サニーサイド・ダークサイドU

(1)シムクガマへ
さて,これで見るべきものは見てしまったことになる。時刻は15時。今から久高島はどう考えてもムリだ。知念村にある斎場御嶽はとっくに見ているし(「沖縄・遺産をめぐる旅」第2回参照),その先の佐敷(さしき)町もどこか見たい場所があるわけではない。北に行くとさっき通ってきた大里(おおさと)村だが,こちらもなさげだ。ともに一応城跡はあるようだが,どうせ似たようなものであろう。
なので,とりあえず向かう先は西である。国道331号線に出るが,この道は2月に通ったばかりの道である(「沖縄・8の字旅行」参照)。そのときに道中にある奥武島も行ってしまった。この島にあるグラスボートも,どうしても乗りたい代物ではない。いまさらどこを観るということもないのだが,少なくともまっすぐ那覇に帰るのは不毛である。
車をテキトーに進めること20分ほどか,大きな高架橋にさしかかる。下は雄樋(ゆうひ)川。地名は具志頭(ぐしかみ)村に入った……あ,そうか。この下はたしか港川集落だ。日本古代史に出てくる遺跡のある場所だ。2月にはちらっと通っただけだが(「沖縄・8の字旅行」第1回参照),時間もあることだし寄ってみよう。高架橋を渡って左折する県道に入ると,思いっきり下り坂。谷間にある小さな港町集落を通過する。小さいながら魚屋さんが数軒あり,県道脇,雄樋川の河口そばが港になっている。その前にはこれまた小さいながら魚市場なんてのもある。
遺跡…というより正確には「港川古代人骨出土遺跡入口」と書かれた“棒”は,「南洋果樹園」と書かれた敷地の入口にあった。中はどうやら庭のようになっているが,いまいちよく分からない。いずれにしても,近くにあるその果樹園の門が閉ざされていて,中に入れないのは確かだ。中国大陸か東南アジアからこのあたりを経由して本土に渡り縄文人になったと言われていることから,日本人の祖先にもっとも近いとされる港川人だが,それにしては扱いがあっけなさすぎやしないか。
後で具志頭村のホームページで確認したら,その背後辺りにあると思われる崖の裂け目(「フィッシャー」と呼ばれている)が主な発掘場所とのことだ。1967年,実業家であり在野の民俗研究家であった大山盛保(おおやませいほ)氏は,溜池の改良工事に使うつもりで,粟石(有孔虫殻主体の石灰砂岩)という石材を購入した。すると彼は,その粟石の中にイノシシの化石を見つける。その粟石が多く採れたのがこの港川だったことを突き止めると,早速発掘作業を始めることになった。そして,鹿やイノシシの化石とともに,これまで数体の遺骨が発見されることになる。背丈は150cm前後。復元された全身像が沖縄県立博物館にあるようだが,若手俳優の伊藤淳史氏のような感じにも見える。要するに,中心に造作が集まっている顔である。
ま,この遺跡もそれなりのものなのだが,それ以上にこの集落で印象に深かったのが道沿いのとある御嶽である。通りから見てもかなり目立つのである。もちろん地元民用だろうから,駐車場なんてものはない。で,上記の遺跡も見たかったことから,どこに車を停めようかと付近を3度ウロウロして,近くにある「魚市場前」というバス停の端っこに停めた……って,どーでもいいのだが,よほどこちらの御嶽のほうが見たかったくらいなのだ。
なるほど,数m四方の広場になっていて,地面はコンクリートでしっかり整備されたものである。掃除もされていて,御嶽にありがちな“放置されて朽ち果てた感じ”はない。竹ぼうきが近くにたてかけてあったので,マメに掃除は行われているとみた。香炉の両サイド,石灰岩で自然にできたと思われる“台”の上で,数mあるガジュマルの木が2本からまって立っている。そのからまり具合で,いい感じのアーチが描かれているが,まさに御嶽になるにはうってつけのシチュエーションだろう。ガジュマルの下に石が置かれてそこに樹がからまっていったのか,はたまた元あった岩を樹が切り裂いたのか,何とも幻想的な光景を見ることができる。

再び国道331号線に戻る。玉城村は見たいところがあったから,ホームページでいろいろと調べていたが,ここ具志頭村についてははっきり寄る意志がなかったので,特に調べてはいなかった。でも,名前だけは聞いたことがある「ギーザバンタ」という崖地とか,村役場の隣にある民俗資料館には上記・港川人に関する資料があったり,あるいは玉城と同様,ガマもかなり多く点在しているようだ。うーむ,またここに来てしまったりするのだろうか――と,今となっては思うところであるが,このときはそんなことなどつゆにも考えちゃいなかったのである。
……で,糸満市に入る。ここからは戦跡ロードだ。その中心にある「ひめゆりの塔」。あいもかわらず車もバスも大勢入っている。観光客は多いし,土産屋も多い。そして「レンタカー歓迎」と看板を立てた駐車場の人間が,あちこちで私に手招きをする。ここは素直に流されるがままどっかに入ってもよかったのかもしれないが,今回もどうしても通過してしまう。旅行(記)のテーマ上,ぜひ訪問すべきなのだろうが,いまいち観光地化されすぎて好きになれない。ここと首里城は,私にとっちゃ「初心者のためのハコモノ」の扱いである(「沖縄“任務完了”への道」第2回参照)。よっぽど行く場所がなくなったら,最後の最後に訪れるかもしれない。
さあ,このまま帰ろうか……いやいや,時間はまだ16時。やっぱりこのまま帰るのは不毛である。もうすぐ糸満ロータリーというところで,「→白梅(しらうめ)の塔」という看板。ここに辿りつく前から発見してはいたが,やり過ごしていた。別にこれだってどうしても見たいということじゃないのだが,いかんせん那覇にあんまり早く戻りたくないから,寄り道のためにとりあえず右折する。
――しかし,旅行から帰ってきて重大な落とし穴に気がついた。私は前回『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕』という本を読んでアブチラガマに行ったと書いたが,このタイトルをよく見ると後半には「轟の壕」という言葉がある。これ,立派な固有名詞であって,糸満市の国道331号線沿いにあるガマだったのである。しかも,ご丁寧に地図にまで「伊敷(いしき)轟壕遺跡」と書かれている。思いっきり通過していたのだ。何という失態! シムクガマはいい加減あきらめがついたが,ここも中を見られるというから,また来るべき場所が追加されたかもしれない。どんなことが起こったかについては,行く機会がありかつ旅行記を書く機会ができたときに書いてみたい。
さて,車は内陸に入っていく。初め民家がちらほらあったのが,国吉(くによし)地区に入ると,俄然緑が濃くなってきた。それを利用してか,墓も立っている。そのうち,右手に広がる背の高いさとうきび畑の中に,県道54号線が出現。右折してすぐ,さらに看板が出ているので右折して路地を入っていくと,周囲を背の高い樹木に囲まれた,神社っぽいたたずまいの中に白梅の塔が出現する。目の前には10台ほど停められるジャリの駐車場があり,そこに車を停める。ちなみに,駐車場には私1台だけであったが,すれ違いざまにタクシーが1人の男性客を下ろしていった。
「白梅」とは,沖縄県立第2高等女学校の生徒によって編成された「白梅学徒看護隊」のことを指す。1945年3月から,東風平(こちんだ)町富盛(ともり)にあった野戦病院(「白梅学徒看護隊之壕」として地図にも載っている)に配属されていたが,戦況が悪化して同年6月4日に解散。その後は散り散りになり“想像がつくようなこと”でだんだん人数は減っていったが,それでも一部がちょうどこの碑がある場所にて再会。再び看護活動を始めたのだという。
そして,碑の近くに赤瓦のお堂があるのだが,その元にガマがあって,しばらくはそこを拠点にしていたようだ。しかし,ここも例外なく米軍の攻撃に遭い,彼女らはその場で自決を遂げてしまったそうだ。1945年6月22日のこと。沖縄戦が終わったのが翌23日と言われているから,ホントに最後の最後で力尽きたということだろうか。お堂は見えていたので行こうかと思っていたが,大したことないだろうと,残念ながら見ずに帰ってしまった。しかも,ガマも中まで入っていけたというから,ちょっと後悔である。
肝心の塔は,20mほどの整備されたアプローチの向こうに,「白梅の塔」と書かれたロケットの形をした白い碑がそびえている。その土台は石灰岩が積まれたものだ。土台で数m,塔の高さも数mあるので,かなり目立っている。塔の下には「白梅同窓会」の名目で,黒い大理石の四角い碑があり,そばには千羽鶴がかけられていた。
塔までは階段がついていて上ることができるが,その途中には納骨堂もある。この白い塔自体の建立は1992年4月。そして,その塔のたもとには1.2mほどだろうか,小さく古ぼけて形も少しいびつな石碑があり,こちらにも「白梅の塔」と書かれている。こちらは1947年1月建立。そう,オリジナルはこの(失礼ながら)ちっぽけなヤツなのである。上記・白梅同窓会が少しずつお金をためていって立派な塔を造ったというわけだろう。これはあの「ひめゆりの塔」についても同様で,近くにあるちっぽけな石碑がそもそものオリジナルなのだそうだ。無論,だからといってその新しい塔を否定するつもりは毛頭ないが。

ちなみに,その全国区で有名な名称となっていて,アブチラガマ(前回参照)でも看護を行っていたという「ひめゆり学徒看護隊」は,沖縄県立第1高等女学校と沖縄師範学校女子部による編成である。前者が「乙姫」,後者が「白百合」という校内誌をそれぞれ出していて,その二つをくっつけて「ひめゆり(姫百合)」になったという“20へぇ〜”程度のハンパなトリビアはどーでもいいとして,二つの学校合同ということで人数が222人(高等女学校65人+師範学校157人)と多く,またマスコミに取り上げられたこともあったり,観光地としてもあれだけの整備がされているから,どうしても目立つのだろう。しかし,この「白梅学徒看護隊」も人数こそ55人であるが,存在意義自体が「ひめゆり学徒看護隊」に何ら劣るものでないことは言うまでもない。
何とも興味深いのだが,そのひめゆりの塔の脇には私立昭和高等女学校による「悌梧(でいご)学徒看護隊」をまつった「悌梧の塔」というのと,県立首里高等学校の女子生徒による「瑞泉学徒看護隊」をまつった「瑞泉の塔」というのがあるようだ。もちろん,いずれも建立意義は同じである。動機が不順であることを承知の上で,天邪鬼な私としては,いっそ「ひめゆりの塔」は外しつづけて,こちらの二つの塔を見に行こうかと思ってしまった次第だ。
――話を戻す。白梅の塔を出発。これから行く道沿いには戦死者をまつった碑が多い。一種の「鎮魂ロード」である。1分ほど車を走らせると,左側に立派な碑が立ったスペースが現れる。これらは「眞山の塔」「山形の塔」。二つは隣接して建っているが,時間帯なのか,訪れる人間は私のみだ。前者は細長く裾野に向かって広くなる形の碑で,近くの真栄里(まえさと)地区で自決したという人々をまつっているものだ。奥に御嶽っぽい森が鎮座しているが,後で調べたら,そこは「白梅学徒上の壕」という壕があって,軍の物資置場と白梅看護隊の仮眠施設を兼ねていたそうだ。
後者は直方体の碑で,広い土台の上に建つ。名前の通り,山形県出身者で戦死した人々をまつっている。入口脇,車を停めたほぼ目の前に地下に向かって降りていく階段があって,その奥はガマがある。柵が塞がっているので下に降りてはいけないが,どうやらこのガマで,1945年8月に山形県出身者で編成された軍隊が自決をしたようだ。8月というと,上述のように沖縄戦はすでに終わっている時期だが,はてそれを知った上での自決なのだろうか。
さらに車を西に進めていくと,十字路の角にこれまた慰霊塔。樹木の下に建っているそれは「栄理(えいり)の塔」。眞山の塔に似た塔だが,どうやら同様に真栄里地区で亡くなった人の慰霊碑のようだ。そこから少し上り坂を上がると,左に立派な階段があって,上に上がると十字架の墓碑。「バックナー慰霊碑」である。ただし,厳密には他の人間の碑もあるので,その一つが件の碑ということになる。1952年に米軍によって碑が建立されたようだが,後に宜野湾市と北谷町に渡るキャンプ瑞慶覧(ずけらん)に移され,現在のは沖縄県慰霊奉賛会が改めて建てたそうだ。それにしても,1段1段のステップが心なしか高く思えるのは,アメリカ人の墓地で,アメリカ人仕様だからなのか。十数段しか階段はないが,高さは10m近くにもなろう高さがある。
話を戻す。バックナーとは無論人の名前で,正確にはサイモン・ボリバー・バックナー中将(米軍沖縄占領部隊総司令官,1886-1945)。1945年6月18日,当時戦闘の最前線であったこの地を視察中,日本軍の砲弾を浴びて戦死したとされる。あるいは砲弾か岩のカケラが当たって死んだともされている。いずれにしてもその報復として,この一帯が米軍によって無差別に攻撃されたそうだ。
ちなみに,バックナー中将は亡くなる8日前の6月10日,沖縄守備軍司令官であった牛島満中将(うしじまみつる,1887-1945)に降伏勧告状を送付している。「戦況があまりに目に見えていた」ことからの送付であったのだが,牛島中将がこれを無視したため,さらに米軍の攻撃が激化したという。このとき牛島中将が勧告状を受け取っていたら,少なくともバックナー氏が亡くなる不運はなかったかもしれないし,それによる報復もなかったかもしれない。
……いやいや,牛島中将もその後6月23日に自決し,それが事実上の沖縄戦終戦と位置付けられているが,はたしてこの2週間足らずで――そりゃ,島内は混乱しているだろうから,終戦の知らせが確実に届く保証はなかったかもしれないが――どれだけの人間が助かったかもしれないのである。たとえ“鬼畜米英思想”の下,「とらわれるならば死んだほうがましだ」と自決する人間が少なからず出たとしても,少なくとも砲弾や攻撃を受けて戦死する人間の数は減ったかもしれない。まあ,それを約60年後の,いま思いっきりクーラーが効いているこの自室でとやかく言っても,あまり意味のないことかもしれない。よってここは「運命なんてそんなものなのかもしれない」と勝手に締めくくることにしたい。

時間は17時。「鎮魂ロード」を西に向かって下ると,国道331号線。そうそう,もう一つこの辺りで見ておきたかった場所があった。それは瀬長島(せながじま)という離島だ。ただ,離島といってもこの本島とは橋でつながっており,車で渡れるようだ。いつだったか,JTAの機内誌『Coralway』でこの瀬長島が紹介されていて,ぜひ行っておきたかったのだ。位置的には那覇空港の南側で,空港から飛び立つあるいは空港に着陸する飛行機が上空で見られるという。ちなみに管轄は豊見城市であるが,ホンの先は那覇市である。
しかし,糸満ロータリーを過ぎたあたりから車が混み始めている。まったくストップしてしまうということはないが,かといってこの道をさっさと外れるわけにもいかない。瀬長島へは名嘉地(なかち)交差点から西にカーブしていく国道331号線の小禄バイパスがシンプルで分かりやすいのだが,そこまで行くにはかなり時間がかかりそう。よって,それ以前に西側にいくらでも出たいのであるが,南北に貫く大きな道がないのである。後から調べれば路地をウネウネ入っていったら行けたようだが,そこまで余裕があるわけでもない。
地図によれば,その名嘉地交差点よりも1kmほど南の与根(よね)という交差点から左折する道が大きくカーブして,瀬長島に行けるようである。10分ほど国道を走って豊見城市に入ると,数分で大きな交差点。ここが与根交差点だ。そこで左折すると,真正面には大きなショッピングモールが出現する。道も2〜3車線と広い。まだまだ周囲に建物は少なく,開発途上なのだろう。
ちなみに,そのショッピングモールは「あしびなー」というアウトレットモール。名前は聞いたことがあったし,一度行ってみたいと思っていたが,なるほどこんなところにあったのか。那覇空港からシャトルバスも頻繁にあって,「時間が半端になったときとかに寄るのにちょうどいい」とかいうフレコミである。ま,東京でもありそうな感じだが,はたして沖縄に来てまでここに行ってみたくなったかというと……うーん,微妙である。
話がそれた。その「あしびなー」の前を右に道なりにカーブすると,一気に道は片道1車線。ゴルフクラブを左に見ると,間もなく小禄バイパス。それを左折して二つ目の信号を左折すると,いよいよ瀬長島だ。島へつづく道は,美しい弧を描くアーチ橋……なんてものではなく,思いっきり工事用の鉄板が敷かれた普通の道だ。下に水は見えるが,単なる川か入江にしか見えない。一応は海峡のはずだが,そんな感慨なぞまったくない。
しっかし,車が異様に多いな。かねてから聞いていたが,飛行機が間近に見えるし,海岸も当然あるから,シチュエーションがカップル向きなのである。で,車の中はやっぱりカップルが目立つ。まさしくカップルの島「IOC(Island of couples)」である。私のように1人で乗り込むと,答えは「虚しさ」しか返ってこない。でも,とりあえず乗り込んだのだから,車が流れていく反時計回りで1周してみる。
まず,早速「ファミリーランド」なる看板が左に見える。名前の通りの場所らしいが,一応家族向け仕様にもなっているようだ。ますます私の行くべき場所ではなくなるので,とっとと進む。すぐそこが海岸であり,道も最低片道1車線はある。カーブするところは道幅が広くなっていたり,あるいは空地もあるから,車が停め放題だ。たいていはカップルのための“オープンなる密室空間”である。釣りをしている輩もたまに見るが,そいつらもこの島ではひょっとしたら亜流かもしれぬ。
そんな中,島の入口の反対側あたりと勝手に判断して,ちょっとした広場…というか空地で車を停める。別にそこが一番の眺望というわけではないのだが,何となく記念に海を見てみたくなった。少し夕暮れっぽい雰囲気はあるが,まだまだ空は明るい。時間的に満ち潮なのか,岩肌などはまったく見えない。この満ち潮が私は好きだ。干潮は「干上がっている」,すなわち「みすぼらしい」感じがして嫌いだ。「満ちている」ほうが私にはステキだ。
島に入って10分もすると,スタート地点に戻った。こういう島の“征服”は,2月の奥武島でも経験したが(「沖縄・8の字旅行」中編参照),明らかに間違っているのだろう。でも,それは天邪鬼な私だから許してもらおう(って誰に?)。ちなみに,この島は「捨て猫や捨て犬の島」というもう一つの側面があるようだ。この島に訪れるカップルの何%がそんな“ダークサイド”を知っているのだろうか――いや,捨て猫や捨て犬同士が傷を舐め合うように愛し合い,そこからカップルが……できるかどうかは分からない。それにしても,猫だけだったらこれまた「IOC(Island of cats)」などと締めようかと思ったが……いかん,止めよう。肝心の飛行機はというと,ちょうど島から離れて小禄バイパスに入ったとき,上空を離陸していくのを見た。機体が赤い色に見えたのでJAL系統だろうか。

(1)シムクガマへ
@懐かしきレストラン
小禄バイバスを一気に走って,後はトヨタレンタカーの営業所までスイスイ……って,おいおい目の前に走っているの,軒並みレンタカーばかりじゃん。みんな考えていることは同じなんだねーと思いつつ,17時45分に営業所に到着。市内にこれから向かうため,空港への送迎車には乗らずに歩いて最寄りのゆいレール・赤嶺駅に向かう。数分前に通ったはずの交差点に徒歩で行くという体験をしつつ駅に入ると,ちょうど首里行きのモノレールが入ってきた。一応,この駅が現在の日本の駅の最南端らしいが,それを記念するものなど,どこにも見なかった……はずだ。
今回も美栄橋駅にて下車。那覇で泊まるのはこの1月の「ホテル日航那覇キャッスル」(「沖縄“任務完了”への道」第3回第4回参照)以来だが,こちらは場所が首里である。より“都心近辺”となると,昨年9月,まさしくこの美栄橋駅から歩いて30秒の「東横イン」以来だ(「沖縄“遺産”をめぐる旅」第2回参照)。今回,出発の10日前に泊まることにしたわけだが,多分ビジネスホテルだから大丈夫だろうと勝手に思い込み,それならばこの「東横イン」にしようかと思いたって,前回同様インターネットから予約しようと思ったが,どういうわけかホームページに辿り付けなかった。
あるいは,明日の朝にこの国際通りの北端から路地を少し入ったところにある「沖縄第一ホテル」に用があるのだが,そこにできるだけ近いところと思って「ホテル西武オリオン」辺りと思ったが,すでに満室。で,いろいろ巡ってみた結果,国際通り沿いにある「ホテルシーサー・イン那覇」に投宿することにした。ここはこの2月にホテルに隣接する食堂「結」に訪れているから,場所はすでに承知済みだ(「沖縄・8の字旅行」後編参照)。
その前に,一度入ってみたかった高良楽器店に入る。中は楽器屋とAVソフト店を兼ねていて,三線とエレキギターが隣り合って置かれていたり,AVソフト店側は昔のレーザーディスクみたいなものもあれば,演歌のカセット,そしてお決まりの島唄のカセット,もちろん最新のJ‐POPアイテムもあり,まさしく“チャンプルー”である。ただし,当初の予想通りというか,あの“一五一会”は置いていなかった(「サニーサイド・ダークサイド」第1回参照)。
とりあえず冷やかしだけだったので,とっとと店を出る。それともう一つ,明日の下着類を買い揃えなくてはならない。はじめは国際通り沿いの三越で少し高くなってもやむなしか…なんて思っていたのであるが,「灯台もと暗し」というのか,何度か通っている割りにはいつも通り過ぎるだけのダイエーがあるではないか。今度こそ…などと大げさなものではないが,とりあえず入ってみる。
こちらの中はというと,別にどこにでもある普通のダイエーである。しかし,土曜日の夕方という時間なのに,人は少ない。とりあえず男性の下着売場に行って,くつ下(300円),パンツ(480円),無地のTシャツ(300円)を購入する。それにしても,いくら少し外れるとはいえ,国際通りから歩いて1分の距離。それでも,俄然人の流れは少ない。無論,観光客はまず寄らないだろうし,地元民も結構国際通りに流れてしまう。そもそも地元民は,ダイエーみたいな大型スーパーに行くのだったら,自分の住んでいる地元のそれに行くのが普通だろう。よって,こういう“半端な場所”に建つ大型スーパーは,かえって経営が苦しいのではないかと想像してしまう。
18時半,「ホテルシーサー・イン那覇」に到着。いつもはカード払いだが,今回は「デラックスシングルルームをキャッシュで6555円」とかいうヤツで予約したので,きちんとキャッシュで支払う。「800円で朝食がつけられますが」と言われたが,明日の朝は上述のように用事があるのでやめる。おそらくは隣の「結」で“和定食”とかでも食べるのだろう。
ホントはもう少し安いスタンダードルームにしたかったのだが,すでに満室ということでデラックスルームなんかになったのだが,部屋へはクールにカードキーなんかで入れる。部屋はかなり広めで,ベッドはダブルサイズ。トイレもウォシュレットとなかなかの造り。値段が少し張るだけのことはあろう。これで窓から見える景色がよければ文句なしだが,窓から見えたのは建物の裏の草むらに埋もれた巨大な亀甲墓。後で見に行ったら,墓の前にはご丁寧にヒンプンまであった。

10分ほど休んで外に出る。昼にチャーリーレストランでボリュームのあるランチを食したが(第1回参照),そのまま何も食べないというのはさすがにキツい。なので,軽くつまめる程度にしたい。いつもウエイトレスが入口に立っている石垣牛ステーキの店も,ぶくぶくコーヒーとトロコーヒーがある琉球珈琲店(「沖縄・遺産をめぐる旅」第4回「久米島の旅」第4回参照)も,この間参議院選挙でなぜか当選してしまった喜納昌吉氏のライブハウスも,泡盛のショットバーもいつか入りたいのだが,とりあえず前から目をつけていた店に行くことにする。明日またここに戻ってくることになるだろうが,予定は未定である。ここは“直感”の赴くままに行くことにしたい。
で,その店とは「お食事処てぃだ」という店。平屋建ての,赤瓦の屋根が目印。でも,入口が大きく,清潔感もあって中の広さもかなりある入りやすそうな店である。何度か国際通りに来ては,一度入りたいと思っていたのだ。中に入るとなりゆきで端っこの2人席に座ることになる。テーブル席が十数席あって,通路もゆったりめ。強いて言えば,隣に金髪の,サーフィンするくらいしか能がなさそうなアンチャンさえ座らなければ……。
で,注文。店頭にディスプレイされている,王朝料理風の赤い六角形の器に入った「てぃだ琉球膳」(3675円)が前から気にはなっていたが,いかんせん昼に量を食べているから,ここは一品料理にしよう。隣の金髪アンチャンらは「とりあえずこれでいいじゃん?」とか言って,沖縄そばか何かを頼んでいるが,意外や意外,酒は頼んでいなかった。ひょっとして下戸?――いやいや,人のことなどどーでもいいのだ。私はとりあえず「暑い日にはビール」とばかりに,オリオンビールの“中生”(525円)と,素麺が“どうにか”なっていると思われる「ソーミンタンヤー」(578円),それと“沖縄風お好み焼き”と言われる「ヒラヤーチー」(525円)を注文する。こういうときは,とりあえず沖縄料理で攻めてみたい。でも,多分それで晩飯の量は十分だろう。
数分してまずビールが来る。500mlほどが入ったグラスは黄金色に美しく,何とも涼しさと美味そうな雰囲気を醸し出してくれる。それに応えるように始めの1杯はグイグイと3分の1ほど胃袋に入っていく。そして,5分ほどすると,出てきたのは「ソーミンタンヤー」。20cmほどの器に盛られたのは,素麺とあさつきとシーチキンの炒め物。早い話が「ソーミンチャンプルー」であるが,軽く食事を済ませるにはちょうどいい食い物である。また,メシのおかずにもいいかもしれない。シーチキンの塩気がほどよくていい。Simple is best.――ビールが再び進み出す。
やがて,そのソーミンタンヤーで微妙に腹がいっぱいになったが,まだ幾分は入りそうなところに出てきたのが,直径20cmほどの黄緑色と桃色の円盤に茶色くソースが三重に渦巻いたヤツ。こいつが「ヒラヤーチー」だ。食べてみると,思ったよりも美味い。お好み焼きといっても,関西や広島で食べるような豪勢なものと違って,具材は小麦粉と何かのダシとあさつきのみ。それが黄緑色のキャンバスになっている。桃色はたっぷりのカツオブシである。ソースは…どっかのソースだろう。
大きさだけ見るとかなりヴォリュームがありそうだが,厚さは数ミリしかない。クレープよりは厚いが,スタンダードなお好み焼きよりは明らかに薄い。何層もの食材が積み重なって…なんてことはまずない。ホントに素朴な誰にでも作れそうなものである。こいつもまたSimple is best.――しかし,ビールは残り4分の1のところでストップしてしまった。勢いはよくても,なかなかすべては飲みきれないものだ。嗚呼,ビールの苦さよ……加えてヒラヤーチーは,いくら生地が薄くてもすべてを食らえばそれなりのヴォリュームになるようで,8分されていたうちの最後の二つは,何とかソースの辛さで押し込む格好になっていた。(第4回につづく)
 
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