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源頼朝の圧力に屈して義経を殺し、挙句の果てに頼朝に滅ぼされた藤原泰衡は、一般に暗愚の武将だったと言われています。中尊寺金色堂には奥州藤原3代の遺骨が納められており、その脇にはもう1つ、ある人物の首が収められています。かつてこの首は、父秀衡の遺言に従って義経をかばい通した、藤原忠衡の首であると言われていました。ところが検査の結果、この首は父の遺言に背いたはずの泰衡のものであることが判明しました。
泰衡=親不孝。忠衡=親孝行。∴中尊寺の首は忠衡。この公式は誰にでも受け入れられたからこそ、通説化しました。ところが事実はそうではなかったということになると、泰衡=親不孝というのが間違っていることになるのではないでしょうか。だとすると、
1,は、“泰衡は何故義経を殺したのか?”で書いたとおり、秀衡の後継者争いが起こり、義経が反泰衡勢力に担ぎ上げられてしまったということが考えられるでしょう。頼朝の思惑は分かっていても、泰衡は地位を守るために義経を倒さざるを得なかったということになるからです。
2,だとすると、義経を討ったという衣川の戦いは偽戦だったわけです。しかし、何故わざわざ偽戦までやって、義経の行方をくらます必要があったのかを考えなくてはなりません。鎌倉の奥州侵略戦は義経の死の直後に開始されました。鎌倉にとっては、義経がいないよりは、いることのほうが脅威だったわけです。たとえウソでも、義経が死んだことにするのは、平泉には危険が伴います。これについては“泰衡は何故義経を逃がしたのか?”で考えます。