源義経死なず(義経生存説の成長1)
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義経生存説の成長1

義経生存説の成長1(江戸時代中期)
江戸時代中期になって、義経生存説が急に台頭し始めた。北海道に義経の痕跡が残っているというのが主な理由だったが、それは江戸幕府の北海道統治のために意図的に作ったもののような感じがする。という話。

 大まかに言って、義経伝説は、義経蝦夷行き伝説→義経清朝の先祖説→義経成吉思汗説という具合に発展してきました。

 義経は平泉に死なず北方に逃げたという話は、いつ頃から人々の間に広まるようになったのか。明確には分かっていません。源義経を殺した藤原泰衡が、源頼朝に滅ぼされた直後、泰衡の旧臣で大河兼任(おおかわ かねとう)という男が奥州藤原氏の残党を糾合して反鎌倉の兵を挙げました。そのとき、「反乱軍の大将は、藤原秀衡や木曽義仲の遺児と、源義経である」と触れ回りました。これを含めると、義経生存説は平泉陥落直後から既に存在したといえるでしょう。

 ただし、その後室町時代から江戸時代初期においては、義経北行伝説は記録に出現しません。私が実見したわけではありませんが、江戸時代初期の学者林羅山の著書『神社考』のなかには伝説をたくさん集めた項があって、そこには源為朝の琉球落ち伝説や義経が鞍馬山で天狗に会った話は載っているのに、義経が北行した話は載っていないそうです。つまり、この時点ではそんな伝説は存在しなかったか、少なくとも超マイナーだった可能性が高いということになります。

 ところが、江戸時代中頃になって義経北行は急速にメジャーデビューを果たします。水戸藩の編纂した『大日本史』には、義経の平泉における死は疑わしいと書いてあります。『世間では、義経は衣川(平泉にある川の名前。義経が討たれた戦いを、衣川の戦いといいます。)に死なず、逃れて蝦夷(北海道)に至ったと言っているようだ。衣川の一戦があったのは、非常に暑い時期だった。義経の首は、お酒に浸して鎌倉まで運んだというけれど、鎌倉に着くまでに43日もかかっている。腐らないはずがない。そんな状態で誰が、義経の首が本物か偽物かを判断できたというのだろう。だから、義経は死んだと偽って逃走し、蝦夷(北海道のことです)の人たちが今でも義経を神として崇めているのは、決して根拠の無いでたらめとは言えないじゃないか』。

 徳川御三家の水戸藩にこんな記事を書かしめた原因は何だったのでしょう。水戸彰考館に残る『快風舩渉海紀事』という、水戸藩の役人の報告書によると、元禄元年、水戸黄門が北海道探検に派遣した「快風丸」から以下の報告がありました。『松前から積丹半島一帯に、義経や弁慶の名前のついた地名が残っている。義経はアイヌにオキクルミと呼ばれて尊崇されている』。まさかこの報告だけで『大日本史』の記載となったわけではないでしょうが、北海道に派遣した役人たちにこんなことを言われては、編集者もさぞかし迷ったことでしょう。

 この頃北海道各地で、「ホンカン様」という信仰があったようです。ホンカン様=ハンガン様=判官様。つまり、かつて都で判官(判官・検非違使の尉:警察っぽい仕事らしいです。「判官びいき」の判官ですね。判官といえば義経なわけです。)という役職に就いていた源九郎義経のことであろうと本州人たちは想像しました。
 ただ、このホンカン様の語源は確かに判官様だけれど、判官九郎義経ではない全くの別人、小山判官(おやまはんがん)のことであろうという説もあります。小山判官は戦国時代末期、北海道松前氏の下で活躍した武将で、アイヌ人の尊敬を受けていたといいます。その小山判官信仰を、故意か偶然か、誰かが判官義経信仰にすりかえていったというわけです。

 水戸藩が迷ったのと同じ頃、元禄時代の大学者、新井白石(あらい はくせき)も義経北行伝説に興味を示しました。彼の著書『蝦夷史』には、以下の話が載っているそうです。アイヌ人が義経をオキクルミ(神様です)として飲食の折に祈りを捧げている話。あるいは、蝦夷地西部に弁慶崎という地名があって、義経はここから海を越えて大陸へ渡った説があるという話。寛永年間、越前(北陸です)の人が難破して韃靼(だったん:沿海州・シベリア・旧満州の辺りみたいです)に漂着。彼は、当時その辺りを支配していた清の皇帝によって朝鮮国に送られ、朝鮮から日本に帰ったが、その人の言うには、『ヌルカンプ(満州東部から沿海州のあたり)では神像を門戸に掲げるが、それは北海道で見る義経の絵とそっくりだった』そうな、という話。

 元禄時代の義経伝説には、成吉思汗云々というのが出てきません。北海道へ逃げて大陸に渡った(かもね)、というぐらいのものです。この事実から見ても分かるように、義経北行伝説と義経成吉思汗伝説は同一ではないのです。

 北海道沖にロシアの艦隊があらわれるようになった江戸時代後期、幕府は蝦夷地を直轄地にして北海道開拓をすすめる一方、近藤重蔵を派遣して北海道・樺太探検に乗り出しました。当時は、樺太が大陸と地続きなのか否か、ていうか樺太ってそもそもどんな地形なの?等、あっちの方には未知なことが多かったのです。近藤は、北海道探検に義経伝説を利用しました。ホンカン様信仰のあった平取に、義経像を寄進していますが、この義経像は、伝えられている近藤重蔵の肖像画とそっくりです(実際に写真で両者をみましたが、まるっきり同じです。あれはマズいです)。

 江戸時代、北海道と絡んで義経生存説は急に現実味を増しました。しかし、先ほどのホンカン様信仰同様、北海道に残る義経伝説のなかには、後世の創作らしい雰囲気が含まれています。北海道に本州の人の権利を主張するために、江戸幕府が意図的に義経蝦夷行き伝説を捏造したのだと見るむきもあります。北海道の義経伝説は、全部とは言わないまでも、ウソ臭いところは確かにあるのです。

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