沖縄 SEE YOU!

B『子乞い』のころ
昼食を食べ終わる。隣には「シーサイドマイトウゼ」というレストラン…というか,厳密には「ペンションマイトウゼ」という民宿が食事用として別棟に設けているものであるが,これの屋根つきのデッキがある。こーゆーところでの食事はさぞかし気持ちがいいだろう。ホントは自分もこーゆー場所を探していたのだ。もっとも,いま目の前に広がるのは,工事でほじくり返されて潮溜まりになって風情を損なわれかけている砂浜であるが,酒が入れば汚いものもキレイに見えてくる…かどうかは知らない。
再び歩を進める。裏手が広場になっていて,さっき声をかけてきたオジイ(前回参照)が木陰に座り込んでいた。ホントは自分もそうしようかと考えたのだが,いかんせん虫がブンブン飛んでいて,食事に集中できなくなりそうだったのであきらめた。彼の周囲にだって虫はたくさん飛んでいるだろうに,多分抵抗がさしてないのであろう。うらやましい限りだ。
その広場の隣には,白い鳥居が見えた。『やえやま』によれば,これは「ヒナイ御嶽」という御嶽だ。小さいコンクリートの社の中には香炉がポツンとあるのみだった。ホントは元から入っちゃいけないところであるにもかかわらず,「一礼すればいい」と勝手に理由づけて入ってしまうヤツなのであるが,今回は少しばかりアルコールが入っている。無論,ビールのアルコールなど,このムシムシしている気候で蒸発してしまいそうだが,こーゆーところだけは律儀だったりするので,鳥居の中には入らずに外から眺めることにする。もっとも,外から社は丸見えなのではあるが。
東に進む。コミュニティセンターがあって,「水道記念碑」だの「鳩間小学校記念碑」などどいうものがあった。建物の壁には民謡『鳩間節』の歌詞が貼ってあった。鳩間中森(前回参照)から見る景色の素晴らしさをたたえた民謡である。入口のところには直径127cmという巨大シャコ貝の殻が置かれてあって,それを発見したときの新聞記事があった。
コミュニティセンター自体は単なる公民館であって,何があるわけではないのであるが,碑や歌詞がここが「鳩間島の中心」であることを示している感じがする。『瑠璃の島』でも,何かあるとすぐここに人が集まって議論していた。それは現実の世界でも同じことなのだろう。このセンターの誰もいないトイレで用を足しておく。無論,中には入らず外にあったものだが。
さらに東進。オリオンビールを買った浦崎商店(前回参照)への入口には,プレハブの小屋にテントが張られてあった。「東洋工業」という石垣島の会社のもので,件の砂浜の工事をどうやら泊まりこんでやっているようである。その簡易宿舎のようだった。ちょうど,女性数人が食事を作って並べているようなところに遭遇した。石垣島からいちいち来ていたり,対岸の西表島から来るだのが面倒だから,こうして別棟を建てたのだろう。『瑠璃の島』の撮影で聞くところでは,島内の民宿が出演者・スタッフなどの宿泊で軒並み塞がってしまって,西表島への泊まり組と二手に分かれたとのことであったが,さすがに彼ら工事関係者が島内の民宿をすべて貸し切ってしまうわけにはいかないのであろう。
その東洋工業が工事している白い防波堤のところに着いた。階段式に降りていかれたので降りていってみると,なかなかどうしてこちらのほうがまだ風情がある…というか,キレイで居心地がいいのである。こっちでメシを食えばよかったと,ちと後悔する。無論,元は美しい砂浜が続いていたのだろう。でもって,それを防波堤に変える意義だとか,自然をいじくるのがどうだとか,素人の私がとやかく言う資格はないのであるが,自然から人工に変わる“半端な状態”というのが,おそらく一番醜いということは言えるのではなかろうか。このそばにも鳥居があった。すなわち御嶽である。「前泊御嶽」と書かれたこちらの赤瓦の小さい社の中には,御神体と思われる石だけがポツンと置かれてあった。
さらに道は続く。右手にはヘリポートが見えた。多分,『瑠璃の島』ではここからヘリが飛んでいったのであろう(前回参照)。そして,奥のどんづまりには広々としたスペースが。ここが,この島を一躍有名にした鳩間小中学校である。校庭は50m×30mほどの大きさ。端っこには白い演説台がある。校舎は平屋建て。どこの離島にもありそうな雰囲気である。壁には「ようこそ鳩間校へ」という紙が貼られてあり,そのそばには「はとまっこ」と題した標語も一緒にあった。いわく「きはきと礼儀正しくあいさつしよう/ことん勉強しよう,運動がんばろう/じめで汗して働こう/よく明るく元気よく/ころ豊かでたくましく自然に接しよう」

この学校も,言わずもがな『瑠璃の島』のロケ場所となっている。島でたった1人の小学生となった瑠璃と,これまた島でたった1人の女性教諭・島袋さなえ(小西真奈美)。真面目である一方,「転勤」と割り切って島にやってきたさなえにとって,この学校は単なる職場でしかない。数年いれば異動で別の学校に行けると踏んでいた彼女にとって,瑠璃の存在は迷惑千万以外の何物でもなかった。それでも,2人はいろいろと反発しあいながらも,心を打ち溶け合っていく……のかどうかは,途中から実はこのドラマを観ていないので分からないが,雰囲気的にはそんな感じなのではないか。もちろん,ドラマだけでなく,実際のこの島にとっても「単なる小中学校」という場所ではない。島の存亡がかかった,いわば“命綱の場所”なのである。
多少前後するが,ドラマのオープニングは,勇造演ずる緒形拳氏が都内と思われる場所から小さい子供をタクシーに乗せて連れ去るところから始まる。すわ,児童誘拐か……しかし,オチは自分の孫を小学校の児童にしようと,島に連れていこうとしていたのであった。無念,これは未遂に終わる。それまで島でたった1人いた子供が転校することになったのだ。学校から児童がいなくなることは島の存亡にかかわる――必死に説得するものの,家族からは「私たちは島のために生きているのではない」と言われてしまった。このままではホントに島の小学校から児童が消えてしまい,島は滅びてしまうことになる。そんな折,児童養護施設から子供を引き取ってみてはというアドバイスを受けた。
勇造は近場の石垣島だけではなく,都内にまで出てきて片っ端から役所から児童養護施設から当たってみる。しかし,現実は甘くない。いろいろな条件を元に断られてしまう。そんな中,とある児童施設を出てきた勇造が見たのは,窓から脱走しようとしていた1人の女の子だった。それが瑠璃であった。髪にパーマをかけた彼女の身なりはヘンに大人びいているが,小学生に間違いない。思い切って声をかけてカラオケボックスに誘った勇造。「この島に来ないか?」と尋ねてみる勇造。しかし,彼女にはそんなオヤジなど,どーでもいい存在。トイレに行くと行ったきり,出ていってしまった。
その後,1人寂しくカラオケを歌ってカラオケボックスを出て,とある駅の前に来た勇造。そこで見たものは,泥酔して寝転がっていたサラリーマンのポケットに忍び寄る手。その手は紛れもなく瑠璃の手だった。あわてて取り押さえて警察に連行しようとした勇造に,瑠璃は「ダマされるほうがバカだ」と一言。ピシャッと張り手を食らわして,「大人をバカにするんじゃない」と必死に説得する勇造。これに対して,「よく分かっている」と言いつつも,灰皿で抵抗する瑠璃――結局,警察沙汰になってしょっ引かれてしまう勇造だが,そんな彼の元にやってきたのは,瑠璃が脱走しようとしていた施設の人間だった。いわく「父親が早くに亡くなってしまい,母親は子供を放ったらかして遊び呆けている。何度か家庭に戻したが,また施設に戻ってくる。最近では預けっぱなしである」。そして「“捨てられる”とはそういうことなのかもしれません。あなたにそんなあの子を預かる覚悟はありますか?」と。
勇造には迷っている時間はなかった。義理も兼ねて,瑠璃を連れて母親・直(西田尚美)の元へ行く勇造。「この子を預かってもよろしいですか?」と真面目に聞く勇造に,「私のせいで瑠璃の人生を縛りたくないし,私も瑠璃に縛られたくない」と答える直。呆れた勇造は,しまいには「親だったら出ていくなって答えろ」とキレて怒るが,「連れていきたいんでしょ?」と直。瑠璃は「いろいろあるから,仕方ないんだよ」と,フォローだか傍観だかよく分からないコメントが……この時点で,勇造にはきちっと覚悟がセットできた。こうして,瑠璃は新たな島の子供として受け入れられることになった。石垣港から出ていく船のデッキで「もう1回,ここから始まるんだよね」と瑠璃――。
ちなみに,このドラマの原作となった『子乞い―沖縄 孤島の歳月』(「参考文献一覧」参照)ではどんな感じだったのかといえば,石垣島から新入生として招いた男の子と,沖縄本島は与那原町から転入してきた女の子と2人での学校生活であったようだ。それまで1人でいた女の子が母親・弟とともに隣の西表島に移ることになったのとほぼ入れ替わる形で入ってきた。この西表島に移ることになった女の子の家族もまた,島出身で学校唯一の男の子が石垣島に出ていくのとほぼ入れ替わりで,本土から移住してきたのだった。好んで島にやってきたのもつかの間,最後は女の子の母親が「いつ島を出ようが私の勝手ではないか」と,島に愛想を尽かしてしまったのであった。
こう書いてしまうと,女の子の母親が自分勝手のように思われてしまうだろうが,それは反面,「子供をたった1人にはさせない」という島内での約束がなかなか叶わないことにも原因があった。これまた「沖縄らしい」といえばそれまでなのだろうが,「子供が1人いれば当面安心」という楽観的な見方が,時としてはびこってしまうこともあった。島民が必死になって島の外から子供を,あるいは子供を持った家族をどんどん連れてこなかった努力不足があったのである。
最盛期には500人いたという島から,どんどん人が出ていって公共施設が縮小されていく。そんな中,子供がいる限り残されやすい公共機関である学校が「島を存続させる手建て」としてもっとも手早いと考えるのは必然だったとも言えるが,そうなれば「島の存亡」を子供たった1人に背負わせることになる。これは子供だけでなく,その親にもかなりのプレッシャーだったに違いない。いや,子供はまだ無邪気でいいのかもしれないが,むしろ大人のほうが島のあるいは島民の「いい部分・悪い部分」が見えてしまって,それに疲れて出ていくというのが,一つの島を出ていく在り方だったのだ。

詳細は上記原作を読んでいただきたいが,登場してくる小学生は,おそらくいずれも私と同世代である。いわゆる「第2次ベビーブーム」で子供が多かった時代である。私が住んでいた埼玉県川口市では,そんなことは無縁とばかりにしっかり1クラス44人×5クラスができており,さすがに「第1次ベビーブーム」みたいに十何クラスもできることはなかったが,かといってクラスが減るということもなかった。今でも小学校自体は存在しているだろう。クラス自体はもしかして減ってしまったかもしれないが。
しかし,私が無邪気な(?)子供だったそのとき,2000km離れたこの鳩間島では,よその土地から子供を連れてくる,でもってその子供に“過酷な使命”を背負わせるということが行われていたのだ。「あれから四半世紀経った」と言おうと思えば言えるが,考え様によっては「まだ二十数年前のこと」とも言えるのだ。パソコンもケータイもなかった…仮にあったとしても,まだバカでっかいころのことだが,私自身は水はフツーに使えたし,テレビもごく当たり前に観られたし,今と何ら変わらぬ生活が営まれていたはずである。にもかかわらず,同じ日本国内で絶対的な格差が存在していたのだ。
今では鳩間島だって水道が通っているし,テレビも放送局・放送量の差こそあれ,観ることができる。都会と比べれば,そりゃ不便はあるかもしれないが,時代が変われば価値観も変わるというものである。その不便さを“いい方向”に解釈してやってくる人間もいるだろう。ドラマで有名になって,それの影響なのか1日1回だけだが高速船が通るようになって,言葉は決してよくないが,ミーハー精神で訪れる私のような人間も少なからずいるだろう。少なからず,鳩間島は賑やかになりつつあるのだ。
住むのと観光とは言わずもがな意味が違うとはいえ,この島が誰も訪れない廃村…いや,無人島のようになることはなくなったと思う。反面,不届き者がゴミをちらかしたりするなんてことも増えたかもしれないが,そんなのはごく一部であろう(と信じたい)。聞くところによれば,今でも学校には里子としてやってくるケースがあいかわらず多いというが,その位置づけも以前とは大きく違うであろう。まさしく「子乞い」という言葉があてはまるような,子供に島の将来を背負わせるなんて必要性はなくなりつつある。あくまで「子供のため」,ひいてはそんな子供の姿に満足する「大人のため」へと,考え方はシフトしつつあるのではないか。

C残った鳩間島タイムをどう使うか
来た道をテキトーに戻る。さっき寄った浦崎商店と,東洋工業の宿舎との間から伸びている道を進んでいくと,あっという間に何もない道となった。ここから島を外周する道が始まる。ただでさえ何もないに等しい島から,さらに何もなくなる――いや,あるのだ。自然がこれでもかと。人間がめったに踏み込むことなんてないのだろう。別に整備されているわけでもなく,ただあるがままである。元々鬱蒼としている中に道を切り開いたのか。虫も飛び放題であり,これは歓迎か攻撃か。地面は黒い粒があちこちに落ちている。ヤギの糞かもしれない。
歩き始めて10分ほど,二股になって右手に「→船原(ふなばる)の浜」という看板が見えてきた。とりあえず踏み固めたような小道を進むと,岩場の中にわずかに砂浜があった。1人…というほどではないが,1組だけしか入れないような小ささである。ゴミが散乱していたのが残念だ。こーゆー輩がいるからイカンのだ。私がやって来るやいなや,岩場にヤギが逃げていった。本来は彼らの庭みたいなものかもしれない。そこに外来者である私が入ってきた。臆病な動物なものだから向こうから逃げていったが,本来は私がいなくなるべきだったかもしれない。ま,すぐに立ち去ったが。
外周道路に戻る。再び海岸への入口があった。今度は「外若(そとわか)の浜」という名前。こちらも,岩場の隙間に小さい浜がある程度だった。そばに大きなガジュマルの集合体が見えたので,『やえやま』の地図などにも載る「千手ガジュマル」かと思ったが,もう少し西側の「島仲(しまなか)の浜」のそばにあるようなので違ったようだ。
実際,そのホンモノの「千手ガジュマル」は鬱蒼とした森の中に,たしかに写真と同じものが見えた。なるほど,“千手”の名前にふさわしい幹や枝のからまり具合だったが,森に紛れて迫力が半減している感じだった。道路に接して見えていれば,その迫力は絵にするにふさわしいものだったのではないか。しかも,看板なんてものがないから,分からなければ見逃すこと必至である。
千手ガジュマルを越えて間もなく,島仲の浜への入口。空は次第に時雨れてきていたが,時間だけは間違いなくあるはずだ。とりあえず片っ端からビーチに入ってしまおう……と意気込むわりには,ここもそれほどの大きさではない。船原の浜や外若の浜に比べるとやや大きいが,個人的に考えていた「ビーチで昼飯を」というプランをするには,ちとせせこましい感じだった。何もせずにただひたすらたたずむには,はたまた海に入ってシュノーケリングとかをするための荷物置場ぐらいにはなったかもしれないが,メシを食べる気分には到底なりにくかった。
この島仲の浜が言ってみれば島の北端で,いよいよ外周道路の後半……といっても,見所ってのもあまりない。採石場があったが,多分港の護岸用にでも使うのだろうか。かたどられたような石がたくさん積んであった。その採石場を越えると小さい浜への入口が。またも行ってみたら,小さい浜があった。またも岩場の隙間に砂地がある感じ。波も結構打ち寄せている。
『やえやま』の地図の位置からいって,「立原(たちばる)の浜」かと思ったが違ったらしい。そのそばには「武士家跡」というのもあって,それらしき人が積んだような石積みがあったりもしたからだが,そこから少し先のところで「立原の浜」という看板が出てきたのである。ま,名前なんてのは後でついたものなのだろう。どれがどの浜かなんて,よほどの鳩間島フリークでもなければ分かりやしない……ちなみに,ホンモノの立原の浜のそばには単なる林しかなかった。何をもって「武士家跡」なのかも分かりやしない。この先にも「夫婦石」なんてのがあったが,実際写真と見比べて分かったのは,ガジュマルがからみついたような二つの石の姿のみ。たしかにガジュマルのからみつく姿に感銘は受けるが,この辺りにあった畑を耕していた夫婦が仲むつまじかったところから名前がつけられたという由来は,どーでもいいような気がしていた。だったら,案内でもつけろよって感じだ。
いよいよ空からは雨が落ちてきた。濡れるのがイヤなので傘はさしたが,徒歩の人間にとってザンザン降りでないのが救いだ。最後の見所とも言える「屋良(やら)の浜」は大きな砂浜だった。ちょうどヤギが数頭,岩場に駆け込んでいた。その規模からも緑などの“レイアウト”の感じからも,「こういうのが“浜”って言うんじゃないの?」という感じの浜辺であった。かりに1人で佇むとして,その座るスペースがたかが知れているものであっても,やっぱり周辺にも適度なスペースが必要ってものである。北部のいくつか見てきた浜辺では,あまりに浜の両端が狭すぎるし,波が次から次へと打ち寄せてきて落ちつかないだろう。

雨は予想通り,20分もすればやんでしまった。そのときいた場所は港。時間は14時にもなっていなかったはず――“はず”というのは,時間なんてまったく気にしておらず,そうこういう間にケータイのバッテリーが切れてしまったからだ。いつ着いたのか,正式な時間は分からない。しばらくして午前中(前回参照)にも通った「あだなし」にあった自販機で缶ジュースを買ったとき,ちらっと中の食堂らしきところにあった時計が14時7分を指していて,そこからおおよそ逆算してみただけだ。いずれにしても,これで「やるべきこと」は終わってしまった。帰りの高速船まで2時間半――。
はて,何をすべきか。ツアーでないデメリット(前回参照)の解消方法を考えなければならない。とりあえず,1艘のプレジャーボートのそばにおあつらえ向きって感じで,古ぼけた木のテーブルとベンチがあったので,そこに腰掛けることにする。Let's noteがあれば大いに駄文を打ち込めるくらい時間がたっぶりだが,いかんせんコンセントはないし,持ったまま動くなんてことも考えにくかった。『やえやま』も結構隅々まで読んでしまっているし,何かと暇つぶしに便利な文庫本も持ってきていない。「あだなし」でくつろごうかと思ったのだが,何を食いたいわけでもないし,「缶ジュースを買うから,しばらくここに佇ませてくれ」と申し出る勇気もなかった。港のそばにあった素泊まり民宿「瑠璃」の庭先では,何やら島の男連が酒盛りを始めたようだが,無論そーゆー席に入っていけるような雰囲気ではないし,よしんば呼ばれたとしてもこちらから遠慮してしまいそうだ。
しばらくベンチに座っていると,そばのプレジャーボートに向かって女性数人がやってきた。格好がウエットスーツだの水着だのだから,これからマリンツアーに出るようだ。1人また1人と乗り込んで,準備が整ったかと思いきや,締めは私が座っていたベンチであった。「すいません。これ使います」と言って,男性2人で持ち上げたそれは,ベンチとテーブルが一体になったもの…って,そんなことはどーでもいい。要するにマリンツアー用のベンチ&シートだったのである。まったく紛らわしいぞ。最初っからボートに積んどけよって感じである。こちらは,フツーに公共のものだと思い込んで当然のごとく座ってしまっていたが,立派な私有物だったのだ。
仕方ない。こうなったらば,黄色と黒のタイガースカラーに出っ張ったところ(名前を何というのか。ストッパーみたいなものか)をベンチ代わりにする。時にはそこに寝転がってみる。広がるのはどこまでもどんよりとした空。もっとも,これがピーカンだったりしたら,まともに直射日光なので逆に危険かもしれないし,何より救いだったのは一粒の雨粒も落ちてこなかったことだろうか。
2時間半,マリンツアーの客を何度か見送った以外はこれといって動きはない。ひたすらヒマである。ボーッとするしか手立てはないのである。動くといっても何か見足りないわけではない。元から見るべきものがないのだ。ここで待っていれば高速船がやってくる。それまでひたすら待つのみである。間違いなく,こんなエンディングは今までで初めてである。
かといって,これまでの島旅を振り返るという気分にもならなかった。走馬灯のように思い出が甦ってくるなんてこともなかった。「あの時はこんなことがあったなあ」とか「この島ではこんな目に遭った」などなど,これで沖縄行きは無期限でなくなるわけであるし,45も島を周ってこれがラストになるわけだが,特段の感慨もないままエンディングを迎えようとしている。別に自分で一生懸命最後の旅を演出したわけでもない。これでツアー参加だったら,もしかして何かイベントらしいものがあったかもしれないが,いかんせん申し込みが1人で中止(前回参照)ではイベントもへったくれもない。
結局,16時40分の高速船到着までの間にやったことといえば,マリンツアー客の送り迎えと,飲み干した缶ジュースの缶を捨てるだけのために,わざわざ「あだなし」の自販機までまた足を運んだことと,たまーに気まぐれに電源が入るケータイで時間を確認したことぐらいだった。時間は刻々と流れていくわけであるが,私の周囲の景色は何も変わらなかった――いや,ツアーボートが出入りしたので多少は変わったはずであるが,何とも表現しがたいまったりとゆっくりとした時間が,私の感覚を少し鈍らせたのかもしれない。

(4)エピローグ
16時を過ぎた辺りから,太陽が気まぐれに顔を出し始めた。まったく,今ごろになっていい天気になられるとは。もっとも,既述のように天気がよすぎたら,それはそれで不便を被ることもあったかもしれない。港のコンクリートとタイガースカラーの出っ張りに,容赦なく照りつけた太陽で,私は居場所をまた変えなくてはならなかったかもしれないのだ。つくづく,沖縄は曇り空辺りが理想である。晴れて熱い沖縄は素敵だが,現実はいろいろ不都合が生じやすいものなのである。
16時40分,高速船がようやくやってきた。波照間島で“やっちまった”せいか(第1回参照),「野に放つ」ことにある種の快感を覚えてしまった私は,小用ながらも桟橋から海に向かって足させていただいたのであるが,それに気づいたからというわけではなかろうが,その一角とは別のところに高速船は停泊することになった。浦崎売店でかったるそうにしていた女性(前回参照)も,荷物を受け取る用があったらしくて出てきていた。淡々と船から出てくる旅人に淡々と船に乗り込む旅人の姿。
『子乞い』のようなことがあった頃,港は出会いと別れの一大スポットであった。島に入ってくる者も島を出ていく者も,イベントの一主人公であったのだ。主人公はさまざまな思いを胸にしていたはずである。そんなことに私が気づいたのは,この項を書いているいまこの瞬間である。そのくらい何の感慨もない鳩間島との別れであり,この旅のエピローグでもあった。結局,都会からやってきた旅人にとっては「たかだか一つのスポット」なのだ。(「沖縄 SEE YOU!」おわり)

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