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14世紀の末頃から、青森県東部に勢力を持っていた南部氏(“座敷ワラシ”で登場しました。座敷ワラシ君の一族を保護した人たちです。ちなみに、座敷ワラシ様こと亀麻呂君が幼くして死んだのは、14世紀中期です)が津軽へ徐々に侵食してきました。そして15世紀後半、遂に安東氏は南部氏との抗争に敗れ、安東氏の拠点は北海道上ノ国町の勝山館や秋田県の能代市・男鹿市などに移動しました。それに合わせて北の交易港の役割も、十三湊から同地に移っていきます。北の交易拠点としての機能は、十三湊にあったというより、安東氏にあったということでしょうか。
ただ、拠点ではなくなったといっても、十三湊そのものまで衰退したわけではないようです。国立歴史民俗博物館編による『中世都市十三湊と安藤氏』のなかで、近世十三湊の成立と題して、弘前大学教授の長谷川成一という人が、そう書いておられました。
戦国時代末期。今度は南部氏が津軽から追い出されました。彼らを追い出したのは津軽氏です。津軽氏はその後の江戸幕府下でもこの地を治めました。幕藩体制化において、津軽藩では鯵ヶ沢湊(津軽半島日本海側の付け根にある港です)を通して上方に米を送り、これを販売して収入を得ることが財政の中心でした。十三湊は、十三湖に流れ込む岩木川流域の穀倉地帯から運ばれてくる米を集めるのに都合の良い港でした。舟で十三湊に集められた米が、海路鯵ヶ沢に運ばれる「十三小廻し」体制によって、十三湊は一時復活したわけです。しかし、それは中世十三湊のような国際貿易の面影は全くないものでした。当時既に十三湊の水深も浅くなっており、大船が泊まることはできなくなっていました。ちなみに、「十三小廻し」の“小廻し”とは、沖につながる大船と川舟との間を小船が連絡して米を運ぶことです。