月刊エッセイ 8/16/2003
■ 踏み込まない国民性
数日来、雨が降り続いています。8月半ばだというのに、肌寒く、とうとう長袖シャツにトレーナーまで着込んで、この文を書いています。暑さが苦手な私には、今年の冷夏はしのぎやすく、ありがたいとも言えますが、ここまで天候不順な日が続くと、気持も持ち上がってきません。“重い夏”といった感じで、とくに今までの取材で知り合った農業関係者のことを考えると、野菜はまともに育っているのか、米はちゃんと収穫できるのか、気にかかります。
気候がこんなふうだからというわけではないでしょうが、春を過ぎてから嫌な事件が相次いでいます。そのうちでも、いちばん考えさせられたのが、東京で起こった女子小学生4人の監禁事件でした。犯人の若い男は自殺、手錠で繋がれた女の子は、もしそのうちの1人が逃げ出せなければ、監禁されたまま衰弱死していた可能性が大ですから、一種の無理心中と考えてもいいでしょう。
異様な事件でしたから、マスコミでも大きく取り上げられましたが、私の目にとまったのが朝日新聞に載った週刊新潮の記事広告でした。犯人が事件を起こした理由という部分が空白になっていたんですね。隠されると見たくなるのが、人間の本能ですから、私は書店まで行って、週刊新潮を立ち読みしました(すみません、週刊新潮さん。読みたい記事がそれ1本しかなかったので)。すると、犯人は重症のアトピー性皮膚炎だったと書かれていたんですね。新聞などには「犯人は持病に悩んでいた」と報じられていましたが、病名までは記されておらず、週刊誌を読んで、〈そうか、アトピーだったのか〉と、思ったわけです。
皮膚炎くらいで4人もの少女を道連れに自殺するものだろうか、と疑問に思う人もいるでしょうが、私には理解できる気がします。じつは、私もアトピー性皮膚炎だったんですね。とはいえ、軽度なもので、夏など身体が弱る季節に悪化するものの、体調が良ければ症状も消えてしまうといった程度でした。が、にもかかわらず、この病気は、とくに十代、二十代の頃には、かなり精神的負担になった。
はっきりいって、見た目がよくないんです。しかも、悪くなるのが、私の場合、夏場ときているから、半袖にもなれない。仕方がないから、クソ暑いのに長袖シャツを着て外出したりすると、まずは必ず「なぜ半袖を着ないのか」と訊かれるんです。
言い訳を半ダースくらいは用意しているのですが、そのうち、ネタも尽き、ええい、だったらと、スーツを着込んでいったりすると、蒸されて、汗だくになり、返って症状が悪化したりと、これはもう悲喜劇でした。治すためにインチキくさい健康食品に手を出してしまったこともあり、あーあ、けっこうなストレスでありました(不思議なことに、近年、気功なるものを始めたところ、この皮膚炎や湿疹がほぼ治ってしまったんですね。気功が効くとは、医学書にも書いてないのに……)。
私程度の病気でもストレスが大きかったのですから、これが重度のものとなれば、厭世的な気持になるのも不思議ではない気がします。むろん、アトピー性皮膚炎だったから、イコール犯罪に走ったわけではなく、近親者の自殺などさまざまな要因が加わって、悲劇の時を迎えたのでしょうが、病気が彼の行動原理の一因となった可能性は小さくはなかったでしょう。
ところが、この病気のことをほとんどのマスコミは触れていない。朝日新聞などは、週刊誌の広告からも消しています。これは、おそらくアトピー性皮膚炎の患者さんに対する配慮なのでしょうが、事件の真相を報道するためには避けてはいけないことなのではないでしょうか。
「金に困っていたから、殺して奪った」とか「長年の恨みが積もり積もって、とうとう包丁で刺した」とかいう、わかりやすい動機の、言ってみれば古典的な凶悪犯罪が減って、近年は“個人的な理由”が動機となった事件が増えているような気がします。宮崎某による幼女連続殺人事件もそうだし、長崎で起こった中一の少年による幼児投げ落とし殺人事件も、そういった犯罪でしょう。私自身も、昨年、出版した「絶対零度」で“個人的理由”が動機となった殺人を描いています。ここでは詳しくは書きませんが、日本という国は個人が陥った不運を増幅させるような社会構造になっているんですね。
それゆえ、“個人的理由”まで踏み込んで報じないと、事件の真相が解明できない。でも、マスコミの多くは「プライバシーの保護」「少年法があるから」「差別につながる」など、さまざまな理由をつけて、核心部分に踏み込むのを避けています。これでは、なぜ事件が起こったのかもわからず、再発防止の有効な対策も打てません。
小学生監禁事件のもう一つの側面は、ローティーンの少女が危険なアルバイトを気軽にやってしまうという点です。もちろんお金が欲しいからそんなバイトをするわけで、稼いだお金の使い道の多くは、服であります。数年前からでしょう、両親や祖父母が子供に多額な金を費やすため、小学生向けのブランド物ファッションがブームとなっていて、少女たちは競って高額の服を買い求めているんだとか。
テレビなどでも、このことはよく報じられています。でも、その報じ方は、母親がパートで稼いだお金で娘の服を買ってやっているとか、父親が「俺の服の何倍も高いよ」と嘆いている姿を、〈あーあ、びっくりしました〉といった調子でレポートしているだけなんですね。
週刊誌のアエラに、少女ファッションの仕掛け人のコメントが載っていました。小学生監禁事件とからめて、彼は次のように言っていました。
子供がおしゃれをしたいという欲望を持つのは健全なこと。今回の事件と、おしゃれブームとは本来、関係のないこと。欲望をどうコントロールさせるかが大切なことは言うまでもないが、いちばん問題なのは、大人の罠があり、危ないこともあるという教育がなされていない事実でしょう、と。
上記のコメントを読んで、(おいおい、自分に都合のいいことばかり言うなよ)と、腹がたってきました。子供向けのファッション業界が、子供の欲望を限りなく肥大させることによって商売をしているという側面には、まったく触れていない。だいたい、消費というのは、収入に見合った額の中でするもんです。それが、収入がまったくない小学生の消費意欲を過度に刺激すれば、どんなことが起こるか、おおよそ見当がつくはずです。そのあたりのことを、アエラの編集部は、どうして突っ込んで質問しなかったんだろう。
マスコミも社会も、もっとはっきり言うべきなんです。子供に高額の服を買ってやる親や祖父母は、わが子を犯罪被害者予備軍、あるいは犯罪者予備軍にしているだけだ、と。子供向けの高額商品を売っている業界(ゲーム業界なんかも、それに含まれると思うけど)は、恥ずべき商売をしているのだ、と−−。
この日本という国、踏み込んでものを言わないというのは、あらゆる分野に広がっている現象だと思います。たとえば、若者の失業率の高さ。新聞には「高校生の○割が、いまだ就職先決まらず」「大学生の就職率、さらに低下」といった記事がよく出ていて、不況の深刻さを語っています。また、お役所は、企業に新卒者採用を増やすことを要請したりしています。しかし、若者の失業率の高さは、はたして不況のせいばかりでしょうか。
数年前に私、3年制の専門学校の講師をしていたことがあるんですね。「文章の書き方」というゼミを担当してたんですが、かなりひどい学生が少なからずいた。自分の発表の番に当たっているのに、平気で無断欠席して他の人間に迷惑をかけたなんてのは、珍しくもありませんでした。その一方では、責任感も自主性も強くて、感心するような学生もいた(まあ、ごく少数でしたが)。
で、就職のシーズンになると、責任感の強い学生のほうは、ほんとにアッという間に内定を勝ち取ってくる。ところが、無責任組のほうは、秋を過ぎても冬になっても就職がきまらない。そりゃ、そうですよねえ、大人の私が、
〈もし俺が人事課員だったら、どんなに人手が足らなくたって、こいつらだけは採用しないぞ……〉
と、日頃から思っている学生を、プロの採用担当者が採るはずもないんです。
若者の失業率の高さは、こういった側面もあるはずで、企業に採用数を増やすよう要請するだけでは解決しないんではないでしょうか。それよりも、どーしょーもない連中を叩き直したほうが早道のような気がするのですが、そういったことが突っ込んで議論されることはありません。
8月15日は敗戦の日です。その前後には、戦争のことを語る人が多くなります。つい先日も、喫茶店のすぐ隣の席で、2人の年配者が戦時中のことを話してました。聞くともなしに会話を耳に入れていたのですが、苦労話をしたあと、
「戦争だけはしちゃいけない」
「うん、戦争だけはしてはいけないよねえ」
しかし、話はそこまでで、話題は別なものに変わってしまいました。
徴兵されて、中国大陸に送られ、日本兵として戦闘に加わった人と話をしたことがあります。敵の狙撃に怯え、動くものなら、民間人でもかまわず銃を撃ったし、進軍の足手まといになる捕虜も殺したと、彼は言いました。そして、最後に、
「戦争だけはやっちゃいけませんよ」
そう、ひとこと。そこまでで、あとは語らない。
でも、考えてみてください。100 人の人がいたら、99人までは戦争なんて大嫌いでしょう。私だって、嫌いです。にもかかわらず、人類は、ほとんどの人が嫌うし反対する戦争を数限りなく繰り返してきたのです。どうして、あの戦争は起こったのか、戦争を防ぐ手だては何が有効なのか、などを話しあわなければ、また戦争をやりかねないのではないでしょうか。
しかし、突っ込んだ話をしようとすると、皆さん、黙ってしまう。「戦争はするもんじゃない」の結論で満足してしまって、それから先へは進みたがらない。国民性なんだろうか。そういえば、過去、A級戦犯容疑者が総理大臣にまで上りつめてしまった国だし……。
ここ何年か、私が数々のトラブルに見舞われたことは、今年2月のエッセイ(「私が体験した日本人の劣化」)に書きました。そういった際は、むこうの担当者と話すのですが、なぜトラブルが起こったのか、その原因については、例外なく、先方は明らかにしようとしないのです。
むこうがやることは、だいたい次のよう。まず迷惑をかけたことを詫びる。次には、対応策を話しあう。つまり、欠陥商品だったら、代金を戻すとかね。しかし、こちらが、なぜ、そんなトラブルが起こったのか問うと、言葉を曖昧にして答えようとしないんです。大手電話会社の不当料金請求の時も、車検時にブレーキをおかしくされた時も、カビの生えたケーキを買わされた時も、みんな同じでした。
なぜ、トラブルの原因となるようなことが起こったのかは、きっとむこうの職場内でも、曖昧なまま決着がはかられるんでしょうね。
どうして日本人が踏み込んで物事を考えないのかは、私も長く日本人をやってるし、サラリーマン経験もありますので、理由はよくわかっています。日本人はことを荒立てたり、誰かに責任が及ぶようなことを嫌って、ひたすら避けようとするんですね。ことを荒立てると面倒が起こるし、責任追及をすると、次に別の事件が起こった時、自分が責任をとらされるかもしれない。だったら、曖昧なままにしておこう、と。
しかしねえ、曖昧決着にしておくと、また同じような事件やらトラブルが起こり、犠牲者も出るんですよ。日本人でありながら、あまり日本人的ではない私は、このあたりのことを、それではいかんと主張するのですが、なかなか聞いてもらえないんだなあ。本岡類は理屈っぽい、時には、喧嘩好きだと言われてしまったりして、ブツブツ……。
今月は、どうも愚痴っぽい話になってしまいました。天候のせいもあるんでしょうかねえ。9月はすっきりと晴れた日が続き、すっきりとした文が書けるといいのですが。




