源義経死なず(義経生存説の成長2)
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義経生存説の成長2

義経生存説の成長2(江戸時代末期から大正時代)
江戸時代末期から明治時代には、義経は当時中国を支配していた清王朝の先祖になったという説が流れた。大正時代には、小矢部というフィールドワークを重視した研究者によって、義経成吉思汗(ジンギスカン)説が大々的に世間に発表される。しかし、それを認めない正統派の歴史学者との間で大論争が起こった。

 北海道で近藤重蔵の探検が終わった頃、長崎の出島にシーボルトがやって来ます。彼が、どうやら一番最初に、突っ走った説を発表した人のようです。

 オランダ人シーボルトは日本にいた頃の調査や収集した資料をもとに、研究書『日本』をヨーロッパに出版しました。長文を引用するのが面倒くさいので(笑)概略のみにとどめますが、『第一編日本の地理とその発見史、第五章日本人による自国領土およびその近隣諸国保護国の発見史の概観』では、義経は蝦夷へ敗走した後モンゴルの成吉思汗(ジンギスカン)になった可能性を指摘しています。根拠は、モンゴル宮廷の風俗習慣と天皇の宮廷の習慣が一致していること、モンゴルや中国、満州には無くて日本にはあった長弓を成吉思汗が使っていたこと、成吉思汗が可汗(モンゴルの王位)についたとき九つの房飾りのついた白旗を掲げたが源氏も白旗を象徴としていること、等があるようです。最初の義経成吉思汗説です。九州にいたはずの彼が誰からこの説を聞いたのか、あるいは彼の全くオリジナルな説なのか否かが気になるところです。残念ながら、そこのところがよく分からないのですが。

 江戸時代には他にも色々なところで、義経が逃げたのだという話が飛び交ったようですが、それに便乗したイカサマも登場します。『別本金史外伝』なる歴史書が“発見”され、『この書によると、義経は平泉を脱出した後、当時満州から沿海州を治めていた金国に仕え、その子は範車大将軍になったというぞ!!』という騒ぎもありました。しかし、『金史別本』は偽書(にせもの・いんちき本のこと)でした。他にも『清帝国が編纂した『図書揖勘』という書物には、『清国皇帝の姓は源、義経の末裔である云々』という乾隆皇帝自筆の序文があるんだ!!』と書いた『国学忘貝』なる本も現われました。が、『図書揖勘』という書なんか、この世に存在しないよ、てな具合に切り捨てられました。清国皇帝は義経の末裔云々という説は、真偽は別として、ある古老の談ということで他でも語られているそうです。ちなみに清帝国とは、江戸時代頃に中国を支配していた大国です。

 義経成吉思汗説の前に、義経清帝国の先祖説が登場していたわけです。江戸時代、シーボルトの他には、成吉思汗を取り上げる人はいなかったような感じです。伝説とは、心理的に身近なところを対象にするものなのでしょうか。日本人は当時の隣国だった清帝国を義経の末裔に選び、一人のオランダ人だけが、かつてヨーロッパを震撼させたモンゴル皇帝を対象にしたというのは、面白いことです。

 明治時代、上で書いた『図書揖勘』の事実関係を確認するために、当時大学の漢学教授だった蒲生重章さんが清国の公使、黎庶昌に質したところ、『わが皇上の先祖は金・源の後に出ている。貴邦の源氏とは関係ない』と、あっさり否定されたといいます。

 大正時代、義経成吉思汗説が小矢部全一郎という人によって大々的に世に現われました。彼の著作『成吉思汗は源義経也』には、鎌倉武士とモンゴル人の習俗に似たところがあること(相撲の習慣・ヤブサメルという、やぶさめに似た騎射術の存在)や、日本語と同じ単語があること(大将をタイシーということ等)、日本と同じ地名が満州にある(チタと知多、シルパと駿河、アガと男鹿、熱河省平泉と奥州平泉)、北海道から満州各地に残る義経関係の遺跡(北海道のハンガン様伝説と判官義経・成吉思汗のことをクローと呼ぶ満州と九郎義経・沿海州に残るハングワンという地名と判官義経)、あるいは成吉思汗関係の逸話に時々登場する笹竜胆の紋(ささりんどう:笹竜胆は源氏の紋章とされている)など、論拠を挙げながら義経は成吉思汗であることを証明していきます。さらには清和源氏の系統に属する貴族を集めて同趣旨の公演を行いました。これが、義経成吉思汗説を認めない正統派の歴史学者の怒りをかい、大論戦が展開されますが、小矢部説に対する世間のうけは良く、ときの天皇も彼の著書をご覧になったとか。

 学者との間に起こった大論戦は結局、泥沼、泥試合なおかつ日没ドロンゲームにしてノーガード叩き合いの様相を呈していきました。

ちょっと良い話?+感想

 小矢部さんは義経成吉思汗説に続いて、古代日本人はなんとヘブライ人であるという『日本及日本国民之起源』を書きました。私個人の意見としては、「小矢部さん、やっちゃったなぁ」という感じですが、ちなみに、小矢部さんの奥さんはユダヤ系のイギリス人だったそうです。

 小矢部さんの名誉のために付記しておきますが、小矢部さんはハーバード大学哲学科神学科で学び、エール大学大学院で哲学博士の学位を取得した秀才なのです(歴史学とは関係なさそうですけど)。アメリカ留学中、黒人差別問題に直面した彼は人類愛に目覚め、横浜組合教会牧師になります。当時、北海道でアイヌ人が民族差別を受けていることを知り、アイヌ救済のためにアイヌ学校を設立しました。どうやらこの頃、アイヌの伝承に義経関係の伝説・信仰があることを知ったみたいですね。アイヌの保護法が制定され学校が公営になると、彼はそこを辞し、大正8年にはシベリアに出兵する第五師団司令部付陸軍通訳官として現地に赴きました。陸軍の協力を得て、シベリアに存在する成吉思汗や義経の遺跡を調査した彼は、『成吉思汗は源義経也』を発表。これが歴史学者との大論戦に発展します。

 この論戦で、歴史学者のなかには論争の勢い余って小矢部さんの個人攻撃を行う人も現われました。“山師”、“アイヌの知識は皆無に近かろう”、“この本の序文を書いた杉浦重剛は小矢部の術中にはまって晩節を汚した”とか、「それは言い過ぎだよ、あんた」な発言が登場しています。成吉思汗説とは最後まで相容れなかったものの、小矢部さんとの交友が深かった金田一京助氏は、小矢部さんの学識と、人間的誠実さは充分に認めていたそうです。

 私は特に小矢部さんの肩を持つつもりではないのですが、この種の論争が起きたときに出現する、当事者の個人攻撃っぽいものには注意すべきなのだろうと思います。後で書く予定の『東日流外三郡誌』という古文書の真偽をめぐっても、この書物の“発見者”の経歴詐称疑惑を挙げている本が存在します。『東日流外三郡誌』そのものは確かにウソ臭いなぁという感じです。しかし、古文書の真偽とは直接関係のない話を、さも関係ありそうに挙げる姿勢にも警戒の必要があるのではと思ったりもする今日この頃であったりなかったりしますって、どっちなんだよという感じです(最後は意味不明の腰砕け風)。

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