沖縄点々旅行(全2回)

(1)プロローグ
時間は14時半を少し回ったところ。この時間なら,佐喜真美術館も辺野古も行ける。ほぼスケジュール通りと言っていいだろう。どちらを先に行くかについては,当然遠いところから“攻める”のが鉄則。よって,一気に辺野古まで行くことにする。もちろん,名護まで行くのだから高速は使う。ひとまず目指すは,持参した地図に載っている那覇空港自動車道の南風原(はえばる)南インターだ。

喜屋武岬より一路国道を北上,再び糸満ロータリーを右折して,午前中に通った道に入る(前編参照)。ただし,少し行ったところで今度は左折し,県道7号線に入る。この道はそのまま北に行けば,海軍司令部壕跡近く(「久米島の旅」第4回「沖縄“任務完了”への道」第1回参照)を通ってゆいレールの奥武山公園駅まで行ける道だ。だが,もちろんそちらには行かない。地図を見る限りでは,途中で県道82号線との交差点で右折しなくてはならない。
県道7号線に入ってしばらくすると,緑色に白抜き文字の看板で「3 豊見城」というのが見えた。緑色に白抜きといえば,勝手な思い込みかもしれないが,おそらく高速道路だろう。持参した地図は一昨年の発行。それによれば,“点線”こそ豊見城まで描かれているが,正式なインターは南風原南インターが最南端となっている。でも,いくらのんびりムードの沖縄だって,2年も経てば“点線”もいい加減に“グリーンの実線”になるか。ま,ひとまずは“豊見城インター”なるものを目指そう。
しかし,はやる気持ちをあざ笑うかのように,7号線を北上するほど交通量は多くなり,車のスピードがどうしても落ちてしまう。完全にではないが,軽い渋滞につかまったりもする。でも「あ……まー,しょーがないかー」と思っていたら,ただ単に軽自動車が法定速度を“遵守なさっている”だけで,かといって道は片道1車線しかなく,カーブとかで見えないというパターンもあった。まったく,きちっと法定速度を遵守なさっていて素晴らしいでございますわね……って,そもそも私も何でこういうスケジュールにしたんだか。
それでも“我慢強く”進むと,肝心の豊見城インターはちゃんとあった。早速インターを入るが,片道1車線しかない。高速というよりは単なる“有料道路”と言うべき……でも,料金所はひたすらないから,何なのだろう。ま,いっか。なので,さっきよりスピードは出せるが,60km/hくらいがせいぜい。でも,思いっきり高台に道路を作っているようで,かなり下を見下ろす格好で走ることになる。そして,備え付けのカーナビも最新型ではないのか,空中をさまようようなルートを取っている。でも,これが結構気持ちよかったりするのである。すっかり私も車党になったようだ。
そして,そのまま道は沖縄自動車道にスライドする。車線が増えたときはスピードを出すとき……って別に決まりはあるわけないが,「追越車線」「走行車線」と二つの看板が出てきたら,迷わず私は前者をひた走る。スピードが100,110,120……と上がっていき,前に走る車は私に優しく道を譲ってくれ,それに応えるように“彼ら”を片っ端から追い抜いていく。よって,メーターはほぼ110と120の間に安定している。
あっという間に,車は北中城インターを通過する。ここからは佐喜真美術館が近い。帰りは再びこの高速に乗って,ここで降りることになる。しかし,いま目指すのは辺野古。最寄りのインターは,終点の許田(きょだ)インターの1個手前の宜野座(ぎのざ)インターである。距離にして50km強はありそうだが,何とか30分以内には宜野座まで行きたいと思う。交通量も,北に行くにつれて次第に減ってきていることだし,このまま何とか突っ走ってしまいたい。

@その前に……
宜野座インターには15時半に到着。ほぼ“定刻通り”である。ここからはひたすら国道329号線を北上する。この道路は,一昨年の年末に沖縄市胡屋から名護バスターミナルまでバスに乗ったときに通っている(「沖縄標準旅」第2回参照)が,いまは感慨にふけるヒマはない。
間もなく「←許田」の標識。と同時に,右には県道13号線というのが延びている。たしか,この県道の先には辺野古集落があるはずだし,より海岸沿いを走ることになるので,ここは右折……したはいいし,海岸を右に見ることができた。しかし,道はあっけなく間もなく国道に合流してしまう。
そして,久志(くし)という集落に辿りつく。でもって,再び右に県道13号線の看板。ここはすでに名護市に入っている。つくづく高速道路は便利であり,それを運転してこられた自分はエライ……いかん,話を戻す。今度こそ右折すると,住宅街の中をひた走ることになった。地図を見ると一応,バスも通っているようだが,ついに一度も見かけることはなかった。
さて,車を走らせること数分,ちょっと広い交差点に入った。左側に2階建ての白っぽいが汚れている廃屋が見えたので,ここにて車を停める。近辺には数件店舗もあるようだ。でもって,右側には小ギレイな交番があり,いままさに警官がパトカーで巡回から戻ってきたようだ。私が車を停めているのを見ていたようなので,あるいは注意しに来るかと思ったが,そのまま中に入っていった。近くでは地元のガキが数人遊んでいる。
その廃屋の周囲をとりあえず見回してみる。しかし,どこにも“痕跡”はない。多分,記憶を辿るにこの交差点の広さからして間違いなさげだが,どうも不安だ。とりあえず恥を忍んでここは交番に入ってみる。
「すいませーん」
数秒して,中から同世代かやや上くらいの男性警官が出てくる。
「はいー,こんにちはー」
「あの……つかぬこと聞いて恐縮ですけど,あの白い建物って,
『ホテル・ハイビスカス』の建物ですか?」
「そー…のようですね。そう聞いています。……私も最近ここに
来たもので……たしか,そう聞いていますねー」
「そうですかー。ありがとうございますー」
戻って交番の方を振り返ってみると,私が出ていくと同時に近くで遊んでいたガキが交番に入っていった。警官も警官で顔見知りで心得ているのか,彼らの話し相手をしている。こういう光景はまだまだ地方では廃れていないのだろう。

話を戻そう。この白い廃屋こそ,昨年夏に上映された映画『ホテル・ハイビスカス』に出てくるホテルの建物である。オープニングではこの広い交差点の角,ちょうど廃屋の脇あたりにバス停があり,1台の“ボロバス”が停まる。しかし,そのバス停もバスも劇用のものであったということは,それらしきものがまったく見当たらないことから想像できる。また,映画の中ではボロッちい建物の壁に「HOTEL」が英語で黒字,「ハイビスカス」はカタカナで花のような赤字で書かれていたが,これも見事なまで消されている。ただし,『ホテル・ハイビスカス』のプログラムによれば,建物の中のロケ自体は名護市の中心街にあるホテルで行われたそうだ。
さらにプログラムによれば,この建物自体は古いピザレストランだったという。しかし,いまは「沖縄緑建現場事務所」という看板が掲げられている。“辺野古地区補職工事”とか書かれているが,はて何の工事かは分からない。玄関の汚れたガラスから中を覗けるが,いろんなものがぶっ積んであり,また建物の脇には大量のコーンが置かれている。ここが映画のロケ地――ま,ものすごく有名な映画ではないが――だなんて,よほど注意していないと分かるまい。もちろん,それを説明する看板もない。何だか興ざめをしてしまうが,所詮はそんなものなのだろう。
さて,劇中ではホテルであるからには部屋がいくつかあるのだが,実際は“経営”している家族各人の部屋と化していて,お客を泊められる部屋は一つしかない。その部屋には,建物の前で行き倒れになった本土出身の若者・能登島(和田聡宏)が,主人公の小学生・美恵子(蔵下穂波)とその友達によって担ぎ込まれる。「1泊4000円のところ,いまなら沖縄料理つきで3000円」のこのホテルで,久しぶりの“お客”はその晩,家族といきなり食事をすることになり,結果的にはそのままこのホテルに居つくことになった(はず)。案外,実際の沖縄の町レベルの“ホテル”なんてのも,こんな経営状況なのではないかと勝手に想像してしまう(ちなみに,この能登島は“訳アリ”で島内を放浪していて,後に父親がわざわざ訪ねてくることになる)。
一方,そんな能登島を暖かく迎えた家族はというと,美恵子が『クラリネットこわしちゃった』の替え歌で“インタァナソナルファミリー”と歌っている。家族構成は彼女から見て,父ちゃん(照屋政雄),母ちゃん(余貴美子),父方のオバア(平良とみ),兄・ケンジ(ネスミス),姉・サチコ(亀島奈津樹)であるが,ケンジ,サチコ,美恵子それぞれ父親が違うのだ。ケンジは黒人のアメリカ軍人,サチコは白人のアメリカ軍人が実の父親(キャストも実にピッタリな人材を選んだものだ)。そして美恵子は,いま一緒に暮らしている父ちゃんが実の父親という,世間でよく言われるところの“複雑な家庭環境”である。それを称して“インタァナソナルファミリー”というわけだ。
でもって,そのいまの父ちゃんはといえば,ビリヤード場も隣に兼営しているのだが,常に閑古鳥が鳴いている。でもって店のソファで居眠りをしていて,友達を連れてきた美恵子にヒンシュクを買うという,基本的にはどうにも冴えないキャラクターである。一応,それでもビリヤードは腕に覚えがあり,たまたま冷やかしに来た若者にその腕を見せるのだが,家計を根本的に支えているのは,夜に水商売もしっかりしてくる母ちゃんなのである。
とはいえ,“すべて”を承知のうえでいまの母ちゃんと一緒になった。サチコが母ちゃんと実の父親に会うためにアメリカに行くとなったときも,黙って見送る寛大さを見せた。また,時にはホンの悪ふざけのつもりでクラスメイトに石を投げつけた美恵子を「それが戦争につながるんだ」と厳しく叱る。また,知人のさとうきび畑の収穫を手伝うことになったときは,予定日数よりも早く収穫作業を終わらせる働きぶりも見せる。そんな父ちゃんの姿も,また一面なのである――長くはなったが,1人1人がそれぞれの事情を抱えつつも,実に明るい家族なのである。

こういう設定は,辺野古…いや,沖縄の実情をうまく象徴している。近くには「キャンプシュワブ」という米軍キャンプがあるが,コザや金武などと同様,この辺野古もかつては“歓楽街”だったようだ。母ちゃんの生い立ちはこの映画では出てこないが(主人公が美恵子だから当たり前だし,出てきたらさぞ重くなるだろう……),あるいは歓楽街で働いていて知り合った“それぞれの父親”と恋仲になって,ケンジやサチコは生まれてきたということだろう。
その歓楽街の“ピーク”というのは,1960〜75年のベトナム戦争時だったそうだ。明日戦地に旅立てば,その先どうなるとも分からない軍人たちが「“最後の夜”になるかもしれない不安」を少しでも紛らわすべく,ある者はひたすら飲みまくったかもしれないし,ある者は女性を1人や2人“お持ち帰り”したかもしれない。何ともいえない“ハイテンション”が,夜毎に渦巻いたことだろう。映画の中で父ちゃんが経営するビリヤード場も,元はと言えば米軍関係者の娯楽用に作られたものだ。“そういう境遇”の軍人が訪れていたとしても,別に不思議ではない。かつては米軍関係者が大勢出入りして大盛況だったと,父ちゃんは上述の冷やかしに来た若者に自慢してみせる。
しかし,戦争が終わったころから,パタっと彼ら米軍関係者の足は途絶えたようだ。代わって,本土からの観光客がいろんなブームに乗っかって増えてきた。しかし,こういうホテルには泊まらずにリゾートホテルに行ってしまう。もっとも「ホテル・ハイビスカス」が何を目的に作られたか謎である部分もあるが,ホテル経営が少なからず“時代に翻弄されている”一面があることはたしかである。「経営努力が足りない」と切り捨ててしまえばそれまでだが,にもかかわらずそんなツラさなぞどこ吹く風。ホテルの“住民”はみな,心底明るいのである。
その象徴が,何よりも主人公・美恵子であると言える。本土の小学生が複雑な家庭環境にあると,いま流行の“虐待”なんかに結びつき,ひいては非行に走りやすいのだろうが――もちろん,沖縄だってあり得る話だが――,美恵子には,その辺の陰湿さも,哀しみの陰も,“含み”も丸っきりない。飛びっきりの純粋さと破天荒ぶりなのである。
……話ついでに。この映画を見に行ったとき,上映前にこの映画のメガホンをとった中江裕司監督による挨拶があった。美恵子役を選ぶオーディションのエピソードがそのときに話されたのだが,沖縄県内の小学生3100人の中から今回の蔵下穂波という子が選ばれた決め手は,シンプルに「美恵子になりたいから」と言ったからだという。中には「この映画に自分が出ることで,よりよい映画になる」と言いきった子どももいたというから,彼女が純粋な気持ちだったことが分かる。
その他にも彼女が選ばれた詳細がプログラムに書かれているが,それはプログラムを見ていただくことにして,それこそ「この映画に自分が出ることで,よりよい映画になる」と言いきった子どもがもしこの美恵子をやっていたら,どうなっていたのだろう。この映画は言うまでもなくコメディであるが,逆に「沖縄の現実を鋭く描く,重苦しい作品」になったのではなかろうか。ま,ビデオがレンタル・販売されていると思うので,興味がある方は見ていただきたい。またコミックも出ているのでご参考まで(もしかして,コミックと映画と内容を混同しているかもしれない)。

さて「ホテル・ハイビスカス跡」を見終わった私だが,偶然にも,昨年末にもう一つ見たいものがこの辺野古でできてしまった。それは,とある魚屋さんなのだが,通ってきた道にはそれらしきものがなかった。場所を調べたとかいうわけではないので諦めようかと思ったら,帰りの通り道にたまたま地区案内の地図があった。とりあえずそれで確認してみると,その魚屋さんは集落の中ではなく,国道沿いのようである。
早速,車をすっ飛ばして1分ほど,たしかに国道沿いの,住宅がまとまって建っている集落の入口に,その店はあった。名前は「いま魚の店 照屋」。建坪は数坪といった,失礼ながら“おまけ程度”に増築したような平屋の小さい建物。とりあえず車を停めてはみたが,中で年配の女性が店番していて,目が合ってしまった。もちろん,魚を買うつもりなどさらさらない。ホント,冷やかしというかミーハー根性のみなので,とっとと立ち去ってしまった。
この「いま魚の店 照屋」を見たかった理由については,昨年末に読んだ小林照幸著『海人(うみんちゅ)』(毎日新聞社)に端を発する。名前の通り,主人公は海人(=漁師)だった照屋規正氏という男性。たまたま本屋で目に止まったので購入し,読んでいくうちに面白くなり,ついに……つくづく私はミーハーである。
さて,照屋氏は元々石垣島の生まれ。わずか9歳で“家庭の事情”により,地元の漁師に奉公に出されることになった。当時の貧しい家庭はよくあることだったようで,それは照屋氏も当然のように受けとめたという。だが,現実は一旦預けられると親元には一時金が入るのだが――よって「人身売買」なのだが――,数え年の二十歳になる“満期”までは家族と一切会えなくなるというもの。なので,当然事情を知って恐怖する子どもも親もいたという。この風習は「糸満(イチマン)売り」と呼ばれ,この“売られた人材”でまた,沖縄の漁業が支えられたという現実もあるという。ま,悪さをする子どもに「悪いことしたら“糸満売り”するぞ」という脅し文句にもなったそうだが。
そんな彼は,13歳で漁中にサメに襲われる。このときに何ヶ所も身体についたキズは,海人としての何よりの証となって残ることになるが,無事何とか満期を迎えて独立・結婚。「漁場が広がる」ということで,拠点をその後本島の勝連町平敷屋に移し,最終的には「一番魚が獲れる」と漁師仲間で評判の,この辺野古に腰を落ちつけることになった。規正氏が魚を獲り,奥さんが市場で売りさばくというスタイルがこの辺野古で確立し,最後はマイホームとこの店舗を建てるに至るわけだ。もちろんいまも健在で,(取材当時は)週に2回くらいは漁に出ている――と,あらすじだけを書けば大したことのない話に思えてしまうのは,私の筆の拙さだろう。しかし,海人としての漁の過酷さ,理不尽さ,独立・移住も含めた曲折は,(興味を持っていただいた方だけだろうが)なかなかすさまじいものがある。これもぜひ本を読んでいただければと思う。

最後に。この辺野古をもっとも有名にしたことこそ,皆さんがもっともご存知なことだろう。約8年前の1996年4月12日,「2003年4月12日までの普天間基地全面返還」という宣言が,当時の日本・橋本龍太郎総理とアメリカ・モンデール駐日アメリカ大使の間で交わされた。それに伴い,この辺野古沖が海上ヘリポート建設候補地となった。でもって,そこには天然記念物・ジュゴンが棲み家としていたことから,環境問題云々……という話題がニュースで取り上げられたことを知る人は多いだろう。
しかし,現状はといえばヘリポートの話は丸っきり進展していない。もちろん,基地の返還もどこへやらといった感じだ。でもって,早くも“返還期限”から1年が経とうとしている。肝心のジュゴンはというと,つい数日前(3月9日)に近辺で泳いでいたそうだから,環境保護団体や動物好きあたりは,ある意味ホッとしているかもしれない。
一方,我が国はといえば,昨年春のイラク戦争ではアメリカ支持を訴えた。国際貢献の名の下に,自衛隊のイラク派遣も決まった。それに伴うテロへの脅威があるし,北朝鮮の拉致問題と核開発の問題もある。なので,この普天間基地の全面返還など,とても言えない立場となっているのではないだろうか。それどころか「アメリカ様にはぜひいていただきたい」という気持ちになっていて,下手をしたら「普天間基地はもちろん残す。そして辺野古沖にもヘリポートを作る」などと言いかねないだろう。天然記念物を取るか,普天間の付近住民を取るかで膠着するどころか,両方とも犠牲を強いる“最悪のシナリオ”になりはしないだろうかと危惧してしまう――いろいろと書きたいが,とりとめなくなるのは目に見えているので,次に進もう。

@その前に……
来た道を戻って高速に乗る。そして,再びメーターを110と120の間に戻すことにする。しかし,世の中うまくは行かないもので,上り車線は若干車の量が増えてきていて,ちょっと渋滞っぽく……といっても,メーターは100近くを指しているのだから,十分なスピードは出ているわけだが,少し詰まり気味になってきているのは事実だ。
最後に目指すのは,宜野湾市にある佐喜真美術館。ここを見て,今日の旅で見る場所はすべて制覇して“個人的任務完了”である。現在,すでに16時を回っているとはいえ,高速を飛ばすから閉館の17時半にはまず間に合うだろう。とはいえ,那覇ではできれば先月行けなかった国際通りに行って晩飯を食べたい。帰りの飛行機の時間は20時50分。なので,余裕を見て18時には車を返したい。もう,ホントに強欲な限りの私であるが,簡単に来られる場所というわけではない。そうとなるといささか早足になってしまう。
この美術館は,前月の旅行で同伴していたH氏が「普天間飛行場を俯瞰できる場所を見てみたい」と言い,一旦は見学の候補地となった場所だ。しかし,もう一方の候補地・森川公園が,地図に“展望台”と載っていたことから,結局森川公園を選択することになった。しかし,その“展望台”から見えたものは,飛行場ではなく宜野湾市街と海であった,というオチがある(「沖縄“任務完了”への道」第6回参照)。
ということで,私はいわば“リベンジ”をしにこの美術館に行くわけである。といっても,元々はH氏が見たがっていたものであって,私はそれに乗っかっただけ。いや,よく考えれば12月に一度候補にした場所だし(「ヨロンパナウル王国の旅」第4回参照),せっかくなので本でしか見たことがない『沖縄戦の図』も見てみたいし,どんな展望台か見てみたかったし……って,普通に行きたいんじゃん。
北中城インターで降り,後はひたすら街中を進んでいく。時間は16時45分で,ほぼ予定通りである。国道330号線を突っ切り,先を右に曲がって細い路地に入ると,突き当たり左にはギリシャ建築の建物と,そのそばには十数m四方はあるデカい亀甲墓。一方,右には銀色の冷たい金網と有刺鉄線。駐車場がない代わりにちょっとした転回場がどんづまりにあって,看板に「フェンスに沿って停めてください」とある。無論,このフェンスの向こうにある草地は,普天間飛行場の敷地である。

フェンス沿いに車を停めて中に入る。すると,セーター姿のメガネをかけた中年男性が出てくる。館長の佐喜真道夫氏だろうか。もともと東京で針灸師をしながら絵画の収集をしていた佐喜真氏は,1983年,広島の原爆や平和をテーマに絵画創作活動をしていた芸術家の丸木位里・俊(まるきいり・とし)夫妻の作品『沖縄戦の図』に出会う。これは,丸木夫妻のうち,俊夫人が長い間眼精疲労に悩まされていて,佐喜真氏の元に治療に通っていた縁でのことという。
夫妻は,すでに自身の個人美術館を埼玉県東松山市に持っていた――現在ももちろんある――のだが,『沖縄戦の図』はぜひ沖縄に“返したい”と願っていた。この絵は,夫妻が実際沖縄に行って,地元の被災者に取材をしたうえで,わざわざ沖縄に家を借りてまで創作したもの。なので,ある意味当然の思いであったかもしれない。それを,いわば若い佐喜真氏に託したのである(ちなみに位里氏は広島県,俊氏は北海道の出身である)。かねてから美術館のコンセプトとなる「もの想う空間」を作りたいと考えていた佐喜真氏だが,この作品との出会いで決定的なものとする。しかし,それらの思いが結実するまでには長い期間を要する。
まず,佐喜真氏の考えを支援していたとある牧師の紹介で,建築家・真喜志好一氏と知り合い,その真喜志氏が設計をすることになる。コレクションを見た真喜志氏は,置かれる作品にふさわしい場所として,「沖縄の“心の拠り所”である亀甲墓と御嶽があること」「アダンの木があること」「海に沈む夕陽が眺められる場所」という提案をする。とはいえ,そんな条件をすべて満たす場所は,なかなか簡単には見つからない。
これに対して,佐喜真氏が「先祖が残してくれた土地が普天間基地の中にあって,そこには亀甲墓もあるから返してもらおう」と逆提案をした。1992年に米軍への賃借契約が切れるというその土地こそ,いまこの美術館が建っている場所であった。早速,佐喜真氏が米軍や那覇防衛施設局と直談判し,市民の協力もあって,その土地の返還は見事実現する。さらには自らの別の土地を売却して建設費を捻出し,完成したのは1994年11月23日と,実に10年余りかかった――と,この経緯は文字にして説明してしまえば十数行と数百文字だが,そんな簡単に書けないほど,様々な苦闘があったに違いない。
いくら賃借期限が切れるからとはいえ,米軍が…いや,それ以上に沖縄県や日本国家が簡単に土地を返してくれるわけではないことは,例えば後の読谷村での“象のオリ事件”でしっかり示されることになる(「沖縄“任務完了”への道」第4回参照)。古いデータになるが,1999年現在での土地返還率は17%余りという(「2000年サミット・沖縄の記録」というホームページより)。お世辞にも返還率は高いとは言いがたい。“象のオリ事件”が単なる「先祖からの土地を返してほしい」という純粋さから起こったのに対して,佐喜真氏のケースはそこに文化施設建設という“高尚なテーマ”が付随していたために,返還が実現したという考え方もあるかもしれない。
もちろん,文化施設建設だろうが,単なる土地の返還のみであろうが,「先祖からの土地を返してほしい」という思い自体に対して,「こっちはOK」「あっちはダメ」などと勝手に判断基準をつける権利など,我々にはないことは言うまでもない。しかし,この辺の“差”に対して明確な理屈を出せないでいるのが,現在の沖縄の米軍基地依存,ひいては日本が米国の軍事力依存たりうる「象徴」なのではないかと邪推してしまう。

さて,また例によって長い前置きとなった。美術館であるからには当然基本は絵画が飾られている場所だ。しかもテーマは一貫して「平和」というから,それらもあわせて鑑賞しなくてはならないのだが,残念ながら私にはそれらを鑑賞する心など持ち合わせてはいない。目的地はあくまで『沖縄戦の図』である。まして動機は「本を読んで見てみたくなった」というやや邪道なもの。700円という入館料に見合うだけの価値観を見い出ずに,ひたすらフロアを通過していく。
しかし『沖縄戦の図』の前に来てみると,やっぱり圧倒されてしまった。高さ4m×横8.5mのキャンバスの中は,ほとんど黒や灰色のみの,まさしく阿鼻叫喚の構図。血にまみれ,火に焼かれ,積み重なって死んでいく人々。辛うじて生き残った者は,必死に逃げ延びんと死体と爆弾の間を縫うように逃げて行く。壕の中はえもいわれぬ空気に覆われ,それらはやがて何も語らぬ骨となり……部分的に赤・青・黄が入っていて,それがまた象徴的に戦地の残虐さ・陰鬱さを表している。後であらためて森口 豁氏著『沖縄 近い昔の旅』でのコラムを読んで面白かったのは,絵全体を見ているとなかなか分かりづらいのだが,人々の目に目玉が入っていないのだ。「戦争は人を人でなくさせる」をテーマに意図的にやったことだそうだが,絵の中心で立ちすくむ母子連れだけには目玉が描き込まれている。そこには「歴史を正視してほしい」という思いがあるのだそうだ。
これ以外にも,「アメリカ兵に囚われるくらいなら死んだほうがまし」という盲信の中で,84人の悲劇の集団自決が起こった読谷村の『チビチリガマ』(1987)。逆に同じ読谷村でも「アメリカ兵は民間人までは殺しはしない」と,ガマの中にハワイ帰りの人間がいたために,自決せず投降して1000人全員無事という好運を生んだ『シムクガマ』(1987)。人々が戦火を免れようと沖縄独特の広い墓石の中に逃げ込んではいるが,もうすぐそこにも悲劇が及ぶかもしれない不安感・恐怖感を感じさせる『亀甲墓』(1987)。いずれもモノクロームの重い作品が展示されている。前二つはぜひその現物も見てみたいものである。
そして,いよいよ展望台に上がる。飛行機のタラップのような階段を頂上まで上がると……なーんだ,藪しかみえないじゃん。ま,遠くにコンクリートの道らしきものと大量のコンテナと思しき四角い物体は見えるが,思いのほかたいしたことがなかった。逆に言えば,それだけ基地の土地が広いということだし,返還されても差し障りのない“余分な土地”も結構あるということだろう。いずれにせよ,結論としては,H氏が見たがっていた景色ではひょっとしてないかもしれないということだ――と,ここで“結び”にしようと思っていたら,たまたま拾い読みした沖縄関係の本で,普天間基地内の飛行機などが見える写真を見つけてしまった。見れば「嘉数(かかず)高台公園」という宜野湾市の南部にある公園からのショット。やれやれ,また来ることになるのだろうか。
ちなみに,館長のこだわりで「慰霊の日」(実質上の沖縄戦終結日)に当たる6月23日に,この頂上の向こうに夕陽が沈むように設計されたそうだが,いまは空を見上げたところで,薄暗くなりつつあることしか分からない。むしろ感心してしまうのは真下の光景で,建物の輪郭にキレイに沿うように,冷たいフェンスと有刺鉄線が張られているのだ。その距離は1mもないだろう。フェンスのほうが当然先に張られたのだろうが,あるいはこの階段の頂上が微妙に基地の敷地に入っているんじゃないかと思ってしまう。ひょっとして,この建物の形も,佐喜真氏や真喜志氏のこだわりなのだろうか。ま,仮にはみ出ていたとしても,120%基地には差し障りがないだろうが。

(1)プロローグ
時間は17時5分。もちろんこれにて那覇市内に向かう。土曜日だし夕方だし,宜野湾市内では渋滞がやはり始まっている。このまま国道をまっすぐ通って行けば,オリックスレンタカーのある地区まではほぼ一直線である。途中で高速に1区間だけでも乗ろうかと思ったが,何となく面倒なのでそのまま国道をひた走るか……で,結果的には国道をひた走って数回渋滞にはまったものの,18時ピッタリにオリックスレンタカーに到着。これなら,国際通り散策は十分可能だ。

事務所から住宅街の間をくぐり抜け,小禄駅まで歩く。ゆいレールは,例によってこの小禄駅で大量の人間が出入りしていた。18時15分発の電車で向かうのは今回も美栄橋駅。国際通りにもっとも近いのは,一つ手前の県庁前駅か,一つ先の牧志駅。だが前者は国際通りの南端,後者は北端になる。なので,国際通りまで歩いて7〜8分はかかるが,中心部には一番近い美栄橋駅をいつも選択してしまう。美栄橋駅から沖映通りを通って国際通りに入り,ブラブラと南下して県庁前駅から空港へ,というのが私の“締めのスタイル”となりつつある。
そのスタイルで今回も国際通りに入る。あいかわらずの猥雑さも,ちゃんとしっくり来る。いつも入ろうと思って入らないステーキ屋も,『花』でおなじみの喜納昌吉氏が演奏しているとかいう店も,実は美味いんだろうけど店構えがみすぼらしくてどうにも入りづらい沖縄そばの店も,何事もなかったようにそこにある。ドラスティックに何かが突然変わることがないというのは有り難い話である。もっとも,それは観光客としての視点しかまだ備わっていないってことなのだろうが。
さて,ブラブラ歩いて今回入ったのは,建物の2階にある「沖縄料理 結(ゆい)」という店。自動ドアを入ると,ビジネスホテル「ホテルシーサーイン那覇」のロビーが左に迫っていた。その関係だろうか,レジから中への間口があまりない。ま,沖縄料理屋というよりは,ホテルのレストランみたいなものだろう。中は座敷席二つとテーブル席が六つほど。窓側に家族連れが1組座っているが,他に客はいない。やっぱりホテルのレストランだからだろうか。
適当に座ってメニューを見ると,「海ぶどう」という文字が強烈に飛び込んできた。といっても太字で強調されているとかいうことはなく,他のおつまみのメニューの中に同列に書かれているだけ。ビールも泡盛も惹かれるが,どうも1人だと酒というのは美味く感じない。「海ぶどう」は個人的には酒の肴と思っている人なので,となると,定食系ということになる。麩チャンプルーも好きだし,ゴーヤーチャンプルーもテビチもいいが,やはり初物にトライしておきたい気持ちがどこかにいつもある。
……ということで(?),今回頼んだのは「ナーベラー味噌煮定食」(1360円)というもの。ナーベラーとはヘチマのこと。これの味噌煮が結構美味いというのをどっかの雑誌で読んでいたので選んだ,というただそれだけのことだ。ちなみに,正式名は「ナーベラー・ンブシー」。でもって,19時までの時間帯サービスでドリンクがタダになるという。私はアイスコーヒーを頼んだが,応対した女性が間もなく持ってきたのはアイスティーだった。でも,私がアイスコーヒーと言ったつもりで,アイスティーと言い間違えたかもしれない。いずれにせよ,眠気と疲れでもはやどーでもよくなっていた。
そして,10分ほどで定食が出てきた。ナーベラーは黄土色をした味噌の海の中では,パッと見ナスのように見えるが,早速食してみると,キュウリのような大根のようなナスのような味がした。いずれにしても,ちょっと青臭い感覚はあった。でも,触感は完全にキュウリである。うーん,どうにも拉致が開かないので,とりあえずは“キュウリの味噌煮”に近いということにしておくが,特段にべらぼうに美味いというものではなかったのは確かだ。また食べたいかと言われれば,「ぜひ」とは言わないだろう。
その他には刺身,漬物,味噌汁,もずく酢とごはんがついてくる。刺身といっても,マグロとかハマチみたいだし,一品料理にプラス180円でごはん・味噌汁・漬物付きというスタイルにもできる。個人的にはナーベラーの味噌煮と,もう一品海ぶどう辺りを一品料理で頼み,それに“プラス180円”としておけばよかったかと思う。

――帰りの那覇空港。ロッカーを開けようかとカギを入れるが,扉が開かない。どうやら100円というのは6時間までのようで,それ以降は1日(24時間)ごとに100円ずつ加算されるようだ。当然,私は100円でカギを開けることができたが,上のロッカーを見ると“3300円”という表示。考えようによっては怖さもあるが,いつになったら開くのか,また中から何が出てくるのか,一瞬だけ興味が湧いた。
でも,持ち主は多分永遠に現れることはないだろう。もし,この張本人が私だと仮定したら,一体どのツラを下げてこのロッカーが開けられると言うのだろうか。(「沖縄・8の字旅行」おわり)

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