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『編纂上のミスによる誤り、偽文書の利用等に基づく誤り、北条氏の立場を考慮した曲筆、事実の意図的排除隠蔽や誇張なども少なくない』。日本中世史の権威永原慶二博士は論文の中で、『吾妻鏡』に関して大方の承認を得ている問題点として、以上のように書いていたそうです。鎌倉時代の一級資料である『吾妻鏡』は、義経の死を裏付ける歴史的資料ですが、怪しげなところも多いのです。1196年から頼朝の死んだ1199年1月までの3年間の記録がポッカリ欠落しているのは、その最たるものといえるでしょう。頼朝の死因自体、疑惑をもって取り沙汰されているのと考え合わせると、何かが隠されたと考えたくなります。『吾妻鏡』は重要な歴史資料ですが、そんな面もあったりするのです。
その『吾妻鏡』によると、頼朝が奥州を制圧した文治5(1189)年。12月になって、奥州から驚くべき急報が入りました。12月23日の項、『昨夜、奥州から飛脚が来た。義経ならびに木曽義仲の子、および藤原秀衡の子たちが共同して軍を起こし、鎌倉に向かおうとしているという説があるとのこと』。
事実は、大河兼任(おおかわ かねとう:死んだ藤原泰衡の家臣)が起こした反乱軍でした。
「義経」出現の報から13日後、文治6(1190)年1月6日の『吾妻鏡』。『故泰衡の家臣、大河兼任が、去年の冬から反乱を企て、義経と号し、あるいは木曽義仲の嫡男朝日冠者と称して山形県各地で蜂起した』ことが鎌倉に報告されました。兼任は奥羽各地の不満分子を糾合するため、「わが軍には、義経さま。そして木曽義仲殿の子と藤原秀衡さまの子も参加してるんだぞ」と触れ回ったのです。
兼任軍は各地で頼朝の御家人を討ち、南下して多賀城(宮城県。朝廷による奥州統治の中心でした)を目指しましたが、宮城県北部一迫の戦いで敗れました。その後も反乱軍は各地で何度か散発的な抵抗は試みるものの、文治6年3月には兼任も土民に殺されてしまい、乱は終結しました。
反乱を起こすに際して、人気のある名将の名をかたった例は大昔の中国にもあります。紀元前、秦帝国の時代、圧政に追い詰められた陳勝と呉広という2人の農民が中心になって反乱を起こしましたが、彼らは『項燕と始皇帝の嫡子(ごめんなさい、名前忘れました)の連合軍』を名乗りました。項燕は秦帝国に滅ぼされた楚国の名将。始皇帝の嫡子何某は、賢明な人物で本来始皇帝死後の帝位を継ぐはずでしたが、宦官の謀にかかって自害させられました。両者ともに庶民の間には人気があったといいます。名も無い農民、陳勝と呉広は強国秦と戦うにあたって、同様の圧政に苦しむ農民たちを集めるために、項燕等の名を看板として使ったのです。
大河兼任の反乱もこれと同様、義経の名は、人集めの看板にすぎないものだったのでしょうか。私は、両者の間には決定的な違いがあるような気がします。陳勝・呉広の乱は農民中心の反乱でした。『項燕死せず』は、比較的名将不死を信用しやすい人たちに向けられた効果的な宣伝といえます。反対に大河兼任の乱は、『古今の間、未だ主人の敵を討つの例あらず、兼任独りその例を始めんとす(主君の仇を討つのだ)』と言って始めたものである以上、平泉の旧臣が主力だったはずです。彼らは、衣川の戦いには間接的に関係のある人たちです。つまり、あからさまな嘘は、逆に兼任にたいする不信の念を起こしてしまう、危険なものなのです。
そんな人たちを集めるのに、藤原秀衡の子を挙げるのは分かります。奥さんを何人も持つのが身分の高い人間にとって普通だった時代、泰衡や忠衡の他にも記録に残っていない子供がいる可能性はありました(ちなみに、源頼朝の父源義朝も、子供が何人いたのかはっきりしていません)。木曽義仲の子にしても、源頼朝に殺された義高しかいなかったのか分かりません。他にもいた可能性は、あるのです。そんな子供たちが主将だと宣言するのは、あながちあり得ない事ではないわけですから、奥州の人たちは納得できるでしょう。しかし、義経は違います。彼は平泉ではっきり殺されているはずですから、大河兼任の嘘は、おもいっきりバレているわけです。
それにもかかわらず兼任は義経の名をかたりました。ということは、奥州の人たちにとって、義経の死は、かならずしも間違いないと断定できるものではなかったということにはならないでしょうか。
その疑惑は、奥州に派遣されていた頼朝の御家人たちにも伝染していたかもしれません。
最初に挙げましたが、御家人が鎌倉に送った兼任反乱の第一報、『義経並びに木曽義仲の子供、藤原秀衡の子供たちが共同軍を結成し、鎌倉に向かっているとの説があります』は、もしも御家人たちが義経の死を信じていたなら、『義経と称する者が軍を起こして鎌倉に向かっているとの説があります』という第一報になるはずです。ところが実際には、そうはならず、『義経が軍を起こしたという説があります』という最初の報告があって、13日後の第二報でやっと『義経と号し、あるいは木曽義仲の嫡男朝日冠者と称した』連中が反乱を起こしたという内容に変わるのです。
鎌倉御家人たちは、偽物が義経と称しているだけなのか、それとも本物の義経なのか、いちいち確認作業を行っていたということになります。彼らの間には、ひょっとしたら、という疑惑があったのではないでしょうか。
さらに想像を広げると、奥州に派遣された鎌倉御家人がそんな疑惑を持ってしまうような雰囲気が、頼朝の周囲にあったのかもしれません。文治5年12月以降の『吾妻鏡』の記録は、殆ど大河兼任の乱一色ですが、その様子からは「げっ!あいつ生きてたんか!」という頼朝の焦りが感じられないこともないこともないわけでもないのです(って、どっちか分からないんですけど)。