津軽十三湖の歴史(十三湊の歴史4)
十三湊の歴史4
十三湊の歴史4(奥州藤原氏滅亡)
高橋氏の推定その4
奥州藤原氏が鎌倉に滅ぼされた後、藤原氏が十三湊に温存していた軍隊をかき集めて、遺臣が反鎌倉の兵を起こした話。
さしも繁栄を誇った平泉も、鎌倉の源頼朝に攻められ、敗れた藤原泰衡は奥大道にそって北へ敗走しました。行き先は十三湊。泰衡は十三湊の総督府の軍を合わせて鎌倉軍に反撃をする予定でした。しかし敗走中、比内郡の譜代の臣、河田次郎の裏切りによって命を落としてしまいます。
平泉滅亡後、奥州の戦後処理が行われました。津軽十三湊の総督府は、宇佐美実政が津軽総地頭として任命されました。それまで総督府の奉行だった大河兼任(おおかわかねとう)は、これに不満を持ちます。そして、藤原時代の総督府の残党を集めて反鎌倉の軍を起こしたのです。
前の平泉攻略と違って、今回は鎌倉をてこずらせました。兼任は、「古今の間、未だ主人の敵を討つの例あらず、兼任独りその例を始めんとす(昔から今まで、主人のかたき討ちをした者は一人もいない。日本史上で最初の、赤穂浪士なみの仇討ち合戦をやるんだ!)」と揚言して挙兵しています。藤原泰衡が死んでしまったために、結果的に仇討ち合戦となりましたが、本来なら泰衡を迎えて本格的な反撃をするために用意されていた反乱軍です。鎌倉相手に善戦できたのも当然かもしれません。
大河兼任の反乱軍は宮城県北部一迫の戦いで敗れました。その後も各地で何度か散発的な抵抗は試みるものの、乱が起こした翌年の3月には兼任も土民に殺されてしまい、乱は終結しました。続いて津軽を支配することになったのが、安東氏です。安東氏は、かつて奥州に威を張った安倍貞任(前九年の役の主役ですね)の末裔を名乗っていますが、出自不明の一族です。この安東氏の下で十三湊は中世を迎えました。
ところで、今まで当然のような顔をして、大河兼任は津軽の地頭であるかのように書いてきました。しかし、これも高橋氏の推定であって、一般には、秋田県八郎潟町近くの大川にちなむ豪族と考えられています。しかし高橋氏は、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』を検討して、大河氏は津軽の豪族であると考えました。
- 大河兼任は、源義経を称したり、木曽義仲の嫡男を称したりしていること、歴史始まって以来始めて主君の弔い合戦をすると呼号していること、多賀国府(京都朝廷の奥州における最高機関)の新旧留守氏もこれに同調していること、などから、高度に政治的指導性を高く評されていた高級武将で、平泉政権では藤原一門並みの地位にあったと考えられる。
- もし秋田地区にそれほどの大豪族がいたなら、奥州藤原氏討伐のために派遣された鎌倉の北陸道軍が秋田あたりまで進んで、秋田三郎致文らを討ち取り同地方を鎮圧した戦いのとき、主力軍として参戦したはずである。兼任の大兵力が無傷で温存されていたということは、彼が秋田の豪族ではないことを意味する。
- 秋田県や山形県の各地で反乱勢力を一斉蜂起させたのち、兼任が兵を動かした。南下した後、宮城県と山形県の県境を越えて、多賀国府に進軍しようとした。しかしその途中、秋田八郎潟の凍った川を渡っていたところ、氷がにわかに消えて自軍の兵5千人を溺死させてしまう。自分が良く知っている地元秋田の進軍でこんな失態をするだろうか。兼任が秋田の地の利も地の理も全く心得ていない、秋田以外から来た将軍であったことは明らかである。
- この溺死事件の後、兼任は仙北・山本の方に向かい、『津軽に到り、重ねて合戦』している。鎌倉に向かうはずなのに、本拠といわれている仙北・山本・秋田で激減した軍を回復させることもなく、しかも逆方向の津軽に向かったのは何故か。さらに、津軽では『重ねて』合戦をしたという。これは、前に一度戦い、今回はその二度目の戦いということではないか。だとすれば、兼任旗揚げの地は津軽ということになる。だからこそ、軍を再編・再起するために津軽に戻った。そして、津軽総地頭の宇佐美実政を討ち取り、退勢を挽回した。
- 津軽では古来、岩木川を大川と称してきた。大河兼任の大河は、ここと結ぶことができる。彼の子供や兄弟の名も、青森の各地の地名に結びつけることができる。