奄美の旅(勝手に)アンコール

(3)いざ,請島上陸
@何もないんだろうけど,何かはある島
浅い眠りから覚めると,フェリーは停泊しているような感じだった。目の前に見えるのはこんもりとした岩,それを覆っている深い緑と,その麓にあるホンのわずかな白砂。のぞき込むように海を見ると,南国らしいマリンブルーをしている。反対側の窓からは,防波堤のような灰色の物体と数人のお年寄りと軽トラックっぽい車が見えた。たくさんあるというよりは,何となくそこにいる感じだ。時刻は15時15分。どうやら,請島は請阿室港に着いたらしい。ここにもどっちみちやって来ることになるわけだが,ひとまずはこのまま乗り続けて,もう一つの池地港まで行くことになる。
次の池地港までは10分。毛布と枕をきっちり元あった場所に戻ってデッキに出てみたが,あいかわらず荷物と人間で入れそうな隙間はない感じだ。また船室に戻ると,低い棚の上が何となくイスっぽく見えた…というか,実際そこに座っているオバちゃんがいたのだ。もしかしたら,座っちゃいけない場所なのかもしれないが,何となく尻にフィットする高さだったので,そこに腰掛ける。地元のおじさんオバチャンが,このころになるとボチボチ下船の準備なのか,わさわさと動き始める。
近くには,おおよそフェリーはフツー積んでいなさそうな冷蔵庫が。しかも,家庭用の本格的なヤツである。まさか…と思って見ていたら,オバちゃんがそこから食べ物らしき包みを取り出していた。こーゆーことまで想定した造りのフェリーになっているとは,まさしく「生活密着型フェリー」以外の何物でもない呼び方ができよう。観光客なんてのは,あるいは二の次な存在かもしれない。だから,観光案内のような地図らしきものも,チケット売場には一切なかったはずだ。
15時半,池地港に寄港。私を含めて,10人程度がここで下船した。請阿室港と同様,コンクリートの防波堤の見えるほうに下りる。言わずもがなだが,誰が迎えてくれるわけでもなく,人々の脇をそそくさとすり抜けていく。陸側に見れば,集落が相当遠くにあるように感じる。多分,防波堤兼桟橋の長さは200mはあるかもしれない。軽トラックがその桟橋のギリギリ端っこまで乗りつけてきていて,トコトコとしかしながら私の足よりは確実に早く集落のほうに入り込んでいった。
なぜにもこんなに長い防波堤なのかは,海の中をのぞきこんでみれば一発で分かった。エメラルドブルーに美しいのは観光客にとっちゃ都合がいいが,船にとっては浅すぎて座礁してしまうくらいなのである。多分,防波堤を半分くらい歩いたところから海をのぞき込むと,ホント大人の膝くらいまでしか深さがない。フェリーともなればある程度の水深が必要だろうから,結果的にこんな沖のほうまで長く防波堤を造らざるを得なかった,ということだろう。そんなこと事情などつゆ知らずとばかりに,小さいハリセンボンがプカプカと1匹だけノンキに浮かんでいる。

数分かけてようやく海抜0m地点をクリアする。右手に交番と見紛う小さい待合室があって,とりあえず入ってみたが,中はホントに汚い感じでしかも人が誰もいない。こんなところで待とうという感覚が起こるかどうかビミョーな感じだ。せいぜい強風が吹いたときの風除けぐらいにしかなるまい…いや,ホントにそれだけでしか機能していない“ハコ”なのかもしれない。
その隣には15m四方くらいのグラウンドがあった。大きさからしたら,ゲートボール用のものだろう。「どうせ…」という“マクラ”は失礼だろうが,この島は年寄りの人口が圧倒的に多いのだろう。彼らにとってテレビやラジオ以外,屋外での数少ない娯楽の場所かもしれない。そばの植木に黒い蝶とハイビスカスの花を見たが,これらの“セット”を見ると南に来たという実感が湧く。
そのグラウンドの前には,いきなりでっかい墓群があった。墓石は本土と同じ直方体のものだ。ガジュマルとデイゴにまるで抱かれるように林立している。ひょっとして樹木は“ご神木”ということにもなるのだろうか。もっとも,港から集落に入っていきなり幽霊…もとい墓石に迎えられる島というのも珍しい。あるいは,もう一つある請阿室集落のほうがメインの集落となっていて,こちらはさして目立たないから自分たちに機能性や都合がいいように,という理由でもあるのか。
ここ池地集落は,家が港沿いにこじんまりと建っている程度。そして,聞こえる音というと,軽自動車の音の次がヤギの鳴き声というくらい,人の声がまったくしない。どこからヤギの声がしているのか,探したらヤギはとある民家の軒先で,小屋の中に入ろうとしていたのか,発情期にでも入っていたのか,前足を上げて何かに乗っかかるような格好をしていた。
集落でこれといって見るべきものは,何気に墓の中にデーンとそびえ立つ樹木だけかもしれない。与路島みたいなテーブルサンゴの石垣を少しは期待してみたが,ほとんどはプロック塀となっていて,多分1軒だけだったと思う。時間も豊富にあるわけではないから,ここは早めに切り上げよう……グラウンドとは反対側に,色あせた島内の地図があったので見てみたら,港から見て左側に上っていく道が請阿室集落につながる道のようだ。そして,請阿室の集落に入る辺りに養豚場があるらしい。反対方向の山に向かっても道が続いているから一瞬迷ったが,これで行くべき方角が確定して安心する。
早速,その方向に向かうと,数少ない公共施設の一つである郵便局の建物があった。なぜかここだけが真新しくペインティングされていて,掲示板の中にある“あやや”のポスターが,かろうじて時代に追いついている感を持つ。ここの駐車場でもう1回「イケンマレンタカー」(前回参照)にケータイから電話をしてみる。意外だったが“柱”は3本立っていた。でも,あいかわらず向こうは音沙汰がない。こりゃ,完全に出払っている感じだな。明日にするか,はたまた古仁屋に戻ってからにするか。
間もなく「伊藤建設」という文字。別にフツーの土木工事の経営かと思ったら,半分閉ざされたシャッターの向こうになぜか大量のみかんが置かれてあった。どうやら雑貨店を兼ねているようだ。多分,この集落で唯一の店に間違いない。人が数人いておしゃべりしていた。こういうカッコをつけない…というか,もう少し何か体裁を整えてもよさそうなくらいだが。
さらに進む。早くも集落の東端が近い。そんな中,トタン屋根の小さい小屋に白い物体。ヤギだ。私が手を挙げてやると「メェ〜」と愛想よく鳴いてくれた。牛も馬もいいが,離島といえば個人的にはヤギである。あの何とも言えぬペーソスあふれる表情と鳴き声がいい。用心棒にしてはいささか心もとなさすぎるし,「一体,私は何のために飼われるのか?」と,人間以上に本人…いや“本ヤギ”が自問自答しているに違いない。しかし,無念にもやっぱり最後は“つぶされる運命”になるのだろうか。
家々もまばらになる中,落ちていた木をそのまま使っているような棒が立て掛けられていた。これが,テーブルサンゴの石垣に立て掛けられていると,南国らしい風情があったりするのだが,ブロック塀だと少し風情が損なわれるのが残念である。とはいえ,沖縄でもそうなのだがサンゴの石垣は,隙間に猛毒のハブが入り込む危険性があるので,機能性と危険回避という意味ではやむを得ないのか。
一方,先ほどの棒は「ハブ棒」と言われる,そのハブを退治するためのものだ。家はまばらになりつつあるのに,一定距離ごとに棒だけはちゃんと置かれている。「安全はいくらやってもしすぎるということはない」とかいう英語の基礎構文が思い浮かんだ。あるいはハブが出てきてパニくったときに,1本だと心もとないから,数人で対応できるように何本も置かれているとか。
いよいよ池地集落のドンづまり。いかにも“学校の校舎”って感じのコンクリートの古ぼけた建物がある。池地小中学校だ。ごくごく何度も見てきたフツーの学校である。デイゴがシンボルツリーだとか書いてあった。小中学校それぞれに校訓があるが,小学校が「やる気・根気・素直」,中学校が「立志・不屈・誠実」――要は言葉が難しくなっただけだろう。生徒たちはその辺りに気づいているだろうか。気づいているようだったら,それだけでも立派な大人だ(と,私は勝手に思ってあげたい)。
100年以上の伝統があり,かつては200人ほどの生徒がいたようだが,今では全校生徒は10人前後という寂しさ。たしか,もう一方の請阿室集落には学校がないので,島の全小中学生がここに集うことになるのだ。もっとも,全島で10人前後というのは典型的な過疎の表れであろう。島中の子どもが集まってくるといっても,もしかしたらいつかは廃校になってしまう運命にあるのか。
そういや,元ちとせ嬢の出身である同じ瀬戸内町の嘉徳(かどく,「奄美の旅」第1回,この旅行記の第2回参照)の小中学校が昨年で廃校になったとか。私が行った時点ですでに門が閉ざされ閑散としていて休校のようだったが……ま,この島には関係ないことかもしれないが,ふとそんなことを思い出してしまった。昨年日テレで放送されて,離島の小学校とその児童にスポットを当てたドラマで話題になった『瑠璃の島』では,「学校の存続が島の存続につながる」という言葉が度々出ていたが,この島にも少なからずあてはまることなのかもしれない。
体育館らしき建物の中にはパイプイスがたくさん並べられていて,端っこには「文集」と書かれた紙の張られた机がある。そろそろ卒業式シーズン。イスの数は先生と生徒とその親が座るにはあまりに多すぎる。多分,島ぐるみで催されるものだろう。特に,高校に進学するとなれば,島を出て少なくとも奄美大島の瀬戸内町までは渡ることになる。フェリーは1日1便だが1時間かかるし毎日時刻表が違う。海上タクシーは便利だが,いかんせん船のチャーターでは金がかかりすぎるし,何よりも船舶は気象状況に大きく左右されるものだ。そうとなれば生徒の1人暮らしか,誰かが一緒に島を出るか,はたまた家族総出で島を出るか――そういう選択肢しかないのだ。
そういうハンデもあることから,ここ請島と隣の与路島では,普通は居住地によって受験できる高校が一定制限を受けられる「学区制」の対象外地域となっていて,鹿児島県内のどこの高校でも受けられるシステムになっているようだ。一見選択肢が広がるように見える魅力的な制度のような気がしないでもないが,一方ではもしかしたら高校以降は島に帰ってこられなくなるかもしれない。生徒にとって「15の春」は,人生の「一大決心を迫られる春」でもあるのだ。

池地集落は,この小中学校が最東端。ここで3本ハブ棒を見て後は,しばらくハブ棒は見なくなるが……なんてことはどーでもいい。ここからは緑の中,ひたすら急坂をえっちらおっちら上がっていくことになる。道が車1台通れる程度の幅なので,「はて,この道でいいのか?」と思ってしまったが,間違いなくこの道以外に島の“二大集落”を結ぶ道はない。だから,これをひたすら進むしかないのだ。距離としては地図で見る限りは2〜3km程度だから,1時間あれば十分に行けるだろう。時刻は16時ちょい前だから,17時には請阿室集落に入れるだろう。
しかし,その途中に早くも寄り道したくなるスポット。ま,寄り道といっても差し障りはまったくないだろうが,下のほうにログハウスと白砂の浜辺が見えたのだ。階段も,木とコンクリートでしっかりと固めたものがちゃんとついている。あるいは夏場は一応,海水浴場のような形になるのか。結構,段数はあったと思うが,1分ほどで砂浜に着く。足跡がいくつかついているが,つけるのが惜しいくらいにキレイな砂をしている。打ち寄せる波も穏やかだし,ここの砂浜は穴場っぽい気がする。
もっとも,足跡以上に惜しいのが,ログハウス付近にかなり落ちているゴミだ。ログハウスは管理棟のようであるが,「どこが管理しとんねん?」と突っ込みたくなる。ま,シーズン以外にこんなとこにいさせられても,苦痛以外の何物でもないかしれないが……でも,夏場でも訪れる人がいるのだろうか。シャワーとかトイレはログハウスを見た感じではなかったような気がする。
再び道に戻って登坂する。所々路肩が崩れていて,工事が行われている。土曜日なのにご苦労様…って,土曜日を休むってのはやっぱりサラリーマンの特権なのだろうか。こういう工事現場では,まあ天候の都合とかでスケジュールが押せ押せになっていたなんてことも考えられなくもないが,日曜日以外は「平日扱い」なのかもしれない。いや,施工業者にしてみれば「次の仕事につながる仕事」かもしれないから,休日も返上で自分たちの仕事をしっかりこなさなくちゃいかん…なんて考えがあるかもしれない。いずれにせよ,私と現場関係者の間には“物理的なもの以上の距離”があるだろう。
テクテクと歩いていると,何となく坂を登りきったような感じが。もっとも,時間は30分近く歩いた感じだが……周囲はあいかわらず深い緑,左手下に海が広がっているのは分かるが,そんないい景色なんて見える場所は…あった。坂を登ったらすなわち下るわけで,その下りかけたところの一角に,濃すぎる緑の中でインパクトたっぷりの真っ赤な鳥居があった。しかも二つあって,一方はこちらに対峙するように,もう一方は私からは直角に横を向いて建てられてある。まさか,そういう風に(見えないが)一応は参道になっているのか。
それではそんな風に,こちらも「郷に入っては郷に従え」の精神で二つの鳥居をくぐると,「美ら島(きゅらしま)神社」なんていう高さ2m×四方1m前後の小さい社がある。ま,直線距離で数mなのでよく見えるのだが……中は神棚に香炉と榊が一対と,いわゆる“お祈りセット”はしっかりしている。手入れもしてあってキレイだ。賽銭箱のようなものがあったので,記念に1円だけ入れておく。しめ縄のようなものがついた鈴のような鐘のようなものがあったので,それも記念に鳴らしておく。
この神社のバックには,丸太を1本置いただけのベンチらしきものがある。木もここだけは少なくなっていて,家々と海岸を見ることができた。家々は請阿室の集落であろう。池地に比べると規模はこちらのほうが大きい気がする。なるほど,もう着いてしまうのか……そして,いよいよというか,池地にあった地図で養豚所が請阿室集落の入口にあることを先ほど書いたが,その養豚所っぽいどこか肥料のような匂いがしてきた。ま,耐えられる程度のものではあるが,神経質な人にはちと気になるかもしれない。ゴソゴソと物音らしきものも聞こえたが,間違いなく人がリズミカルにストンピングしても立てられるような音ではない。きっと,豚が小屋でゴソゴソしているのだろう。
少し急勾配になった下り坂を下りると,覆っていた緑はなくなって平地となり,今度は左手にネギ畑のような緑が広がった。農作業している頬かむりほした女性を数人見る。その周囲には黒と黄色の物体が何本も立てられている。かかし代わりの鳥よけであろうことは想像に難くない。黒いほうは近くに風で飛ばされて落ちていたものから,市販のゴミ袋でできていることは確認できたが,黄色いのは何でできているのか。近くまでわざわざ行って確かめるほどの動機付けは持っていなかったが,レインコートっぽい気がしないでもなかった。
16時50分,請阿室集落の中に入り込む。池地に比べると家の数はこちらのほうが多いような気がする。狭い路地をいろいろと入ってみたが,密集度合いもこちらのほうがある。民宿も1軒,売店と兼ねた「渡山荘」というのがあった。意識して見ていたテーブルサンゴの石垣は,こちらでも数えるほどしか見られなかった。そして,ハブ棒はなぜか1本も見ることがなかった。遠くで何か汽笛のような「ファーン」という音が聞こえたが,のどかな夕方の落ちついた雰囲気に似合う。
集落の中を通り抜けて,請阿室港には17時ちょい前に到着する。桟橋の長さはこちらも結構あるが,池地港に比べれば半分くらいの長さだろうか。すぐそばが砂浜で色もマリンブルー。天気がややしぐれてきているので,水面が輝いて見えないのがちと残念だが……それにしても,人らしき姿がまったくない。こんな時間に島を出る人間なんて,私みたいに日帰りの旅人以外は皆無だろう。だからこんなに閑散としているのかもしれない。行きに2時間前に見た光景と変わっているものはまったくない。
港の入口にあった待合室にも人気はなかった。サントリーの自販機だけがちゃんと明かりがついていて“営業”している。そういえば,請阿室の港で帰りのチケットを買ってくれと言われていたが(前回参照),さっきの池地港もこちらも,待合室にチケットを売っていそうな雰囲気はあったのだが,何しろ人がいないからしょうがない。ま,いなければ船内で買えばいいのだろう。しばし,誰もいない桟橋の突端に腰掛けて待つことにしようか。そばには2時間前のままか,軽トラックが1台停まっていた。

Aすべては笑いの中へ
フェリーの入船は17時5分,出発は同15分。ちょうどいいタイミングでの港への到着だが,その17時5分になっても船の音は聞こえてこない。あるいは遅れているのか。ま,大抵は公共交通機関なんざ,「遅れるためにできている」ものだから,あせってもしょうがない。空は大分夕暮れが近づいていて,風も少しばかり出てきた。昼間は薄手のシャツ1枚でも暑いくらいだったし(前回参照),島内を徒歩で歩くときもしばしば袖をまくったほどだったが,少し寒さに近い涼しさを覚える。こちとら徒歩のおかげか,来る前にもらってしまった風邪が大分ひいた感があるが,ここでぶり返してはどうしようもない。
時間は17時台を確実に刻む。なかなかフェリーがやってこないが,あるいは与路島か池地港で手間取っているのか。ま,この待ち時間のスキに「イケンマレンタカー」にまた電話をかけることにしよう。電波状況がさっきの池地港近くの郵便局と比べると,柱が1本だったり2本になったりと不安定だ。だからなのか“話し中”のようなコールの後で切れてしまう。2〜3度やってみたが,反応は同じだ。仕方がない。これはライベストイン奄美のフロントで聞いてみるか(前回参照)。
さあ,ずっと誰もいない待ってみるが,17時15分になっても入船してこない。港ではひたすら「一時停止」状態のように景色が停まっている感じだったが,やがて1台の小さい船が人を載せて出ていった。あるいは声をかけようかと思ったが,方角からして西の方向に行ったので,あるいは私とは別方向かもしれない。ま,彼らは彼ら,私は私である。
それにしても,遅れることは多々あるけど,いくら何でも……17時半になったあたりか。待合室にあった張り紙で電話番号を確かめて,ケータイから古仁屋のフェリーチケット売場にかけることにする。風が出てきているから,それが影響しているのか。その張り紙は土曜日の時刻表が私の書いた通りになっていた。私に落ち度はないはずだ。あるいは素人には分からない“事情”でもあったのか。
「すいません。こちら17時に港に着いて待っているの
ですが,まだ来ないんです。何かあったのですか?」
「え? 今日はもう出ちゃいましたよ」
「いやいや……こちらは17時5分に港にフェリーがや
ってくる前から港にいて,待ってるんです。それなの
に来ないもので,こうして聞いてるんです。何かあっ
たんですか?」
「いや,今日は定刻のはずだから……あとは,もしか
したら早めに出ちゃったかもしれません」
まさかとは思っていたが,張り紙には「天候などによって運航時間が変わる」とはあった。これが適用されたのか? うーん,これは明らかにそれとは違うはずでは?
「今日帰られないといけないんですよね?」
「ええ,そうです」
これには,宿を古仁屋のライベストイン奄美に取っていることもあるのだが,もう一つ,明日のフェリーの時刻表のことがある。明日は往路が10時に古仁屋港を出航。もちろん,この請島の二つの港にも寄港して,11時40分に与路島へ着く。復路は15時に与路島を出て,この島を通るのが16時台となり,古仁屋港に着くのが16時40分。これが明日の運航スケジュールなのである。
そうなると,古仁屋から奄美空港まではレンタカーで一応2時間は見ておきたいので,19時発の奄美空港発羽田行きの飛行機に万が一間に合わない危険性も,渋滞が起こったとかいうことになると,なくもないのである。明日与路島に行きたかったのを断念したと前回書いたが,これがその理由なのである。請島でも宿を探すとかいう以前に,明日のフェリーの時刻表が奄美空港行きのスケジュールに影響してくる点では共通なのだ。だから,今日中に古仁屋に戻らなくてはいけないのである。
「いやー,もう出て行ってしまいましたからね」……向こうで受け答えした女性の声は,笑いながらの対応ですらあった。自分たちの勝手で早く出て行ったくせに,しかも,こちらは正当な理由があるのにもかかわらず,何たる失礼!……とはいえ,キレるのを忘れるほどあっけらかんとこんな態度をされてしまっては,こちらもそのまま黙って電話を切らざるを得なくなってしまった。ある種,屈辱である。
すなわち,フェリーは早々と私を置いて出ていってしまったわけである。これがいま私が置かれた現実である。待合室や港に人がいなかったのも,これで理解できた。フェリーが出ていけば,人がいなくなるのは当然である。集落にさしかかったところで汽笛のような音が聞こえたということを先ほど書いたが,まさか…って,その「まさか」だったわけである。

こうなると,残りは周辺を走っている海上タクシーしか手段はない。実は,上述のように与路島に翌日フェリーで行こうとすると,帰りがギリギリで間に合わない危険性があるってことで,いろいろとネットで調べてところ,海上タクシーで加計呂麻島の於斉(おさい)という集落(「奄美の旅ファイナル」第2回参照)まで海上タクシーで4000円ほどで行き,そこから路線バスで…なんていう旅行記を見た。「なるほど,こういう移動の仕方もあるのね」と思った。はっきりとは忘れてしまったが,於斉に14時ごろに着くようにしてもらって,ここから瀬相ないしは生間(「奄美の旅ファイナル」第2回第3回参照)まで路線バスで行ってもらうというスケジュールをイメージしてみた。そうすれば,古仁屋港に戻る時間が早まるからということである。
そこで,この海上タクシーを取り仕切っている「古仁屋貸切船組合」というところに,価格のことで電話で尋ねたところ,「古仁屋がすべて起点となりますので,まずは古仁屋から与路島まで行くだけで1万4000円ほどかかりますし,プラス於斉までの運賃がどうなるかでしょうね」と言われてしまった。かといって,都内のように“流し”がいてくれる保証はない。人数がいれば頭割りも可能だが,何しろ1人である。はて,2万円近い額を出してまで行くべきところなのだろうか?……これが,与路島行きをあきらめる“決定打”となってしまったのである。
だから今回,海上タクシーを使うことはないかもしれないが,念のためというか,古仁屋貸切船組合の電話番号を偶然控えていたのだ。まさか,これがこんな場面で役に立つとは思いもしなかった。こういう準備は決して得意なほうではないが,たまには意識して心がけてやってみるものかもしれない。さもなくば古仁屋のチケット売場の女性に電話番号でも聞こうものならば,下手したら笑われたあげくに,「なんでうちに聞くの?」と三重のショックを浴びさせられるところだったかもしれない。早速,電話をかけたところ,初めは女性が出た。
「すいません。フェリーを待っていたんですが,行かれ
てしまって……今から請阿室に来てもらって,古仁屋
まで行ってほしいんですが,できますか?」
「はい,できますよ。ちょっとお待ちください」
なるほど,これで一安心。しかし,「ちょっとお待ちください」と言われて出てきたのは,いかにも“海の男”って感じのおじさんであった。「2度手間じゃねーか」なんて文句を言える余裕はない。同様のことを説明すると,
「ただ,1万1000円ほどかかるけどいいかな?」
と言われた。フェリーだと片道900円だから,10倍以上の金額になる。財布には「ある程度入ってはいた」ので大丈夫ではあったが,こうなると奄美レンタカーでクレジットに払いしといたのが,多少は財布の“負担感”を減らしたのは大きかった(第1回参照)。ま,いずれにしてもこの選択で「致し方ない」ところである。「いいですよ」と言うと,「じゃあ,40分ほどで行きますから」とのことだった。
港は日がすっかり落ちていた。そして微風ながら確実に吹いてくる風に,長袖の薄いシャツではすっかり寒くなってきた。さっき出ていった船に乗せてもらうべきだったのか――ガラーンとして時間がまた止まったような港で待っている間,いろいろなことが頭をよぎる。はたまた,先ほどの女性の笑い気味の対応に,どうにも怒りが沸沸と湧き上がってくる。翌日は加計呂麻島に行く予定だが,またその乗り場でチケットを買うことになる。
さて,行ったらばどんな態度を取ってやろうか。まず,自分が昨日フェリーに置いていかれた人間であることを説明する。あるいは応対した女性を出してもらおうか。「てめーふざけんな」といきなり行くか。いや,それじゃ脈略がなさすぎるし,30歳を過ぎたオトナが仮にもすることではない。まずは事情を説明してから「先に出て行ったのは100歩譲ってやるが,間違っていない客を笑うのはやめてくれ」と言うか,はたまた「あなた方が観光客を『大して金も落とさない』とバカにするのは勝手だが,何もそれを笑うことはないじゃないか」……ま,どれかをどっかで言うとして,そのタイミングは加計呂麻島行きのチケットを買った後にしようか――誰もいない孤独な港で,いろいろと思案なんてしてみる。少なくともこちらは十分に文句だけは言える資格があるはずだ。
一方では,時間を持て余したので,しつこく「イケンマレンタカー」に電話をする。一度,話し中のようなコールだったが,もう一度かけたときにはまたつながらじまいとなってしまった。まったく,こりゃ明日加計呂麻島に生間港にフェリーで上陸して,事務所自体は港から近いところにあるので,そのまま飛び込みで行ってしまおうか……いや,一度やっぱりライベストイン奄美で確認は必要だな。

ある程度,いろんなシミュレーションをして20分ほど経過した。そして,することもいよいよなくなって,港で結局はトータルで45分ほど待っただろうか。海原に黄色いランプがこちらに向かってきた。確実に向こうからは見えているはずだが,思わず大きく手を振りながら「おーい,ここだよー」と合図なんかしてしまう。南国奄美といえど,陽が落ちればいい加減寒くもなってくる港に,待ちに待った“助け舟”である。私がいた辺りに,そのまま舳先をくっつけてきた。
タイヤを横にしたものが舳先にくっついており,そこをステップにして中に乗り込むことにする。釣り船を改造したような小さい船で,後方に幌がついていた。名前は「南丸」といったか。中から男性が指を1本こちらに向けた。「あなた1人?」ということだろう。何度もこちらはうなづいてしまった。そう,この小さい離島にたった1人,何の悪いこともしていないのに取り残されてしまったのだ。
舳先に乗り込むと同時に,船体は逆方向へと転回し,早速出航と相成った。はて,どこに私はいるべきなのか――幌の中に見える男性が特に何を指示してくれるわけでもない。たしか,後ろのほうには座椅子のようなのものがあったと,どっかで記憶していた。「動いている間は危ないですから立ち上がったりしないでください」とかいうバスの注意書きを遵守するような感覚を,この場では求められることはあるまい。なので,縁を伝って後ろのほうに向かうと,3人掛けくらいの椅子が二つあって,さらには幌の中にも座椅子が見えた。何も外にいる必然性はないし,何よりも海上で風が出てくればいい加減寒いのにも耐えがたくなってくるだろうから,運ちゃんのそばまで入っていくことにする。
中で舵を取っていたのは,私と同世代の30代かあるいは私より若かったかもしれない,ちょっとずんぐりむっくりした男性だった。「大変でしたね」と開口一番。気を利かせてくれたのか,ハンドルの脇に置いてあったぽんかんを一つ,私に手渡してくれる。少しぬるかったけど,そんなことはどーでもいい。何よりもその“心遣い”がうれしいじゃないか。ごちそうになりながら,いろいろと話をすることになった。
まず,私が今までの経緯を説明したところ,「ハッハッハ,そりゃ最悪だったね」と笑い飛ばされてしまった。すると「そんな笑っている場合じゃねーよ」とキレるどころか,こちらもなぜか不思議とさっきまでの怒りが消えて,楽な気持ちになってしまうのが手に取るように分かった。「私の怒りなんて,所詮はこんなものだったのかな?」と,ふと不思議になったりもしたが,そういう“フラストレーション”というのか“不機嫌な気持ち”を吹き飛ばす「不思議な力」が,やっぱり南の島にはどこかあるような気がしてならない。そういえば一昨年11月,多良間島で島内の有償運送バスを請け負っているオジイに,帰りにバスで空港まで送ってもらうのをすっぽかされたときも(「石垣島と宮古島のあいだ」後編参照),空港に着いてしまったら不思議と怒りが消えてしまったのだ。
旅だけでなく,人生において何事にも「アクシデント」というものはつきものだ。それは自分の不注意だけでなく,今回のような“不可抗力”みたいなものが働いてしまうこともある。そういうときに必要なのは「笑い飛ばせる力」なんじゃないだろうか。もちろん,そういう目に遭ったときは凹んだりもするのだろうが,あるいは自分で笑えなければ,他人に一緒に笑ってもらうか……この場合,決して「笑われる」というのではなく,話題とそれに伴う感情を共有してもらった上で,一緒に笑い飛ばしてもらうのである。だからこそ,「笑う」という言葉の後にそれこそ「飛ばす」という“勢い”がついて,心の中から“いろんなもの”が発散できるのではなかろうか――上手く言えないが,そんなことをふと思った。
話題がそれた。「いやー,請阿室は豚の臭いがすごいね。これじゃ観光客が来ないよ」と男性。なるほど,やはり多分地元の(人間であろう)彼にも,この臭いは気になるところなのだろうか。人間には“慣れ”というものがあって,港にいるときはしまいには気にならなくなっていたのだが,離れていくと改めて肥料のような臭いに気がつくのが分かる。「自分は隣の与路島なんですよ」――あ,なるほど。やっぱり地元民なのか。「与路島でも前は養豚が行われてたんですけど,客を呼ぶために豚をいなくしたんですよ」と言っていた。「両親とばあさんは今も島に住んでる」という。ご本人がどちらにお住まいか聞かなかったが,多分古仁屋あたりに住んでいるのだろうか。左手の薬指を見た限りではリングがなかったので,もしかしたらアパートで1人暮らしでもしているのかもしれない。
なお,彼の経歴はというと,中学までは与路島で過ごし,高校はレスリングをやるために鹿児島市の高校へ進学。卒業してまた奄美に戻ってきたとのことだ。「鹿児島から北へは行ったことがないよー」とのこと。でも,海外には行ったことがあったりして……いや,聞かなかったので分からないが,たまにいるのだ。日本のあちこちに行ったことがないのに,外国には結構いろいろ行っているというのが……ま,話がそれたが,すなわち彼は上述の学区制の対象外になっていることを利用しての鹿児島行きだったのだ。自分のやりたいスポーツのために鹿児島市に渡ったのだろうが,それでも,彼はまた奄美に戻ってきた。事情は聞かなかったが,本土の“空気”があるいは合わなかったのか。
そのほか,@今日奄美にやってきて,1泊2日で奄美を訪れて明日帰京すること,A彼の出身である与路島に行く予定だったが,上述のような理由で断念したこと,B奄美には4度来ていること,C旅行に行ったことは,友人といろいろメールとかで交換し合っている(ホントはこうしてホームページに載せちゃうのだが,細かいことを言うのが面倒だったし,身構えられそうだったので,あえてこう言ったのである)……で,最後にこんな話が出た。「私,結構与路島にお客を乗せていくことあるんですよ。1人旅のお客さんって多いですよ。たしか,全国の郵便局を廻っているって人がいたな」――多分,記念に切手を買ったり,ハガキを出して消印を押したりしてもらうのだろう。
長いこと振動に揺られたり,エンジンの音がうるさかったりして,お互いに大声で話をしたせいか,どっかで身体がほぐれたような気がする。たしかに,1万1000円は安い額とは言えないし,本来ならば間違いなく“大損”しているのだ。あるいは,多少は“まけてもらえるもの”だったのかもしれないが,にもかかわらず,マスターカードのCMじゃないが,「離島に置いていかれて,海上タクシーで帰る羽目になった体験,Priceless」……ふと,そんなフレーズが思い浮かんでニヤついてしまった。私も上記Cのことを話した後で思わず言ってしまった。「ま,こういう体験も“ネタ”になるんですよ」と――19時,予定より1時間遅れで,古仁屋港に到着。辺りはすっかり真っ暗になっていた。しっかりと1万1000円“満額”を払ったが,どこか心地いい気分で“助け舟”を降りたのであった。(第4回につづく)

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