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源頼朝はしきりに義経討伐を要求しているが、義経を殺してしまえば、頼朝が恐れるものは平泉にはない。泰衡を討つのは容易である。泰衡は、そんな源頼朝の意図を見抜けなかったのでしょうか。そんなはずはありません。奥州藤原氏は朝廷への貢物を欠かさず、京都には平泉第という外交機関を置いていました。決して奥州に閉じこもっていたわけではないのです。奥州全土を抑えていたのですから、優秀な外交スタッフも何人かいたはずです。だとすれば、頼朝の意図は分かっていたに違いありません。なのに何故、切り札である義経を殺してしまったのでしょう。
義経を殺したのが事実だとすれば、考えられるのは奥州平泉の内輪もめです。実際、奥州藤原氏の歴史は内紛の歴史でした。初代清衡は、義理の兄弟と戦って平泉に政権を作りました。2代基衡も後継者争いで身内を新潟まで追い詰めて討ちました。泰衡の父秀衡はその死にあたって、泰衡の母(秀衡の正室です)を泰衡の母違いの兄国衡と結婚させました(書いていてわけが分からなくなりそうですが要するに、兄の国衡は弟の泰衡の義理の父になっちゃうわけです)。そんな小細工をしなくてはならないほど、兄弟仲は不安定だったのかもしれません。義経は、その内輪もめに巻き込まれて殺されたとも考えられます。
もしそうだとすると、親義経派だったといわれる藤原忠衡が殺されたのも納得できます。義経と親しいから忠衡は殺されたのではなく、泰衡と仲の悪い忠衡が、義経を味方にしてクーデターを企んだので討たれたのかもしれません。
また、平泉を滅ぼすべく攻めてきた源頼朝の軍を迎え撃った泰衡の軍は2万人しかいませんでした。奥州には17万騎の兵がいるといわれていたのにもかかわらず、この程度しか集まらなかったのも、内紛の影響があったのではないでしょうか。
以上とは逆に、泰衡は義経を殺していないと考えると、どんな具合になるでしょう。義経を何かの目的で逃がし、頼朝に対しては偽の義経の首を差し出す。頼朝の要求は、実際には「義経を捕らえて差し出せ」つまり生け捕りだったのです。それにもかかわらず義経を殺して首を差し出したのは、生きている義経を差し出せない理由があったから(偽首でごまかすため)、という考え方もできます。
では、泰衡はどんな目的で義経を逃がしたのでしょうか。頼朝の真の目的が平泉にあると知っていたとすると、対鎌倉戦の主力になる義経を逃がすのは致命傷です。その致命的打撃を越えるだけの理由がなくては、この説はなりたちません。その理由については、後で考えることにします。