沖縄・ミッションコンプリートへの道(第1回)

(4)沖縄の世界遺産・全制覇に向けて
@10年後の“作り物”首里城
首里城へは県道から1本路地に入る格好である。その路地の一つ目の交差点前で「→駐車場」という立て掛けられた看板が目に入る。すっかり右折するものと思い込んでしまった私は,やや懐疑的なM氏に右折を指示する。
すると予感は的中する。もちろんM氏の,だ。どんどん公園から遠ざかっていくので,あわててさらに狭い路地に入り込む羽目になる。ホント,カローラがギリギリ通れる程度の幅しかない。「こういう路地は機会がないとなかなか入れない」とプラス思考に“なっていただいた”のもつかの間,先に郵便配達のバイクが置かれている。早めに向こうの配達員が気づいてくれて事なきを得たが,「路地に突っ込んで方向転換するんじゃなかったのか?」と突っ込む以前に,どっかの不動産物件の案内を首里城の駐車場案内と勘違いした,大ボケの私がまず糾弾されなくてはなるまい。
気を取り直して再びトライ。何のことはない,先の交差点のわずか先左に,大きな地下駐車場への入口がパックリと開いている。大型バスも孤独なドライバーもドンと来いと言わんばかりだ。上に建っているのは首里杜館(すいむいかん)というレストハウスである。
早速中に入り込むと,結構広く8割ほど車が埋まっている。「(午後)6時までですので」と言われた後に,案内されるまで待ちの状況となる。どうも車の種類で場所分けしているようだ。「効率が悪いね」とはM氏。「どうせ失業対策だろ」とはH氏。的を射ているのかどうかは分からない。いずれにせよ,時間は16時。見学するのにはちょうどいいタイミングだろう。
数分して,係員から右側にいる別の係員のほうに行くよう指示される。そして着いた場所は,壁際のギリギリ入れるスペース。1台でも効率よく入れるためだ。右は別の車。左には鉄骨の支柱があって神経を使うが,そこは冷静沈着なM氏。係員の指示で的確にバックして無事入庫。私なら確実に支柱に鈍い音を鳴らしただろう。かりにノンオペレーションチャージは免れても,気分は思いっきりブルーである。

さて現在は「首里城公園」という括りになっているこの場所。もう既にご存知だろうが,ホンモノではなくて作り物だ。ホンモノはと言えば,第2次世界大戦時に米軍の砲火を浴びて焼失している。いま我々が写真などで知る赤を基調とした城郭は,1992年に復元されたものである。もし,戦争で焼失していなければどんな姿をしていたのか。案外,私はそっちの姿に惹かれていたかもしれないと勝手に思い込む。
といっても,この首里城は4度焼失の憂き目に遭っている。1回目の1453年は,王位継承の乱に伴って,1660年の2回目と1709年の3回目はいずれも失火,そして4度目の大戦による焼失。なので,完全に最初の創建当時のモノというわけではない。それでも18世紀の,バリバリ王朝時代のものとなれば,趣もまた違うだろう。
しかし,これだけ焼失しても再建されるというのは,首里城がよほど沖縄島民の“心の拠り所”となっているからではないか。中国への朝貢,薩摩藩の侵入,米軍の上陸など,何度も外敵に脅かされる歴史を経てもなお,琉球文化のエッセンスたる首里城だけは残したい――そういう気持ちがどこか根底にあったと思われる。
それと,沖縄島民が元来持っている「なんくるないさ」精神の賜物でもあると思う。ちなみに,意味は「何とかなるさ」。「なくなったらまた作ればいいさ」という気持ちで,時間をかけてでもこの巨大な要塞を作り直すというのは,そう簡単に実践できるものではない。間違いなく沖縄民族の血に入っているDNAによるところだろう。
この“作り物”の首里城を訪問するのは,ほぼ10年ぶり。初めて沖縄に来たときに“とりあえず訪れた場所”だ。その10年前の旅行で,「たかが作りもの」と自分の中で酷評して以来,那覇に何度か来ても敢えてここは避けてきた。でも,まさかそんなのが世界遺産になるとは思っていなかった。
大体,私もそうだったように,ここは初めて沖縄に来た人間のための“ハコモノ”と思っている。よって,今回の新年会旅行が昨年秋に決まってからも,「沖縄初心者」の2人のために敢えてとっておいた場所だ(うーん,イヤなやつだ)。
とはいえ,あれから10年経って少しは私も成長したかもしれない。あのときはまた,サークルの山陰旅行も含めて,東京を出て10日経っていて,かつ大阪南港から36時間かけて船で長旅した後だったから,多少疲れていたのは事実。今回は実にゆったりした日程であり,かつ往復とも飛行機。はたして「10年後の首里城」は,私の目にどう映るのだろうか。

最初にお出ましするのは「守礼之門」だ。中国式の門だが,交流があったその中国の使者(冊封使)を招くためだったようだ。でも,よく見ると,横浜中華街の入口にある同様の門よりも小さい。仮にも一国の中枢を演出するならば,作り物と言えど,もっと豪勢であってもいいと思う。
その下は記念写真の定番スポット。長いベンチがいくつか置かれていて,写真を撮られる光景を見る。周囲では赤や黄色の紅型(びんがた)衣装を着た女性が声をかけてくる。脇の茂みにある洋服かけにたくさんの衣装がかかっていて,好きなのを着て撮影ができるようだ。2人は無視していたが,私はなぜか「ぜひ撮っていってくださいね」とコースターみたいなチケットを1枚もらってしまう。当然ながら有料だ。多分,1000円は取られるとみた。無論,どっかに捨ててしまったのは言うまでもない。
その門をくぐって,細い私道を渡る左側に,取り残されたような小さい石門が建っている。扉は閉ざされているがちょっとした豪邸の門みたいなコイツは「園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門」という名前。だが,コイツが何気に世界遺産の一つだったりする。王の旅行時にはここで安全祈願がされたそうだ。御嶽の入口と言うからには,さぞかしバックは鬱蒼とした森があるかと思いきや,ちょっとした草むらがあるだけ。その後ろ,崖の下には無味乾燥なコンクリの校舎が建っている。この石門もまた,戦後に復元されたものだ。それを物語るような,興ざめする構図。世界遺産も,これでは完全に“大道具”である。
私道を渡って石の階段を上り,「歓会(かんかい)門」という正門。観光客も多いが,ちょうど修学旅行生の集団と重なって,紺ジャケにグレーのスラックスという格好の高校生が大量に上ってくる。共学であろうが,野郎が圧倒的に多い。女性のガイドさんが説明をしているが,多分マトモに聞いているヤツは皆無だろう。ガイドさんも,その辺りは心得ているかもしれない。私も少なからず,このくらいの年齢のときはウザったいと思ったものだ。
しかし,その時代――平成2〜3年ころ――から十数年経って,事はさらに深刻さを増しているようだ。よく見てみると,マシな格好をしているヤツを探すほうが難しいくらいにだらけた格好をしている。シャツを外に出すのは“基本の基本”と言わんばかりで,さらにスラックスを“腰履き”にしている。髪の毛も,いまの世の中を反映して“多様性を尊重する時代”をコンセプトにしているのか,長髪・茶髪などさまざまである。「どうにも不愉快」というのが3人の一致するところだ。
別に「キッチリ“7・3分け”にしろ」「一糸乱れぬ集団行動を心がけよ」と言うつもりはさらさらない。ただ,さぞかし下半身がずり下がる感覚に苛まれそうだし,髪の毛は鬱陶しそうだし,健康によくなさそうな気はする。でも,それは“年寄り”の意見なのだろうか。
ちなみに,M氏もH氏も「普段着でもシャツは出さない」とのこと。私は普段着なら出してしまうタチだが,スーツ――すなわちジャケットとスラックス――だと,シャツを出しているのはどう考えてもイケていないと思い,抵抗がある。単に型にはまっているのかもしれないが,こういうヤツらには,世界遺産を見せてやるよりは,よっぽど夜のコザ散策や,米軍基地体験で軍用機に乗せて思いっきり“G”を味わわせてやったほうが「刺激的でタメになる」と思う。

さらに階段を上って「瑞泉(ずいせん)門」という門。名前の通り,脇に井戸のようなものがあり,その上には石の龍のオブジェ。口からはチョロチョロと水が出ている。この水は,かつて飲料水としてよく使われたという。龍は「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれていて,何度も沖縄旅行記で登場してくる三好和義氏の『ニライカナイ 神の住む楽園・沖縄』にも,この写真が出てくる。その写真は,口から出る水に勢いがあるように写っているが,多分何か“効果”を使っているのだろう。どこをどう見たって“チョロチョロ”って感じである。
もう一つ「漏刻(ろうこく)門」という門をくぐって,四つ目の横長で赤い「広福(こうふく)門」をくぐると,いよいよここからが有料エリアである……と書いてしまうと,ものすごく現実的で興ざめするが,この門の建物が券売所にもなっているのだから仕方がない。入場料800円。ここで人の流れが一度止まるので,改めて観光客の多さを実感する。
広福門を入ると石畳の庭。「下之御庭(しちゃぬうなー)」と呼ばれ,正殿に入る前のいわば“控え室”みたいな役割をしていたそうだ。現在はイベント広場のようになっていて,近くで何か催し物をやっている。パイプ椅子が並んでいて,結構人だかりもできている。
その脇には明らかに“セット”のような森。一応石垣で囲われていて,閉ざされているが門もある。その形は先の園比屋武御嶽石門を60%縮小したような形である。これは「首里森御嶽(すいむいうたき)」と呼ばれる拝所だ。「神が創られた聖地」というこの御嶽は,1997年に復元されたもの。前回ここに来たときは当然なかったものである。でも「神が創られたもの」を勝手に復元してバチが当たらないのだろうか。それこそ「形がなっていない。神を冒涜した」と。
その庭のまた先にある「奉神(ほうしん)門」をくぐると,ようやっと本番である。「正殿」「南殿」「北殿」「奉神門」の四つに囲まれた「御庭(うなー)」の光景は,中国の天安門のようである。M氏やH氏はその辺りに行っているからか,すぐ似たような反応をした。地面は,両サイドが赤地に白の横縞で,真ん中に赤い道が貫いている。縞は,行事の際に人間の配列や道具類の設置場所が分かるようになっていて,真ん中の道は神聖な道として位置付けられていたそうだ。こういう構図は,いかにも中国へ長く朝貢していた歴史の産物である。
さて,先ほどの修学旅行生も敷地内に入ってきた。どうにも神聖なこの場所に一番入ってはならない輩だ。彼らの姿を見ていると,去年ブレイクした沖縄出身バンド・ORANGE RANGEの『上海ハニー』が浮かんでくる。あの出だしの「イーネ」って抜けた感じのフレーズから始まる歌が,今の高校生のダラケを象徴している……と言ってしまうとファンには失礼か。そんな彼ら(?)をM氏が1枚“記念”に写真に収めていた。

前置きがやたら長くなったが,ようやく本殿へ入る。順番は「南殿→正殿→北殿」の順。三つも大きな建物を回るのだが,どの建物がどんな感じかってのは,この際どうでもよいと思うようになっていた。次から次に,じっくり見る間もなくグルグル順路に沿って上に上がったり下に下がったりさせられれば,もう世界遺産の堪能どころではないからだ。
やっぱり,私のどこかに首里城に対する“冷めた印象”があるのも,歩を早めてしまう要因だろう。後ろからは続々と修学旅行生やらどっかのツアーで来ているジジババやらが押し寄せては消えていく。基本は赤を基調にした絨毯敷きで,漆もまだほとんど剥げていないから,趣も何もあったものではない。ま,復元バリバリなのだから仕方ないか。
そんな中で一つ印象に残っているのは,南殿に入ってすぐ,とある床の部分に人が多く群がっていた場所。70cm四方くらいのガラス張りになっていて,そこから下が丸見えなのだが,復元に当たって地面を嵩上げしているのを示すためのものらしい。実際の石垣を見てみても,下にベースとなる古い石垣――さる大戦後に残った石垣――があって,その上に新たに石垣を積んでいるというのがはっきり分かる。
外に出る。総じて言えるのは,やっぱり「作り物は作り物」ということだ。所詮,こういうものを愛でる心がないのかもしれない。だから肝心の本殿についてはこの程度しか書けないのだ。初めにも書いたように琉球王朝があった時代の跡がもっと見て取れれば違っただろうが,それも言い訳がましいか。個人的にはよほど,前に見てきた中城城跡や勝連城跡の廃墟っぷりのほうが,「兵どもが夢の跡」感をヒシヒシ感じられて好きなのだが,これもただ“タイミングがよかった”だけなのかもしれない。

A「玉陵(たまうどぅん)」に入れる条件とは?
さて,我々3人は再び守礼之門に戻って,駐車場を素通りして公園の敷地を出る。もう一つの世界遺産を見るためだが,その名は「玉陵」という。第2尚氏の歴代王様とその親族が眠っている墓である。10年前の旅行では,ここは見損なっている…というか,その存在すらも知らなかった。なのでここは初めてだ。ちなみに園比屋武御嶽石門も知らなかった。二つとも世界遺産になったからこそ,訪問する気になったと言っていい。つくづくひねくれ者である。
敷地を出て,100mほど歩くと,コンクリの校舎の前に入口はある。校舎は首里高校。木立に隠れているために,一瞬どっかの公園か空地程度にしか感じられないが,これが世界遺産だというから,沖縄は奥が深い……というか,私がヘンに構え過ぎているだけなのか。
しかし,実物を見ると,その壮大さに感動すら覚えてしまう。40〜50m四方はあろう大きさ。墓石は全面石造の破風墓。石室は三つ。何箇所も彫刻が施されており,“墓”というくくりにするには失礼なほど立派な建築物である。第2尚氏の3代目・尚真王(在位1477〜1526年)が,父で創氏の尚円の遺骨を納めるべく,1501年に築かれたもの。第2次世界大戦で大きな被害を受け,修復を余儀なくされたそうだ。それでも500年の時間を経てきた黒ずみ加減,明らかに大戦時の爆撃跡と思われる石の崩れ具合が,この壮大さに大きく貢献していることは間違いない。朱塗りの首里城にはない歴史の重みを感じ取れる。
沖縄では,祖先崇拝信仰の表現として,墓を立派なものにしようとする志向が強い。玉陵の設立は,国家のシンボルである王家がその信仰の模範として墓を整備し,祖先崇拝信仰を国内統治の安定・強化に結びつけようとした意図があったものと考えられているそうだ。何度となく旅行記で書いている街中や集落のデカい亀甲墓・破風墓は,いわばこの玉陵によって影響を与えられているようだ。
先に石室が三つに分かれていると書いたが,まず「中室」という真ん中の石室に遺体が安置される。そこで数年をかけて骨にされた後に洗骨されて,「東室」「西室」と呼ばれる両サイドのうちのいずれかに晴れて納められる。「東室」には王及び王妃,その他の王族が「西室」に納められたようだ。骨を納める骨箱というのも立派なもので,隣接する展示室にいくつかディスプレイされていたが,小さな社のような出で立ちで,彩りも豊かである。

ちなみにその展示室には,誰がどこに納められているかが書かれているが,かなりの人数が納められているようだ。その一方で,そのメンバーはまた,私は見損ねたが「玉陵碑」と呼ばれる石碑によって規定されていて,メンバー以外を納めようものならば祟りがあるとまで書かれているという。
そのメンバーとは,尚真,尚円妃で尚真の母のオギヤカと,尚真の姉,尚真の長女と尚真の三男から七男となっている。例えば単純に言えば,尚真の長男である尚維衡,次男の尚朝栄は除外されている。また,2代目の尚宣威は,初代・尚円の弟で3代・尚真の叔父に当たるが,彼もまた納められていないのである。
その理由とは,まずこのうち尚朝栄は,玉陵の造営前に幼くして死んでいるために外されている。次に尚宣威は,甥の尚真が幼かったために2代目の国王についたが,半年で尚真を国王にする政治的動きで失脚させられる。詳細は後述するが,その後いまの沖縄市に隠遁し,そこで亡くなり葬られた(墓も実在する)。
最後に尚維衡。彼も政治的動きで首里を追放されて,浦添に移り住むことになるが,実は4代目の尚清とは腹違いの兄弟。ということは,当然父親は3代目の尚真である。維衡の母親は居仁という女性だが,尚真の正妃であるにもかかわらず,彼女も納められていない。というのは,彼女の父親であり維衡の祖父というのが,2代目の尚宣威であるからだ。すなわち,ここに尚真と居仁との間に従兄弟同士という血縁関係も成立するが,それは置いておくとして,要するに失脚させた義弟の系統はすべてアウトというわけだ。
この動きに大きな影響を与えたのが,オギヤカと言われる。彼女は,自分の子ども(=尚真)こそ王位にふさわしいと考えていたようで,それに加担したのが,神に仕える女性「ノロ」の力だそうだ。このノロには女性しかなれず,そのノロの最高位である闇得大君(きこえおおぎみ)は,王様に匹敵する力を持つようになっていたという。その最高位に自分の長女がなっていたというから,後は“やりたい放題”と言えよう。そして神託は「尚真こそ王にふさわしい」。尚宣威は,結果的には神の祟りを恐れて身を引いたという。
オギヤカにとっては尚宣威は義弟,居仁は義孫だが,こうなったら「義理もへったくれもない」ということだろう。ただし,尚維衡はれっきとした孫である。それも正妃の孫だから,ちょっと酷な話ではある。

政権争いに否応なく巻き込まれ,この玉陵に入れなかった人間もいる一方で,敢えてそこに入らなかった王もいる。それは,7代目の尚寧である。
彼は,日本史にも登場する1609年の薩摩侵入時の王様だ。薩摩の島津家久から,当時の徳川幕府へ挨拶に行くように言われたが,即答をしかねた。すかさず島津藩に首里に侵入してこられたあげく,大した抵抗もできないままに,江戸と薩摩に詫びに行かされたというのが事の経緯。彼はそんな失態を犯した自分を許せず,死後に玉陵に入ることを遠慮したという。
その彼が眠っているのが,ガイドブックにも載る「浦添ようどれ」という墓。浦添が出てきてピンと来た人は鋭いが,彼はオギヤカに弾き出された尚維衡のひ孫である。尚寧の前王で,オギヤカが「正統」とみなしてきた系統側の6代目・尚永には残念ながら王子がなく,「邪道」維衡の孫の元に嫁いでいた妹の子である尚寧に白羽の矢を立てた。さらに尚寧は尚永の娘・マゼニガネを妃にしていた。このことから,この時代にはもうオギヤカの影響は崩れ去っていたようだ。よって,いまの玉陵に結構な人数が納められるようになったとも言えよう。
しかし,尚寧が“遠慮した”理由が他にあるという。それは,曽祖父・尚維衡から続く浦添の地を大事にしたいとの思い。何でも,当時は血縁ではなく,出身地のある墓に納められる慣習だったそうで,それを考えれば,彼の考えることは至極当然のことのように映る。いや,ただ単にその慣習に従っただけなのだろう。その「ようどれ」にある碑に,自分が入るのはこの浦添の地であると書かれているという。
いずれにせよ,琉球王朝に言わば「泥を塗ってしまった」彼は,出身が違ったために無縁仏にならずに済んだ。これは彼にとってだけでなく首里にとっても幸運と思える。だって,請われて王になったとはいえ,「玉陵に入りたい」と強引に入っていたら,世紀を超えた“オギヤカの怨念”が首里を襲って,極端な話,王朝がどうかなってしまったかもしれないではないか。いつの時代も女は怖い生き物なのだから。(第3回につづく)

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