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津軽を流れる岩木川が運んできた砂と、日本海の打ち寄せる波の作用によってできた砂州の上に町ができました。これが十三湊の町です。前潟は、今では沼のようになっていますが、昔は岩木川の水が日本海に流れ出る河口になっていて、ここに大型の船を停泊させることができました。また、日本海側にある自然の砂丘によって、前潟は嵐の直撃を避けることもできました。岩木川水系によって津軽の全域に到達でき、なおかつ、海が荒れても安心な十三湊は、まさしく天然の良港だったのです。
十三湊の町の歴史は、少なくとも13世紀までさかのぼれるそうです。最初の町は、砂州の中央ではなく、前潟に面した水際にありました。
14世紀末になると、十三湊は大きく変化します。湊を支配していた安東氏は、鎌倉幕府から「蝦夷管領」として津軽を中心とした北方支配を任されていましたが、この頃になると、「日の本将軍」と称するほどに勢力を増し、砂州の中央に大きな館を構え、館の南に砂州を二分する大土塁と堀を築きました。大土塁の北側に十三湊の支配者たちが住み、南側に町人が住んでいたようです。さらに、砂州の北端の神社から南端まで2キロを越える大通りを作りました。土塁の北側(支配者の住居地域)では道幅が7メートル以上もあります。そして、大通りと垂直に交わるように多くの東西通りが伸びました。
この大通りは、大土塁のところで西側に大きく折れて北に伸びています。支配者の屋敷があった大土塁北側地区の防御のためと推測されています。また、安藤氏の館の周囲には、竪穴建物の工房群が多数あったことも分かりました。十三湊は、単に物資を集散するだけの貿易港ではなく、原料を加工したりして商品化することも行う産業都市としての機能も持っていたのです。
大土塁の南側、町人たちの住居地区には、大通りを挟んだ両側に、町屋と推定されている建物がびっしりと建ち並んでいました。各家に1個ずつ井戸があったようです。前潟沿いの地区が、積荷の上げ下ろしといった港湾の機能を果たし、砂州中央にある大通り沿いの地区では、交易や金融に関わる商人が活躍していたと推測されています。