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平泉で討たれた義経の首は、鎌倉に送られました。ところが、平泉から鎌倉に首が届くまで43日かかっています。同じ距離を、後に平泉を滅ぼして鎌倉に凱旋した源頼朝の軍は27日しかかけていません。鎌倉に脅されて義経を殺した藤原氏の気持ちとしては、早く鎌倉に首を届けたいのが自然です。なのに実際は、大人数の軍隊の凱旋よりも移動速度が遅いのです。義経の首が届けられたのは夏の暑い時期。いくら酒に浸していたとはいえ、そんなにノロノロしていたら、首が腐敗しないはずがありません。ましてや義経は持仏堂に火を放ち、そこで自害しているわけですから首は焼けています。
義経北行伝説によると、奥州藤原氏が送った義経の首は偽物で、実は義経の影武者だった杉目小太郎行信が身代わりになったものであるといわれています。呑気な道中や首の焼損は、首の判別を難しくしようとした謀略ではないのでしょうか。
ところが、鎌倉の頼朝の側には首の到着を遅らせたい理由がありました。ちょうどその頃、頼朝は亡き母のために五重塔を建て、供養の祭典を営むことになっていました。6月9日にその祭典を営むつもりで準備をすすめ、朝廷からは既に大導師が下向していたので、とうてい延期のできない状況でした。そこで頼朝は平泉の使者に対して、義経の首はこの供養が終わるのを待つためにゆっくり届けろと命じていたのです。そこに平泉の謀略の入る隙はなさそうです。
その数奇な運命のせいでしょうか。頼朝は神仏を敬う傾向が極端に強い人物でした。平治の乱で平家に敗れ伊豆に流されましたが、そこでは念仏と写経に日々を費やしました。鎌倉に関東武士の都を築いてからもその気分を持ちつづけています。壇ノ浦で平家を滅ぼしたという最初の報告が届いたとき彼は、父源義朝の供養のために建立する南御堂の、柱立ての儀式に望んでいました。大事な報告なのだから儀式を後回しにして使者に会えば良いものを、頼朝は柱立てと上棟式が終わるまで、使者から合戦の詳しい様子を聞きませんでした。首の到着を頼朝が遅らせたのは、義経の偽首を持ってきた奥州藤原氏に対してどう対応するか、供養にかこつけて今後の対応策を練っていたのだという考えもありますが、おそらくは、本当に供養を優先したかっただけなのでしょう。