源義経死なず(東北に残る義経の足跡)
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東北に残る義経の足跡

岩手県に残る義経北走の遺跡を紹介。

 ここまでは、義経伝説の成長に伴って出現した、北海道や満州の義経遺跡を紹介してきました。しかしそれらは、後世の創作の可能性があるものでした。
 そこで、この章では、義経北行伝説の中心をなしている東北地方で、義経の足跡を探していきたいと思います。東北の義経伝説の特徴は、平泉から青森県の津軽半島まで、1本の線で結べてしまうところです。各所に残る個々の伝説の内容には、それほどのつながりは感じられません。しかし、伝説の残る地点を結んでいくと、まるで本当にこの線をたどって義経が津軽に向かったかのようにつながっているのです。
 「伝説の内容はばらばら、しかし、場所は誰かが創作したかのようにつながっている」というのは、義経か、義経ではないとしても誰かがこの線にそって歩いた可能性が非常に高いと思われます。

 義経北行伝説を追った人に、郷土史家の佐々木勝三さんとおっしゃる方がいらっしゃいます。この方は、岩手県各地に残る義経関連の口碑を、自分の足を使って丹念に調べ、義経の足跡が1つの線で結べてしまうことを発見し、その研究成果を『義経伝説の謎』という本にしました。義経北行伝説の世界では有名な本ですが、なにぶん古い本なので、おそらく絶版になっていると思います。図書館では稀にみかけますが。

 ここでは、彼が丹念に調査して発見した、岩手県内に残る義経の足跡を簡単に紹介したいと思います。

@平泉脱出

 文治三(1187)年初冬、奥州平泉で義経を匿っていた藤原秀衡が亡くなりました。秀衡の遺言は、義経を『もつて大将軍として国務せしむべき』ということでした。政治を嫡男である藤原泰衡に任せ、軍事の最高責任者を義経に任じたのです。

 秀衡の遺言については、これとは別な伝説も残されているそうです。「対鎌倉戦略で、いよいよどうしようもなくなったときにはこれを開けよ、必ず秘策を授けるであろう」と、秀衡が一つの文箱を残したといいます。その文箱には、何が書かれていたのでしょうか。中味については伝わっていないようです。秀衡に限らず名将といわれた人の死にまつわる逸話には、この類の話がよく登場します。中国『三国志演義』の名軍師諸葛孔明も、死後自分の部下が反乱を起こすことを予想して、袋にその対策を書いた手紙を入れ、『困ったときは袋を開け』と、別の部下にそれを託しました。この孔明の話はフィクションだといわれています。秀衡の文箱の逸話も、北行伝説的には興味深いですが慎重に取り扱う必要があるでしょう。

 文治四(1188)年4月9日、義経逮捕を要求する後白河法皇の勅使(朝廷の使者)が鎌倉に到着。5月には平泉に着きました。

 4月18日、義経は北へ逃れるために兵糧を集め始めます。平泉周辺の庄屋に、兵糧を借りた証文が残っているそうです。同月、義経主従は密かに高館(義経が普段住まいしていたところと言われてます)を脱出し、北海道目指して北上山地に潜行しました。

A妙好山雲際寺

 衣川村に、義経の奥方が再興したといわれるお寺があり、そこに義経夫妻の位牌が保管されています。その位牌にある義経の法号は、『捐館通山源公大居士』とあります。『館を捨て(捐館)、山を通って(通山)遁世した』という意味になります。これは、義経が北海道目指して北上山地に姿を消したことを意味すると言われています。

B佐藤庄司の役邸へ

 山伏姿に扮した義経一行は、まず、束稲山の麓、長部の庄司屋敷に向かいました。

C観福寺に入る

 庄司屋敷を出発した一行は、束稲山を越えて、猿沢村(大東町猿沢)の真言宗石清山観福寺に入り、宿泊しました。この寺には、義経の四天王、亀井六郎清重の笈が残っているそうです。

D弁慶屋敷

 江刺には、弁慶屋敷という屋号の家があったそうです。義経一行は日中、五十瀬神社に隠れていて、夜になると、この家に来て白粟五升を借り、粥を炊かせて食べた後、立ち去ったといいます。屋敷内には、弁慶が足を洗った池が残っているそうです。

E多聞寺

 弁慶屋敷の北、岩谷堂町に岩屋戸山多門寺という天台宗の寺があったそうです。義経一行はこの寺に宿泊し、義経の家臣鈴木三郎重家の笈を残しました。この笈は明治5年の火災で焼失し、寺も廃寺となってしまいました。

F玉里村次丸

 江刺市岩谷堂町に次丸・玉崎という集落があったそうです。玉崎の玉崎神社に義経は参篭し、5日間滞在して経文・太刀・槍などを残しました。

G伊出

 次丸の南東に、江刺市伊出があります。義経一行は、当地にある藤原隆家の館に数日滞在しましたといいます。源義経が休んだ家なので、「源休館」と呼ばれるようになりました。

H判官山

 源休館を出発した義経一行は、人首・五輪峠と北東に向かい、種山・姥石峠と南下します。そこから大鉢森山・鷹ノ巣山を越え、東に向かい蛇山・内野峠と来て、そこから2キロ北へ進んだ辺りで日が暮れてしまいました。そこは気仙郡住田町大股地内。標高200メートルほどの山で、大木の茂る林があったので、野宿をしたといいます。そこは現在、判官山、判官林、または黒山(九郎山)と呼ばれているそうです。

I赤羽根峠

 義経一行は判官山を発ち、大股川を渡り、世田米川に沿って東に進み、葉山を北へ赤羽根峠を越えました。その後、遠野市細越に到着しました。

J風呂

 細越に着いたとき、義経一行は汗まみれでした。そこで、付近の民家で風呂に入れてもらったそうです。そのときの民家は風呂家と呼ばれるようになり、地名も風呂となりました。

K板沢の駒形神社

 人も馬も平泉以来の疲労がたまり、赤羽根峠を越えた時点で疲労の極に達していました。義経が騎乗していた馬は上郷村でとうとう倒れてしまいます。この馬は、上郷村板沢の中居に厚く埋葬され、駒形神社になりました。

L六角牛山(ろっこうしやま)

 義経たちは、閉伊郡青笹村の六角牛山を越えて北に向かい、鵜住居川に沿って東にある海岸の町、大槌町を目指しました。六角牛山の北側、鵜住居川上流に釜石村中村があります。一行は、その付近の農家に何泊か泊めてもらい、そのお礼に鉄扇を置いていきました。その農家は、判官神社を建て、分家を別当職としました。

M宮の口

 中村から鵜住居川に沿って小高い丘の峰を東に歩いた義経一行は、室浜の法冠大神堂の近くで休息し、大槌川上流にある現在の判官堂で野宿しました。義経の去った後、付近の人たちが判官のお宮を建てました。

N金沢村

 義経一行は、宮の口を北上し、金沢村に向かいます。金沢村は金売り吉次が金の採取を経営していた村だそうです。金売り吉次は、義経が京都でまだ牛若丸と呼ばれていた幼い頃、彼を奥州藤原氏のもとに連れてきた人物といわれています。牛若丸は、平泉で成長して、後の義経になりました。吉次は義経にとって重要な人物だったのです。吉次がそのときも生きていたとすると、何かの打ち合わせをするために、この地に立ち寄ったのかもしれません。

O弁慶の手形石

 長者森(ここも吉次の屋敷があったと言われています)・金ヶ沢・小国を経て川井村箱石に着きました。しかし、周囲の山は高く、東にも北にも道が無いので、しばらく当地に滞在して鞍馬の毘沙門天に祈りを捧げました。そこが判官権現社です。その後、義経たちは長者森・中山を経て、種戸口沢でいったん休憩しました。そのとき弁慶は記念のため、路傍の石に手形を彫ったそうです。そこから、豊間根街道を南下し、旧大沢村浜川女に到着しました。旧大沢村とは、現在の山田町大沢だそうです。

P佐藤信政

 山田町駅から西へ4キロ行ったところに旧関口村があります。かつて義経の側近に、佐藤継信・忠信という兄弟がいましたが、佐藤継信は平家討滅戦で戦死し、佐藤忠信は頼朝による義経包囲網にかかって悲劇的な最期を迎えました。この関口村には、継信・忠信の弟で佐藤信政という人物が住んでいたそうです。信政は義経の道案内をしたところ、義経は信政の兄継信が戦場に持参していた熊野権現の神像を褒美として信政に与えました。

Q長沢村

 義経は大沢村の住人に近道を教えてもらい、大沢山・十二神山を越えて北に向かい、長内という集落に下山しました。西方の山々の谷間を通り、南川目を迂回して長沢村に到着しました。そこで何日か滞在した後、現在の宮古市津軽石に向かいました。

R津軽石

 義経一行は、折壁・大谷地を経て津軽石に至りました。判官館山に寄り、再び北上します。館山には判官社があります。八木沢・小山田村を経て奥州港(宮古)に入りました。

S宮古の黒森山

 閉伊川を渡って八幡山に着いた義経たちは、八幡宮に参篭しました。八幡山の北には黒森山があり、ここに本拠をおき、あわせて八幡山の東にある小山に出城を築きました。黒館(九郎館)といいます。別名判官館ともいうそうです。山の名前は判官山・館山といいます。

 黒森山で義経は、藤原秀衡の遺言に従って3年3ヶ月修行し、大般若経を書写して黒森大明神に奉納しました。さらに、義経の家臣鈴木三郎重家は重三郎と名を変え、主人の命で横山八幡宮の神主となりました。他にも、黒館には義経が勧請したという判官稲荷大明神があります。

S田老

 宮古に3年半ほど暮らした義経は、建久2(1191)年の4月ごろ、当地を去って北へ向かいました。途中、田老村乙部にある、金売り吉次の弟吉内の家に立ち寄っています。

21鵜鳥大明神

 田老を出発した義経は、北の小本村・田野畑村を通って、普代村では卯子酉山薬師堂に海上安全無事渡海のため7日間断食祈願を行いました。満願の夜、義経の夢に現れた3人の神様を祭神として、鵜鳥大明神を創建させました。現在の鵜鳥神社がそれだそうです。

22久慈

 源頼朝の平泉攻略軍に参加した畠山重忠は、北へ向かう義経一行を発見しました。かねてから義経の勇名を知る畠山重忠は、義経にあたらないようにと念じて矢を射ました。祈り通じて義経をはずれた矢は、久慈市長内の諏訪神社の御神体になっています。久慈市内には、源道という地名がありますが、これは義経一行が通過した道であることから名付けられたそうです。

23青森へ

 義経一行はやがて岩手県を抜けて青森県の八戸にはいりました。八戸では、宮古と同じく館を構えて長期間滞在しています。ここでも義経は大般若経を写経したといいます。八戸での滞在中、長旅の疲れから奥方が亡くなりました。悲しみに暮れながら八戸を後にした義経一行は、途中、青森県野内に家臣鷲尾三郎経春を残し、津軽半島の十三湊に到着しました。

24十三湊

 奥州平泉の北の玄関港だったとも言われる十三湊には、伝説によると藤原秀衡の弟で、十三湊の有力豪族安東氏の養子となった、安東秀栄という人物がいたそうです。秀栄のところへ立ち寄った後義経は、津軽半島の突端、竜飛岬から北海道へ渡海しました。

25竜飛岬

 竜飛岬近くの村、三厩の地名は義経伝説に由来します。津軽半島の突端までやって来た義経主従は、ここから渡海しようとしましたが海は荒れ狂い、とてもできそうにありません。そこで海を静めるために3日3晩祈願しました。満願の日、夢に白髭の老人が現れ、『付近の岩穴に3匹の竜馬がつないである。これに乗って渡海せよ』と告げました。義経たちは、その竜のごとき馬に乗って北海道へ飛び渡ったといいます。3頭の馬が、3つの岩の馬屋(厩)にいたことから、この地を三厩と呼ぶようになりました。そして、津軽半島の突端から義経一行が北海道目指して飛んでいったので、竜飛岬という名がつけられたということです。

 以上が東北における義経北行伝説です。この伝説でまず注意を惹かれるのは、義経が平泉を脱出した時期です。史実では、義経が藤原泰衡に衣川の館で討たれたのが文治5(1188)年の閏4月。伝説では、義経はその1年も前に平泉を去っているのです。普通、不死伝説は、英雄が何かの災厄に会った直後からスタートします。例えば真田幸村不死伝説では、大阪夏の陣で大阪城が落城した直後、幸村は戦死と偽って薩摩(鹿児島です)に逃れます。落城の1週間前から薩摩へ逃げたりしたわけではありません。

 なぜ1年前なのか。史実にしろ嘘にしろ、こういった内容の伝説ができるには、できるだけの背景というか必然性があるはずです。不死伝説一般が災厄の直後からスタートするのは、そういう設定にするのが自然だからです。ではなぜ、義経は1年前なのでしょう。

 他にも注意を惹かれる点があります。山伏や修験道との関係です。義経関係の説話は、義経が鞍馬寺にいた頃から山伏っぽい雰囲気がからんでいます。鞍馬寺では天狗に剣術の稽古をつけてもらった話があります。また、義経の側近の武蔵坊弁慶は熊野の別当湛しょうの息子で比叡山の山法師という触れ込みです。

 義経伝説には、何度も判官山や判官神社が登場します。判官は、義経の別称みたいなものなので、判官という地名だけを見ると義経となんらかの関係がありそうに思えます。想像ですが、これらの「判官(はんがん)〜」は、全て「法冠(ほうかん)〜」からきているのではないでしょうか。山伏が頭に乗せている小さくて黒い烏帽子みたいなものを法冠というそうです。だとすると、次のような感じになります。まず最初、何か宗教的な要素を持っていた山が法冠山と呼ばれるようになりました(ちなみに、東北地方を地図で詳しく見ていくと、宝冠山という名前の山がチラホラと見つかります)。その後、義経伝説が三陸の各地に発生します。すると訳知り顔の人が(今の私みたいなやつですね)「あの山は、ほうかんやま(宝冠山)と呼ばれているけど、昔、はんがんやま(判官山)と呼ばれていたのが訛ったんだよ」というような、本当かよオイ、みたいなことを言ったとします。義経伝説がある程度事実として認知されていれば、その山は判官山と呼ばれるようになるのではないでしょうか。

 宮の口(M)の判官神社の話に、宝冠大神堂というのが登場しています。ここに義経が立ち寄ったという伝説は、“宝冠”大神堂の名前から地元の人が“判官”を連想して創作したものかもしれません。

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