津軽十三湖の歴史(十三湊の歴史6)
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十三湊の歴史6

十三湊の歴史6(交易の様子)
南の商品を北方世界に運び、北方世界の商品を南に運ぶ、十三湊はそれらの商品の集散地だった。
十三湊の支配者安東氏は、日本国内の交易だけではなく、アイヌや朝鮮との交渉も行っていた、という話

 十三湊には、西から北から数多くの船が出入りしました。例えば、富山の商人が持ち主となっている商船が十三湊に停泊していたり、十三丸と名付けられて遠く北九州ともかかわりを持つ大船があったりました。津軽の十三湊という地名が明確に文献に現れるのは、14世紀後半、十三湊の僧侶が現在の山口県で書き写したお経ですが、この僧侶の動きからも明らかなように、十三湊は瀬戸内海や九州とも海の道で結ばれていました。

 海の道を通ってどんな商品が行き来したのでしょうか。
 十三湊の遺跡からは数千点を越える陶磁器などの出土品が見つかっています。福井の越前焼、愛知県の常滑焼、瀬戸焼、岐阜の美濃焼。中国や朝鮮から運んだ青磁や白磁も見つかっています。様々なものが十三湊に集められた後、北の各地に運ばれていきました。十三湊は、北方日本における交易の中心地だったのです。

 一方、北からの輸出品は、豊かな海産物が主要でした。
 中世、北東アジアにはツングース系・アルタイ系・ギリヤーク・アイヌなどの民族がいました。日本は特にアイヌを直接の交易相手としてこれらたくさんの民族と対応していました。十三湊はアイヌ交易の最北の拠点だったのです。支配者であった安藤氏は、日本海の交易ルートから大宰府の交易ルートに乗り、「蝦夷千島王遐叉」を称して朝鮮に使者を派遣したこともあったようです。今のところ安藤氏が北東アジアにどれだけの影響を及ぼしていたのかははっきりしていませんが、十三の安藤と言えばちょっとはうるさがられてる存在だったのではないかと、私は期待してます。

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