奄美の旅アゲイン
@犬とオジイ
11時38分,古仁屋の市街地に入ると国道58号線は終了する(ただし,この島で終了するだけであって,次は沖縄本島の最北端・奥集落からリスタートし,那覇市でホントに終了する→「奄美の旅」第4回参照)。島の南端を東西に走る県道を越えると,その先は港湾施設などがある大雑把な道。やがて道なりに直角に右折し,橋を渡って直進していくと突き当たりがフェリー乗り場のようだ。しかし,この間に時計は11時40分を刻んでしまう。あとは,ヘンな乗り遅れや荷物の積み忘れに期待するしかない。
そして,乗り場の周囲にある駐車場はというと,20m四方くらいの港の脇っちょスペースに,きっちり線とかで仕切られているというよりも,アバウトに車が数十台びっしり並んでいる感じだ。そして残念ながら,私のデミオが入れそうな余裕なスペースはなかった。
右側にはチケットを売っているらしき平屋の白い建物があるし,看板には「遊覧船」の文字も見えている。こういうアバウトさは,失礼ながら“町レベル”の港だからだろう。それでも地元の人間――何より加計呂麻島の住民――にとっては,必要不可欠なはず。観光客的発想でいくと,もうちょっと整備されてもいいと思うのだが,「必要不可欠」が至上にある限りは,当分こんな感じのままだろうか。
結局,すでに停まっている車と車の間の,いわば“通路”をくぐりぬけようとしたとき,無情にも赤と白のツートンカラーのフェリーは港を数十m離れ出したときであった――まあ,ここまでは大概予想できたことである。間に合おうと思ったこと自体が,そもそも無謀だったのだ。予定通りに14時発のフェリーに乗ればいい。ただそれだけのことである。とはいえ,港に近くて停められる場所というのは,やはりこの場所しかないのだろう。
ということで,一度駐車スペースを離れて一回りしてから戻ってくる。心なしか,チケットを売っている建物の前で,従業員らしきおじさんと目があった気もするが,「何か,ウロウロしてるな」とでも思ったのだろうか。はたまた“いつもの思い過ごし”だろうか。再び“通路”をくぐりぬけていると,ちょうど右側に車1台くらい,まさにこのデミオクラスなら入れそうなスペースがある。しかし,通路の左右ともに車が当然いるわけで,この通路自体も車1台が通りぬけられる程度の幅しかない。かといって,他に入れそうなスペースを探すのも神経がくたびれそうだ。
……ふと,このスペースを見て,奄美セントラルホテルでの悪夢がよみがえってくる(「奄美の旅」第2回参照)。自慢じゃないが,運転距離はかれこれ1年以上で結構多くなったが,テクニックは向上なんてこれっぽっちもしていない。いまだにバックで車庫入れもマトモにできない。ま,この状況でバックなんて“愚の骨頂”以外の何物でもないのであるが,前進でもこのままギリギリでねじこもうものなら,待っているのは運転席のドアに凹みだろうか。はたまた,八丈島に行ったときにできたような細長いキズ(「八丈島の旅」後編参照)か。そして,再び2万円を献上することになるのか。
……結局,私はこの状況で駐車スペースのどこにも車を入れることができなかった。何だか前回旅行でトラウマみたいになっているような気もするし,あるいは都合のいい考え方で「冷静な判断をした」ということにもなるのか。まあ,しばらく経ってまた来てみたら,もっと空いているということだってあり得るわけだ。時間は12時前だから,あと1時間半は少なくとも“猶予”があるのだ。再び駐車スペースから離れることにしよう。

そうとなれば,次の目的はこの古仁屋で昼飯の場所を探すことである。中心部は3〜4階建ての建物が多いが,これといった特徴はないものばかりだ。ホテル・民宿は看板がちゃんとあって,それなり散見されるが,食堂については,探そうにも「ここは食堂だぞ!」という主張があまりないから,なかなか見当たらない。でもって,あったとしても,飲み屋なので夜からしかやらないとか,やっていても駐車場がないという状況。この街も例外なく,道が広くない割に路駐している車が多くて往来がしづらいのだが,私がその原因となるわけにもいかない。我ながら気がよすぎるのか。
要するに「典型的な田舎町の光景」なのである。たまに川沿いに狭っ苦しい道があるのは,古くからのものだろう。それでもコンクリートで固められてしまっているから,無機質な限りである。たしか,ちょっと東寄りには団地みたいのがあったはず(「奄美の旅」第2回参照)だが,それらも含めて,なまじ建物が新しかったり,建築方式が現在風だったりもするから,余計に無機質になるのだろう。
……話を戻そう。昼飯である。実は「瀬戸内町」「食堂」などでヤフー検索をしていたところ,名前は忘れてしまったが,平屋建ての「いまどきこんなオンボロのままか?」という趣の食堂を見つけた。特別に美味そうな料理などなく,チャーハンとかラーメンとかごくごく平凡なメニューしかなかったはず。それでも,その店のコメントは「なかなか美味い」というから,その店も含めて――というか,名前を忘れているから含めようがないか――こじんまりとした店や,オンボロそうな店でもいいと思ったのだが,結局どこもダメ。最後に,国道から西に数本ズレた道に入り込んで,何度目かの,島の南端を東西に走る県道との交差点の角,右に曲がったあたりに,これまた名前を忘れたがコンビニがあった。見れば「弁当」という文字もある。路駐できそうなスペースもありそうだ。いま現在は信号待ちの状態だが,青に変わったら寄ってみようか。
しかし,無情にも信号待ちの間に,そのスペースには別の軽自動車が入り込んでしまった。その先とかも別に停めたって罪にはならないだろうが,もはや走り疲れて,メシのこともどうでもよくなってしまった。ただ,まだ時間は12時前だし,どこかを見てから再び戻ってこよう――結局,この右折の後,しばらくまっすぐに,すなわち島の南端を西に向かって走ることにする。途中でテキトーに折り返してくればいいのだ。そのくらいのゆとりがあったっていいはずである。
この道は私にとっては未踏の道である。前回旅行のときは,名瀬から南西に県道を下って行き,マテリアの滝を見た後,山の中を走って宇検(うけん)村の中心である湯湾(ゆわん)集落に出た。ここからしばらく海岸を右に見ながら南下。やがて,名柄(ながら)という集落から久慈(くじ)という集落に抜けて,いま走っているこの道に通り抜けようとしたのだが,途中で道を間違えて,結果的には山の中を再びさまよったあげく,住用村の国道58号線に抜けることになったのだ(「奄美の旅」第3回参照)。よって,名柄と久慈の途中から,この古仁屋までが未踏ということになる。道に“乗りつぶし”があるのかどうか分からないが,こういう踏破もまた旅の醍醐味である。

道ははじめ,海岸線を左に見ながら走る。港のような護岸も見られる。一方の右は,崖がひたすら続いていく。交通量は俄然少ない。そして,それに比例して建物も少なくなる。当然だが,メシらしきものを売っている気配すらない。ちょっと期待してはいたのだが,あっさりと裏切られた。
やがて数分もすれば,車1台がギリギリ通れる程度くらいになり,カーブも起伏も当然出てくる。持っているガイドブックを見てみたら,複雑な海岸線をキレイに“なめる”ようなルートである。アップすれば,それまで水平に見えていた海岸線も,眼下に見える形となる。でもって,山道の中で偶然ヤギの親子らしき3頭に出くわした。でも,相手は別段驚くような素振りがなかった。慣れているのだろうか。そして,再び山道を下って入江になった地形の中に,思い出したかのようにこじんまりとした集落に出くわしもするが,基本は住居のみしか見当たらない。あと,なぜかあるENEOSの看板と給油スタンド。ガソリンや軽油を入れるのだろうか。ただし,売店らしきものは一切ない。
そうこうしているうちに,古仁屋に引き返すタイミングを逸してしまった。折り返すにはそれなりの転回スペースが必要なわけで,かといって道が狭くてそれができないことが多いのだ。時間は12時台とはいえ,止まってくれるものではない。確実に過ぎた時間は戻って来ないし,ギアをドライブないしセカンドに入れている限りは,古仁屋港からの距離もこれまた確実に開いてくるのである――余談だが,前回旅行のときは古仁屋と加計呂麻島との間に橋をかけようという看板を見た(「奄美の旅」第2回参照)。また,徳之島では1〜2回,加計呂麻島との間にフェリーを通そうという看板も見た。いずれも,いまの私にとっては,どうして実現してくれないのだろうかと,ちょっぴり恨めしさを感じるのだが,それもこれも駐車場に入れなかった無念さからだろうか。
もうこうなったら,古仁屋に戻るのも,もちろん加計呂麻島に行くこともどーでもよくなってきた。何だか,すべてがどーでもよくなって,あの狭っ苦しい――いや,もしかしたら時間の経過で多少広がっているかもしれない――駐車スペースに神経をすり減らすことをあきらめてしまった。「トラウマの克服」という意味では,今回それは達成されなかった。
でも,それと同時にちょっぴり気が楽にもなった。このまま道なりに進んで行けば,名瀬に通じているのだ。ズバリ,道はこの1本のみ。単純でいいではないか。それに,島の西岸の地形をなめるように進んで行くこのルートは,いま走っている箇所も含めて,ところどころ未踏の部分がある。それをキレイに制覇して,ちょっと余裕があるレンタカーの返却…と行こうではないか。
そんなこんなで約30分ほど走っただろうか。「←西古見18km ↑名柄6km」という青い看板が目に入った。ここが久慈集落である。古仁屋からのバスはたしかここが終点である。ここまでで,もしかしたら途中1〜2回方向指示の看板は見たかもしれないが,記憶にある看板はここくらいだろう。左の「西古見(にしこみ)」というのは,大島の南西に半島のように伸びている陸地の端っこにある集落だ。その手前には「管鈍(くだどん)」という集落もある。多分,観光バスとかは間違っても入り込まない地域だろう。
地図じゃないから距離感なんて分からないが,端っこまで18kmもあるというのは驚きだ。貴重な道であるのだろうが,おそらく道幅はいままで走ってきたのと同じようなものだろう。となれば,結構な時間をかけて行くことになるだろうが,時間はまだ12時台だ。もはや昼飯は期待できないし,大島海峡のグラスボートや加計呂麻島内と比べても,見るべきものがあるか保証はない――今回の旅は,半分このホームページのための旅行になっているとはっきり自覚できるのだが,その旅行記を書くためのネタが生まれるかどうかも分からない。いっそ,徳之島だけでまとめてしまおうか。タイトルは「とりあえず徳之島に行ってきました」……か。
でも,こういうハプニングだかグズクズさだか分からないのも,また旅である。実にマニアックなルートに違いない。何が“私らしさ”か分からないが,何だか私らしい気がする。時間もたっぷりある。ここは左折して,半島地形の突端まで行くことにしよう。

@犬とオジイ
ちっぽけな郵便局を右に見ながら,これまた狭っ苦しく海岸沿いにかたまった家々の間を下る。この狭さを命名するならば“間に合っている的狭さ”である。そのココロは「別に広くするメリットもないから,このままでいーじゃん」といったところだ。かと思えば,しばらくすると突然に広くなったりする。この“無意味な変化”がこれまた地方の道路の面白さだ。左には海岸線が見え隠れする。
そして,予想通りのアップダウン&カーブが始まった。舗装状態もところどころ悪くなっている。崖崩れ防止の工事をやっているところもある。利便さを考慮してだろう,トンネル工事が行われている箇所もある。そして,これらの光景もまた実に無機質だ。日本全国の田舎という田舎で見られる光景の一つだ。とても無機質なので,例えばこの道路のどこかで写真を撮って,「さて問題。ここはどこでしょう?」という“ボケ”だって成立し得るだろう。
数分走って「花天(けてん)」という名前の集落で車を停める。食い物はもはや期待していないし,朝の“貯え”の持ちがよかったのもあるが,飲み物だけは摂らないと脱水症状になってしまう。腹だって少しは減ってきている。そこにタイミングよく,たまたま自販機があったから停まったのだ。
買ったのは,190ml入りの缶のつぶつぶオレンジジュース。名前を残念ながら忘れてしまったが,値段は120円だと思う。ここまでの輸送料を考えれば良心的な気もするが,ふと賞味期限が気になってしまった。でも,来年の4月までになっているから,心配はいらない。カロリー自体は全部飲み干しても90kcalというから,ほんの虫覚まし程度だろう。それでもいまの私には,それがどこぞのマイナーなメーカーであろうが,果汁がほとんど入っていなかろうが,柑橘系の味がまさに「砂漠にオアシス」たり得ている。そして,つぶつぶパルプのプチップチッと弾ける感触もたまらない。
つぶつぶオレンジジュースで活力をやや戻して車を進める。そして,数分で着いたのは管鈍集落である。時間は13時ちょい前。入江地形で昔ながらのジャリ敷きの海岸線には,これまた昔ながらの古ぼけたコンクリートの堤防。小船くらいは繋留できるだろう。釣りをしている人も数人見かける。そして,道をはさんでこじんまりした集落と,シンボルマークのように学校の建物がある。ここには興味があるので,集落のやや端っこにある,茶色い屋根に白い平屋建てのキレイな公民館の駐車場――といっても単なるジャリのスペース――に車を入れる。ホントは駐車しちゃいけないのだろうが,誰も見ちゃいないだろうし,そもそも公民館の中には人影がまったくない。近くに簡易トイレがあり,工事用の道具が置かれているが,何かさらに手を加えようというのか。はたまた置きっぱなしで業者に逃げられてしまったのか。
ちなみに,この建物の名前は「瀬戸内町中央公民館分館」。普通に「管鈍集会所」としないのは,それなりに重要な役割を果たす建物ということか。そばにある落成記念碑には平成15年3月という記述があるから,まだできて1年しか経っていない建物である。ニーズがあるからこその新築なのだろう。さらに集落の中を見渡すが,人影らしきものが見当たらない。日曜の午後という時間帯も多分にあるのだろうか。
この「管鈍」という地名は,昨年旅行で訪れた名瀬市の「奄美博物館」の敷地にある萱葺き屋根の古民家が,管鈍の眞島家という家にあったのを移築,一部アレンジしたものであるということで聞いていた(「奄美の旅」第3回参照)。なるほど,今では萱葺き屋根などはなく,屋根はどれも特徴がない。石垣が少し琉球石灰岩っぽい気もするが,概ね「普通の田舎」って感じだ。それでも,幹線道路からかなり外れた場所に位置するから,80年代前半あたりまでは「時代に取り残されたような光景」があちこちで見られたかもしれない。それがいいかどうかは別として,日本のある意味“原風景”とも言えるものがあったのではなかろうか。

海岸に出てみる。外は陽が少しずつさしだしている。空気は寒さこそないが,ヒンヤリといったところ。東京の気温がぐっと上がっている分,南国の暖かさみたいなのは感じない。海岸は典型的な遠浅の海で,入江なので波は穏やかである。触ってみるが冷たい。下は先ほどジャリと書いたが,基本は岩場っぽくて,ところどころ白いものが混じっている。多分,サンゴに間違いなかろう。沖縄のような遠浅を「美しい」と表現するのなら,ここの海は「素朴」と言ったほうが適当だろう。それくらい,何もない海である。
少し来た道を戻って学校の建物に着く。管鈍小・中学校である。左にある2階建てのコンクリートの建物は,屋根がアーチ型。正面奥と右側にはそれぞれ平屋のやはりコンクリの建物。正面のは職員室とかがあるメイン棟のようで,右側のは音楽室・理科室などの教室がある。そして,正門の右下に茶色いシーサーの置物がある。奄美にもシーサーなんてあるものなのだ。さらには,正門と正面奥の建物の間は,ちょっとした庭みたいになっていて,中央には創立100年の碑と「山村留学の学校」の文字。この管鈍小・中学校に限らず,鹿児島県の多いところで「山村留学制度」なるものが行われていて,先にいた徳之島の北部,ムシロ瀬(第2回参照)がある手々(てて)という集落の小・中学校にもある。各地域の風土・教育条件を子どもの教育に生かすというのが趣旨のようだ。
管鈍のケースは,6年前に生徒数がわずか3人のとき,いずれゼロになり廃校に追い込まれそうになったため,募集が始まったという。ちなみに,管鈍小・中学校にはホームページがあるが,その中にある「制度実施要領」にも,学校の存続という文字がはっきり書かれている。もともと半農半漁の集落で,水田がありカツオ漁が盛んだったこともあり,最盛期は200人も生徒がいた。そんな人数がかつていたほどの広さにはとても見えないが,それがだんだん減少して,わずか3人になったときも,うち2人は赴任してきた校長と教頭の子どもだったようだ。ということは地元っ子は1人。校長も教頭も,公立である以上当然再異動はあるから(第3回参照),いかに危機的状況だったかが分かる。現在は五つの県から10人ほどが留学しているようだ。
さて,この小・中学校の制度内容を簡単に紹介しよう。まず形態は,@地元の他人様の家庭にホームステイをする,いわゆる「里親・里子」の形態,A地元のじーさん・ばーさんの家へ,学区外にいる実孫を呼び寄せて住まわせる形態,B一家まるごと移住してくる形態,の三つがあるようだ。@Aについては,当事者同士の合意が基本とはいえ,1年以上が原則というから,本格的なホームステイになるわけだ。里親の下に住民登録もさせるという。
さらには実親から4万円・瀬戸内町から3万円の計7万円が,毎月食費・居住費の「委託料」として里親に支払われ,衣料品・小遣い・教材費・医療費・給食費など,都度の諸費用も当然だが実親の負担となる。よって,およそ月6〜7万円くらいはかかるのではないか。ホームステイも仕送りも経験がないのでよく分からないが,義務教育の子どもに払う額として決して安くはないだろう。
ただし里親も「金が入る」という以外の部分で,責任を持って里子の面倒を見なくてはならないことは言うまでもなかろう。風邪をひいて注射でもしてもらわなきゃならないときは,それこそはるばる瀬戸内町の病院まで車に乗せて行かなくてはならない。その集落に閉じ込めておくわけにもいかないだろうから,たまにはどこかに遊びに連れて行かなくてはならない。で,そのときにかかるお金が,必ずしも委託料+αで賄えるものとは限らないから,少しは里親が身銭を切ることもあろう。
里親・里子ともにそれなりの“覚悟”を持って臨まなくてはならないわけだが,異なる環境を小さいうちに体験すること自体はいいことだと思う。特に,現代の子どもは自然に触れる機会が少ないと言われているから,こういう自然環境下はなおさら効果的だろう。しかし,迎える大人自体もまた,自然に触れる機会が少ない人間が多くなりつつある……いや,それ以前に迎える大人そのものが少なくなりつつあるに違いない。ホントの理想は,里子が大人になって再び“第2の故郷”に戻ってくれて次代の里親になり,新たな里子を迎える。そしてその里子が次々代の里親になって…というサイクルだろう。しかし,遠かれ早かれいずれどこかで途切れてしまうのは,悲観的に見てしまえばもはや「火を見るより明らか」なのではないか。そうならないことは願いたいが。

管鈍よりさらに西進し,次に入ったのは…といっても,またアップダウンを何度か繰り返すのだが,西古見集落である。ここが地図で見ると,緑色の太線になっている県道の終点。一応18km走ってきたのだろうが,何とも長かった。ここでは琉球石灰岩の石垣がお出迎えである。管鈍よりさらに“都市部”から遠い分,より昔ながらの光景が残っているのだろう。
でも,よく見てみると石垣は,本場(?)の沖縄よりも平べったい感じだ。例えれば牡蠣の殻みたいな感じ。でもって,平積みのところもあれば,隙間を埋めるためか斜めもタテもありみたいに積んであるものもある。その雑然さがシュールな感じも受ける。それでいて家と家が接する路地(通路?)側は普通のプロック塀。この差は何とも意図的に思えるが,ただ単に“経費の問題”か。小さい海岸の堤防に何か落書きが書かれていたが,内容は忘れてしまった。
ここから先も道はありそうだ。曽津高崎(そっこうざき)というこの半島地形の突端を目指すべく,ひたすらアップのみをしていく。ガイドブックでは半島をぐるっと1周はできなさそうだが,うろ覚えでどこかで見た地図では1周できそうな“雰囲気”だった。また20km近く戻っていくのはいかにもムダであるし,次は山の反対側にあるどんづまりの集落にも行ってみたいから,なおさらである。
5分ほどして「曽津高崎入口」という看板。ただ,どうも工事関係の看板みたいだ。見ればかなりの勾配があって,かつジャリ道だ。いままで走っているところは,狭いとはいえ曲がりなりにも舗装されているが,このデミオは別に4WDではない。あくまで伊東美咲あたりが軽やかに都会を乗りこなす類いの車だ。あるいは徒歩で行ける距離ならばと思い,車から降りて少し歩くが先は長そうだ。ここは致し方なくあきらめて,舗装道路の先を進むことにする。後で調べたら,やはりこの先がどうも曽津高崎っぽいし,まさしく半島地形の突端っぽいが,下手にデミオを傷つけて“金品献上”となるのはゴメンである。道自体もそんなに保証はできまい。
すると,それから5分でT字路となった。まっすぐはジャリ道の狭い上り坂が続く。右はいままでと似たような舗装道路。角には「林道2号線」とあるが,右に行くのが道なりなのか。上記のこともあるから本能的にジャリ道は危険と察して右折するが,なになに右折した道も石がゴロゴロ路上に落ちているではないか。いい解釈をすれば「より自然に近い」のだが,要するに「手が付けられない」のだ。こんな林道に誰も踏み入れないだろうから,ということだろう。落ちている石の中には直径十数cm大のものも何個もある。はっきり言って,立派な「土砂崩れ」である。下手にそれらに乗っかれば車が傷つくから,丁寧によけながら進む羽目になる。まったく,こんなものが降りかかれば,車が凹むだけならまだしも,ダイレクトに人に当たれば生命まで落としかねない。だから神経も使うし,少なからず恐怖心も出てくる。時間は13時台だが,少し鬱蒼としていて心なし薄暗い。あるいはこの先もジャリ道だろうか。
――そして数分,予感的中。これ以上はどうにも走る気が失せた。やむなくいままでの二十数kmをリピートしていくことになった。後でこれはMAPIONで調べたのだが,T字路をまっすぐ行くと私が行きたい“どんづまり”の場所,岩がゴロゴロ落ちているこの道の先も,その近くまで行けたようだ。どちらも黄色ないし白い道がウネウネと続いていて“点線”にはなっていないが,逆にこれを鵜のみにして「なんだ,1周行けるんじゃん」とそのまま進んでいようものなら,どうなっていたのだろうか。いずれにしても再び“金品献上”になっていたのではなかろうか。

その山の向こうにある“どんづまり”の場所,屋鈍(やどん)という集落に着いたのは15時前。こちらは宇検村になる。いままで来た道二十数kmをひたすら30分近くかけて戻る途中,道端に大きな塀があり,向こうに廃屋みたいなのがあったので寄ってみたら,捨て犬収容だろうか,檻みたいな中に犬が数匹いて一斉に吠えられまくったりもした。起点の久慈に戻ってからも相変わらずの山道を通って,半島地形の一番狭い“付け根”を横断。途中で,前回の旅で間違って住用方面に方向を誤った林道の交差点(「奄美の旅」第3回参照)を通過して,名柄集落に14時半過ぎ到着。結構,西古見集落まで行って疲れたので,このまままっすぐ名瀬まで行ってしまおうかと思ったが,ここまで来て屋鈍に行かないのももったいないと思い,西古見行きほどの距離かつハードさではないが13kmを走って到着したのだ。こっち側のどんづまりの先にはジャリ道があったが,それが上述の曽津高崎からの道と何やかやでもつながっているというわけだ。
で,屋鈍に何があるかと言われれば,何もない場所だ。周囲に高い山がそびえた入江地形。なぜか赤いテントっぽい屋根の下に,相撲の土俵らしきものがあった。ちなみに,ここに来る途中にマイクロの路線バスとすれ違ったが,こっちは西古見行きと比べて平坦だし,危険そうなところが少ないから走れるのだろう。終点のバス停で確認したら,14時50分に“最終便”が出たところだった。バス便は8時50分発,11時10分発とこの3便。行き先は湯湾で,そこからさらに名瀬までバスが連絡するようになっている。あるかどうかは分からないが,男女の片一方がこの地に住む遠距離恋愛は,15時前で早くも別れのときを迎えなくてはならない。「空港まで一緒に…」といっても帰ってこられない……って,そもそもバスなんか使わないか。
屋鈍に着くまでにも,阿室(あむろ)・平田(ひらた)という集落を通る。むしろ,こちらのほうが戸数が多いだろう。車を割とすっ飛ばせたので,この2ヵ所ではいずれも「あ,ここが屋鈍か。早いな」と思ってしまったが,そんなに13kmは簡単に走れていなかった。こっちの海岸線は焼内(やけうち)湾といって,基本は岩場なのだが,途中の「タエン浜」という明らかな人工ビーチのところのみ,ちょうど青空が広がっていたこともあり白砂が映えていた。でも,それは逆に不自然さすら感じてしまった。立派なシャワー・トイレ施設も,十数台入れるコンクリートの駐車場もある本格的な施設のようだが,結構奥まっているとはいえ,夏場はそれなりに混むのだろうか。いずれにせよ,より海岸線に近いし,海をみている時間も長いので,ドライブ好きには持ってこいだろう。

(1)犬と重千代
さて,車は名柄まで戻ったらあとはひたすら名瀬市,さらには空港を目指すのみ。焼内湾を左に見ながら,広い場所では80km/hくらいは出しただろうか。たまにカーブを少し大きく回りすぎたからか,“キーッ”とタイヤが擦れる音が出て自嘲もするが,天気がこの期に及んで快晴になり,でもって見るべきところは見ちゃったものだから,強いて言えば「“1周道路”の未踏部分を塗りつぶす」のみである。再び“すっ飛ばしドライブタイム”だ。
名瀬までは50kmくらいあっただろうか。単純に80km/hで行けば1時間もかからないはずだが,途中やはり山道やカーブもあるから,そうは行かない。もちろん,西古見や曽津高崎方面に行くときに比べれば“天国”ではあるが,やっぱり人間の少ないところでは「間に合う程度でよい」ということだろう。さらには湯湾などで,数回「→名瀬」という看板を見たが,それらは間違いなく山の中をウネウネしていく道。それでもガイドブックを見てみれば,結構な近道なのだ。私が進む道はなんだかんだで遠回りなのであるが,それでも海岸線は単純にキレイだし,通っていない道はやはり通っておきたい。それが“旅人の本能”というものだ(どこがだ)。ちなみに,前回旅行で見損ねた群倉(ばれくら)という高床式倉庫のまとまり(「奄美の旅」第3回第4回参照)の前も通るのだが……やっぱり今回もチラ見で通過した。
で,名瀬市内は17時少し前に入った。やはり…というか,ちょっとは車が多くなったが,致命的な渋滞というわけではなく,無事本茶トンネルも通過した。しかし,このまま空港に直行では,17時半くらいに着くから余裕があっていいのだが,いかんせんもったいない気がする。せっかくだから,ホントは寄る予定のなかった“あの店”に寄ってみたい。
で,結局その店に入ったのは17時15分。ほぼ予定通りだ。その店とは何のことはない,「ひさ倉」である。古仁屋から西進していたときから実は考えていたのだが,それで昼飯を上記つぶつぶオレンジジュースで我慢できたというのもある。目標があれば,人間はある程度の苦痛は耐えられるものである。で,加計呂麻島行きやグラスボートを断念した分を,ここで補填しようというわけだ。ホントに補填できたかどうかは分からないが。
夕飯時に少し早いとはいえ,ここで中が混んでいたらどうしようかと思ったが,中は数組しか客がおらず,すでにテーブルの上には空になりつつある器が乗っかっている。前回と違って店内はとても静かで,時間帯もあるのだろうか,心なしか薄暗い感じもした。
早速注文したのは,今回も鶏飯と鶏刺しである。他に焼鳥の盛り合わせや豚足もあるようだが,ここのスタンダードは前の二つと勝手に私は思い込んでいるので,他のはあえて頼まなかった…けど,ホンのわずか後悔したかもしれない。ちなみに,注文を取りに来たおばちゃん従業員は,前回の旅で私が白飯に鶏刺しで食っていたときに「鶏飯の食べ方,分かりますか?」と声をかけてくれた人だ(「奄美の旅」第1回参照)。メガネをかけて動作がゆったり加減の,60代半ばくらいのごく素朴な感じの女性だ。間違いない。
2品の内容は「奄美の旅」第1回を参照いただくとして,今回は白飯をうまくよそい分け,前回とは違って生卵単独で「卵かけごはん」もできた。別個に鶏刺しで1杯分よそったりもした関係で,鉄鍋にはスープが多く残ってしまった。……で,たまたまこの旅の直前に,テレ朝で毎週土曜の午前中にやっている五木寛之氏の「古寺巡礼」というのを見ていた。そこで寺での朝飯風景が映ったのだが,最後に茶碗についたごはんつぶをなくすために,「椀を洗う」ということでお茶を茶碗に注いでキレイに飲み干していたのだ。……で,なぜこんな話を出したのかというと,それに倣って残ったスープをご飯茶碗に入れてキレイに飲み干したということを言いたかっただけだ。しかも,座敷でウダウダしていて少し前に出ていった若い女性3人組が,件のおばちゃん従業員に「ご飯,残しちゃってごめんなさい」って言っていたのだ。このタワケが! まったく,私みたいにきっちり食いやがれと思ったりもしていたのだ(って,ただ単にいじましいだけか)。

西郷レンタカーには18時到着。そのままデミオで空港まで送ってもらう。運転してくれた女性は,もしかして前回旅行で私から2万円を巻き取ったヤツだろうか(「奄美の旅」第5回参照)。彼女が「今回はお仕事ですか?」と聞いてきたので,「いや,旅行です」とだけ答えてあっさりしたものにしようかと思ったが,無事戻ってこられたのが嬉しかったからか,「実は去年のいまごろに奄美に来て,そのときも西郷さんにお世話になってるんですよー」って言ってしまった。彼女は「あ,そーなんですかー」と0.8オクターブくらい高い声で明るく答えたが,さすがにその場では,ノン・オペレーションチャージで2万円を巻き取られた話まではしなかった。後で機会があって,彼女がもしそのことに気ついたら……って,1年も前だからそんなことはないか。
――帰京後。とある女性と立ち話になり,今回の旅で鶏飯と鶏刺しを食べた話になった。そのときの一言。「あ,でも鶏刺しって……鳥インフルエンザ,大丈夫なの?」(「奄美の旅アゲイン」おわり)

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