沖縄・遺産をめぐる旅(全4回)

C南大東島その他
さて,今回旅行「最大のミッション」を終え,しばらくは中心部をウロウロする。さっき寄った伊佐商店も含め,この辺りは在所(ざいしょ)という地区。何とも田舎の村らしく,これ以上時代に流されようがないほど寂れた感じの“繁華街”だ。伊佐商店の前には「ホテルよしざと」という宿泊施設があるが,ホテルというには建物が国民宿舎チック。それでも,これがこの島で最高ランクに当たるのだろう。前回紹介したかの“超有名人”も,ここに泊まったようだ。そして,狭い路地の割に車は多いので,すれ違うのにはちょっと苦労する。
そうこうしていると,村役場に出る。3階建てのキレイな建物。ここだけが都会に遜色ない建物と言ってもいい。多分,最近建ったものだろう。その目と鼻の先には,空家となった2階建ての白茶けて朽ちた建物がある。これが旧役場である。「いくら何でもこんなところにいられるか!」と村長がキレたのかどうかは分からないが,何か他に使える目的も見い出してもらえないまま放置されている感じだ。
その隣に,JAのスーパーがあるので寄ってみる。コンビニみたいな白い建物。どこかは忘れたが,ホームページをいくつか見ていたら,何件かの売店で大東寿司が売られているという情報があった。もしかして……そんな甘い期待を抱いて中に入ったが,弁当売場には,何の変哲もない弁当しかない。寿司らしいものはおいなりさんだけ。やっぱり,鰆が取れなかったということだろう。
その代わりと言うにはあまりに変だが,精肉売場で売られていたパック入りの豚足,内臓(ナカミ)のぶつ切りのインパクトは,相変わらずだ。東京のスーパーで牛・豚・鶏肉の部位がそのままで売られているものというと,鶏の手羽先くらいしかないだろう。あるいは豚足も,もしかしたらあるかもしれないが,あまり頻繁には見ないと思う。肉自体も細切れ・薄切りになっておらず,ぶつ切りになっているのが結構多かった。もちろん,メジャーな3枚肉も置かれている。後は「冷凍オクラ」なんて冷凍食品も珍しかろう。店内をウロウロして結局,表の自販機で水を買ったのみだった。何をしに店に入ったか,これでは分かりやしない。
さて,次はこの近くの総合センターなるものを見るのだが,それはまとめて別項で後述したいので,その他見てきたものをつらつらと書いてみる。

まず,その総合センターなるものを見た後,南部の亀池港に行くことに。前回書いたようにフェリーが着いているとのことで,荷上げの様子を見てみたいと思ったのだが,港の入口で「立入禁止」の文字。どうも,荷上げ中は自家用車(レンタカーも含まれるだろう)は立入禁止みたいであるが,プラス工事中というのもあるのか。ま,入っていったところで罰せられることもないだろうが,退散する。
その次に行ったのは,日の丸山展望台。この辺りの南地区の青年団がここを集団活動の拠点とし,日の丸旗を掲げて1日の活動の合図としたところから名づけられたという。標高57mでここがこの島の最高峰のよう。ノッポなビロウの樹に囲まれ,ピンク色に塗られたコンクリの円形展望台を上がると島を一望できる。実際は,島の周囲(海岸)のほうが高くて中心に行くほど低いという地形だが,見た感じはフラットであるように見える。でも海岸は見えないので,その地形の言う通りなのだろう。色は上空で見たのと同様に,青・緑・茶の3色の貼り絵。日の丸旗を掲げたというのはいかにも本土(厳密は八丈島だが)の移住民の島らしい。これが琉球の地元民だったら,果たして日の丸旗を掲げただろうか。
次は,東部の海軍棒(かいぐんぼう)。ものすごい急な坂を下ると,石でせき止められた天然の海水プール。大きさは25m×20mほど。周囲は当然海であり,2〜3日前の台風の余波なのか高波が打ち寄せているが,その囲いの中だけはまったく穏やかだ。中ではTシャツを着た親子連れが数人泳いでいる。Tシャツなんて,海水でまとわりついて邪魔臭い限りだが,那覇空港でもらった「沖縄ポケットナビ」というパンフによれば,Tシャツやスパッツが,ハブクラゲなど海中動物対策に効果的と書いてあるから,彼らも多分そうなのだろう。もっとも,モロに肌を露出するには太陽の光が強すぎるなんてこともあるのだろうが。
東部および南東部は,まだまだ開拓のしようがあるくらいに何もない。国指定の海岸植物群落があるから,それらを保存する手前,手を加えられない。また,土壌も岩場が多いので手をつけにくいということもあるのかもしれない。しかし,地図を見ればこの島には川がまったくと言っていいほどない。あるのは島の中心部に集中する数々の池のみ。そして貯水タンクも中心部のあちこちに見られる。“砂漠のオアシス”ではないが,「水のある所人の姿あり」で,対してそれらがない東部・南東部には人が住まない(住みにくい)ということか。すっかり朽ち果てて自然に帰ろうとしているトラック,金属の塊が無造作に放置されているのみだ。あるいは,かつてそこに住んでいた人が去っていった結果なのか。

そして,再び中心部に戻るべく,東部から内陸へ畑の中を向かう。地図に載るような道路は,農道であっても舗装が行き届いている。なので,ちょっと道を外れてしまっても,出入りがしやすい。道幅も適当にあり,「道が狭くてすれ違うのに困難」というのも,この島ではむしろ中心部のほうで多いくらいだ。
そして,着いたのは南大東空港跡。すっかり古ぼけて廃墟となったターミナルの建物は平らな平屋建てで,いかにもマイナーな離島の空の玄関口らしい出で立ちだ。ピーカンの照りつける太陽が,その“廃墟感”を容赦なく浮き立たせる。地面も,手入れがされず舗装が剥げてしまったのか,廃墟っぽくジャリがところどころ露出しているところがある。車もほとんどないし,やってはならないけどサーキットにしてもいいくらいの広さがある。
先ほど降りてきた現・南大東空港が南北に滑走路が伸びているのに対し,旧空港は東西に伸びている。大きさとしては圧倒的に現空港のほうが大きいが,かつての19人乗りの超小型飛行機ならば,旧空港ほどの大きさで十分だったということだろう。
そのほぼ中心辺りには,「スペースの有効活用」ということか,白亜でこぎれいなドーナツ型のビジターセンターが建っている。名前は「南大東島まるごとミュージアム まるごと館」。その隣には,「スパーク南大東」というデカい体育館みたいな建物もあるが,こっちは“スパーク”どころかシーンとしていて人影すらない。
とりあえず,まるごと館に入場料200円を払って中に入ると,動物・人・植物・島のいろいろな場所を撮った写真が飾られている。「小さな島の大きな遺産」と,もらったパンフの“冠”には書かれているが,日帰り旅行ではとてもこの島のことなんぞ分かったうちには入らないくらい,島はまだまだ奥が深いということを教えてくれる。
周囲を見れば,三輪車に乗った幼稚園くらいの小さい子どもや,もう少し上の子どもがかけまわって遊んでいる。それを見ていると,もはやここが玄関口として賑わったであろう光景は,たった6年ばかり前であっても,遠い遠い過去のような気がしてくる。ニーズがあるから飛行場も大きくし,いわば“格上げ”された39人乗りの飛行機が就航することになったのだろう。もちろん,39人乗りだって小さい飛行機であるが,何だか19人乗りの,せせこましくエンジン音もうるさくて揺れやすい飛行機に乗ってこの島に来るのもオツな気がしてくる。
現実的にもそうはならないとは思うが,間違っても100人単位の人が乗れる飛行機は,この島には就航してほしくない。都会に住む一観光客の,すごいわがままで失礼な発言だが,“こんな辺鄙な島”はいつまでも“こんな辺鄙な島”でいてほしいと思う。

Dシュガートレインを追いかけて〜“超有名人”の足跡〜
さて,島の中心部,総合センターに行った話に戻る。JAの建物脇の狭い路地を入ると,右に総合センターという村の資料館,左に芝生の公園がある。資料館は明かりがついているものの,ドアにカギがかかっている。外から中を見た限りでは,何か写真が飾られているが,細かくは分からない。せっかく入場料を払ってあげようと思ったが,これではどうしようもない。
で,その隣には屋根付き車庫がある。ここには向かって右には青い「No.8」と入ったディーゼル車と,檻の形をした車両,左には蒸気機関車と木製の客車がそれぞれ連結されて置かれている。青いディーゼル車は長さ5m×高さ2mちょい。すっかり使い古され,所々さび付いている。檻の形をした車両もほぼ同じ大きさ。黒い鉄格子に不気味さを感じるが,天井はぽっかり開いている。一方,蒸気機関車は黒地に赤のラインが入っている。これは復元されたもののようだ。そしてその後ろにつけられた木製の客車は,青のペンキで塗られた,純粋に人を乗せるためのもののよう。長さ・高さとも3〜4mほどあり,詰めれば15〜16人は乗れるだろう。
この電車は,1917年から84年まで島を走っていた南大東島の象徴とも言えるシュガートレイン(砂糖列車)だ。名前のように,メインは人ではなくて,サトウキビを運ぶためのものだ。正式名称は「大東糖業専用鉄道」。上述した長さ5m×高さ2mちょっとの檻の中いっぱい積み込まれ,青いディーゼル車に引かれて島中から集められたサトウキビは,ここ在所にある大東糖業という精糖工場に運ばれてきた。線路は工場を中心に円を描くように伸びる一周線と枝に分かれる6つの線からなり,総延長は28.9km。その一つは海路の玄関口・西港にも伸びていて,工場で「糖蜜」という形になったものが運ばれ,船に積まれたそうだ。
そのシュガートレインも,時代とともにトラックが輸送を担うようになり,1984年にその役目を終えることになった。私がいままで車で走ってきた県道なども,元々は線路があったところ(ただし,厳密にはその近くを走っていたということだろう。あるいは道路がサブみたいな存在だったのか)であるが,廃止になってもうすぐ20年になろうとしているからなのか,そんな面影はほとんど分からない。
私にとっても,事前に知識が入っていなければ,この島は大東そば・大東寿司のみで,シュガートレインなんてオマケ程度で終わっていたと思う。もっとも,私が一番最初に,そしてもっともよく島の情報を仕入れたホームページ「美ら島物語 南大東島物語」にはシュガートレインのことも当然だが載っているので,列車の存在は知っていた。しかし,少なくともこうして“わざわざ”別項で扱うことにはならなかったことはたしかだ。

そこで登場してくるのが,何度か書いてきた“超有名人”の存在である。が,その人に出会う前にヤフーで「南大東島」をキーワードに検索していたら,とある本に出会うこととなった。私としてはその本のほうが印象に強いので,まだるこしかろうが,まずその本を先に紹介したい。
その本とは,何ともベタだが『南大東島シュガートレイン』という本(「参考文献一覧」参照。以下『シュガートレイン』とする)。作者は竹内 昭氏。まだ現役で列車が走っていた1980年3月に南大東島を訪問し,列車や線路写真を収めている。枚数にして,カラー9点にモノクロで100枚近くある。実際列車にも何度か乗ったようだ。列車だけでなく,23年前当時の南大東島の風景も分かる逸本である。昨年,岩崎電子出版という出版社から発行されたもの。早速,いくつか大きな本屋で探したが,どこも置いていなかったので,結局出版社のホームページから直接購入することになった。この本がなければ,繰り返しになるがシュガートレインなんてどうでもよい存在だったと思う。
そしてこの写真集を見ているうちに,私は「廃線跡の旅」なるものに駆りたてられることになったのだ。もっともウエートとしては,@大東そば・寿司,A海中道路,Bシュガートレインの順番だろう。「何だ,大したことねーじゃん」とおっしゃるかもしれないが,私は別に“電車好き”ではないので,これでもずいぶんウエート付けは高いほうだと思う。
そしてお待たせ(?),いよいよ“超有名人”の登場だ。その人とは,すでに分かってしまった人もいらっしゃると思うが,故・宮脇俊三氏である。宮脇氏は1996年12月に南大東島を訪れ,すでに廃線になっているシュガートレインの廃線跡を追っている。氏も私とほぼ同じような場所を見ていて(というか,正しくは私が氏と同じ場所を見ているのだが),伊佐商店で大東そばと,これはうらやましいが,大東寿司も食している。そして「ホテルよしざと」に泊まった――この辺の経緯は,すでに読まれた方もいると思われるが,JTB『鉄道廃線跡を歩くD』,もしくは角川文庫『鉄道廃線跡の旅』に掲載されているので,ご参照いただきたい。ちなみに私が購入したのは,角川文庫のほう(「参考文献一覧」参照)。偶然にも『シュガートレイン』とほぼ同時期に出会うこととなった。島に来る1週間前のことであるが,ほぼこの2冊で「気持ちは固まった」ことになる。
ということで,総合センターを見た後,上記Cに記した辺りを見て,“ウフアガリの旅”の最後を締めくくるべく(?),廃線跡をたどることと相成った。なんたって,「列車旅のスペシャリスト」もその価値を認めた“伝説の列車”なのである。

まず寄ったのは,大東糖業南大東事業所。高い煙突がシンボリックであるが,何の変哲もない鉄工所と見紛う工場。事務所は小さい平屋建て。樹木の中に隠れてかすかに見える。島の中心産業・象徴産業を担っている工場にしては意外な印象を持つ。
その周囲はだだっ広いスペース。工場が鉄道の起点にも当たるから,操車場みたいになっていたのだろう。『シュガートレイン』を見ると,この辺りに線路が集中しているから,ほぼ間違いなかろう。そして,その事務所のそばには「Π」の形をしたゲートがある。4〜5mは高さがあるが,『シュガートレイン』によれば,ここはトラックの計量所で,そばに線路が二股に分かれる分岐点がある。計量所にはロープが貼られているが,こっそり入って地面を見ると,1m四方ほどの窪みになっていて,中には鉄製の謎の物体が格子状のフタの下で眠っている。
2冊の著書によると,線路幅は76.2cm(正確には2冊とも“762mm”と表記されている。専門用語では「ナローゲージ」と言うらしい)というから,大きさからして多分列車に関係する機材と思われるが,私は電車のそういう機材に興味はないので,もしかしたらとんでもない勘違いをしているかもしれない。興味のある方は実際にご覧いただきたい。あるいはJTB版の宮脇氏の著書に載っているだろうか。
もう一つ,事業所の西側。伊佐商店がある中心街の路地を抜け,突き当たりを左折して県道に出る前に,左に事業所へ入る道がある。その脇には,よく地ならしされた2mほどの幅の浅い溝が事業所に向かって続いている。この二つはもう完全に線路跡であろう。『シュガートレイン』を見ると線路が3本あるように書かれているが,想像するに,道路も溝も多分線路であったと思われる。その奥には,事務所脇にみたのと同じような「Π」の形をしたゲート。こっちは列車の計量所だったようだ。ゲートの幅がやや事務所のそれより広いが,列車の幅を考えれば納得できる。
そして,その事業所の反対には……溝になっているが雑草が結構生えている。幅は先ほどの道路と溝を合わせたくらいの広さ。都合5mほどはあるだろう。少し中に入ってみると,向かって右に石づくりの建物。北海道の富良野にある「五郎の石の家」を連想させるが,これは『シュガートレイン』を見るに機関庫だった建物だろう。写真では蒸気機関車が置かれているが,残念ながら,いま現在ここには何もない。とはいえ,これだけでもまずは「シュガートレインの空気を軽く味わった」ことにはなるだろう。

次は再度西港に行く。さっきはさらっと港を概観しただけだったが(前回参照),港の上のほうに施設があって,その付近が「ミレニアムパーク」なる緑地になっている。ここをどんづまりに遊歩道が南に向かって続いているが,この遊歩道もまた線路跡である。さきほど「糖蜜を西港に運ぶ」と書いたが,これがまさにその線路なのだ。ちなみに「ミレニアムパーク」とあるのは,2001年に緑地供用が始まったのと,未来永劫に南大東島が発展することにかけてつけられた名称とのことである。
で,そのミレニアムパークの隣に,何とも奇妙な形の「石の間」がある。大きさは7〜8m四方で,「ドラクエ」とかのロールプレーイングゲームに出てきそうな,ホント「石の間」って感じのスペース。天井はないが,四方が石の壁で囲われている。高さは2mほどか。そしてさらにまた奇妙なことに,四方合計で八つ,ドアの形をした空洞が開いている。肝心の地面はというと,草むらの中その端っこにいくつか錆びた鉄の塊が置かれている。形からして電車止めみたいな気もするが,正体は不明である。線路っぽい筋も見えなくもない。『シュガートレイン』には西港の見取り図が載っているが,位置的には“ウインチトロッコ”なる車両があった場所に近い。ウインチトロッコとは,陸揚げクレーンの動力車のことらしいが,そんなものが石の囲いの中に置かれていたということなのか。うーん,どうもこれも当てはまりにくい。考えるほど謎になるのであった。
そして,西港を見た後の締めは,幕上(はぐうえ)一周線という道路にて南下する(ちなみに「幕」とは,海岸部分の高い所を言うそうだ)。位置で言うと,次に内陸に走っているのが星野洞(前回参照)に行く道,その次が県道北南線だから,この幕上一周線が,道路としては一番海岸に近い道路になる。そして,そのさらに海岸寄りに走っていたのが,西港に向かう線路,その名も「西線」なのであろ。この西線が遊歩道になっていることは既述したが,周囲は琉球松に囲まれていて「フロンティアロード」と呼ばれているそうだ。
宮脇氏は,この遊歩道に車で乗り入れたようだが,私は残念ながら飛行機の時間まであと1時間弱しかなく,悠長にフロンティア・スピリットを味わう時間はなかった。結局,塩屋(しおや)海岸という海岸の入口にて,道路と遊歩道は交差するが,そこが私とシュガートレインとの最後の接点となってしまった。その“勇姿”は,一定の道幅をキープしながら畑の中を工場の方へと続いていた。無論「本気を出す」というのなら,もう何泊かするなり,資料を持ってそれこそ根気よく歩いて探すことになろう。しかしその辺は所詮,優先順位を3位に置いている人間ゆえ致し方ない。改めてここは宮脇氏や竹内氏に感服するしかないだろう。

E再び,那覇へ
西港から幕上一周線に行く途中,左に鉛色をした棒が3本立っているモニュメントがある。上陸記念碑である。すでに,前回の大東寿司の項で,八丈島出身者がこの島を100年前に開拓した話をしたが,3本のうちどれかは失念したが,1本は「上陸第1号」となった小島岩松(こじまいわまつ)ら23名を称えたものである。しかし,この小島岩松と同様,いやそれ以上に南大東島にその名を残す人物がいる。それは玉置半右衛門(たまおきはんえもん)という人物だ。見損ねたが,玉置の碑もこの島にあるようだ。
宮脇氏の『鉄道廃線跡の旅』では,玉置が同士を募って明治33年(1900年)に上陸したと書かれている。いくつか文献をみると,同様に玉置が南大東島に一番に上陸して開拓したような書かれ方をしているが,これは必ずしも合っているかは分からない。すなわち,「南大東島上陸第1号」は小島で,玉置は「南大東島発見第1号」という説もあるのだ。
それは,「南大東島の歴史」というホームページの「玉置半右衛門の生涯」という項に,玉置が南大東島と伊豆の鳥島の開拓にかけた生涯が詳しく書かれている。小島が悪天候による船の転覆の危機を乗り越え,さらには心の葛藤の末にこの島に上陸したこと,その後の100年間が苦闘につぐ苦闘に彩られ,よくも悪くもこの島が「玉置半右衛門の島」であることが分かる。ホントはここに書きたいところだが,すごく長くなりそうなので省略させていただく。興味のある方はホームページをご覧いただきたい。
さて,16時発の北大東島行き飛行機に予定通り乗る。乗客は13人。「短い旅ですが,どうぞおくつろぎ下さい」というCAのお決まり文句があるが,まったくくつろぐことなく,離陸して2分後には着陸態勢に入り,10分で北大東空港到着。この10分だけで,何と6400円。正規料金なら那覇からトータルで約5万円もかかるのだから,改めて南大東島への旅が贅沢であることがよく分かる。
しかし,それだけの額を払って行くだけの価値はある島だと思う。沖縄本島で世界遺産を二つ見たが,南大東島もまた,豊かな自然と開拓者の汗が創り出した“遺産の島”である。「南大東島まるごとミュージアム」という言葉も出てきたが,そんな類いの言葉がよく似合う島に,できればもう一度行ってみたいと思う。
そして,時間があれば北大東も見てみたかったが,上陸はたった25分の乗り継ぎ時間のみ。時間通りに那覇行きの飛行機は離陸し,いよいよ南大東島とはお別れである。もっとも,一度去ったはずの南大東島の上陸を横断することにはなるのだが。

(9)クースー(古酒)カレー&ぶくぶくコーヒー in 那覇
さて,那覇に無事上陸後,3度目のゆいレールに乗って向かったのは美栄橋駅。昨日は本場・大東そばの主人に義理立てして息子の店に行ったが(第2回参照),今日はさすがに別のものでいいだろう。大東寿司も言っちゃなんだが,食べたことのある八丈島の島寿司と似たようなもの(からしでネタを食うのは新鮮だったが)であろうし,行ってまた売りきれなんてこともあり得よう。
よって,今夜は美栄橋駅からそのまま南下して,国際通りに出ることにする。時間は18時前後で人通りは多いし,車も渋滞の真っ只中だ。そして時間帯もあるだろう,いろんな飲食店の前で「いかがてすかー」と店員が客引きをしている。
さて,どこの店に入ろうか。得てして不足しがちな魚類を食べたい気もする。未体験の海ぶどう,イラブー,不思議な色の魚……選択肢はどんどん広がっていくが,歩きながらふと,「琉球カレー」なるものをこの通りで見つけたことを思い出す(「沖縄標準旅」第5回参照)。たしか南に向かって歩いていく格好で,右側にその店があったと思う。この通りに来たのは9カ月半ぶりであるが,果たして自分の記憶力に感謝できるか。
「沖縄標準旅」第5回で紹介したが,この国際通りは,いかにも琉球チックでどこかアナログで,泥臭い感じがする通りだ。デカい店舗というのはOPAと三越くらいであろう。あとは個人商店,しかも土産屋の多いことが特筆される。「生鮮食料品の匂いも混じって,古い建物独特の匂いがする」と評した牧志第一公設市場は,今回は18時台とあってあいにく閉まっていたが,それを取り囲む「平和通り商店街」のゴミゴミ感もあいかわらずだ。
さて,国際通りを南下中,不自然に青空の出店群が出てくる。駐車場を特設会場にしているようだが,真正面にスクリーンがあり,“縦じま”のユニホームが映っている。そしてそれを見つめる縦じまの衣装に身をまとった人間が十数人。中日―阪神戦の放映である。南大東空港での待ち合わせ時間に見ていたら,2―0で中日が勝っていたが,その特設会場も盛り上がりにいまいち欠けている。あとでこの日は負けていたことが分かったが,翌日の優勝決定時にはさぞ盛り上がったのではないかと想像する。もっとも,そこの人間の何割が真のトラファンなのかは分からないが。
そこから少し歩いた辺り,とあるビルのテナントに「琉球珈琲館」の看板を見つける。表に出ているメニューを見ると「ぶくぶくコーヒー」という聞き慣れないメニューとともに,「クースー(古酒)カレー」という名前。ここだ,私が探していたのは。迷わず入ることにする。

それほど大きくないビルの階段を2階に上がると,中は東南アジアかポリネシア系のような,茶色をベースとしたエキゾチックな色調の店である。が,とにかく狭い。階段が建物の中にあって,プラス,アンティークの小物や,コーヒーの店らしく売り物のコーヒー豆がディスプレイされていたりするので,通路は人1人がギリギリで通れるくらいだ。窓際に国際通りを見ることができる2人席が二つあり,一つが空いているのでそこに座ることにしよう。すぐ脇に3階に上がる階段があって,店員がバタバタとそこを上がり降りしているが,外を眺められるからまあよかろう。早速注文したのは,もちろんクースーカレー(960円)。そして本日は缶コーヒーをすでに2本飲んでいるが,せっかくなのでアイスのぶくぶくコーヒー(500円)も合わせて注文することに。
店には女性が多い。隣の2人席も私より少し上くらいの女性2人である。見ればガイドブックを持っている。「ここの店が載っていてよかった」なんて言っているから,それなりに有名なのだろうが,個人的には,タコライスに次いでまたも“B級なマニアックグルメ”にありついたと勝手にほくそえんでみる。スタンダードな沖縄料理はもちろん“あり”だが,こういうグルメに目を向けるのも“あり”だろう。本末転倒にならなければ。
5分ほどして,ぶくぶくコーヒーが出てくる。と,まずその音に軽い衝撃。「ショワショワ」と炭酸が弾けるような音がしており,その名の通り,白い泡が器の上で踊っている。材料は,珈琲,黒焼き大豆,黒豆,ニガウリ,ウコン,香草といろんなものが混ざり合っているが,味わってみると見事なまでにカプチーノの味である。もらったパンフには「異なるものがぶつかりあうことなく,ゆるやかに混ざり合い,お互いに相手を受け入れて一つになる。沖縄文化の真髄がそのまま珈琲に」と書かれているが,言い得て妙とはこのことだろうと思ってしまう。コーヒーの適度な苦みはあるが,クセは一切感じない。一緒に醤油差しのような黒い陶器が付いてくるが,こちらはシロップならぬ黒蜜。これを入れるとまた苦みがほどよく和らいで飲みやすくなる。
そう,この店はまたオリジナルの陶器も売り物である。コーヒーの入っている器も陶製。泡つながりでビールが入っていても似合そうなやや寸胴で重量感のある器だが,この鉛色あるいは緑灰色のような色調が,いかにも個性的で意図的な店のインテリアに溶け込んでいる。そこに惹かれたのか,次から次へと男女問わず,若い人が入ってきては脇の階段をワサワサと上がっていく。

そして,それから10分ほど経っただろうか。いよいよクースーカレーの登場だ。直径25cmほどのこれまた陶製の器には,いかにも辛口カレーの色。中に入っているのは赤ピーマン,大豆,椎茸,インゲンにビーフとラフテー。ライスはサフランライスで,どういう理由なのかフランスパン(ブルスケッタ?)がひとかけらついてくる。ちなみに,960円というのは「ラフテー入り」とのこと。1個だけしか入っていなかったが「ラフテー入り」である。「野菜カレー」というのがたしか880円だったかと思うが,ビーフも入っているので,ラフテーはいまいち存在感に欠ける。
そして,肝心の味だが,クースー=古酒=(年代ものの)泡盛の味が効いている。20種類以上のスパイスをクースーで練り込み,長期間寝かせたものを使用しているようだ。偶然だろうか,葉っぱを食べてしまったので,ローリエは間違いなく入っているだろう。多分,純粋なカレーだけではストレートに辛いのだろうが,クースーによってとてもまろやかな味になっている。酒が苦手な人にとっては,あるいはちょっと“酒っぽさ”を感じるかもしれない。私にとってはクセになる味であり,味わうほどに食欲がすごく湧いてくる。陶器ゆえの重たさに耐えながら,すべて平らげて終了。
ちなみに,ここの名物コーヒーにはもう一つ,「トロコーヒー」というのもある。「コーヒーのうまみと油脂がたっぷり」とのこと。今度来たときはこっちにもチャレンジしてみたいと思う。そして,これも後で分かったのだが,ぶくぶくコーヒーはこの店しかないものだと思っていたら,市内に5軒店があるようだ。あるいはそれらをハシゴし,味比べをしてみるのも面白いだろう。

(10)エピローグ
さて,後は時間までブラついて空港に行くのみだ。さらに歩いて南下していると,東京・有楽町にも支店がある沖縄県物産公社「わしたショップ」の本店を発見。他の店に比べて,さすが東京にもある店とあって規模は大きい。歩くにはどっちみち荷物になるので会社への土産は空港で買うつもりだが,時間もあるのでちょっと見てみたい。
すると早速,「阪神タイガース球団公認 ちんすこう」なんてのがあるではないか。縦じまの箱に54個入りで税込1260円。うーん,現在マジック2。明日も試合があるから場合によっては「優勝記念」でタイムリーだが,あるいは3連休中に優勝できなくても「こいつを食べて祝・優勝!」というのも悪くない。よっしゃ,空港では忘れずに買うことにする。
ところが,いざ空港でそれを探すとどの店にも置いていない。ターミナルの一番端っこに,やっとのことでわしたショップの支店を見つけたが,何とここにもなし。仕方なく,どこかの会社で作られているプレーンのちんすこうを購入することとなった。420円。
そして,翌15日の優勝。考えるだに,本店で買わなかったことを後悔してしまうが,考えてみれば私は“エセ阪神ファン”と公言している人間。「そんな人間には便乗してくれるな」とばかりに,私に買わせない魔力がどこかで働いたのではないか,とまたも私は勝手な解釈をしてしまうのであった。よかったね,阪神ファンの諸氏。(「沖縄・遺産をめぐる旅」終わり)

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