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平安時代の末期、源義経の父源義朝は平清盛と戦って敗れ、源氏の勢力は破滅的な打撃を受けました。これを平治の乱といいます。平治の乱からさかのぼること3年前の1156年には、平治の乱の引き金にもなった、皇室貴族に武士を巻き込む内輪もめの争いがありました。保元の乱です。このとき源義朝の弟源為朝(鎮西八郎為朝と名乗っていました)は、父源為義とともに兄と対決し、敗れて伊豆大島に島流しとなりました。伊豆大島に来た源為朝は、朝廷より大島を賜ったと称して、利島、式根島、神津島などを荒らし回ります。これに脅威を感じた伊豆の領主工藤茂光は、朝廷軍を率いて大島を攻撃しました。為朝は、朝廷に歯向かうのは畏れ多いとして自害し、彼の首は都へ送られさらし首になったといいます。
ところが、為朝は大島では死なず、琉球(沖縄)へ渡って琉球王の祖先となったという説があります。
後に鎌倉幕府を開くことになる源頼朝の祖父は、源為義といいます。その源為義の八男として為朝は生まれました。母はいわゆる正妻ではなく、遊女であったと言われています。巨漢にして弓矢の術に優れ、自らそのことを誇る風であったため、やがて父為義の不興をかい、勘当同然に九州へ追放となりました。九州へ渡った為朝は、現地豪族の娘を娶り、彼らの援助を受けながら九州を制圧。鎮西八郎為朝と名乗ってその威風を都にまでとどろかせました。これに驚いた朝廷は、父為義の監督不行き届きを理由に、為義を罷免するという手段に出ました。
父罷免の報を受けた為朝は、朝廷に反抗する意思の無いことを示すためわずかな従者を引き連れて上京します。ところが当時の都は、天皇と上皇、藤原摂関家の内紛に武士が絡みまくって、戦乱の一歩手前でした。為朝は、父為義とともにこの乱に参加しますが、2人の立てた作戦が貴族の容れるところとならず、敗北を喫します。敗将となった父為義は、敵方に付いていた息子の義朝に斬られました。しかし為朝はその武勇を惜しまれたために死罪を免れ、伊豆大島へ島流しとなりました。
問題は、彼がその後どうなったかということなのです。