月刊エッセイ       10/17/2003


「余暇は、よかよか」(その1)


 すいません、つまらない駄洒落タイトルをつけてしまいまして。あ、よく、おわかりですね、今月は書くことがないんですよ。だから、とりあえず、駄洒落タイトルをつけてみた。じつは衆議院選挙の話でも書こうと思っていたんです。今をさかのぼること十年前、日本新党が旗揚げした時、
〈このままではいけない。日本を建て直さなければ……〉
 なあんて、らしくないことを考え、某新人候補(その人、今は民主党の若手幹部にまでなってるんですね。あそこまで早い出世をするとは思わなかった)の事務所に連日詰めて、ビラ配りをはじめとする選挙の手伝いをしたことがあるんです。その時の体験なんかを書こうとしたんですが、まあ、選挙というのは、支持政党の好きずきもあるし、押しつけがましい文になってしまいそうなんで、見送ったのです。そうこうするうちに、月の半ばになってしまい、ええい、困った。困った時には、趣味の話でも書くしかないと思い、とりあえずタイトルをつけたってわけです。

「本岡類の今」にも書きましたが、現在、余暇の趣味としていちばんに楽しんでいるのは、今年の春から始めた硬式テニスです。むろん、若い人とプレイするほどの体力はないので、中高年の男女が集まって、週に一度の同好会を作ったってわけです。でも、無心で黄色いボールを追うのは楽しいですね。いい歳したオジさん、オバさんがラケット持って、ワーワー、キャーキャー言いながら、コートを走り回っているのを見ると、いつになっても人間には遊びが必要だな、ということが実感されます。
 会の幹事をやっている私は、雨天の時など、練習をするか否かの電話連絡をするのですが、「残念ながら、今日はできません」と言ったりすると、
「ああ、この日を楽しみに、1週間がんばってきたんだけど……」
「ねえ、なんとか、なりませんかねえ」
 などという悲痛な声が受話器から聞こえてくるのです。まさか雨の日にレインコート着てやるわけにもいかないのに、なんとかならんのか、とネバる言葉からは、執念に近いものを感じます。いや、私だって、予定の日に雨が降ったりすると、一日中、しょげかえっておるんですよ。

 じつは、テニスは初めてではありません。白いゴムボールを使う軟式テニスを中学校の3年間やってたんです。
 私が入学したのは、統合されたばかりの新設校で、当初、テニス部もテニス・コートもなかったんです。そこで、生徒有志が校庭の空いている場所を探して、コートにする許可を学校からもらったんです。しかし、学校が余分なお金を出してくれるわけでもないので、生徒たちが自分の手でコート作りを始めたんです。
 まずは偵察隊の情報に基づき、某所に侵入し、放置されていたローラーを、所有者がいないものと勝手に解釈し、無断でゴロゴロゴロと学校まで2キロほどの距離を引っ張ってきた(おーい、もう時効だよね)。まるで「スタンド・バイ・ミー」に出てくる冒険みたいでしたよ。で、最初の2カ月ほどはコート作りばかりの日々だったんです。でも、偉いでしょ。ローティーンの少年たちが、顧問の先生もいない状態の下で学校に許可を求め、しかも自分たちの手で何から何までやってしまったんですよ。うん、今の子供たちに聞かせてやりたいね。

 自分たちが作ったそのコートで、3年間、毎日暗くなるまで、ボールを引っぱたいていました。そして、中学時代のテニスには、ちょっとほろ苦い思い出もあるんだなあ。
 当初は男子ばかりだったのですが、2年生の秋になって、女子が4、5人、集団で入部してきたんです。その中に、小学校の頃に同級で、私が憧れていたSさんもいたんです。今の私だったら、〈ああ、天が与えてくれたチャンスだ〉と大喜びし、手とり足とりして多岐にわたって指導をしてしまったことでしょう。
 ところが、あの時は違ったのです。なんとまあ、無視をした。いや、無視するどころではない。男子部員は整備状態の良い第1コートを自分たち専用で使い、女子を、まだ凹凸の残っている第2コートに追いやったのです。
 当時の田舎の中学校では、女子に親切にするのは男の恥、みたいな風潮があって、男子部員は女子部員の存在を気にしながらも、仲間の目を気にして、無視という行動に出たんです。また、私に関しては「好きな子には、わざと意地悪する」みたいな、青春前期特有の心理状態も働いていたようです。で、結局、Sさんとはなーんにもなし。ああ、なにやってたんだろう……。

 ともあれ、軟式テニスのゴムボールの中には、ローティーンの頃の思い出がいっぱい詰まっているんです。そんな思い出もあるから、30数年の時を経て、硬式ボールを使うテニスをまた始めたというわけなんです。でも、この歳になると、ほろ苦い思い出なんてできないだろうな。その点だけが残念で、やっぱり若い時って、良かった……。

 よくやるようになったのが硬式テニスなら、逆に、ほとんどやらなくなったのが将棋であります。将棋は小学校の時におぼえ、中学校には昼休み将棋に熱中して先生に怒られ、高校の時は全国大会出場のため東京まで行き、大学時代には半年間ですが将棋部に在籍し、社会人になってからも将棋道場にはよく行って、作家になってからは週刊ポスト主催の第1回文壇名人戦で団鬼六氏をはじめとする強豪(?)を破って優勝、四段の免状ももらったほどの腕前なんですよ。それゆえ、まあ、おじいさんになっても将棋だけとは縁が切れないと思っていたのが、ここのところ、まったく駒を手にしていないのです。なにか、やる気がなくなっちゃった。

 理由は、いくつかあります。まず、歳をとると、勝ち負けを争うのが辛くなる。勝った負けたでエネルギーを使うのは、なにかアホくさくなってきたんです。
 それから、もう一つは将棋自体が、ここ10年ほどの間で急速に難しくなってきたんです。将棋を知らない方も、羽生善治名人くらいは、ご存じですよね。将棋がめちゃくちゃ強くて、若手大学教授みたいな風貌で、女性タレントと結婚して、そう、彼が独身時代には、若い女性の“追っかけ”まで出たという、将棋界随一の有名人です。その彼が現れてからというもの、そして、彼に続く若手集団がタイトルを争うようになってからというもの、プロの将棋が高等数学みたいになってしまい、今では、アマ四段の私が見ても、さっぱり理解できないほどの難解なゲームと化しているのです。プロが難しい将棋を指すようになると、それを真似するアマチュアの将棋も複雑で難解になる。ひと昔前でしたら、柔道にたとえれば「背負い投げ、一本!」的な将棋が多かったのが、最近は細かくポイントを稼いで判定で勝とうみたいな戦術が多くて、神経が疲れるばかりです。これではカタルシスを得られるどころか、ストレスが溜まるだけで、とうとう盤の前に座らないようになってしまったんです。

 最近ではほとんどやらなくなったとはいっても、これだけ長く将棋を趣味としていると、さまざまな思い出があります。中でも、印象深いのは、大学1年の時、半年間だけ入った「早稲田大学将棋部」での出来事であります。
 私が大学に入ったのは1970年で、その年は70年安保という一大騒動がありました。教室に行っても、授業が“自主的に”討論集会となって、そのあとは「安保粉砕、闘争勝利」と叫んで、そのあたりをジグザグデモする日々でした。1年生の私も、ほとんど何もわからないままに、
「我々は、最後の最後まで闘うぞ!」
 と大声を上げていましたが、それだけではつまらないので、夏休みの直前だったかに、将棋部に入ったんです。
 当時の早大将棋部は、キャンパスのすぐ隣にある将棋会所(民家の一階に盤が並べてあるだけという場所)の半分を借りて、活動をしていました。外では「安保粉砕!」のシュプレヒコールが響いていましたが、部室に入ると、そこは学生運動とは別世界となるのです。5年生、6年生(小学校ではありませんよ)という牢名主みたいな諸先輩方が盤の前に座って、パチリ、パチリと将棋を指している。
 すぐそばで内ゲバが起こって、火炎瓶がパーンと破裂します。炎が窓を赤く染めます。にもかかわらず、諸先輩たちは、
「金桂香(きんけいきょう)は、唐の鶏」(解説をいたしますと、将棋の駒の金、桂馬、香とキンケイチョウという中国の鳥とをかけ言葉にした、駄洒落なんであります)
「初王手、目の薬」
 なんて言って、駒を打ちつけている。いやあ、これほど外界と無関係という世界は見たことがありませんでした。
 当時は、ビートルズの解散問題が話題になっていましたが、部室の中では、ビートルズもローリングストーンズも、まるで語られることはありません。将棋を指しながら、鼻唄を歌う人もおられましたが、
「1つ出たホイのヨホホイのホイ、一人娘と−−」
 なんていう春歌とか、もっと本格的になると、
「母は来ませーり、母は来た」
 という演歌(おい、「岸壁の母」だぜ、昭和20年代だぜ)などでありました。
 当然、女子部員など皆無なわけで、このままいては、僕の青春まずいことになるんじゃいか、と、危機感を抱くようにもなったわけです。それでも惰性で部に留まっていましたが、春合宿に参加して、とうとう退部を決意したんです。
 その年の春合宿は、たしか山梨県のどこかの温泉場で行われたはずです(具体的な場所は記憶に残っていません)。つまり、重たい将棋盤をかついで、列車を乗り継ぎ、山の宿に行ったというわけです。
 せっかく、温泉宿まで来たんだから、まずはひと風呂と、思っていました。ところが、すぐに将棋の練習が始まったんですね。始まったら最後、食事時間を除いて、ずーっと盤の前に座りっぱなし。あきれて、私は浴場に行って、温泉につかりましたが、合宿中、将棋に熱中して、一度も風呂に入らなかった先輩もいたみたいです。
 だけどねえ、おかしいよね。将棋指すだけだったら、部室にいればいいわけですよ。それが、わざわざ交通費払って、しかも重い将棋盤かついでさ、温泉宿に行って、ただ将棋指しているだけって、どう考えても、まともじゃない。で、合宿から帰ると、さっさと部を辞めてしまったのです。

 なにか将棋のイメージダウンになるようなことを、ずいぶんと書いてしまったような気がしますが、将棋そのものには、公私両面にわたってお世話になり、ほんとに感謝しています。新人賞をいただき、小説家としてのデビュー作となった「歪んだ駒跡」という作品も、将棋がテーマになっています。また、長編第一作の「飛車角歩殺人事件」も、将棋のタイトル戦に関わるものです。
 でも、難しいんだなあ、将棋がテーマの小説ってのは。なにしろ、盤の前でじっとしているだけというゲームだから、場面に動きが出せないんです。かといって、棋譜を入れたりすると、将棋を知らない人に読んでもらえない。ずいぶん将棋小説は書きましたが、正直、成功作があるとはいえない(もってまわった言い方だなあ)。いえ、これは他の作家の方も同じみたいで、たとえば、斎藤栄さんは「殺人の棋譜」で江戸川乱歩賞をもらい、ベストセラー作家の内田康夫さんなんかも「王将の謝肉祭」という作品を書いていますが、どちらも大いに売れたとか、話題になったという話は聞いておりません。
 これがノンフィクションなら、大崎善生さんの「聖」とか、団鬼六さんの「真剣師・小池重明」などの話題作もあるし、戯曲なら坂田三吉を主人公にした「王将」、劇画ならば「月下の棋士」などが有名ですが、小説はどれも上手くいかない。
 どうです。私はもう諦めましたが、将棋をテーマにした小説を書こうという人はおりませんか。万が一(?)ベストセラーになったら、日本で初めて売れた将棋小説ということになります。まあ、リスクは高いけどね……。

 あれあれ、テニスと将棋を書いただけで、枚数がきてしまった。余暇に関して書くことはまだまだあります。それでは、今月のタイトルに(その1)という言葉を書き加え、来月に続くということにいたしましょう。





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