奄美の旅(勝手に)アンコール

C入っちゃいけない(?)山道でさらに裏側へ
ミラを再び走らせる。集落の外れにある二股の右手は,上り坂となって峠越えをし,生間港にそのまま通じている。距離にして800mほどと聞いたことがあるから(「奄美の旅ファイナル」第2回参照),その近くにあるイケンマレンタカーまでも,時間にすればホンの数分であろう。まさか,F氏(第4回参照)もこんな至近距離にいるとは思っていまい……って別に私がどこにいようが,向こうは関係ないか。
私はといえば,その二股を左へ行くことになる。こちらに入っていくと,ひたすらアップダウンの狭い道になることは,前にバスで経験しているので,特段ビビったりしているわけでもない。今回はそのとき乗ったバス「瀬相―秋徳―生間線」とは逆ルートを行くことになるのだ(「奄美の旅ファイナル」第2回参照)。わざわざこちらに行くからには,「行きとは違うルートで回りたい」という考え以外に,純粋にこのルート沿いにもう一度見ておきたいものがあったりする。
K夫妻(第4回参照)がこの加計呂麻島にかつて来たことがあるのかは知らないが,F氏の言うことを素直に聞いて,この“裏側”に回ってきていないというのならば,それは可哀想なことである。この“裏側”にも見所はちゃんとあるのだ。もっとも,それはあまりガイドブックなどには載らない場所であるし,個人的に「そう思っている」という範疇を出ないのだが,逆に言えばそういう場所だからこそ,いつまでも記憶に残るものなのではなかろうか。
最初の山越えを終えると,野見山(のみやま)という集落。ここで1台のトラックとすれ違った。荷台には横倒しにたくさん積まれたサトウキビ。近くにサトウキビ畑があるから,そこで刈り取ったものであろう――そういえば,この旅で初めてサトウキビを見た。山がちな地形ゆえに,それほど畑地が確保できるというものでもないだろうし,それ以前にやり手もいないのではないか。やはり“過疎”というのも少なからず進行しているだろうし,人の手を借りる必要がままある重労働のキビ刈りを,自分たちだけででもやろうという人は,そうはいないはずである。
次いで表れたる集落は,秋徳(あきとく)集落。ここではテーブルサンゴの石垣を見つけた。二股で「←秋徳入口」という看板があったので,思わず入ってしまう。海岸沿いを走る道。間もなく,秋徳バス停を左に発見。「瀬相―秋徳―生間線」の生間側から向かうバスは,ここ秋徳にて最大60分の“時間調整”なるものをやる。どういう意味での調整なのだろうか。1日3便のうちで,その最大の60分の時間調整をやる「2便」は,12時半にここにやってきて13時半に瀬相に向けて出発する。これって,昼休みということなのか。真相は分からないが,だとしたら微笑ましくなってしまいそうだ。バス停より奥に入っていってみたが,どうにも停まらなくなりそうで,バスのごとくとっとと引き返す。
再び山越えをする。今度は相当長い距離で,舗装が所々剥げている箇所があった。ま,それでもマイクロバスが走れるのだから,ましてやミラが走れないわけがない。途中,山の上から次の集落・佐知克(さちかつ)集落を見下ろした景色が風光明媚。左手に海原。その海原は沖がターコイズブルーで,岸側がマリンブルー。そのコントラストもいいし,右手には小さくたたずむ海辺の集落。少し天気が時雨かけているのが惜しいと言えば惜しい。
ここは「奄美」という,本土とはまた違った独自の文化圏であるはずだが,その光景はまるで「日本の原風景」を見ているような感じだった。こういう発見があるからこそ,大島海峡沿いの道だけしか行かなくてもいいというようなガイドを,F氏にはしてほしくなかったと思う。よほど,K夫妻にも私がこれから行きたいと思っている場所を紹介してやりたかった。
その佐知克には「西田製糖工場」という小さい工場…というか,作業場みたいな小さいトタン屋根の建物ががあった。そばにはサトウキビの山が置かれてある。沖縄ではあまり見なくなった個人経営の製糖工場である。「もち糖」「バラ黒糖」「キビ酢」などが通販や売店でも売られているようだ。「頑固おやじが丹精込めて造った頑固黒糖」――今回は黒糖を食する機会がなかったが,各島によって黒糖の味が違うと言われている。ここ加計呂麻島…というか,この西田製糖工場で作られている黒糖の味,特に「もち糖」は名前の通り,もっちりした食感だというから,ますます興味深いものである。
その次の勢里(せり)集落には,「紅の花」のロケ地を意味する看板が置かれてあった。砂浜があって海岸沿いをひた走っていたが,はてそのまま素通りしてしまった。どうせ,ワンカットだけ……というには,何か詳しく書かれている感じだったが,とりあえずスピードが出てしまっていたので,仕方がない――というか,やっぱりスピードが出てしまうのだ。それだけ,こちらも次の行きたい場所に急いてしまったのだろう。「裏側の林道をスピード出して走ってきました」なんてF氏に言ったら,露骨にイヤな顔をされるようなことかもしれない。
しばらく,海に近いところを走り続けること10分ほど。ついに,私が見たかったものに辿りついた。それは「於斉(おさい)のガジュマル」である。真ん前は防波堤をすぐ越えて海岸。バックには“千手観音”のごとく,どこまでも枝を伸ばし続けるガジュマルの木。高さは有に10mはあるだろうし,根はもっと長く伸びているだろう。天然のカーテンのような気もする。1本の黒く太いロープが枝に縛られてある。「ターザンごっこ」でもするのだろうか。その下に車を停めておく。先ほどから時雨れてきていた天気は,いよいよポツポツという微量の雨粒とともに,崩れてきてしまったようだ。
このガジュマル。沖縄では「キジムナー」,奄美では「ケンムン」と呼ばれる“妖精”とも“鬼っ子”とも言える子どもの妖怪が宿る場所とされているが,ホントに幹の隙間から「バァ〜!」と出てきそうなくらいに,実に神秘的な光景である。そして,この木々の裏手にある墓があるのだが,そういう位置関係が“雰囲気作り”に一役買っているのかもしれない。なお,その墓の中には奄美には珍しい沖縄の破風墓が見られた。ひょっとして,沖縄出身の方が眠っているのか。
この場所もまた「紅の花」のロケ場所となっている。もっとも,こでは説明書きをしっかり見たが,確実にワンカットだけの映像らしい。改めてレンタルビデオ屋で借りて確かめようと思ったが,わざわざそれをするのも面倒になったのでやめた。「リリーと満男が島内を移動するシーン」で出てくるものと書いてあったと思う。「多分,そんなようなものを見た記憶がある」とだけ書き加えておこう。
それにしても,土から伸びている幹がいくつもあれば,その何倍の数も枝葉が分かれているから,一体どれが“親木”なのかが分からなくなっている。「日本一のガジュマル」)というのがここにあったそうで,それは10年ほど前に倒れてしまったそうだが(で,たしか沖永良部島にその日本一のガジュマルがあったはずだ→「奄美の旅」第6回参照),今のこの光景でも,「日本で2番」の称号ぐらい与えてもいい。別のところにも違うガジュマルが生えていて,そこから伸びてくる枝葉ともどんどんからみあってくるから,「結局,お前ら何がしたいんだ?」と,それぞれの木々に向かって問いかけたくなってくるのだ。その姿から時として「絞め殺しの木」とも呼ばれるが,ひょっとして人間には理解できない「目に見えない争い事」でもしているのだろうか。
ま,それは冗談としても,その所以の一端も垣間見られる感じだ。さすがに,おきなわワールドの敷地内にある「種之子(さにぬしー)御嶽」(「20th OKINAWA TRIP」第1回参照)の,雄大で幻想的光景にはちと劣るかもしれないが,海辺の一集落のガジュマルとしては,かなり上位に入る絶景だと私個人は絶賛したい。K夫妻,もしこれが見られなかったとしたら,ホントに残念だと思う。

道はここでまた二股になる。右手は瀬相に抜けるトンネル。左手は伊子茂(いこも)・花富(けとみ)集落などに行く道。裏道はここまでにして,素直に右手に入って県道に出ようかと考えたが,こうしてステキな景色に巡り合えると,どうしても裏道に入り込んでしまう性格が,どうやら私のDNAには備わっているらしい。一体,誰に似たのだろう。「好奇心旺盛」という点では母親のほうが強かったから,母親に似たのか。ただし,その反面の「飽きやすい」という部分も,しっかり受け継いでしまったが。
伊子茂(いこも)集落までは海岸沿いを走り,一度内陸に入って花富(けとみ)集落に着く。「奄美の旅ファイナル」第2回にいろいろ書いたので,そちらも合わせて見ていただきたいが,花富集落からはさらに山道になるようだ。このまま行けば,西阿室(にしあむろ)という夕陽が美しいと言われる海岸を持つ集落に行けるようだが,直前に興味があった立ち寄った「林道どっとこむ」なんてホームページによれば,その西阿室に抜ける道のどれかが,悪路であまり走るにはオススメできないとあった。はて,これから行こうとしている道でなかったことは,後で調べたら分かったことだったが,結局,ここはF氏の軍門に下る…ってわけではないが,危ないことをしてまで行きたいということでもないので,この花富集落でバスみたいに折り返すことにした。
於斉からはトンネルをくぐって県道に出る。地図によればすぐ脇に,それこそ林道のように狭そうな道が,瀬相に向かってはやや遠回りに行く格好で通じているが,さすがにここはトンネルを選択しておいた。距離は大してないが,ライトはちゃんと必要なくらいである。このトンネルができたおかげで,いろんな人が「行き来が楽になった」であろうことは想像に難くない。
トンネルを抜けると県道に出て,そのまま瀬相の集落に入っていく。「美咲商店」「加計呂麻徳洲会病院」(「奄美の旅ファイナル」第3回参照)など公共の建物の間を走る狭い道を抜けると,あっという間に「左手に山・右手に海」の単調な道に突入していく。表玄関のある集落だというのに,こうもあっさりしていていいのだろうか。道が不規則に片道1車線になったりするので,身心にメリハリをつけようと,そこだけ少しスピードを出してみる。ただし,さすがに“裏道”に比べると,表の県道ゆえか車の数は増えるし,たまに“出会い頭”になることもあるので,気を抜いて運転するわけにはいかない……って,どこの場所でも「気を抜いて運転していい」とは言われないか。
しばらく走り続けると,俵(たわら)集落となる。ここからは県道を外れて左に行くことにする。なぜかといえば,F氏に“ションベン滝”と言われた「嘉入(かにゅう)の滝」を見に行くためだ(第4回参照)。人から酷評された場所だからこそ,しかも「場所が分かりづらかった」という所だからこそ,行く価値があるというものだ……って,それは明らかに“天邪鬼的発想”だろうが,「せっかく行きたかった場所だから行きたい」という“ピュアな一面”もアピールしておこう。
「←嘉入4km」という看板のところで左折すると,その名も「嘉入山」と呼ばれる標高300m程度の山がそばにあるためなのか,初めはかなりの勾配を上がっていくことになる。備え付けの島内地図によれば,この山の付近になるのか,県道とどんづまりにある嘉入集落のちょうど中間辺りの左手に,印がしてある。それが今の私にとっての場所の目安である。とりあえず,その“ションベン”とやらがどんなものか,見てやろうじゃないか。
……とはいえ,左手の森には所々“隙間”があって,そのどれもが“ションベン滝”の在り処のように見えてきてしまう。もちろん,ほとんどは単なる隙間であって,水が流れているような場所はなかったのだが,ミョーな心理が働いてしまうのである。なるほど,F氏のおっしゃいたいことはこーゆーことだったのか。たしか「聖なる滝」であることを前もって情報として仕入れていたのだが,そんなに簡単に余所者に見られるわけには行かないか。うーん,ここでは完全にF氏の軍門に下るのか……。
そんな中,一筋の流れが私の目に飛び込んできた。道は下りかけていて,たしかに左手である。看板も何もない細い滝である。だから「分かりにくかった」のかもしれない。上部はそれほどのものには見えないが,下のほうに行くと,はっきりとした一筋の流れが見える。ま,たしかに「滝」というには寂しすぎるだろうし,“ションベン”というヤツ(しかも男性の)に見えないわけではない。多分,ここに間違いあるまい。雨もいよいよこの辺りから傘がないとキツくなってきたし,とっととミラに戻ろう。
さらに,道を下っていく。無論,ここで折り返したいのはヤマヤマだが,いかんせん途中で転回する場所がないのだ。とりあえず,どんなところか見がてら嘉入集落まで行って折り返そうと思っていたそのときだった。ちゃんとした看板に,まさしく「滝」と言うにふさわしい流れが左手に見えたのは。紛れもなく,その看板には「嘉入の滝」と書かれてあった。なーんだ,分かりやすいじゃん。「分かりにくかった」なんて情報のおかげで,すっかり“バイアス”がかかってしまっていたのかもしれない。
すっかり本降りになってしまった中,ホントはさしたくなかった傘をさして看板に向かう。こんなところは路駐したって,他の車が通りすらしないからいいのだ……そこには「滝壷までの落差が15m,滝壷の深さが2m」とあった。滝壷には大ウナギがいるとかいないとか。プラス天女伝説まであるという神聖な場所。ついでに看板には「須子茂(すこも)区民の誇り」とあったが,はて須子茂とは嘉入の北側に位置する集落のはずで,ホントは「嘉入区民の誇り」なんじゃないかと,部外者にはホントはどーでもいいはずのツッコミを入れたくなる。そもそも「嘉入の滝」というのだし。
ま,でもなるほど,ものすっごい勇壮な滝を連想すると,期待外れに終わるかもしれないが,決してこれは“ションベン滝”とは言わないだろう。強いて“そーゆーもの”に喩えたいならば,「寒い季節に屋外で花見がてらビールを飲みたいだけ飲んだのはいいが,どうにも寒さと利尿作用でトイレに行きたくなって,長くできたトイレ待ちの列に何とか並んで,いざ自分の番が来たときに味わうような解放感」というニュアンスに近いかもしれない。ま,そんな喩え,そもそも神聖な滝に失礼極まりないので,ここいらで止めておこう。“幻の大ウナギ”も,そんな滝に棲むためにいるのではないだろうし。
そのまま嘉入集落まで降りていく。どんづまりから右に行けば,島の裏側をひたすら行ける道があるようだが,今回もムリをせずやめておく。後で調べたらば,この先の須子茂・阿多地(あたち)集落まで,きっちりバスが通っていたので入っていっても問題はなかったのかもしれないが,その先はどうなっているか分からないし,結果的には行かずに正解となっていたかもしれない。ちなみに,逆の左方向は西阿室集落に行く道だったが,通行止となっていた。道が悪路かどうかというよりも,こーゆー思わぬ通行止看板があるから,林道は容易に入っちゃいかんということだったのか――今となっては,ちょっとばかりはF氏に感謝しなくちゃいかんのだろう。

再び俵集落から県道に入って,今度はひたすら西進するのみだ。目指すのは最西端の実久(さねく)集落である。たしか,瀬相から21kmという看板を見たような気がする。時間は13時20分。この島ではせいぜい平均スピードは35〜40km/hあたりだ。30分はかかると見たほうがいい。となれば,実久に着くのが14時。せいぜい早まったとしても,5分程度であまり変わらないだろう。
さらには,この県道から少し外れたところにある芝(しば)集落というところも行ってみたい。ここはF氏が「行けたら行ったほうがいい」と推奨していた場所である。だからということでは決してないが(と強がってみる),せっかくだから行けるところは行っておきたいではないか。生間港発のフェリーは15時55分発だから,15時半にはイケンマレンタカーに戻りたい。多分,間に合うとは思うが,それほど悠長に構えていられるタイミングではなくなりつつある。
狭い広い,上り下り,左カーブ右カーブ,すべてを経験する。瀬武(せだけ)という集落では,こちらをまったく見ていなかったと思われるオジイが運転していた軽トラックが,突然出てきて出会い頭に衝突しかけた。「出会い頭の…」という感覚が初めて分かった……この瀬武にはまた,「←実久郵便局」というのがあったので,一瞬ここが終着の実久かと思ってしまったが,実久まではまだ相当先だった。
紛らわしい限りだが,どうやらここには旧実久村時代の役場があったようだ。その名残で,公共機関に「実久」の文字がついていたのかもしれない。瀬戸内町は,加計呂麻島の瀬相以西を管轄していたこの実久村,同以東を管轄していた鎮西村,いまの古仁屋一帯を管轄していた古仁屋町,古仁屋から西側を管轄していた西方村が,1956年に対等合併して誕生した町である。それ以前はもっと小さい村だったり,はたまた各集落が独立した“ムラ”のようになっていた時代もあった。高い(といっても,それほどではないのだろうが)山と山の谷間に集落があることから,また昔は道というものがなかったのだろう。なかなか「隣の“ムラ”と交流すること」がなかったのだろうか。
13時55分,予定より5分ほど早く,実久集落に到着する。目の前にある海岸に思いっきり出たい気分であるが,外は本降りになった雨がなかなか降り止まない。むしろ,風が強くなってきて外に出る意欲すら削がれてしまいそうである。それでも何とか外に出ると,大きな砂浜が目の前に広がった。玉ジャリとサンゴが入り混じった,どちらかというと沖縄的砂浜のようだ。奄美では今までサンゴが入り混じった砂浜をあまり見なかった(よく見ていなかっただけ?)ので,より新鮮に感じたのだ。海も透き通っていたし,ゴミもまったく落ちていない。つくづく悪天候が惜しい。天気がよければかなり上位に来る海岸ではないか。あるいは,先にこちらから行くべきだったのだろうか。
この海岸から徒歩で行けるところには,地名の由来になった「実久三次郎神社」というのがある。白い鳥居と奥にこれまた白い境内がある。ここも降りてみたかったが,車内から見るにとどめる。1156年に起こった保元の乱で敗れて,伊豆大島に流刑に処せられた源為朝(1139-70?)は,それから9年後の1165年,その伊豆大島を脱出して南方へ向かうことになった。途中で喜界島にも寄ったりしながら(「奄美の旅ファイナル」第5回参照),さらに南下して琉球に渡る途中,ここ実久にも立ち寄った。そしてこの地の女・ヨチコーとの間に生まれたのが,神社名にもなった実久三次郎という。三次郎はかなりの豪傑としていろんな伝説を残したそうで,その大きな足跡が残る石が境内にあるらしい。
さあ,ここからは来た道を折り返すことになるのだが,その前に,実久の一つ東寄りの集落・薩川(さつかわ)から北に伸びる道を入って芝集落に行きたい。海岸沿いの道を雨足が強くなってきた中を走ること5分。芝集落に到着。昔ながらの石垣がちらほらと見られた。ここをF氏が勧めた理由は「日本初のロシア文学者である昇曙夢氏(のぼり・しょむ,1878-1958。本名は「直隆(なおたか)」という)の生まれ故郷だから」なのだが,そうは言われても失礼ながらピンと来ない。180余りの翻訳・著作などを残したそうだが,別にロシア文学に興味なんかないし,ロシアの文学者といえばトルストイくらいしか分からない。F氏,申し訳ない。
しかし,そんな功績よりも,地元で胸像が建てられるまでの大きな存在になった理由とは,地元奄美に大きな足跡を残したことであろう――奄美諸島が第2次世界大戦後に米軍統治下に置かれた中,氏は1949年に『大奄美史』を発刊。これが奄美の郷土意識と本土復帰への喚起を促すことになった。やがて,1951年に「奄美大島日本復帰対策全国実行委員会」が結成されると,氏は委員長に就任。復帰運動に尽力した結果,1953年12月に日本復帰が実現した――これがホントの「地元民に胸像が建てられた理由」なのではなかろうか。
その曙夢氏の胸像がなかなか見つからなかったが,海岸沿いのそこだけ不思議に四角く石垣が張り巡らされた中で,一番奥に小さい胸像があった。傘をさそうと思ったら,ちょうどキョーレツな風が吹いてきて傘がめくれ上がってしまい,そのそばにあった説明書きを読みたかったが断念する。少し離れたところから見たその顔は,お笑いグループ「デンジャラス」(いまどこに行ったのだろうか?)のノッチ氏に似ていたような気がする。
これで見たい場所はすべて見たと思う。あとは生間まで一気に走り抜けるのみ。途中の集落は,もはや無視状態。勝能(かちゆき)という集落で,大きく突き出た埠頭のようなものを見かけたのが,強いて印象に残ったものか。前回旅行で見た呑の浦なんかは,今回は完全に通過。あ,そういえば押角から呑の浦に向かう途中に越える峠の上にあった碑は,今回もちゃんとあった。やっぱり何がしかの役割を果たしているのだろう(「奄美の旅ファイナル」第3回参照)。

(6)エピローグ
こうして,生間集落には15時20分に到着。F氏に言われていた(第4回参照)ガソリンスタンド「モービル」はロープこそされていなかったが,事務所らしきところに人気はまったくなかった。すなわち,休業である。やっぱり予想通りだった……仕方なく,そのままイケンマレンタカーに戻ることにする。そうなると,実費でやっぱりいくらか取られることになるのか。
事務所では,F氏に代わって中年女性がいた。ガソリンスタンドが開いていなかった旨を伝えると,やはり実費でもらうという。あまり慣れていない様子で「今年初めてなもので」と言いつつ,計算機を弾きながら,「それでは“80円/km”になりますね」と言ってきた。さらに「距離を測らないとですね……えーと,113kmですね」――おいおい,それじゃ9000円以上もかかるのかよ。関東圏内で300km走ってガソリン入れたって,せいぜい2500円くらいなのに,いくら離島だからといって,そこまで高騰するわけがあるはずもない。しかも,ミラのガソリンのメーターは,上4分の1くらい下がった程度なのだ。
すると,そのまんま「あらま,9040円かかりますね」とのたまう。さすがに私もここは,「いや,そんなにはかからないでしょ?」と言うと,何かに気づいたように「そうですよねぇ。ちょっと聞いてみますね」と,おもむろに電話をかけ出した。やれやれ,最後にこんなオチが待っているとは。
「あー,Tおじちゃん? あのさ,ガソリンスタンドが開
いてなくって,実費で計算するんだけど,キロでいくら
だっけ?……あ,20円/km!――アハハ,なるほど。
どうもありがとねぇ」
やれやれ,こうして私は「113km×20円/km=2260円」という計算機が弾き出した数字の額を支払って,晴れて開放となった。そして,空も晴れ上がりこそしなかったが,雨はすっかり止んでいた。私が出て行った後で,K夫妻がの夫だけが戻ってきていた。奥さんは先に港の待合室で降ろしたのかもしれない。はて,彼らがどういう反応をし,女性がどんな対応を披露してくれるのか楽しみ……って,私のときにガソリン代が20円/kmというのが分かったから,大してトラぶらないか。
しかし,これだけでは終わらなかった。待合室のイスに座ってくつろいでいたときのこと。その女性が私に声をかけてきた。「すいません。さっきの車のカギ,持ってません?」――「何を言うんだろ,このオバちゃん?」と一瞬思ったが,ふとジャンパーのポケットを探ってみると,そこには紛れもないミラのカギがあった……嗚呼,何というおバカを。この勝負,完全に“痛み分け”である。
「あー,よかったー」と女性は言い残すと,ダッシュで事務所に戻っていったようだった。買い物したものが入った大きなビニール袋を持っていて,どうやら彼女も15時55分のフェリーで古仁屋にわざわざ渡るらしかった。カギがなかったら営業に支障を来たすから,さぞかしホッとしたに違いないし,こちらはこちらで最後の最後に迷惑をかけてしまった。はて,彼女は応援でも頼まれて加計呂麻島に渡ってきたのか。それよりも何よりも,F氏はいつの間にどこへ消えたのだろう?

――フェリーで古仁屋に渡ってからは,ひたすらダッシュした結果,18時には奄美空港に到着。晩飯をどうすべきかと考えて,前回寄った空港内のレストランで買った,奄美の特産品が入った空弁を期待したが,今回は置いていなかった(「奄美の旅ファイナル」第6回参照)。仕方なく,別の売店でピンポン玉サイズのサータアンダギーが6個入った「黒糖ドーナツ」(210円)と,搭乗ロビー脇の売店で,こちらは前回飲み損なった「みき」(200円)を買って,本日の晩飯とする。
黒糖ドーナツは中に重曹が入っていたからか,モチモチふんわりとして,沖縄のそれとは違う食感だった。サイズが小さいこともあって,あっという間に平らげてしまった。そして,もう一つのみき。中に入った白い液体に,200ml程度入るであろう白い素っ気ない紙コップのサイズを見ると,どこか“バリウム”を飲むような感覚になってしまう(飲んだことはまだないのだが)。昨年,東京駅構内にある沖縄ショップ「まちや小」で買った沖縄のもの(「管理人のひとりごと」Part66参照)に比べると,とろみはあるがドロッとしてないし,味も甘味と酸味が少しあってヨーグルト味に近い。「飲みやすさ」では奄美のみきのほうがいいと,個人的には思った。
さて,「奄美の旅ファイナル」第6回の最後には,このみきを飲むために奄美に来なくちゃいけないという節の文章で締めくくってみたが,今回は「与路島に渡ってホントの“奄美の旅ファイナル”にする」と(勝手に)宣言しておこう。その与路島に渡れば奄美の有人島はすべて回ったことになるのだ。行けるのはいつの日か……いや,数カ月後に“惰性”で行っちゃっていそうな気がしないでもないが,そんな余力があるならば,どっか“もっとタメになる方向”に持っていけないものなのだろうか。(「奄美の旅(勝手に)ファイナル」おわり)
 
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