奄美の旅(マジ)ファイナル

(3)最後の離島旅
@いざ,与路島へ
翌朝,あれだけ食ったのに朝食の開始時間の7時になると,結構腹が減ってきた。7時ちょうどにレストランに行くと,考えることはみな同じで,ほぼ満席。しまいには後から来たおじさん連と相席になる始末だった。出てきたものはごくごく和食。グルクンの塩焼き(大根おろしつき)・納豆・生卵・ノリ・タコのマリネ・漬物に味噌汁・ごはん。淡々と食して10分ほどで退席。
天気は抜群にいい。最後の旅を清々しく終わらせるための最高の演出である。これから「沖縄奄美長文学」のラストである与路島に行くわけであるが,これで後は台風の余波である高波がどの程度になっているか――予想では行く前の「3mのち2.5m」が昨日の夜の予報で「2.5mのち2.0m」と低く変わっていたので,おそらく「フェリーせとなみ」は動くと思われるが……船が出るのはここから車で1時間の瀬戸内町は古仁屋港である。当日に出港するかどうか,行って無駄足にならないためにも,念のためにフェリーのチケット売場の電話を控えておいたけれど,まあ,2.0mならば間違いなく動くであろう。多少揺れるかもしれないが。
8時過ぎ,チェックアウト。昨日行った「かずみ」(前編参照)の近くを通って,国道58号線に入る。しばらく山の中に入っていく道も,これで5度目。住用村に入った辺りだろうか。大型トレーラーがノロノロ走っていたので,直線の見通しのいいところで追い越そうかと思ったら,思いのほかスピードが出ず,対向車線から車がやってきて危なかった。慣れているからと油断していると,こーゆーことがあるものだ。行きのフェリーは10時出発。1時間あれば古仁屋に着くので慌てる必要などないのだが,港付近に駐車場を確保しとかなきゃいけないので,少しばかり気が逸る。
さて,今日の問題は帰りのアクセスにある。それが理由で3月は与路島行きを見送っていたのだが,フェリーせとなみが古仁屋港に戻ってくるのが16時40分であり,本日中に東京に帰るのだが,奄美空港発が18時50分で,2時間での強行移動になるのだ。しかも,空港での手続きとかガソリンを入れることがあるし,実際はもっと時間は少なくなるだろう(「奄美の旅(勝手に)アンコール」第3回参照)。もっとも,前回旅行でも古仁屋港から奄美空港まで直行したのだが,このときは1時間20分ほどで空港まで辿りつくことができたのだ(「奄美の旅(勝手に)アンコール」第6回参照)。
それからすれば,今回も18時には空港に着けるかもしれないし,18時50分の飛行機にも間に合うわけだが,旅というものは何が突然訪れるか分からない。あせって走り続けて何かアクシデントが起こったら……今回が最後の旅であるだけに,あまり「たら・れば」的な余計な後悔は残したくない。確実に与路島に行けて,確実に帰ってこられるようにしたいのである。
沖縄奄美旅行では,何度か「旅のスリル」や「旅のアクシデント」を味わってきた。台風で飛行機や船が飛ばずにそのままステイせざるを得なかったこと,バスで迎えに来てもらうはずがあっさりとすっぽかされたり,フェリーの時間に間に合うように行ったのに先に行かれてしまっていたり……今まではそれを乗り越えられる,あるいは楽しめるパワーみたいなものがあったような気がするのだが,ここ数カ月で一気にそういったテンションが下がってしまった気がする。言葉は悪いが,「守りに入りたい気分」になってしまったのかもしれない。
そもそも,私自身こんなに沖縄奄美方面を旅することになるとは思いもよらなかった。学生時代によく巡った日本各地をもう一度巡ってみたくなったのが2001年の冬のこと。それから1年間,いろんな場所を巡って,その最終に選んだのが沖縄だった。2002年年末の沖縄旅行である。この旅行については「沖縄標準旅」に収めているが,それがまた「別の旅の始まり」になろうとは思ってもいなかったのだ。はたまたこのホームページのきっかけになろうとも。でもって,コンテンツを増やすためにこれだけの旅をするきっかけになろうとも。
もう疲れたのだ,正直言えば。コンテンツを増やせることはいいことなのだろうが,一度決めたこととなると頑なに意地でもやろうとしちゃうものだから,結局自分で自分の首を締めることになった。ピンポイントだけ周ろうと思って行った上記2002年の沖縄旅行だが,やがて「本島に行って石垣島に行って竹富島に行って…そういや宮古島には行っていないな」と思ったりしてしまった。そんな折に「沖縄奄美長文学」のトップにも書いたように,『ニライカナイ 神の住む楽園・沖縄』(「参考文献一覧」参照)という美しい写真集に出会って,結局宮古島に行ってしまった(「宮古島の旅」参照)。その写真集に載っている島々に行って,直接その風景を見たいと思って,例えば久米島に行ってしまった(「久米島の旅」参照)。九州には何度か行っていて,沖縄にも何度か行っているのに,奄美諸島には行っていないからと,何かを埋めるがごとく奄美に行った(「奄美の旅」参照)。
こうして,南の島にベクトルがすっかり傾いてしまい,片っ端から行っていない島を観ることになった。繰り返すように,何かを埋めるがごとく――既述した天候に行く手を阻まれた旅はこの2年の間に起こったことだ(「沖縄はじっこ旅U」「沖縄はじっこ旅V」参照)。それがまた旅のネタになり,自分自身楽しませてもらった。こんな旅を続けて2年。もうそろそろ主要な島を周ったから,ここいらでやめとこうと思ったのが,「沖縄卒業旅」であった。これでもう終わりにするはずだった。
ところが,その旅の直後に父親が入院・手術した。詳細は省くがその時間が長かった。その間に猛烈なストレスがたまった。おかげでその反動がまたも南にベクトルを,今まで以上に強烈に向けさせてしまった。「沖縄はじっこ旅W」と題して行った北大東島へのきっかけは,「南大東島に行ったから(「沖縄・遺産をめぐる旅」第3回第4回参照),北大東島にも行っとけ。どうせ人がいる島なんだから」
この「人がいる島」が今度は旅のキーになった。でもって,またまた運命の書籍に出会ってしまった。その名も『沖縄の島に全部行ってみたサー』(「参考文献一覧」参照)だ。この「全部」が心の片隅にひっかかってきた。本書では沖縄の有人島にすべて寄って,なおかつ宿泊施設がある限りは必ず1泊するというのが鉄則になっているが,さすがにそこまではできないと判断し,「せめて公共交通機関が通っている島にはすべて行こう」となったのは,昨年の夏ぐらいだったかもしれない。でもって,この書籍では行っていない奄美諸島の全有人島に行くことに決めたのが,この3月に奄美に行ったときのことであったのだ(「奄美の旅(勝手に)アンコール」第6回参照)。そして,この旅が上手くは言えないけど,「すべてのフィナーレ」となるわけである。もちろん,あくまで私個人にとってのことだが。

話題を戻そう。とにかくこの旅行を大事にしたいのである。ギャンブルを避けるならば,あとは海上タクシーを使うしかない。海上タクシーといえば,上述の「フェリーの時間に間に合うように行ったのに先に行かれてしまっ」たことによって,請島と古仁屋の間で利用したことがある(「奄美の旅(勝手に)アンコール」第3回参照)。値段は1万1000円とかなり高かったし,本来利用する予定でない不意のアクシデントによる利用だったが,1日1便で時間が限られるフェリーに比べて,時間は早いし小回りが利くので便利な印象を持った。もしかして,今回の旅の伏線になっていたとか……まさか。
で,どっかのホームページで確認したところによると,与路島までだと1万4000円かかるという。これはフェリーの片道料金1000円の14倍にもなってしまう。無論,船のチャーター料金であるから,人数がいれば頭数で割れるわけだが,哀しいかに,いつも旅は私1人である。でも,くどいけど,これが最後の沖縄奄美旅になるわけだし,ゴージャスに行ってしまってもいいかなという気がする。
車は9時10分,古仁屋港に着いた。ただでさえ地方の港ゆえに狭っ苦しいスペースなのに,そこには停められる限りの車がすでに停まっていた。多分,きっちり2列に停まっているフェリーそばのスペースが実は停めるべきスペースなのかもしれないが,手前からしてぎっしり停まっているので,奥にあるそこまで行けるか不安だし,第一空いているかどうか分からない。
結局,案内板の前で駐車禁止のスペースだったのだが,すでに2列ぐらい案内板に沿って車が停められてあったので,そこに便乗することにした。Let's noteをあるいはフェリーに持ち込んで,乗っている間に駄文を書き込もうかとも思ったが,与路島に渡ったらひたすら徒歩だ。抜群に天気がいいということは,抜群に暑いということである。余計な荷物は負担となること請け合いである。なので,デュエットに置いていくことにする。帰ってくるころには,またいい感じに蒸し上がっているのだろうか。
まずはフェリー待合室そばのチケット売場にて,チケットを購入する。ついで,「古仁屋海上タクシー組合」なるところに行く。まずは外から様子見してみるが,どうやら海上タクシーのあっせんをしてくれるところのようだ。貼ってあった紙によれば,昨今の原油高騰のあおりを受けて,運賃が上がることが書かれてあった。ちなみに,与路島行きは1万5000円。当初より1000円のアップ。後で冷静に考えてみたら,随分アバウトで大幅な引き上げのような気がした。ま,このご時世だから仕方ないか。
薄暗くなった建物の中に,いかにも濃ゆい顔立ちの太った男性が奥にいて,手前に細面のちょっと爽やかそうな男性がいた。とりあえず中に入っていく。交渉…というほどではないが,要するに帰りの海上タクシーをできれば予約したかったのだ。後で現地で電話でお願いするとしたら,来てもらうまでの時間を計算しなくてはいけない。あらかじめ予約しておく分には,その必要がない。
「すいません。ちょっとお尋ねしたいんですが……与
路島までどのくらいかかりますか?」
「うーん……40分ぐらい」
太った男性が,その身体のような野太い声で答える。でも,実は値段のほうを聞きたかったりする。
「値段は?」
「あー…1万4000…え?(と,ここでそばの細面の男
性の顔を見て)…あ,1万5000円か」
ちなみに,迎えに来てもらっても送迎分が取られるということでなく,その値段は変わらない。ここで,すかさず値切ってみたりしたら交渉と言えるのだろうが,見た目怖そうだし,とりあえず余計に取られるわけでもないので,素直に聞き入れておく。予約できるのか聞くと,「できますよ」という。14時に与路島を出たい旨伝えると,真っ白けなノートの隅っこに何やら書き込んで,「じゃ,2時に与路の桟橋で待っててくださいね」とのこと。これにて予約は完了だ。あとは口約束が実行されるかどうか……いや,来てくれるものだとは思うのだが,南の島では何がどう転ぶか分からなかったりするので,内心ちとビビっていたりするのだ。
これで帰りのアクセスは一応確保できた。あるいは,フェリーと同じ15時にしても時間的にはよかったかもしれないが,与路島でもしかして早く見終わって,時間ができすぎることを考えると,こう言っては与路島に失礼ではあるが,見るべきものがなければとっとと立ち去ったほうがいいと思ったのだ。喫茶店みたいなものは期待できそうにもないし,鳩間島のときみたいに外でひたすら待っている(「沖縄SEE YOU!」第4回参照)には,陽射しがあまりに強すぎて耐えられないであろう。
あとは,今回の旅でまだ食べていない「ひさ倉」の鶏飯が何気に食べたかったりもするのだ。毎回,奄美に来るたびに寄っているものだから(「奄美の旅」第1回「奄美の旅アゲイン」第5回「奄美の旅ファイナル」第1回「奄美の旅(勝手に)アンコール」第1回参照),また寄らないと気が済まなくなってきたのだ。フェリーで帰るとなると,空港までノンストップで行かないとダメだし,空港のレストランか売店で食事を済ませるのもどことなく寂しい。できれば,どっかきちっとした店で食べたいのが本音だったが,これで夕飯の鶏飯も確保された。むしろ,時間が余りすぎてどっかで時間つぶしをしなくてはいけないくらいかもしれないが。
次は昼飯の確保である。夕飯に鶏飯が確保されたことで,昼はできれば軽く済ませておいたほうがいいような気がしてきた。与路島に食堂はないと聞くし,近くにあった小さい総菜屋でスパゲティのナポリタンのパック詰めを買うことにした。200円。あとは,昨日の鹿児島便のクラスJの席で出たせんべいがあるので,この二つで昼食である。加計呂麻島に行く前に寄った弁当屋(「奄美の旅(勝手に)アンコール」第4回参照)も開いていて,こちらに寄ってもよかったのだが,いっぱい種類がありすぎて買い込みそうな気もするし,港により近いところということで,今回は対処しておく。

10時,フェリーせとなみ出港。船室内は出入口付近に大量の荷物と,客室に20人ほどが乗っていた。地元民と観光客が半々ぐらいか。この荷物がいかにも生活路線たり得ていると思う。一方で,観光客は若い人が意外と多かった。船が動きだすと同時に,係員がチケットを切りにやってきた。チケットを切ってもらうと,やや睡眠不足だった私はすかさずゴロリと横になった。パソコンを持ってこなかったくせに,なぜかコンセントのところに座ってしまったりして……所々記憶がないので,多分それなりに眠りこけていたのかもしれない。
外洋に出るとそこそこ揺れたが,思いのほか大したことはなかったと思う。請島の二つの港に着くと,船室から半分ずつ客が減っていく。ホントは10分の停泊のはずだが,3分ほどで出ていく。なるほど,これならば帰りをフェリーにしても,少しずつ時間が早くなっていって,結果的には古仁屋港に早く着いて,空港まで間に合ったかもしれないと思ったが,まあいいか。与路港に到着したのは,予定よりも15分早い11時25分。船室内は少量のダンボール箱と5人ほどになっていた。

Aやっぱり何もない島
上陸。請島に比べて桟橋の距離は短く(「奄美の旅(勝手に)アンコール」第3回参照),こじんまりとしていた。左手にはそこそこ立派な待合室もあった。中に入って壁にかかっていた地図でおよその地理を確認する。港のそばにある小さくてもちろん島で唯一の集落の南西あたりに小中学校があり,その脇から北に向かってグネグネした道が伸びている。その先にはたしか砂浜があったと記憶している。今回はこの集落の周辺散策と,グネグネした道を行って対岸…なのかどうかは分からないが,ひとまず別の海岸に行ってみることにしたい。
まずは集落。地図では何軒か民宿がある感じであったが,はてどれもこれも民家に紛れて分かりにくい。ま,だから「民宿」と言えるのかもしれないが……で,ほとんどの家の石垣がテーブルサンゴ。これが幾重にも重なって残されている。その石垣には定間隔でハブ避けの棒が所々立て掛けられてあった。これだけテーブルサンゴの石垣が集中しているところといったら,あとは喜界島の阿伝集落(「奄美の旅ファイナル」第6回参照)ぐらいか。阿伝集落は路地が砂の道であったのに比べて,ここはしっかり舗装されている。その分,風情が半減してしまっている感じがするが,こればかりは住んでいる人間の利便性にもかかわるだろうから,仕方ないところか。
軽自動車1台が何とか通れる程度の道を奥へと入っていく。石垣や家の壁など,全体的にどちらかといえばモノトーンの集落の中,ブーゲンビリアの赤とデイゴなどの樹木の葉の緑と空の青が数少ない色のアクセントである。そんな集落に入り始めて5分ほどで,集落の端っこにある与路小中学校に着いてしまった。何とも東西に狭い集落である。学校の体育館からは声が聞こえてきている。何かの練習でもしているのだろうか。
この小学校を越えても引き続き平地は続くが,家屋はポツポツとあるだけであとは畑地である。北側には山が見え,そこを軽自動車が登っていくのが見えた。聞こえてくるのはひたすら蝉の鳴き声と鳥の鳴き声と,たまーに虫の羽音。空からは容赦なくギラギラと照りつける太陽。「THE 夏の田舎」という名前がピッタリである。東京ではまだ梅雨明けをしていないようだが,こちらはすっかり夏の光景である。ダラダラと汗が落ちてきて,自販機で買ったジャスミン茶が確実になくなって,それが汗となって出ていって,ハンカチがすっかり塩臭くなりそうだ。
少し進むと,二股があった。道なりだと左に行く感じのような気があるが,軽自動車が登っていった感じだと,右手のような感じだ。なので右方向を選択すると,道は思いっきり勾配がきつくなってきた。緑以外何もなくなった。この道で間違いない。あとはどれだけ時間がかかるか。まあ,14時という帰りの時間には余裕で間に合うとは思うが。
ふと,思う。なぜ,こんな道を歩いているのかと。こんな苦労をしてまで行きたい先が,そんなものすごい場所だと到底思えないことくらい,うすうす私にも分かっている。にもかかわらず,なぜこんな坂を登っていくのだろうか――そう思いながら,いくつかの島のこういう坂を歩いていったと思う。たしかに,その先には何か格別な景色が待っていたわけではなかった。それでも,何かを克服した,何かを乗り越えたみたいな気持ちだけは持てたかもしれない。だから,意味がないかもしれないその道の先を行くように,いままで歩いてきたのだ。
かれこれ歩いて20分ほど。またまた二股になった。左手の奥には海が見える。道が下り坂になっているのも分かる。右手は引き続き上り坂である。はて,ここはどちらだろうか。右手に行けば,より長く島の道を歩くことにはなるかもしれないが,どこでどうなるのかよく分からない。詳しい地図など,何一つ持ち合わせてはいない。ここは確実に海に出られそうな左の道を選ぶ。
道は引き続き,軽自動車が1台通れる程度の道だ。ひたすらグネグネした下り坂。楽ではあるが,足元がやや不安な私には,むしろ神経は下りのほうが使うと思う。目の前の濃緑の向こうに広がる海では,波が激しく打ち寄せている。こんなところで,ふとケータイを出してみたが,案の定圏外であった。もはや,頼れるのは自分の身体のみである。
2度目の二股から15分ほどで,一番下まで辿りついた。なぜかヤギが1頭,つながれていたが,なぜこんなところにつながれているのか謎だ。古ぼけた桟橋のようなコンクリートの建造物とが海に向かって伸び,そばには,名前を何と言うかは分からないが,石が多めの砂浜がある。さっき坂をえっちらと登っていったと思われる軽自動車が停まっていた。運転してきたらしき男性と軽く挨拶。数分で車は来た道を上がっていった。何をしに来たのだろうか。ま,私よりは多少マシな目的ではあろうか。
片や,私はここでメシを食うことにする。場所は桟橋の突端。波の高さからいって,今にも桟橋を洗いそうなくらいなのだが,なぜか桟橋に一度たりとも波がかかることはなかった。黄色と黒の出っ張ったところに腰掛けて,ナポリタンを食べる。別に美味くもなければ不味くもないケチャップたっぷりのスパゲティ。これと,昨日鹿児島に行くときに乗ったJALのクラスJの座席でもらったせんべいが昼飯だ。何てジャンクな昼飯だろう。ま,これも鶏飯のためと思えばいいか。
砂浜にも下りたりして,10分ほどで来た道を引き返す。そう,来た道を戻らなくてはならない。下り坂は帰りは上り坂となる。山を越えて海に辿りついたからって終わりではないのだ。引き返して起点に戻って初めて,道のりは完結するのである。二股を越えて下り道を半分ぐらい来たときに見えた与路の集落が何か素朴で美しかった。

再びテーブルサンゴの石垣の集落をウロウロして,桟橋脇の砂浜に出る。桟橋にはフェリーが静かに停まっていた。こちらはより砂の粒が細かいキレイな海岸だ。外洋に接していないから,波もなく穏やかである。サンゴはあまりなくて砂が多めの砂浜だ。奄美だとこんな感じの砂浜が多い。サンゴが少ない点が沖縄よりも本土に近い感じをうかがわせると思うのは,私だけだろうか。
時間は13時。まだ海上タクシーが来るまで1時間ある。待合室に行くと,そこにはテレビが置いてあった。リモコンでボタンを押すと,ちゃんとついた。フジテレビで「26時間テレビ」が放映されているだろうから,それでも観ながら時間をつぶそうか。結局,14時に与路発としたのは正解だった。山歩きの疲れを取るにはちょうどいいだろう。
テレビを観ながらくつろいでいると,海上タクシーらしき船が1隻,桟橋に乗りつけてきた。そこから降りてきて待合室の前にやってきたのは,さっき古仁屋の海上タクシー組合にいた細面の男性だった。軽く挨拶すると「どうします?」と聞いてきた。どうやら,誰かを乗っけてくるついでがあったのか,早めに着いてしまったようだ。「今すぐ行ってもいいし,あるいは予定通りにするか,どっちでもいいですよ」とのこと。なーんだ。時間ピッタリに来るのかと思っただけに,ちと拍子抜けの感があった。
ま,このまま行ってしまってもいいような気もするし,テレビでは「クイズヘキサゴン」のスペシャルで,何やら次長課長の河本氏がなかなかスタジオに現れない“ミスターX”なる人物に暴言を吐いて,それが物議を醸し出している。どうやら“ドッキリ”の予感がする。はて,誰が出てくるのか,行方を見守るのもいい感じになってきたので,「じゃあ,2時でお願いします」というと,「分かりました。あそこの船にいますので」と言って,男性は再び船のほうに戻っていった。
窓が開け放たれているのと,海のそばであることから,入ってくる風がものすごく気持ちいい。これならばフェリーで帰るとしても,2時間余裕で時間がつぶせたような気がする。ま,ひとえにテレビという文明の利器のおかげではあるのだが,考えてみれば,はるばる離島まで来て一番楽しかったのが,待合室でテレビを観ていた時間というのも,どこか矛盾みたいなものを感じる。
でも,家で観ていてつまらないテレビが,場所は離島でもどこでもいいのだが,見ている場所を変えることで新鮮で面白く見えてくることってないだろうか。場所は非日常なのに,五感に入ってくるのは日常。この二つの間に漂っているのが面白かったりするのだ。旅先で聞いたNHKの「のど自慢」が,結構印象に残っていたり,朝何気に観たテレビがものすごく面白く見えてきたり……多分,非日常に身を置いて多少テンションが高くなっているからかもしれない。
さて,時間が14時に近づいた。テレビの“ミスターX”は和田アキ子氏だった。スタジオ入りが遅れたのは「アッコにおまかせ!」に出ていたから。会ったらば「何遅れとんじゃい,ボケ!」と言うはずの河本氏の顔が見る見るうちに強張っていく。何やらフニャフニャとそれらしき言葉をつぶやいたが,和田氏に顔を張られてKO。ありがちなパターンだが,離島で観ているとミョーに可笑しかったりする。
細面の男性は別の男性と一緒に近くをウロウロしていたようだが,再び船に戻っていくのに合流して,一緒に乗船することにする。男性2人が運転席側の船室に座ったので,私は後部にある7〜8人座れるベンチに座った。男性2人は仲良しなんだろうし,前に一緒に座ったら何だか申し訳ないような気がして,少し距離を置いといたのだ。
14時出港。世間話とかをすることなく,ガンガン波を蹴っていく船中で,バスケットに置いてあったヤンマガとかタウン誌をひたすら見ていた。ヤンマガも普段はまったく見ないが,こーゆー場面で他に娯楽がないと,案外見てしまうものらしい。もっとも,ストーリーまでは覚えちゃいないが……そして,14時45分,古仁屋港に到着。そそくさと1万5000円を払って下船。戻ったデュエットの中では,やっぱりというか,Let's noteがほどよく蒸し上がっていた。

(4)エピローグ
古仁屋港からはひたすら北上。時間がやはり余ったので,龍郷町の戸口という集落にある「平行盛神社」なんて名前のごくごくフツーの神社に寄って,あとはそのそばの海岸線沿いを走ったりして,夕食には早い時間だったが,17時ちょい前に「ひさ倉」に入った。客は私以外は誰もいない。今回は純粋に鶏飯のみを頼み,どんぶりに6分程度によそったごはんにスープをたっぷりかけて具を乗せて,これを2杯食した。初めての奄美の旅での最初の飯がここの鶏飯ならば(「奄美の旅」第1回参照),最後の飯もここの鶏飯だ。そーゆー締め方もカッコいいと思う。食べ終わると,不思議に落ちついた気分になった。これですべてが終わった。でも,特に感動らしきものはない。ただ「旅が終わった」というだけのことだった。(おわり)

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