![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
TOP | ザシキワラシ | 為朝琉球渡り | 義経=ジンギスカン | 津軽十三湖伝説 | |
比羅夫遠征から60年後、『続日本紀』西暦720年正月23日のくだりには、次のような記述があります。
『渡嶋津軽津司従七位上諸君鞍男(わたりしまつがるのつし、もろのきみくらお)等六人を、靺鞨国(まつかつこく:シベリア沿海州あたり)に遣わし、其の風俗を観せしむ。』
これまでの日本古代史は、渡嶋津軽津司などという職が後にも先にも文献上初めて登場するものであること・この時代、陸上における大和政権は秋田にすら手が届いていなかったことから、この記載を冗談だと思っていました。
しかし、安倍比羅夫による港支配という建郡方法を想定(後世の欧州諸国による大航海時代みたいなもんです。貿易に必要な港とその周辺は統治するけど、そこからさらに領土を拡大したりするのは後の時代でした。航海する人には、港としての機能が必要なのであって、土地が必要なわけではないのです。)すると、たとえ陸地の領土が秋田に届いていなくても、津軽に渡嶋津軽津司という人の話が登場するのは、自然なことなわけです。そして、比羅夫が郡府港化した「有間浜」は60年の間整備・拡充され、従七位の官人が津司(知港事)として常駐するようになるほどの官府港になっていたということが分かります。
その後同職や港の話が登場しないことから考えて、8世紀以降、北の海は放棄され、北の官府港の歴史も閉じられたようです。その代わり、渡嶋津軽津という港が、“さいはての国の都督の港”として栄えたという伝承が残り、その伝承が奥州平泉時代に受け継がれました。「遠長湊(とおおさのみなと)」つまり、古代、遠国支配のために大和から派遣された長官が知港事として駐在した府港、という意味です。高橋氏の考証では、十三湊(とさみなと)の語源は、この「遠長湊(とおおさのみなと)」であるということです。