津軽十三湖の歴史(十三湊の歴史1)
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十三湊の歴史1

十三湊の歴史1(阿倍比羅夫、十三湊で大宴会)
中世の国際貿易港十三湊は、それより昔、古代はどうだったのか。東北の歴史を研究している偉い学者の推測について報告。

 津軽にあった中世の国際貿易港といわれると、平泉の奥州藤原氏との関係が気になります。今のところ、津軽と藤原氏との関係について文献上分かっているところはありません。しかし、奥州藤原氏が東北を支配していた12世紀の遺跡が、津軽地方で次々と発見されています。そこからは、藤原氏が好んだ京風のハレの宴席で用いられた「かわらけ」が多く出土しています。藤原氏の都市があった北上川流域や藤原氏の直轄地以外では、その出土量は突出しています。北海道や大陸北部との交易を重視していた平泉政権にとって、津軽の安定は必要不可欠だったはずで、十三湊にも平泉の影響があっただろうと思われます。

 古代や中世の東北に造詣の深い、福島県立博物館館長・東北大学名誉教授の高橋富雄氏は、著書『平泉の世紀 古代と中世の間』で、古代から奥州藤原氏時代までの十三湊について興味深い想定をしておられます。そこで、十三湊の歴史1・2・3・4で、それを紹介していこうと思います。

 大化改新直後の658・659・660年、越国守安倍比羅夫(こしのこくしゅ、あべのひらふ)による日本海大遠征がありました。比羅夫軍は日本海を北上。蝦夷を制しつつ、顎田(秋田)郡・渟代(能代)郡・津軽郡を新たに建設し、北海道の蝦夷郡(臨時のエゾ郡)建郡にまで及んだと『日本書紀』は伝えています。従来の日本古代史では、陸上の大和政権がやっと秋田に勢力を及ぼすのが733年であることを考えると、それより70年も前に津軽郡や蝦夷郡を立てることはありえないということで、書紀のこの記載をウソ臭いと思っていました。しかし、比羅夫遠征はあくまで海上遠征です。後世のヨーロッパがインドの港町であるゴアやカルカッタを支配した大航海時代のように、領土を取るのではなく港に郡府を置いたかたちの建郡ならば、十分可能性がある、というのが高橋氏の考えのようです。

 安倍比羅夫はこの遠征で、「有間浜」に北海道の蝦夷を招いて宴会をしまくったといいます。高橋氏の地名考証によると、「有間浜」は「アリアイ浜」の当て字で「有合浜」が正しいそうです。「ありあい」浜とは「居あい」「出あい」「行きあい」「交易しあい」の港の意味です。本州と北海道の往来船が行き交い、交易しあう港であったわけです。そして、比羅夫が津軽郡を定め、郡領を任命したときの郡府港(郡の中心としての機能を持つ港)は、「有間浜」だったはずであるというのが高橋氏の考えです。本州と北海道とが交易しあうのに便利な「有合浜」という郡府港こそが、後の十三湊だったとみています。

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