奄美の旅ファイナル

トンビ崎をからそのまま進むと,志戸桶(しとおけ)海水浴場。10月だからか,人は誰もいない。一応トイレとシャワー施設があるようで,あいかわらずの強風から逃れようと建物の中の通路に入るが,かえってそこが風の通り道になって逆効果だ。
その先には「平家上陸の地」という石碑がある。1185年に源氏との「壇の浦の合戦」に敗れた平資盛(たいらのすけもり)以下200余名が,1202年にこの付近に上陸する。近くに七城(ななじょう)を築城し,平家盛(へいけもり)という森を築いた後,主力は奄美大島に侵攻・支配していったという。海水浴場の前には,背の高い樹木に囲まれて菅原神社というのがあるが,これもまた資盛らによって,神のご加護を祈願して建てられたものとされている――ちなみに,資盛が支配したのは加計呂麻島は諸鈍(第2回参照)。彼を奉ったのが大屯神社で,そこで行われる伝統芸能の諸鈍シバヤは,資盛が時々城中に土地の人を招き入れて酒宴を開き,芸を披露するなどしたところから始まって,やがてそれが土地の人によって演じられるようになったということである。
無論,これもまた「伝説」であることは想像に難くない。そもそも,資盛は壇の浦の合戦で敗れて,そのまま入水自殺をしたとされているし,平家自体も1199年に滅亡している。よって,あり得ない話なわけだが,地元の人間にしてみれば,いい意味で「そんなことはどうでもいい」ということなのだろう。すべてが史実だけで語られてしまうと,それはあまりにつまらないことに違いない。
そもそも冷静に考えれば,その50年前に天敵なはずの源氏は源為朝が上陸している(前回参照)ことになっているのだ。為朝がその後沖縄に行って結婚をして,その子が琉球王・舜天になったというストーリーと,平家の奄美支配が同時期に行われたとしたら,南西諸島のどこかで必ずや「第2の壇の浦の合戦」が起こっているはずなのだ。でも,これはこれでもし,少しでも現実味を帯びていたら……歴史好きにはたまらない想像だろうが,あまり書き並べるのは知識の薄っぺらさを露呈するだけだから,ここいらでやめにしておこう。

@加計呂麻人情バスに乗る
再び1周道路に戻って,今度はしばし南下していく。「500年のイヌマキ」なんてのがガイドマップに書かれており,たまたま道が広くなった角っこに,看板がついた大きな樹木が見えた。しかし,そばに寄って見てみると,失念してしまったが違う名前だったと思う。しかし,ふと後ろを振り返ると,更地の後ろに直径10m以上のカップ状の岩があり,その上にガジュマルだか何だか分からない樹木が,その岩を覆い尽くすように立っている。岩の下から根が貫いているのか,はたまたその岩が硬いと分かって,それを覆うように根が生えているのか,よく分からないが,こっちのほうがよほどグロテスクでインパクトがあると思う。デジカメがあったら,確実に収めたい光景である。
次の塩道(しおみち,しゅみち),早町(そうまち)といった集落は,特段見るものがない……と書くとウソになるか。「モクマオ林」とガイドマップに書いてあるが,いざ集落に入っても看板がない。なので通過とならざるを得ない。集落としてはサンゴの石垣が多く見られ,中には石垣だけ残されて家がないとか,ヒンプンだけが残っているとか,あるいは墓があるというケースもあった。
後で確認したら,この辺りは「塩道長浜節」という島唄の舞台とのことだ。“けさまつ”という美女に一目ぼれして,しつこく言い寄った男性がいた。彼はここ塩道の“長浜”でブロポーズでもしようとしたのか。すると,けさまつは連れていた馬の手綱を彼の足に結わえる。そして,何と彼女は突然馬の目前で傘を開いた。驚いた馬は駆けだし,あわれ,彼は砂浜を引きずられて死んでしまう。島唄ではその彼の亡霊が泣いているという歌詞が登場する。けさまつが酷い女だという一方で,言い寄ってはならない神高い人だったのではという説もあるという。
その“長浜”という言葉が示すように,この辺りの海岸線にはかつて美しい砂浜があったようだが,今では埋めたてられてしまったという。赤土と生活排水が海に流れ込んでヘドロ状にたまったのがそもそもの発端だそうだが,住民の声として「事前の打ち合わせがなかった」「ヘドロを取って,少しだけ埋めるものだと思っていた」というのがあるという。はたしてどっちの言い分が正しいのか――無論,海岸を見ていないでとやかくは言えないが,「いつまでも昔のままであってほしい」というのはあまりに観光客の身勝手で陳腐な意見・要望なのだろうか。
さらに南下すると,「→ソテツ巨木」という看板。畑の中の路地を入っていくこと1分,巨木というよりは“太ったソテツ”が,高台の上に生えていた。周りにもたくさん樹木があるせいか,ちょっと目立ちにくいが,このソテツを見ると,つくづく南国に来たという実感を持つ。「樹齢300年,樹高6m,胸高4.2m,裸子植物」――生物をはじめ理科は苦手だったが,“裸子植物”という言葉を久しぶりに見た。今もその意味や定義を聞かれると,即答しかねる。辞書で調べようかと思ったが,やめておく。
その巨木のそばには,数十p四方の祠に入れられた「聖珠観音」という小さな観音様の姿。その祠はガラスケースでさらに収められている。何でも喜界島の守護神とのことで,「イーヌー,ムーサールー,イーヒートゥーイに感謝し,一礼して参拝 平成10年11月,聖凰」と,そばの案内板には書かれている。なんのこっちゃ分からないが,ソテツの雌花の珠状を,あたかも“聖珠”と見たてて,崇め奉ろうってことだろうか。考え様によっては,その中にある赤い実もまたシンボリックに見えてくる。
さらに南下すると,ここはいろんなガイドブックにも載っている「阿伝のサンゴ石垣」。ただし,看板などは一切ナシ。道端のバス停を見つけて「あ,ここが阿伝か」。でもって「なるほど,石垣があるな」という感じ。それ以外には何もなさそうなので,一度は通過してしまったが,石垣は中に入った路地に向かって延びているようだった。時間はまだ14時半で,余裕は結構ある。後はせいぜい俊寛の像を見つけ出すことしかないようだし,引き返して集落の入口にあるちょっとした広いスペースに停めることにする。そばには掲示板。近くにある小学校の公開授業の案内が貼られていた。
集落は実に静かだ。ガイドブックに載せているわりには,観光客の姿は私のみである。集落に向かっては2本の道が延びていて,1本は舗装されていたが,もう一方は砂の道のままだった。個人的にはサンゴの石垣と砂の道というのは,竹富島の好例(「沖縄標準旅」第6回「沖縄はじっこ旅U」第8回参照)に見られるようにワンセットだと考えているので,結構気に入った。さすがに竹富島のような白砂というわけにはいかなかったが,かえって普通の砂だからこそ,「より素朴な手付かず感がある」という印象を持つことができる。海に面した集落ってのも,また情緒たっぷりである。
集落に入ると,雨風に数え切れないくらいにさらされて,いい感じに古ぼけて黒ずんだ色合いになった素朴な石垣が連なる。一つ一つの石は大きさも形も不ぞろいなわけだが,どういうわけか積み上げるに従って平らに近づいていき,格好もついてくる。それでも上を極力真っ平らにしたいのか,石の隙間に細かい石(あるいはサンゴを砕いたものか)を敷き詰めて,コンクリートか何かで塗り固めているところもあった。そして,そんな真っ平らになったところに,ふと黒くモソッと動く物体が目に入ったが,猫がちょうどシエスタしているところだったのだ。時間もいいタイミングだ。何もなされず石の凸凹の上だったら,こうはできないだろう。
家々は平屋建てばかりで,屋根もトタン屋根だったりする。空家のままだったり,何もないままという場所もある。とても,ここに2階建ての新築の家はなじまないだろう。石垣のそばには,植えられたのか元からあったのか分からないが,ガジュマルの木がからんだり,あるいは石垣の隙間から草木が生えたりもしている。この隙間,ちなみにハブの棲み家だったりするから,むやみに近づくのは危険なのだが,それでも近づいて見てしまったりする。もっとも,後で確認したら,この島にはハブがいなかったそうであるが。
これら「石垣・ガジュマル・砂の道・静けさ」という一連の光景は,私にとって一種の“癒し”をもたらしてくれる。あるいはこれに上記の「ソテツ」や,はたまた「アダン」「やしの木」というのも加えていいだろう。大抵沖縄や奄美に行くと,気持ちがリフレッシュされてくるものだが,その要因はこの象徴的なアイテムにあったのだと思う。美味い食べ物や泡盛,青い空と美しい海岸ももちろん重要アイテムではあるが,それらは奄美ではどちらかというと少ないような気がする。目に入っていないだけなのかもしれないが,にもかかわらず沖縄と同時に奄美にも行きたくなるのは,両者に共通な「石垣・ガジュマル・砂の道・静けさ」であったことに,おぼろげながら気づいたような気がした。

集落の入口に戻る。そばにバス停があった。南本線と北本線の2本。島の1周道路を循環するバスのようだ。平日は1日9便の1〜2時間おきで,休日は同6便。島内で2度ほどバスとすれ違ったが,加計呂麻島みたいなマイクロバス(第2回参照)だったと思う。あるいはどこかの大型旅館が保有する送迎バスレベルであろう。
近くには整備された公園がある。もちろん海に面している。そこに石碑があったので一度停めようかと思ったが,たまたま地元のガキがその石碑にたむろっていて,停めるのをためらった。そこへはいま車を停めている場所から50mほど離れているが,とりあえず歩いていく。あいかわらずの強い風と白波である。空も少し曇り加減になってきた。
公園はブランコがあったり,東屋があったりと,ごくごくどこにでもあるようなものだ。ガキたちはそっちのほうに移っていた。肝心の石碑はその入口にある。高さ3mくらいの石垣に,80cm×60cmほどの亀甲型の石のプレートが埋め込まれ,「日本復帰記念碑」と書かれている。そして,その脇から石段で上がれるようになっている。ガキはおそらくこの階段にいたのだと思う。で,上がってみると……ま,「気持ち高かった」ってだけだ。脇っちょに何か石があったが,それが何かは分からなかった。
車に戻って,再び出発する。後は上述の通り,俊寛の墓を探すだけである。しかし,ガイドマップを見れば,「百之台」「百之台国定公園」「百之台牧場」と,“百之台”というキーワードがのきなみ飛び込んでくる。午前中に中西公園(前回参照)に行ったときも,何度となく看板を見ていたし,せっかくなのでここも見ておくことにしよう。
もはや場所は忘れたが,内陸に入れる道に出会ったので,そこを入る。多分「百之台公園」と書いてあったのだろう。途中で「夫婦ガジュマル」という,“気根”と呼ばれる太い根が幹にカーテン状にからみついて不気味な様相を呈しているガジュマルを横目で見やると,道は一気に坂道となった。無論,狭い。でもって,気がついたら中西公園からの直角カーブの道(前回参照)に出た。後は「百之台公園」という看板を頼りに進む。たしか2km以上距離があるのだが,その距離以上に看板の指示がいまいちはっきりしないように思えて,かなり長く走ったように思えた。
そして,15時10分に百之台公園到着。少し空に近づいたような気がするが,残念ながら空からは水滴がまた落ち始めている。なので,駐車場に車を停めると急ぎ足で,奥のほうに見える展望台に向かう。きちっと整備された公園であり,「奄美十景」と言われるだけあってなるほどいい眺望ではあるが,ここもまた人はゼロだった。島で一番の眺望かもしれないのに,台風であることを差し引いても,まあ地元の人間の意識はこの程度なのだろう。飛行機か船で渡ってきた観光客がテキトーに騒いでくれれば,必要以上にアピールすることもないってことだと思われた。
……さて,これでホントに後は俊寛の墓探しとなる。道が単純なようでいて複雑なので,百之台に来るときに道をしっかり覚え,その通りに帰る。そして,後は中西公園から湾に向かったときのルートを何とか辿って,喜界徳洲会病院や町役場のあるメインストリートに一度出ることにする。この道を基準にしないと,俊寛の墓への道が検討つかなくなるのだ。時間は15時20分を過ぎたので,あと40分ほどで車は返す必要がある。少々焦りの色が出てくる。
ガイドマップを見る限りでは,このメインストリートからまさに病院近くの路地を入った辺りに「僧俊寛の墓」と書いてあるので,2度目のトライをする。こういうときにガイドブックがないのはつくづく痛いが,多分あったところでそんなに細かい地図になっているわけないから,ムダだったかもしれないが……うーん,いまいち感覚がつかめない。数回失敗したのち,再びもしかして1回通ったと思われる上り坂の道を入る。右には古ぼけた公民館。なるほど,たしかに1回ここは通った。午前中にこの道の奥で喜界徳洲会病院の建物を見つけて,坂を下って近くに出たのだ。
すると,その建物の手前に胡座をかいた銅像が見えた。頭部はキレイな円を描いている。ん?……スピードを落として目をこらして見てみると……おお! ここにあったか。長らく探したぞ。俊寛の墓だ。その銅像がある台座の入口に,胸の高さくらいの位置で小さな「→俊寛の墓」という案内板があった。まったく,分かりにくいぞ!! 喜界島を案内するガイドブックのすべてといっていいくらいに,ここ俊寛の墓は載っているはずだが,それに対する町の観光課の態度がこれとは!――その案内板の後ろにくっつくように大きな樹木が立っているために,上から下りてくるとその木が看板を隠してしまっているのだ。うーん,これを書いていて,思わず町の観光課にクレームのメールを出したくなってきたぞ。せめて,メインストリートの入口くらいには大きな看板がほしいものである。
……気を取り直す。俊寛の坐像は,のっぽのヤシの木の下にあった。顔は思いっきり山本小鉄氏に似ていた。その隣に数十cmほどの石碑がポツンとある。上には木造の屋根がついていて,数m四方の柵囲いがしてあった。石碑の前にはオオタニワタリが生けてあった。隣には土俵があり,その向こうは30m四方ほどの芝生の公園が整備されている。中央にはHITACHIのCM「この木何の木?」に出てきそうな,高さ10mほどの巨大ガジュマルが2本,大きく枝葉を広げている。
僧・俊寛(1143-79,1181年没という説も)というと,個人的には何度となく日本史の受験問題に出てきて,ほぼ正解率100%だった記憶がある。キーワードは「1177年」「鹿ケ谷の陰謀」「鬼界島に島流し」だ。おかげで頭にこびりつくほど覚えてしまい,今回半ば脅迫観念的に訪れてしまった次第である――1177年,京都は鹿ケ谷にある俊寛の山荘で,藤原成親(ふじわらのなりちか,1138-77?)・藤原成経(ふじわらのなりつね,1155?〜1202)父子や平康頼(生没年不詳)らと,平清盛(1118-81)の討伐の密議をしていたのが発覚。藤原成経,平康頼そして俊寛が,ここ喜界…もとい“鬼界島”へ流罪に処せられる。成経,康頼は後に放免されて帰京できたが,俊寛はそのまま島から出られずに没する。
それから,この辺りは「坊主前(ほうずんめー)」という地名で呼ばれ,俊寛が眠っていると語り継がれてきた。しかし,本格的にそれが鑑定されたのは1975年のこと。当時東京国立博物館の人類学部長(のち東大名誉教授)・鈴木尚(すずきひさし)氏に鑑定を依頼。俊寛の墓と伝えられる墓石の下を発掘調査したところ,人骨や木棺など有力な資料が出てきたという。
詳細は専門家でないのでよく分からないが,身分の高い人のものであることに間違いないという結論に至り,ここが俊寛の墓であるということになった。ちなみに,俊寛の像が建てられたのはそれから10年後の1985年とのこと……ってことは,ここに100%間違いなく俊寛が眠っているというわけではないってことだが,この際どーでもいいことにしようか。「鬼界島」というと,いかにも嵐で荒れ狂った波の向こうにある,トゲトゲした岩だらけの恐ろしい離島に思えてくるが,実際の「喜界島」は実に穏やかな気候で静かな島ではないか。まあ,京都からかなりの距離を,当時の船舶技術からしてさぞ粗末な船で来たのかもしれないし,京都へ最後まで帰らせてもらえなかったという悲しさも手伝って,より「喜界島」を「鬼界島」足りえさせてきたのだろうと想像する。

――こうして,16時にトヨタレンタカーに戻る。ホントは「村田新八(むらたしんぱち)謫居地」というのも見たかったが,こっちは最後の最後まで見つからなかった。薩摩藩士で,西郷隆盛が徳之島に流罪になったとき(「奄美の旅アゲイン」第3回参照),一緒に喜界島に流罪になったそうだ。ま,これは今書いているときに調べただけだが。
話を戻して,精算すると7350円。乗ってきたスターレットで空港まで送ってもらう。事務所は開けっぱなしで来てしまったが,大丈夫なのだろうかと心配しつつ,店の女性と別れる。待合室は初めこそ人がいなかったが,やがて来たときと同じように,人やら荷物やらでごった返した。
時間があったので,空港の中にある小さい売店で,喜界島名物と書かれていた「大豆糖」という菓子を購入。105円。待ち時間や家に帰ったから食べたが,その名の通り大豆に砂糖をまぶしたような素朴な味。でも,家に帰ってから何気に賞味期限を見てみたら「2004年9月21日」――おいおい,賞味期限切れのを買っちまったのかよ。まあ,たしかに売上げがありそうには見えなかったから,商品も特に検品とかすることなく,置きっぱなしにしちゃっていたのかもしれない。

(1)プロローグ
奄美空港には,17時25分到着。これまた19時発の羽田行きまで時間があるので,少し早いが夕飯を取ることにする。レストランがあるにはあったが,すでに満席。入口に“空弁”の張り紙があり,奄美の食材を使った弁当だというので,これを購入する。650円。
空港の端っこにあるベンチで,中身を開けて食する。真ん中に大きく陣取るのは,炊き込みご飯風に味付けされた鶏飯。錦糸卵と紅生姜とグリンピースが乗っかっていたが,味は薄かった。そして,それを囲うように八つの小さなスペースがあって,トンカツ・パパイヤ炒め・もずく・油ゾーメン・トンコツ煮込み・砂糖餅に砂糖豆というラインナップである。パパイヤ炒めはささがきごぼう風になっていて,油ゾーメンはそうめんチャンプルー(または「そーみんたんやー」→「サニーサイド・ダークサイドU」第3回参照)そのもの。トンコツ煮込みは,そのままトンコツと,切干大根・ニンジン・インゲンが入っていた。味は……650円にしてはまずまずの味だった。
搭乗口で日本シリーズを見ながら,しばし待ち時間。近くで親子連れが空港の係員と話をしていたのが聞こえたが,2日後ぐらいに台風がこの辺りに来るそうだ。でもって,日程を切り上げたりなどで,今日は満席まで埋まったという……そんな話を聞きながら,ふと近くの売店で目に入ったのが「みき」という張り紙。奄美で飲まれている飲み物で,甘酒のアルコール抜きっぽい味がするという。原料はさつまいも・米・砂糖。栄養価が高くて,食欲がないときに飲んで栄養補給をすることもあるそうだ。
そういや,今回で奄美に来るのは最後だ。一度はメシを食ったばかりだからとやり過ごしたが,たまたま中年カップルが“チャレンジ”しているのを見た。値段は210円と高くないし,「悔いのないように」と思って売店のオバチャンに声をかける。
「すいませーん,“みき”ってありますか?」
「申し訳ありません。解凍に時間がかかるもので…」
うーん,やっぱり「後悔先に立たず」だ。さっきの夫婦に飲まれてTHE ENDになってしまったようだ。日程を1週間ズラした時点で,今回の旅には運がすでに半分なかったのかもしれないが,これじゃ,また奄美に“みき”を飲むためだけに来なくちゃいけないのだろうか。(「奄美の旅ファイナル」おわり)

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