼朝も平泉の政治システムを高く評価し、当地については藤原秀衡・泰衡時代の政治システムをそのまま実行するようにと地頭たちに通達しています。こんな厳正な政治を行っている国で、おたずね者となった義経主従が逃げることは、おそらく容易ではなかったと思われます。

 内部に義経に同情する勢力があって、彼らの逃亡を手引きした可能性も、無いではないですが。衣川の戦いも、義経を逃がした責任をごまかすためのウソ戦だということになります。だとすると、平泉が頼朝に滅ぼされた後で、公にそういう話が登場してもよさそうなものです。頼朝は後年「泰衡といい義経といい、べつにそれほどの重罪犯罪人というわけではなかった。彼らを討ったのは、奥州制覇という源氏の宿願を果たすために過ぎなかったんだ。」と述懐したといいます。もし義経が本当は死んでいないなら、ここで死んだことにする理由が分かりません。

 これまで考えてきたとおり、衣川の戦い周辺には妙な雰囲気が漂っています。しかし、義経を逃がした理由について周囲の状況と矛盾なく、なおかつ現実的な説明ができない限り、どうしても義経不死伝説はスッキリしません。

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