奄美の旅(勝手に)アンコール

(1)プロローグ
奄美空港,11時到着。空は,沖縄奄美では久しぶりに見る快晴のような気がする。そして,先日東京でもメチャ暖かい日があっ(て,私は前後の寒い日との寒暖の差に翻弄されて,不覚にも風邪をひいてしまっ)たが,そのときの暖かさなどとはまた違う,完全に1カ月半先取りしたような,暑さすら感じるモワッとした空気が包む。この一瞬が旅のスイッチ切り替えの瞬間でもある。
ロビーを抜けると,本日レンタカーを借りる「奄美レンタカー」の文字。そして,私の名前。他に5組の客がいるようだ。厳密には「奄美レンタカー」の下に「日産レンタカー」という文字もあったが,はて,代理店みたいなことでもやっているのか。プレートを持っている女性に声をかけると,「向こうに車がいますので」とのこと。なるほど,外に出てすぐ「奄美レンタカー/日産レンタカー」とボディに書かれたワゴンが停まっていた。早速,中に入る。当然というか,私1人しかいないのだが,何やら無線で連絡が入ると,自動でドアが閉まって出発と相成る。「とりあえず出発してください」ということだったのか。
空港の敷地を出ると,ワゴンは右折する。なるほど,こっちのほうにあったのか。敷地から出たのが南側の出口だとしたら,反対の北側の入口を出た辺りに事務所が建っていた。点々といくつか建っている各レンタカー会社のちっぽけな空港営業所群の一番北端が,この事務所であろう。早速,事務所に入ると……あれ? 誰もいない。この気候にそぐわない紺のスーツの男性がいたが,彼はどうやら観光客だったらしく,私と入れ替わりで空港に行ってしまった。「すいませーん」と声をかけるが,まったく反応がない。すると,外に自販機が見えた。ちょうど車内で飲む飲み物が欲しかったので出てみると,Tシャツ姿の小柄な男性が1人。こんなとこにいたのか。
――ところで,ここで長文学の“王道”として話題がそれる。この旅行が父親の入院が早まったため,一旦キャンセルになったことを「管理人のひとりごと」Part71トップで書いたが,このときは毎回奄美大島に来るたびに利用していた「西郷レンタカー」に予約を入れていたのだ(「奄美の旅」「奄美の旅アゲイン」第4回「奄美の旅ファイナル」参照)。1泊2日で1万2000円程度の金額で,小さいサイズの車。カーステはCDしかないということだったが,ひとまずそれを借りることになっていた。
当然だが,これを一旦キャンセルすることになったわけだが,はて,あらためてこの西郷レンタカーに再び予約を入れようかと思っていたとき,この奄美レンタカーのホームページを発見。その中に「おすすめレンタカー」というページを見つけたのだ。何でも「少し型が古い」ということで,値段が1泊2日ながら6500円で,保険料まで込み込みというのだ。ちなみに「型が古い」といっても,車種はヴィッツ,デミオ…というから,むしろトヨタとマツダから「古いとは何事!?」と言われそうなくらい,現役でいまでもあちこちで使われている(であろう)ものである。ま,拡大解釈して,「最近の売れ行きの潮流から,少し外れているかもしれない」ということにしておこうか。
とはいえ,エアコンはあるし,何よりも重視しているカーステがカセットだという。カセットであればMDとのアダプターがあるから,西郷レンタカーで借りるよりも,いろんな面でお得になるわけである――ちなみに,ついでに書いてしまうが,エアーの方も2月のときは往復とも2人席の通路側だったのが,今回は往復とも窓側になった。こういうのを「結果オーライ」「ケガの巧妙」と言わずして何と言おうか。
――話を戻そう。男性は「はいはい,すいません」と事務所に入ると,サクサクと手続開始。いろいろと彼が書類に記入していく中で,6500円までは「ふむふむ」と思ったが,最後に「500」という数字が入った。保険料のようだが,はてすべてが“込み込み”では……いや,そんなに細かく見ていたわけじゃないから,あるいは別だったのか。ま,いいや。ひとまず,7000円という額が弾き出された。クレジットカードにて支払う。現金でもOKなのだが,何かあったときのために,カードが使えるところはカードで支払っておくのが私なりの旅の流儀。でも,まさかこれが後で……ま,それは後述しよう。
そして,車は目の前にあるマーチだという。早速乗り込むと……あれ? カーステがCDだぞ。話が違う。もう一度男性に「“おすすめレンタカー”で予約したんですけど」と問うと,「あー……でも同じでいいですよ」「あのー,カーステがカセットがいいんですよ」――どうやら,手違いが起こったらしい。動揺がはっきりと見て取れる。もう1人やってきた女性が「あのー,CDの貸し出しもしますけど」と言ってきたが,一面そういうのを借りたくないからこそ,わざわざMDを自分で作成してきているのである。「あー,もういいです」と面倒臭くなって乗り込んだが,こちとら,機内ですっかりヘッドフォンを外してアダプターをMDの機械に取り付けていたので,あわててヘッドフォンに付け替える羽目になってしまった。無論,聴きながら走るためである。静寂を音楽にできるほど“オトナ”ではない。
実はここ,予約に当たってもインターネット上で最初申し込みをしたのであるが,返信が3日間まったくなかったのだ。「2日返信がなかったらお電話ください」とあったので問い合わせたところ,応対した女性いわく,何と「予約が入っていない」という返答であった。「たまーにパソコンの調子が悪いことがあるんです」とその後で言ってはいたが,その辺りがもしかしたらケチのつけ始めだったのか。無論,パソコンとは向こうのそれであろう。こちとら,会社の最新鋭のヤツを使っているのだ(と,過信していいのかどうかは分からないが…)。もちろん,ちゃんと「おすすめレンタカー」で予約をする旨,電話でも伝えていたのは言うまでもない。

(2)古仁屋まで3時間弱
@一村のこだわり,私のこだわり
11時20分,多少の失意をもって出発。いつ来ても,この周辺は車が少ない。多分にシーズンを外して来ているからかもしれないが,広めに取られた道路がどことなく,うら寂しさすら醸し出している。それを振り払うように,ガンガンスピードを出していく。最終的には,これまた前回の奄美の旅と同様,島の南端の瀬戸内町は古仁屋へ,14時を目処に行くことになる。時間にすれば3時間弱。ま,おそらくは間に合うであろうが,よりによってまっすぐ行くのではなく,数箇所に寄っていこうなんて欲張っちゃうから,どうしても急ぎ足になる。あいかわらずの自業自得。
とはいえ,まず今回行こうと思っていた「奄美パーク」へは,ものの数分で着いてしまった。右に上り坂を入ると,でっかいドーム型の建物を右にとらえ,左手にガラーンと開いた駐車場を見る。無論,左に曲がるが,たしか私が見たいのはこのドーム型の建物の中ではなく,さらに奥にあったはずだ。“お得意”のうろ覚えだと,たしかそうだったはず。そして,奥にコンクリート打ちっぱなしの無機質そうな建物があり,そちらには車がいっぱい停まっているので入っていくと,どう考えてもスタッフ用って感じの駐車場で,何よりもそちら側に施設への一般用出入口らしきものがない。なーんだ。
仕方なく,ガラーンとした駐車場の一角,まるごと10台分ぐらいガラーンと開いている島ではあるが,きちんと仕切られた一角にバックで入っておく。こういう場所は,私のような運転ド素人が“バック入庫”の技術を向上させるのに貴重な場所となる。運転席側が線ギリギリになってしまったが,かといってわざわざ切り返して枠のセンターに収めるなんてこともしない。だから技術は伸びない。ハァ〜。
とりあえず,ドーム型の建物のほうに行こうとすると,お目当ての建物は逆方向。すなわち,コンクリート打ちっぱなしのほうであった。当たってはいたのだが,出入口はこちらにしかなかったのだ……ま,それはともかくとして,どう考えてもこんなに大げさにしなくていいだろうって感じの,木のいい匂いがする自動ドアをくぐると,もう一つ似たような自動ドアがあって中に入ることに……。
どーでもいいことだが,この二つのドアをどちらか一つにしただけで,それなりの金額が浮くのではないだろうか。もっとシンプルでこじんまりとした建物だっていい。あの故人が,こんな豪勢な建物を望んだのだろうかとすら思ってしまう。入口は自動券売機。こーゆー建物を建てたがためにつきまとってくる“入場料”ってヤツである。この建物と,おそらく隣のドーム型の建物であろう「奄美パーク」の二つの入場券も発売されていたが,この建物さえ見れば十分だから,単独でしか買わない。200円。
その近くには若い女性がいる。これも,いっそ女性に券売までやらせちゃえば,券売機なんていらないはずである。だって,券を買うと女性がパンフレットを渡してくれるのだ。さらに「奥で(入場券の)端っこを切ってもらってください」とは言われたが,これだってこの女性がすべてやればいいだけのこと。くどいことだが,故人がこれを見たら気絶してしまうのではなかろうか。

さて,こうして“長文学的文句”を書いたところで本題。いま“故人”という言葉を書いたが,無論,ここはその人物にまつわる建物だ。その人物とは,日本画家・田中一村氏(たなかいっそん,1908-77)。すなわち,一村氏の作品を飾った美術館なのである。「参考文献一覧」ですでに紹介している『アダンの画帖 田中一村伝』(南日本新聞社編,以下『一村伝』とする)の主人公である。ちなみに,本名は田中孝(たなかたかし)。「田中一村」とは奄美にいたときの呼び名であり,本人は「柳一村」とも称していた。漢詩の一句にインスパイアされて命名されたものという。
氏は栃木県出身の東京都育ち。小さいころから絵の才能が開花して,学生時代まではそれこそ「エリート中のエリート」とも言えた。いまの東京芸術大学に入学したとき,同期にはあの東山魁夷氏(ひがしやまかいい,1908-99)がいた。しかし,自身が結核を患ったのと父親が急死したことで大学中退を余儀なくされる。さらには,天才ゆえの哀しさなのか,自身の才能・画風と周囲が求めるものとに強烈なギャップを感じ,23歳の時に自身の求める画風に支持者が出なかったことを理由に「中央画壇で生きていくこと」と絶縁する道を選択することになった。
その後,30歳で千葉県千葉寺(いまの千葉市中央区)に居を移すが,決して生活は楽ではない。画風の”公的支援者”がないゆえの貧困,度重なる不幸,そして,何よりも自身の「確固たる考え」が時として生み出す様々な“紆余曲折”――そんなこんなの20年の果て,1958年12月に「最後の理想的絵描き生活」を追究して奄美大島に単身移住を決意する。この時,氏50歳。身内で最大の理解者,また生活上のパートナーでもあり,いわば「一村氏のために独身を余儀なくされる」こととなった三つ上の姉を1人残してのことだった。なお,一村氏には他家に嫁いだ妹もいるが,身内はこの時点で姉と妹の2人だけ。さらに,念のために書いとけば,一村氏もまた一生独身であった。
かねてから,奄美に住みついて奄美の風景を亡くなるまで描いた氏の存在を知ってはいた。そして,あるいは後述もしてみたいが,このような“孤高な在り方”にも興味があった。絵画などあまり興味がない私だが,その画風も,「オレはこういう絵が描きたかったのだ!」という意志が現われていて興味を持った。ということで,奄美に訪れる折には一度触れてみたいと思っていて,今回の旅行で訪れた次第である。無論,その予習として『一村伝』を買って読んだことは言うまでもない。
この入口から見るとよく分かるのだが,美術館の建物は,奄美の伝統家屋である「高倉」方式を生かした三連式の三角錐の建物だ。その建物ごとに氏の作品が展示されている。これだって,あるいは建物一つか二つにしてしまえば……ま,いいか。後でもらったパンフレットで確認したところ,時代ごとに分かれているらしい。なるほど,それならば許そう(って,何て高飛車!)。
繰り返すように経歴は後述するとして,まず入口に近い「第一展示室」は,氏をもっとも印象づけてくる奄美時代の作品が展示されている。奄美移住後に描かれた『ビロウとアカショウビン』(1962年),『パパイヤと高倉』(1960年)なんてのは,素人の感想を許していただきたいが,野性的で大らかで一見色合いに乏しいと思われる対象を,あたかも写真で撮ったかのように,あるがままの姿を繊細かつリアルなタッチで色彩豊かに描かれてあると思う(“アカショウビン”は鳥の一種)。他の奄美時代の作品にも共通しているところである。
それもそのはずというか,氏は奄美にやってくる以前から写真に興味を覚えていたのだ。写すのはもちろんのこと,その後の焼き付けや引き伸ばしまでこなす技術があったという。しかも,本職が本職だからということで,写真特有の“光による効果”までを計算済みでの仕上げ方だった。氏に写真を教えたという人間がこの能力に感心し,「どうしてこんな写真が撮れるのか?」と尋ねたところ,「絵や写真に興味がある人間は,自然に“構図”が見につくものであって,理論はその後づけにすぎないのだ」と笑って答えてみせたという。「好きこそものの上手なれ」なんて諺で片づけるにはあまりに畏れ多い,天才を天才たらしめる言葉である。
また“あるがまま”を描くというスタイルに,面白い氏のエピソードが『一村伝』の中にある――これは,千葉寺に住んでいたときのことだ。時期は年末。氏の敷地には竹山があって,日頃から懇意にしていた夫婦が正月の門松用として,ここの竹を1本もらうことになっていた。ところが,肝心の氏の返事は,「分けてあげるような竹はない」というツレない返事。仕方なく,氏と一緒に当時住んでいた姉に夫婦の奥さんが許可をもらって,たまたま竹山から1本,横にはみ出るように生えていた竹を切らせてもらうことになった。「この傍目に美しくないヤツならば,気難しい返事をした氏でも許してくれる」という考えだったであろうことは想像に難くない。
ところが,氏はそれを聞くやいなや顔色が変わって大変な剣幕になってしまい,しまいにはその奥さんを泣かしてしまったのだ。その理由とは「その横になった竹のしなり具合を描こうと思っていた」からだという。絵のモチーフを勝手にぶち壊されてしまったショックが突いて出たのだ。少し前に雪が降って,その雪の重みでしなった1本の竹。「竹だって人間の思うようには生えてくれないのだ」といって,ものすごく悔しがったのだ。“あるがまま”を描くスタイルの極みとも言えるエピソードだ。
とはいえ,このまま終わっては,日本で5本の指に入る悪党に単に貶められてしまうだけだ。やはりこの後に話が続くわけで,フォローするように「人様にあげるのならば,そんなハンパなものはあげられないから,一番上等なのをあげる」と,ホントに一番上等なものを切って奥さんに分けて与えた。そして,後日改めて奥さんの元へお詫びとご機嫌取りに,美しい花束を持って訪れたという。奥さんがそれに痛く感動を覚えたというから,人一倍「偏屈」とも言えた氏は,これまた人一倍「いい人」でもあったのだ。喜怒哀楽がものすごくはっきりしているキャラで,怒る時はこれでもかと怒る反面,このときのように,自分にも非があったときなどは声をかけられないくらい,ものすごくしょげかえったという。私の少ない経験上からして,この人って血液型AB型?
あと,氏の絵画は版が大きいほど映える作品が多いと,個人的には思った。色紙など小さいものに描かれたものもたくさんあって,無論,それらの中にも氏らしい緻密な構図で描かれているものが多い。あるいは1958年,奄美に移住したもの足で向かった与論島での『与論視察記』なんてのは,文章メインで所々にスケッチを織り交ぜて,実に見やすくて雑誌のノリのようなものを感じる構成立てだ。
でも,考えてみれば人間の叡智を超えるスケールの大きい自然現象を,小さくコンパクトなものに表現しようというのが,おこがましいことなのかもしれない。あるいはそんなこと,氏はすでにお見通しだったのかもしれぬ。『ガジュマルにトラフズク』なんて絵があったが,本来フィーチャーされる1羽のトラフズク(フクロウのような鳥)よりも,それがとまっている巨大なガジュマルの巨大な根の激しいうねりやら何やらのほうが強く印象に残る……ま,それはさすがに興味の対象の問題かもしれないが,例えば,沖縄本島は佐喜真美術館で見てきた丸木位里・俊夫妻の『沖縄戦の図』(「沖縄・8の字旅行」後編参照)ぐらいに巨大なキャンバスに,氏の描く奄美の自然を観てみたい気がしてくる。きっと「曼荼羅」みたいな彩りの奄美が見られそうなんじゃないかと思うのは私だけだろうか。

はて,こんなことを書く割には10分程度という,あまりに短い時間で美術館を観てしまった私。ひょっとしたら,建物の豪華さよりも,その見学時間のあまりの短さのほうに,さぞかし氏が気絶するに違いない…と思いつつ,再びマーチに乗り込むことにする。季節柄もあるのだろうが,これだけでっかいハコモノなのに,続々と団体の観光バスが入ってくるとかいう気配がない。ま,殊更に客寄せするものだもあるまいし,こんな調子だから,せっかくの暖かさも,あっという間に気だるさに取って代わられてしまったりするのではないだろうか。
ま,そんなことはどーでもいいとして,次に行きたいのは……うーん,どうしてもここに行かずにはいられなくなる“何か”が,私の体内に潜んでいる気がしてならない。それは“儀式”みたいなものなのだろうか。はたまた“脅迫観念”なのだろうか。よく分からないが,ここを一度も見向きもせず通過してしまうのが,何だかもったいない気がして,今回も寄ってしまうことになった。
その場所とは,奄美の伝統料理・鶏飯(けいはん)の店「ひさ倉」だ。しまいには「ここで鶏飯を食わないで,どこで食うんだ!?」などと,鶏飯を食わせる食堂がここだけではないにもかかわらず,また特に「元祖」なんて文字を飾っているわけでもないにもかかわらず,自分の中で「寄らずにはいられない場所」となってしまった。こう言っては店の人間には失礼極まりないだろうが,まるで「縛りにかけられているような感覚」かもしれない。奄美大島にはこれで4回目だが,いまのところパーフェクトで必ず来ている(「奄美の旅」第1回「奄美の旅アゲイン」第5回「奄美の旅ファイナル」第1回参照)。とかくいろいろな店なり物なりにと手を出したがる私としては,こういう“現象”は珍しいのである。
時間が12時前ということか,はたまた普段からこんな感じかといえば,そのどちらでもなく「たまたまだった」ってことかもしれないが,店内はテーブルと座敷に1組ずつしか客がいなかった。ちょうど中年女性が片づけかけていたテーブル席に案内されて座る。頼むものは決まっている。しかも,今回は旅先といえどダイエットを心がけているのだ。「そうしなくちゃならん事情」があったりするのだ。
しかし,念のためメニューをめくってみると……おっ,鶏飯と鶏刺しのセットなんてのができてるぞ。前は別個に頼んでいて,1800円ほどしていたたのだが,このセットは1350円。おそらくは二つ注文する客が多くて,かといって2種類を1人で食べるには多い感を持つ人間もいるはずだから(それでも私は“ガッツリと食べた派”だったのだ),「セットにしてほしい」という要望でも出たのかもしれない。多分,それは地元客というよりも観光客からであっただろう,と勝手に想像したりする。近くでは女性2人組が,鶏飯を前にデジカメで写真を1枚パチリ。片方の女性に10歳違いの二十歳の弟がいるらしく,その弟に映像を送りたいらしい。ふーん。
うーん,すでに鶏刺しを経験している者としては,鶏飯だけでもOKなところであるが,セットと聞くと迷ってしまう。ちなみに,鶏刺しの単独はなくなったらしい……迷ったあげく“妙案”が浮かんだので,セットで注文することにした。注文と入れ替えに,漬物と水などが運ばれてきた。はて,漬物は花びらのようにデザインされた…わけがなく,単に端っこが切れていないたくわんだった。
丁寧にそのたくわんを端っこで切り,1枚食べる。うん,フツーのたくわんだ。そしてもう1枚…と思って手で切っているところに,早くもさっきの中年女性が鶏飯の具(詳細は「奄美の旅」第1回を参照いただきたい)と鶏刺しと,お櫃に入れたごはんを運んできた。まずいところを見られたか…なんてことを気にするまでもなく,「あと,スープを持ってきますからね」と再び厨房の中へ入っていった。
ダイエットにとって何気にネックになるのが,この中のお櫃のごはんだ。直径12〜13cm×深さ5cmほどのそれには,大きめのミニ丼茶碗で有に3杯は盛れる量だ。食べれば当然「身体にくっついて跳ね返ってくる」ことは想像に難くない。一方,食堂では間違っても,お櫃に少なく盛ることはない。大抵は余っても仕方がないくらいによそってくるものだ。無論,このお櫃以上のおかわりは間違ってもしないだろうが,すべてを食べてしまってはいろいろとマズイことになってくる。始めから食べられないと分かっていれば問題ないのだが,食欲だけはいまだかつて「ない」というのを経験したことが皆無だ。
そうこうしているうちに,スープが入ったアツアツの鉄鍋が木の板の上に乗せられて,無事セット完了と相成る。ここまで3分。実に手早いが,具はすでに準備できているのだろうから,それをレイアウトして鍋にスープを入れるだけならこんなものかもしれぬ。お決まりの「鶏飯の食べ方は分かりますか?」には「ハイ,大丈夫です」と,自信を持って答えておく。具は種類ごとに色栄えも考えられているのだろう,鮮やかに灰色の重い皿に載せられている。その具を乗せる“労力”に応えるように,こちらも白飯の上に丁寧に具を乗せていきたいところであるが,途中でグダグダになってきてしまい,最終的には下品な代物に成り下げてしまう。
その“流儀”に従って…というか“いつも”のように,まずは順当にごはんを茶碗の3分の2ぐらいによそう。ここに具の半分を入れていき,淡々と熱いスープをかけてサラサラと流し込む。スープの上品さはあいかわらずだ。脂っこさが微塵もない。これをかきこみつつ,途中鶏刺しを突つく。ニンニクじょうゆが食欲をそそる。ここは純白の飯で食べたいところだが,目の前の飯にはスープと具がまだまだ入っている。仕方がないので,テキトーにスープが染み込んだ飯で鶏刺しもいただくことに。
それでも,スープが減ってきて茶碗の中が“オジヤ”状態になったころ――ここからが今までとは違うのだが…と言っても,殊更に語ることでもないのだが,残りの鶏飯の具を入れてスープもおたまで1杯すくって入れてしまったのだ。具があるから飯に手が行き,スープに手が行き,箸が茶碗に行き,こうして私の胃袋に流し込まれたものが血となるだけならまだしも,贅肉となってそれが身体をビミョーながらに蝕み,不用にγ‐GTPの数値を上げてしまったり,はたまた検査に行く羽目になったりしてきたのだ(「管理人のひとりごと」Part41Part42Part43Part69Part70参照)。
すなわち,すべては自分の食欲コントロールミスで,「食べる→太る→身体に異変→検査→異常が出る→そのときは反省する→時間が経って気が緩む→食べる→太る…」という“無限ループ”にはまっていたわけである。食べるおかずがなければ白飯を食う動機付けが失われ,やがては食事を終わらせることにつながっていく――要領悪く書いてしまったが,今回については,要は「具があれば何となく食っちゃいそうから,具そのものをなくせばいい」というシンプルな考えに至っただけだ。
その代わりといってはヘンだが,おひつにまだ残っている白飯を少しだけよそって,少し残った鶏刺しをニンニクじょうゆで食べることにした。どこかひねくれ者の私としては,この味のほうが,鶏飯よりもよほど至福の瞬間だったりする。そして,お櫃には半分くらいの飯が,鉄鍋にも半分ぐらいのスープが残ったが,席を立つことにした。店側にはちと申し訳ない気がしないでもなかったが,こんな些細なことでも,自分にとっては結構大事なことだったりするのだ。(第2回につづく)

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