源義経死なず(他の生存伝説との比較1)
いちばん最初に開くページへ 国内サッカーに関するトップページへ 旅行や登山に関するトップページへ 伝説や歴史ミステリーに関するトップページへ 書籍紹介やリンク集。千葉県白井市の紹介
TOP |  ザシキワラシ |  為朝琉球渡り |  義経=ジンギスカン |  津軽十三湖伝説 |
@義経北行伝説とは >>  A義経生存説の成長1 >>  B義経生存説の成長2 >>  C義経生存説の成長3 >>  D東北に残る義経の足跡 >>  E他の生存伝説との比較1 >>  F他の生存伝説との比較2 >>  G他の生存伝説との比較3 >>  H当時の様子で思うこと1 >>  I当時の様子で思うこと2 >>  J当時の様子で思うこと3 >>  K当時の様子で思うこと4 >>  L当時の様子で思うこと5 >>  M当時の様子で思うこと6 >>  N当時の様子で思うこと7 >>  O当時の様子で思うこと8 >>  Pなぜ義経を逃したのか >>  Q義経はどこへ行ったのか >>  R感想 

他の生存伝説との比較1

義経北行伝説と他の英雄不死伝説との比較1(他にはどんな伝説があるか)
義経以外にも、実は死なずにどこかに逃亡したという英雄の伝説がある。
西洋の英雄・鎮西八郎為朝・安徳天皇・真田幸村・石田三成・西郷隆盛

 残念な最後を送った(あるいは納得できない最後を迎えた)英雄をそのまま終わらせたくない。あるいは、英雄のその後を誰か物語でも良いから書いて欲しい。そんな気持ちはごく自然に人間の心の中に存在するようです。
 本屋でシミュレーション戦記とかいうジャンルの本を見かけます。『伊達政宗天下を獲る』なんていう題名の本が書棚に並ぶのも、夢を果たしきれなかった英雄を惜しむ気持ちがあらわれているのではないでしょうか。真田幸村は大阪夏の陣で死なず、豊臣秀頼を連れて薩摩に逃れたなんていう伝説があります。これなんかも、もし現代の事件だったなら、『真田幸村天下を獲る』なんていう本にして、幸村の死を惜しむ気持ちを晴らしていたかもしれません。

 義経北行伝説も、そんな感じで発生した作り話ではないのか。その辺を考えるために、他の英雄不死伝説についても、様子を見てみようと思います。

 日本に限らず、世界中にこの種の不死伝説は存在しています。アーサー王は怪剣エクスカリバーを魔の湖に返した後、姿を消してしまいますが、イングランドが危機に陥れば必ず甦って正義を示すということになっているそうです(良く知らんけど、本に書いてありました)。ロシア最後の皇帝ニコライ2世とその家族は革命軍によって処刑されましたが、末娘のアナスタシアだけは難を逃れて逃亡したという伝説もあります。これはアニメ映画にもなりました。他にも、インド独立の志士、チャンドラ・ボーズの不死伝説もあります。何の本で読んだか忘れましたが、アレクサンダー大王の不死伝説もあるそうです。海外の不死伝説は、基本的に登場人物に馴染みがないので、興味が湧きません。このへんでやめておきます。

 日本では、どんな人物が不死伝説の対象になっているでしょうか。

 義経とほぼ同じ時代の人物としては、源為朝(鎮西八郎為朝)が挙げられます。鎮西八郎為朝は義経の父義朝の弟で、義経の叔父にあたります。剛勇無双で知られていました。天皇家・藤原摂関家の内部対立(保元の乱)に参加して敗れます。伊豆大島に流罪となった為朝は、大島を朝廷より賜ったと称えて伊豆諸島を荒らしまわりますが、朝廷からの討伐軍がやってくると自害したといわれています。ところが、為朝は大島で死なず、琉球(沖縄)に逃れたという伝説があらわれました。

 東で義経不死がささやかれた頃、西では安徳天皇不死がささやかれました。壇ノ浦の合戦で平氏とともに海に沈んだ安徳天皇は、実は死なずに落ち延びたという説があります。安徳天皇の潜行先とされる場所は、徳島県祖谷等各所にあり、それこそ、よりどりみどりのとっかえひっかえ状態ですが、鹿児島県硫黄島がもっとも具体的・代表的なようです。『三島村誌』というものによると、宮崎県細島、鹿児島県志布志、種子島浦田、大隈半島大泊等を経て、硫黄島長浜に到着。ここに黒木御所を造営して66歳まで生きたといいます。黒木御所跡、横小路、北山小路などの道が走り、参議業盛の住居跡など、なかなかセットも凝っているようです。以上は『ものがたり風土記(阿刀田高著)』によるものですが、その阿刀田さんに言わせると、黒木御所跡は港に近く、いわゆる一等地だそうです。安徳天皇伝説の真偽は定かではありませんが、そこに誰か有力者が住んでいたことだけは確かなのではないでしょうか。

 先に述べた真田幸村もいます。幸村は、大阪夏の陣で豊臣方として参戦。一時は徳川家康の本陣を襲ってその心胆を寒からしめましたが、力及ばす戦死しました。彼も、大阪で死なず、豊臣秀頼を連れて薩摩に逃れたという伝説があるようです。鹿児島には、今でも豊臣秀頼の墓といわれているものがあります。

 真田幸村と同じ時代、関が原の戦いで西軍を指揮した石田三成にも不死伝説があります。三成は関が原から逃走するも、伊吹山中で捕まり、六条河原で斬首に処せられました。ところが、三成は関が原戦後水戸から秋田に転封となった佐竹氏に匿われたという伝説があります。秋田市八橋にある帰命寺には、石田三成のものとも言われている墓があります。佐竹氏は先祖代々茨城県を本拠にした大名で、豊臣政権下では対徳川家の抑えとして石田三成に重要視されていました。いろいろ三成から貰った物も多いらしく、江戸時代末期の天明年間、佐竹氏の居城が火事に遭ったとき、三成から貰ったという百本の槍を必死で城外に持ち出した、という記録があります。秋田にとばされた佐竹氏は、かつて自分たちを優遇してくれた三成を懐かしみ、ひそかに彼の遺品を集め、墓として祀ったのではないか。それが三成の墓と呼ばれているのではないか、ということです。

 太平の江戸時代を挟んで、明治初期の動乱時代に、再び不死伝説が登場します。西郷隆盛です。西南戦争で政府軍に敗れた隆盛は、城山で自害しましたが、実は南海に逃れたという説があります。あるいはロシアに逃れたともいわれ、明治24年にロシアの皇太子が日本にやって来たとき、西郷も同行して来るという噂が立って、大騒ぎになったそうです。

前へ<<(東北に残る義経の足跡)
>>次へ(他の生存伝説との比較2)