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大河兼任という人物は、いったいどんな人物なのでしょうか。従来の説によると、秋田県北、八郎潟近くの「大川」の地名にちなむ豪族と考えられ、本拠も南秋田郡北から山本郡方面にあったと考えられていました。
しかし、東北大学名誉教授で、『義経伝説(中公新社)』等、平泉関連の著書も多い高橋富雄さん(注:真面目な学者先生なので、義経不死伝説はあくまで伝説にすぎない考えておられます)は、『吾妻鏡』の記載を詳細に検討した結果、大河兼任は奥州政権内ではかなり上級の家臣で津軽を本拠とし、当時の津軽にあった国際貿易港十三湊を統括する人物だったのではと推定しておられます(詳細は、別の記事『津軽十三湖』で述べることにします)。
高橋富雄さんの考えでは、頼朝による平泉征伐当時、兼任は平泉軍の北の中核として津軽に軍を構えていました。もし泰衡が比内で討たれることが無ければ、津軽十三湊で兼任に合流し、壇ノ浦の戦い奥州平泉版があったかもしれません。兼任の乱は、泰衡の死によって不発に終わった藤原氏の反撃だったのです。
正統派歴史学者の説にもとづいて、異端の義経伝説を云々言うのは気が引けますが、私はこの高橋富雄さんの説に注目しています。
もし、義経が平泉で殺されたのではなく、作家の中津文彦さんの考えるとおり「大陸の騎馬民族を援軍として連れてくるため」に沿海州へ渡ったのだとしたら、義経が援軍を連れて帰ってくる最初の上陸地点は、貿易港の十三湊であったはずです。兼任が十三湊に軍を待機させていたのは、義経の援軍と合流して北上する頼朝軍を叩くつもりだったのかもしれません。
史実では、鎌倉軍と平泉軍が大規模な戦いを繰り広げたのは、阿津賀志山の戦いだけです。しかし、その戦いに平泉軍は2万人しか動員していません。しかも泰衡は戦わずに北へ向かって逃走してしまう。このとき奥州17万騎とも称された奥州軍はどこにいたのか。平泉の内輪もめが原因で集まりが悪かったとも考えられますが、そうではなくて、阿津賀志山は先鋒部隊の前哨戦に過ぎず、義経の援軍が到着し次第、奥州軍の本隊と合せて本格的な反撃を行うつもりだったのかもしれません。