沖縄点々旅行(全2回)

久高島への船は11時半をちょっと過ぎて外洋に出る。先端と後部に30ずつ,それぞれ真ん中に通路をはさんで左右に座席がある,都合定員60名乗りの船であるが,7割ほど席は埋まった。見ればまさしく“老若男女”すべてそろっている。この中で私のように観光で向かう客は,はたしてどれだけいるのだろうか。
私は後部の先頭右側の座席に座る。目の前,薄い壁の向こうには操舵室が見え,人がちょくちょく行き来している。そして,壁の下には大量の発泡スチロールなどが雑然と置かれている。私の前にもダンボールが置かれていて,貼ってある紙を見ると「ソーキ7kg」「サバフィーレ」と食いモノもある。いまでこそ観光にも力を注ぎつつあるのだろうが,何よりもまずは“物資運搬船”なのである。この船がもし時化などで来られなかったら,間違いなく孤島になってしまうのだ。
また,その壁に張ってあった紙を見ると,2月26〜29日までドック検査のためにフェリーが運行できないという。さっきチケットを買うときに言われた何気ないことではあるが(前編参照),よく考えれば,この間には車を使っての久高島からの“大きな移動”はできないわけだ。石垣や宮古など,その島の中ですべてがそろうというのならまだしも,こういう島ではそうは行くまい。それこそ,前日などは“駆け込み”で本島に渡って買い物をしなくてはならないのではないだろうか。
さて,外洋に出ると一気にスピードがアップする。それと同時に,案の定だが船が大きく揺れ,水しぶきが窓に何度となく打ちつけてくる。いつだったか『テレビおじゃマンボウ』の企画で,久高島に局アナが行ったのを見ていたら,結構船が揺れている映像が流れたので前もって予想はしていたが,この時期の沖縄の海はどこに行ってもこんな波なのだろう。プロが舵を取るからこそ安全なのであって,それこそ素人だったら,数日前この辺りでサーファーが亡くなったような海難事故が起こっても何ら不思議はないのだ。

15分ほどすると,緑と茶色の陸地みたいなものが見えてくる。いよいよ,私が行きたかった久高島だ。ガイドブックにも“端っこ”にしか載らないこの島になぜ来たかったかと言えば,沖縄の創世神・アマミキヨが降臨したと言われる場所で,沖縄では最高の聖地として崇められているからだ。対岸にある世界遺産・斎場御嶽のメインスポット・三庫理(さんぐーり)からは,自然なのかはたまた人の手によるのか分からないが,この島が見えるような格好になっている(「沖縄・遺産をめぐる旅」第2回参照)。また,本島中部の世界遺産・中城城跡にも,この島への拝所(遥拝所=うとうし)がある(「ヨロンパナウル王国の旅」第5回参照)。
加えてそんな島ゆえか,古くからの制度がいまだ根づいているらしい。例えば「イザイホー」という祭事が12年に一度行われるという。久高島で生まれた30〜41歳の女性が,何度か旅行記にも出てきた“ノロ”を頂点とした祭祀集団に入るための儀式である。島の外に出た出身者もこの日には帰島するそうだ。“白装束”に包まれた女性の集団が,厳かに行進している写真をどこかの本で見た記憶がある。
この儀式のクライマックスは「七ツ橋」という橋を渡るとき。その橋を渡れると,女性は晴れて神人になれるのだが,その女性が例えば不倫をしていたりなんかすると,橋からころげ落ちて血を吐いて死んでしまうという。ただし「橋」といっても,長さは1mで高さは20〜30cmほどしかないものらしく,想像するに“平均台”を渡るよりも楽勝なものだろう。
しかし,この瞬間はどんな女性もえらく緊張するという。この“橋渡り”にひっかかりそうだと思う者は,誰に脅迫などされるわけでもないのだが,儀式には出られず,永久に島の外に出ていくことになるそうだ……といっても,12年に一度行われるはずのこの儀式,一番近々では2002年に行われるはずだったようだが,行われなかったらしい。その前の1990年もなかったというから,この地にも,いろんな意味で“近代化の波”が容赦なく押し寄せているということなのか。
長くはなったが,こんなに“魅力的な島”はないではないか。加えて,芸術家・岡本太郎氏もここを1959年と1966年――本土復帰前だ――に訪れて,前者ではノロに会い,後者では「イザイホー」まで見ているという。その経緯は『沖縄文化論』(中公文庫)という本にまとめられている。また,作家・立松和平氏も「魂の古層ともいうべき部分の沖縄に触れたい」と,30年ほど前に久高島を訪れていて,その名も『沖縄 魂の古層に触れる旅』(NTT出版)という本に経緯が書かれている。もうこうなったら,サンプル2人と日テレ番組でミーハー根性爆発である。ここを訪れずして,あとどこに行けるかって感じだ。

@その前に……
船が久高島の徳仁(とくじん)港に着く直前に,係員が脇のドアを開け放った。防波堤の中に入ったから波はないが,外からは強風が入り込んでくる。少し冷たいが,陽が照っているから陸に上がればちょうどいいだろう。
11時55分,徳仁港着。港は集落から少し低い位置にあるのだろう,目の前には小高い丘が広がった格好だ。ここからは,安座真の乗船券売場でもらったA4の手書きの地図が頼りだ。見やすいとかそういうものはない。とにかくA4の大きさに情報を積め込めるだけ積め込もうという感じで,ごちゃごちゃしてはっきり言って見づらい。しかし,これはある意味,この島が完全に観光地化していない証拠でもあろう。
早速“丘の上”に向かっていくと,早速港の脇,自然に迫り出した岩の下が拝所となっている。80cm四方ほどの大きさでコンクリートの枠が設けられていて,名前を「徳仁川拝所」という。「冷るウコウで拝して下さい」と書かれた木の板がそばに刺さっている。“冷るウコウ”とは……辞書のどこにも載っていない,謎のフレーズ。早速,こんな洗礼である。
“丘の上”の集落には家々が立ち並ぶ。ほとんどが赤瓦の家で,道は路地と言ったほうが正しいくらい,車1台が通れる程度の広さしかないが,地面はかなり舗装されている。学校も,小中学校兼用だがある。しかし廃屋もかなり多く,ある廃屋の石垣では胞子状の植物がニョロニョロと伸びているのを見た。温暖な気候がもたらす現象だろうが,その様は不気味以外の何物でもない。
さて,赤瓦の家々が多く,道の狭い小島としては,あの竹富島が印象的だが(「沖縄標準旅」第6回参照),竹富島の地面はほとんどジャリ道である。それがまた旅情を誘うし,それを“売り”にしている要素もあろう。概して舗装程度は久高島のほうが進んでいるが,その分何だか無味乾燥さを感じてしまう。「何もない島」とは聞いていたが,「何ともない島」というほうが正しいだろう。聖なる島なだけに,もっと未舗装な島だと勝手な思い込みがあったが,実際は「ただの離島」でしかないのだ。
その舗装された路地を進む。もらった地図には,島全体と港の集落の地図が表裏で描かれている。いまは集落のほうの地図を頼りに,その集落の奥のほうに進もうとしているのである。一応,見所は“A〜G“および“1〜2”という記号で,都合9ヵ所もあるのだが,どうにも距離感がつかみづらい。道もかなり入り組んでいる。地図にはやたらと“斜線”が多いが,これは見ている感じでは畑か荒地のよう。「店」と書かれているのは雑貨屋さんだが,一般家屋と区別がいまいちつきにくい“おまけ”程度の店。海岸沿いには「公民館」と書かれている箇所もあるが,これは最後まで分からなかった。

そんな中を歩いて15分ほど経ったか,まず最初に“F”と書かれた場所に着く。「下茂(シム)拝所」という拝所。民家の裏手を入っていかなければ着かない,実に分かりにくい場所にある。でもってあったのは,ただの廃屋に神棚がお供えされていただけ。あまりに民家っぽい作りなので,あるいは誰かの家かと思ってしまったが,地図から見ても間違いない。脇にある,自分の背丈よりちょい高い木では緑のパパイヤがいくつも実をつけている。もちろん,誰のものということはないだろうが,獲ったらバチが当たるだろう。
次は別の路地を入って隣接する“1”と“2”を見る。といっても,いずれも普通の琉球民家で,こちらは完全に人が住んでいる。別に門や鉄柵があるというわけではないのだが,中はとても入れそうにないので通過するのみだ。ここに書いてあるのは「久高ノロ」「外間(ほかま)ノロ」。すなわち,上述のノロがここに住んでいるというだけだ。ちなみに,岡本太郎氏が1959年に会ったノロとは,このうちの久高ノロ。手の甲には(当時は,だろうが)沖縄婦人伝統の刺青が施されていて,「娘のまま気高く年老いた女性」だったそうだ。その当時ですでに88歳だから,間違いなく次の世代にパトンタッチしているだろうが,はたして今はどんな女性がこの島の“神聖な部分”を取り仕切っているのか,興味深いことではある。
先に進む。イザイ山という“森”の手前に今度は“A”がある。「久高御殿庭(くだかうどぅんみゃー)」という建物。といっても,4〜5m四方の琉球家屋風の東屋と,隣に,一回り小さい別棟の小屋があるのみ。前者はドアらしきものはなく,さい銭箱が置かれているのみ。もう一つの小屋はカギがかかっているが,窓ガラスから中が見える。こっちには神棚一式があって,脇にはガスコンロがある。「イザイホー」の主要儀式場だそうだが,あるいはその準備などで使うのだろう。
さらに方向的に東に進むと“C”がある。「大里(おおざと)拝所」と呼ばれる拝所だ。ここも他と同様,琉球家屋(屋根は白かった)の廃屋である。しかし下にゴザが敷かれていて,神棚はもちろんコンロと釜が置かれている。何だか,この後が想像がつきそうであるが,ひとまずは九つの“見所クリア”は必須である。ちなみにこの大里拝所は,もともと大里家という家のようだ。もらった地図には面白いことが書いてある。
それによれば,第1尚氏の“ラストエンペラー”となる尚徳王が,喜界島(奄美大島の隣にある島)へ征伐に行った帰りにこの島に寄ったのだが,ここ大里家のクニチャサというノロに惚れ,同棲を始めてしまった。そして,尚徳王が彼女にうつつを抜かしている間に,首里城では伊是名島出身で,尚徳王にかつては使えていた金丸が革命を起こした(第2尚氏の誕生)。急いで尚徳王は戻ろうとしたが,時既に遅く,王朝転覆の話を聞いた王は入水自殺を遂げた――という“言い伝え”がある家である。一方で,こっちのほうが真実なのだろうが,尚徳王は若くして病死し,その後で金丸に白羽の矢が立ったという説もある(「沖縄・遺産をめぐる旅」第1回参照)。はたして,真相はいかに?

次の隣接する“D”に行く手前に,地図には「カンジャナ山」と書かれた場所があるのだが,そこにあるのは10m以上の高さがあるコンクリートの円柱。その周囲をこれまたコンクリートの輪がらせん状に3本巻いている不思議なオブジェ。上手く表現できないが,読谷村の「象のオリ」(「沖縄“任務完了”への道」第4回参照)の“コンクリートミニバージョン”といったところだ。周囲に金網が張られて中には入れない。初めは展望台かと思ったが,入れない展望台ってのもヘンだろう。多分,貯水タンクと思われる。はて,この“オブジェ”を「カンジャナ山」と呼んでいるのだろうか。ある意味,ミステリアスである。その場所はまったくと言っていいほどフラットな地面なのだから。
そして“オブジェ”の隣の“D”は「久高拝所」。こいつはカギがかかっているので,中の様子は分からない。地図がなければ見逃すこと間違いない。その先には“E”“H”と続いていくが,前者がトタン屋根の「イチャリ拝所」,後者が白い瓦の「西銘(にしめ)拝所」。これらも普通の家屋で,中はカギがかかって見られない。ひょっとして,誰にでもオープンにする拝所と,普段は開けさせない拝所に,久高住民の判断で分けているのだろうか。
そして,八つめの“B”は「外間殿」(ふかまどぅん)。後ろには外間山という“林”があり,その向こうの景色が開けたところには,新しい研修所みたいな建物も見える。そして,肝心の外間殿はというと,さすがに島で有名な場所とあって,きちっとした家…いや,拝所となっている。12畳ほどの畳敷きの部屋が,一段上に上がるスタイルとなっていて,奥にはお決まりの神棚。お供え物もある。久高御殿庭とともに,重要な祭祀場となっていて,天頭神(天の神様の総師),アマミキヨをはじめとした七つの神様が奉られているらしいが,それにしてはあっさりした造りではある。なお,ここも隣に白い小屋があるが,ここは西威王という王様が生まれた家とのこと。
最後,アマミキヨが腰掛けた石がその外間殿の隣にあるが,80cm×30cm×20cmくらいの直方体の普通の石が,生い茂った林の中にポツンとあるのみ。それでも近くにお供え物がされているから,それ相応のものなのだろう。たまたま別の旅行者3人が訪れていたが,彼らも似たような気持ちを抱いたに違いない。そして九つめ・最後の“G”である「アマミキヨ拝所」が,何もないただの物置であることを確認して,クリアである。
時間は12時30分。ホントならもっと北にいろいろと見所がある。アマミキヨが降り立ったという北端の「カベール岬」,この久高の“シンボル”と勝手に私が思い込んでいる,鬱蒼とした森の中の「クボーウタキ」などにも行ってみたい。それこそ,岡本太郎氏と立松和平氏も訪れたクボーウタキは,ここを行かずして,久高に来た意味があるのかと自責してしまうのだが(別に彼らが行ったからというわけではないが),いかんせん今回はスケジュールがタイトである。無念だが,ここは徳仁港に引き返す。たった1時間でこの久高島は分からない――それは時間的なものだけではなく,簡単に“聖なる島”の奥深さに辿りつけるわけではない,ということでもある……と格好はつけたが,要するに今回の私のスケジュールがアホなんだろう。

@その前に……
13時ちょっと過ぎ,久高・徳仁港からの船が出る。中は10人余りと,行きに比べて明らかに空いている。行きの客を確認していなかったが,1時間で帰ってくる客は皆無のようだった。15分ほどで安座真港に到着すると,とっととレンタカーに乗り込む。
さて,次に向かうのは奥武島。なぜここに行くかというと,これまたミーハーな話になる。沖縄出身の女性アーティスト・Cocco(「沖縄標準旅」第3回も参照)がテレビの琉球放送の企画だかで,奥武島のゴミを一掃するプロジェクトを行ったのだ。その様子は『News23』でも放映されたので,観られた人もいるだろう。またどういうわけかDVD『Heaven's hell』として発売にもなっている。
たしか,「きれいだった島がゴミで汚れていたのが,たまらなくショックだった」ため,このようなプロジェクトをおったてることになったと思う。「沖縄で歌を歌うことに抵抗があった」とかで東京に出てメジャーデビューをしたのが1997年。2001年にテレ朝の「ミュージックステーション」で『焼け野が原』を歌った後にそのままいなくなってしまったあたりで活動を休止し,久しくブラウン管で見ていなかった。絵本だかは出していたようだが,久しぶりの姿に「へぇー,郷里に戻ってこんなことやってるんだ」という印象を持った。那覇の学生と学校で『Heaven's hell』という曲を一緒に歌っていたところまでは観ていたと思う。その先があったようだが,残念ながら寝てしまった。
その奥武島には13時半過ぎに到着。国道からの1本道を下り,200mくらいの橋を渡って島に入る。でもって,入口には飲食店やビーチ,グラウンドがあり,集落を形成している。とりあえず,島の周囲を1周したが,所要時間わずか5分。真ん中が盛り上がった形の島のようだ。グラスボートにも乗れるようだが,先があるのでパスする。ちなみにビーチの映像は,上記の放送でも出ていたと思うが,特段の感慨は持たなかった。ま,当たり前か。
先に進む。具志頭村内でトロトロ走る軽トラックなどを数度追い越して,いよいよ南部戦跡公園だ。摩文仁の丘もひめゆりの塔も10年前に訪れているが,今回はパス……しようと思ったが,先月の旅行で「ひめゆりの塔に線香を立てる」というM氏の言葉(「沖縄“任務完了”への道」第1回参照)がひっかかっていたので,ひめゆりの塔だけは訪れようか。
話は少しズレるが,先日今上天皇と皇后が沖縄をご訪問された。これまたテレビでの放送になるのだが,そのときの映像に加えて,皇太子・皇太子妃時代の1975年,初めての沖縄ご訪問でこのひめゆりの塔を訪れられたとき,モニュメントの後ろにあった壕から何者かに火炎瓶が投げつけられる映像も流された。この映像は何度となく流されていて,あまりに有名であるが,その壕というのも見てみたい気持ちがあったのだ。ま,要するにミーハーなんだろう。
しかし,いざひめゆりの塔の近くまで来て一気に熱が冷めた。観光バスやら車の大群,人々の群れが駐車場から横断歩道を渡って塔に向かう姿,そして巨大な土産物店……。これを見たら,行く気など失せてしまった。駐車場の看板には「レンタカー無料・歓迎」などと書かれていて,駐車場も入ろうと思えば入れるだろう。しかし,そこまでして見たいものかというと,そうでもない。どうにも人が大挙して訪れる場所に行くのが好きになれないというのもあろうか。ま,首里城と同じで,私にとっては沖縄旅行者の“入門編的ハコモノ”という位置づけである。機会あらば再訪もあり得ようが,“作られたもの”にわざわざ時間を割いてやる必要もなかろう。ここは通過する。

この辺りは,第2次世界大戦でもっとも被害を受けた場所として有名である。これは,森口豁著『沖縄近い昔の旅〜非武の島の記憶』(凱風社)という本(「沖縄“任務完了”への道」第4回も参照)に書いてあったのだが,一家全滅した家も多く,不自然なくらいに空地が目立つようだ。あるいは地図やガイドブックに載らないような,名もなき石碑もあるという。無論,戦死者のである。
これらの様子を見て回るほうが,ある意味“戦争の爪痕”を知るには説得力がある――事前にこの本を読んで,おもむろにどっかから国道を外れようかと思ったのだが,どうしても先を急いですっ飛ばしてしまう。結局,私にも“対岸の火事”程度の認識…いや“ひめゆり”すら,下らない理由をつけて通り過ぎるくらいだから,それ“以下”かもしれない。
そして,いよいよ喜屋武集落である。郵便局や店があり,大きさも20m四方くらいあるロータリーみたいな交差点を通り過ぎると,道は一気に狭くなる。南国特有の気候の穏やかさがあって,実感はどうしても湧かないが,「爆弾一升,骨一升」と呼ばれるほど,大量の爆弾が落ちて,大量の人間が死んで,掘れば人骨が出てくるという。もちろん,死んだ人間の中には地元の人間だけではなく,よその集落・都市から逃げてきた人たちも大勢含まれているだろう。あるいは,不発弾もひょっとしたらあるのではなかろうか――考えれば考えるほど恐ろしい場所に車を走らせているわけだが,そのままさとうきび畑やらなんちゃら畑の中をくぐりぬけると分かれ道に。まっすぐ行って「具志川城跡」,左折して「喜屋武岬」という標識があるが,まずはまっすぐ行く。
数分道を進んでどんづまりに城跡の入口がある。早速中に入っていくと,崖にせり出すように琉球石灰岩の石垣が張られている。一部シートがかかっていたりしているが,手前が二の丸で,一段下がって崖に一番近いところが一の丸という。それだけしかないのだが,所々には手製の石碑が数基。「久米門中」「女ノ子」「妻」などと書かれていたが,あるいは戦死者を弔うためのものだろうか。ちなみに,「具志川城跡」というと久米島に同様のものがあるが(「久米島の旅」第1回参照),その久米島の按司であった真金声(マガネクイ)という人物が島を追われて,この地に再度築城したようだ。
そして,もう一つの「喜屋武岬」。第2次世界大戦の最中,戦火を逃げ延びてきた大量の人間が身投げをした“悲劇の象徴”の岬へは,車1台しか通れない道があるのみ。周囲は緑が生い茂る場所で,車数台とすれ違う。その都度,ギリギリ脇に寄れるだけ寄らなくてはならない。
こうなると,観光バスは間違っても入ってこられないから,観光バスのルートからは外れる。だから,戦跡公園の比ではないが,それでも具志川城跡に比べれば“交通量”は圧倒的に多い。ま,比べるものが間違っているのかもしれないが,“そのくらいの知名度”ということだ。地図を見れば「荒崎(あらざき)」という岬が東にあって,ここがホントに本島の最南端(うーん……)のようだが,有名なのはあくまで喜屋武岬のようである。

喜屋武岬は一応駐車場が整備されていて,一段高いところに東屋もある。灯台も小さいのが茂みの向こうに見える。「平和の塔」と呼ばれる,リングの中に球体が置かれたブロンズのオブジェもあり,写真を撮る輩がいる。
灯台にはジャリ道が続いているので進んでみる。灯台脇の茂みの向こうにある“究極のどんづまり”から下を覗くと,断崖絶壁の光景で下は岩場となっている。だから,海の中に落ちるというよりは,岩場に叩きつけられると言うほうが間違いないだろう。波が激しくその岩場を洗っているが,それこそ60年ほど前には大量の人々の血も洗っていたのだろう。そんな過去は,いまこの瞬間の岩場からはなかなか想像がしにくいものである。
この岬で思い出すのは,TBSで昨年秋に放映されたドラマ『さとうきび畑の唄』でのワンシーン。主人公・平山幸一(明石家さんま)の長女・美枝(上戸彩)は挺身隊として働いてきたが,いよいよ戦況が不利になってきた中で,他の女学生とともに畑の中の長い一本道を歩いて岬に辿りつく。多分,この喜屋武岬なのだろうが,無論それは「“お国”のための行為」を遂行するためである。1人,また1人と目の前から姿を消していく。そして,いよいよ彼女の番。下には身がすくむほどの高い断崖。ふと彼女は目を閉じ,そして――というところで画面は切り替わる。結局,美枝は助かっていて,最後には那覇の捕虜収容施設で母親の美和子(黒木瞳)らと再会することになるが,もちろんそれはドラマだからできるストーリー。実際はどうしようもなく,断崖に次から次へと叩きつけられていったのではなかろうか。
岬の強い風に数分吹かれて,来た道を再び戻る。つくづく狭い道だが舗装はされている。だが,60年ほど前には舗装なんてされていなかったはずだ。この道を大量の人間がトボトボと歩いてきたのだと思うと,何だか胸が詰まる思いがする。そんな経緯を思い出したら,ふと一瞬だけ景色がモノクロームになった。(後編につづく)

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