津軽十三湖の歴史(東日流外三郡誌、一部に浸透する)
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東日流外三郡誌、一部に浸透する

東日流外三郡誌を資料にした歴史関係の本が登場していたり、検証が終わっていないのに本物として扱っているという話。

 『東日流外三郡誌』の出現以降、東北の歴史にゆがみが生じました。いわゆる正統派の歴史学者たちは同書に見向きもしませんでしたが、その他の人たち、例えば作家さんや、素人歴史好き、アヤしいもの好き(私のことですね)、ついでに代議士たちの心もくすぐりました。心をくすぐられただけでなく、ドップリはまった人たちもいて、そんな人が本を出版したり、地元の町おこしのつもりか観光アピールに使ったりして、『東日流外三郡誌』が史実であることが、あたかも当然のことであるかのようにして混入が始まりつつあります。

 この前、東京駅前の八重洲ブックセンターにある歴史本コーナーの書棚前をのたくっていたら、安東氏関係の本が出ていました。「おっ、こりゃ珍しい!」と思ってパラパラ立ち読み。ところが『東日流外三郡誌』で読んだことのある“歴史”がチラホラ。「ム!」と思って参考資料を見ると採用されてました三郡誌が。著者はそれなりの信念に基づいて書いていらっしゃるのだと信じていますが、採用した資料に疑問があがっていることを断らずに本に使われていることに、衝撃を受けました。
 ショックと動揺、学者がまともに相手にしていないだけに、ニセ石器事件よりマズいのではという危惧で立ちくらみ気味になりながら(立ちくらみはウソ)、地方史のコーナーでのたくっていると、東北に伝わる古文書類を編纂したという東北歴史本が、デンと書棚にのっかっていました。「おっ、こりゃ珍しい!」と思ってパラパラ立ち読み。ところが『東日流外三郡誌』で読んだことのある“歴史”がチラホラ。「ム!」と思って参考資料を見ると、記録者秋田孝季の名が目に飛び込みます。秋田孝季とは、江戸時代に『東日流外三郡誌』を編纂したということになっている人物。彼が実在の人物であるのかどうかすら、現状では疑問があります。その他にも利用されている記録の半分近くが、W氏の偽造ではないかと疑われている“古文書”から採用されたものでした。ダブル衝撃で立ちくらみしてしまいました(立ちくらみはウソ)。

 東北の歴史は文献が少ないです。特に中世は、「暗黒時代」といわれるほど文献がありません。そんなとき、『東日流外三郡誌』のような、目玉が飛び出るような内容の古文書が出現すれば、利用したくなるのは自然なことです。青森県古文書研究会発表によると、五所川原でみつかった古文書の多くに同じ筆跡が見られるとして(W氏偽造の古文書が『東日流外三郡誌』意外にも複数あるのではないか、ということですね)、再鑑定の必要な古文書が『東日流外三郡誌』の他にもいくつかあるということでした。未だそれらの疑問点が解決していないのですが、一部の自治体あるいは私人の活動によって、『東日流外三郡誌』に関係する記念碑や神社・遺跡が“復原”されつつあるのは、突っ走りすぎではないかと思われます。

 今は亡き作家の司馬遼太郎さんは、『街道を歩く・北のまほろば』のなかで、十三湖を歩きました。
 『丘陵上に、木々に埋もれながら、いま出来の鉄製の望楼が立っていた。十三湖の自治体である市浦村がつくったものである。望楼のそばに、

「福島城」

という、木製の説明版が立てられていた。これも、市浦村の働きである。この村はじつによくやっている。国立歴史民俗博物館や富山大学をまねいて十三湖の考古学調査をすすめたのも、この村であった。』
 司馬遼太郎さんに向かって『自分たちはよくやっている』と胸を張って言えるような自治体が津軽中にあふれて、その結果分かった歴史こそが正しい歴史なのだと思います。衝撃的発見のような、いわゆる棚ボタに頼った“歴史”発見は、何も知らずに生まれてくる後世の人たちにとって、良い贈り物と言えるでしょうか。

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