サニーサイド・ダークサイドU

@懐かしきレストラン
チャーリーレストランを後にして,いよいよ今日の最大の見所と言えるアブチラガマである。キーワード“玉城3G”の最初は,この“ガマ”である。地名が糸数(いとかず)というところにあるので,糸数壕とも呼ばれている。来た道を戻り,先ほどの看板のところ――進行方向が逆だと看板がないので注意(前回参照)――を左折する。進むこと1分ほどで,さらに「←アブチラガマ」の看板。平屋建ての建物があって,周りは駐車場。観光バスが停められるスペースもあるくらいだが,なぜか地図には載らない場所である。
駐車場には車が停まっていない。どっかのホームページを見ていたら,このアブチラガマには年間15万人の観光客が訪れるそうだ。修学旅行生が多いらしいが,はてこのガラーンとしたのを見ると,ホントだろうかと思ってしまう。あるいはタイミングなのか。とりあえず車を停めて,建物の中に入る。中は外の陽射しがウソのようにヒンヤリしている。
なぜ建物に入ったかといえば,200円の入場料を払うのと,懐中電灯を借りるためである。これは事前情報ではタダという話で聞いていたが,さすがに「年間でこれだけの人数が来るのにタダで見せる必然性はあるまい」と,村として気づいたのだろうか。歴史的にも有名な場所であり,立派な観光スポットになる。そこにビジネスを見い出したところで不思議さは何らない。
建物は天井が高いロッジみたいな作り。観光案内所も兼ねているらしい。受付にいる30代半ばくらいの女性に声をかけると,「13:00」と書かれたスペースに名前を記帳する。ちらっと他のスペースを見たら,この後で修学旅行生と思しき団体が来るようだ。お金を払って懐中電灯を借りる。なお,懐中電灯代はプラス100円である。
ホームページなどの事前情報では,その懐中電灯とヘルメット・手袋を前もって用意しておくとよいと聞いていたが,まさか家からヘルメットなんか持ってくるのもバカバカしい。要するに頭をぶつけやすいから,あるに越したことないってことだろうが,そんなのは自分で気をつければいいのだ。手袋も後で手を洗えば別に何とかなろう。懐中電灯も借りられることは知っていたから,気楽な気持ちで来たのだ。しかし,彼女は少し怪訝な顔をしながら,
「中は真っ暗ですが,お1人で大丈夫ですか?」
などと聞いてきた。何を言うか。そりゃ,たしかにシムクガマは真っ暗云々よりも,虫が怖くて途中で引き返しはした。でも,ここは仮にも金を取るし,年間15万人も来るという“観光施設”ではないか。何をいまさら脅すのか――そう考えると,ミョーに強気になったりもしてきて,なんくるないさとばかりに,
「ええ,大丈夫ですよ」
と平然と言い返した。ここまで来たら「元を取りたい」というのもあるし,何よりシムクガマに行き損ねているから(前回参照),ここまでも外せないってのがある。「念のため,予備です」と,懐中電灯は2個受け取る(2個で100円である)が,そんなに大げさなものなのか。
「中に看板とかはあるんですか?」
「それは“順路”って書かれた看板がありますか
ら,それを懐中電灯で照らして進んでください。
あと,天井が低いんで頭に気をつけてください」
なーんだ。真っ暗なのに看板すらないけどそれでも行けってことかと一瞬思ったが,ちゃんとあるのだ。だったら心配ない。「あの赤瓦があるところを左に曲がると入口ですので」と案内してもらって外に出ることとする。

外に出ると,再び強い陽射しの中。この南部という地は去る2月にも訪れているが(「沖縄・8の字旅行」中編参照),第2次世界大戦の際にかなりの被害を受けている場所だ。今から約60年前の話だが,そのころとあまり変わらない景色なのではないか。でも,過去の惨劇が微塵も分からないほど静かである。周囲は何もない場所で,あるのは森と畑地くらい……のはずだが,「パーラーアブチラ」なんてボロい建物があったりする。明らかに場にそぐわない存在である。何のために作ったのだろう。こんなのはさっきの建物に併設しときゃいい類いのものだ。
先の女性に指示された通り少し歩き,赤瓦のある案内板を通り過ぎると,黄色く小さな看板で「アブチラガマ入り口」とある。これは事前にホームページで確認していた看板だが,私はさっきの駐車場の入口がこの程度の表示かと思っていた。でも,それじゃ年間15万人も来る観光客に失礼か。普通のブロック塀が右にあって,高い確率で「ただの路地」と見逃される確率は高いだろう。狭い入口には小屋があり,そこには門番のおじさん。彼にチケットの半券を切ってもらうと,いざアブチラガマだ。
……その前に,このアブチラガマを軽く説明しよう。およそ“流れ”で検討がつくかと思うが,第2次世界大戦時に使われたガマである。全長で270mもあるというから,かなり大きなガマと言えよう。もちろん自然壕だ。しかし,チビチリガマやシムクガマと違って,最初から最後まで地元民の避難壕として使われたのではない。初めこそ地元民用の避難壕として使われていたものの,その後,日本軍によって対米軍用の陣地あるいは倉庫として使われるようになり,さらには「南風原陸軍病院糸数病室」という野戦病院としてまで使われるようになった点である。
そうとなれば,元々いた地元民は少なからずガマを出されてしまうことになる。それによって,当然だが米軍の攻撃を受けて亡くなる人間も大勢出てくる。そして,野戦病院である以上,負傷した兵士が次から次に運ばれてきて,そこでさまざまな悲劇・惨状が繰り広げられたことも想像に難くあるまい。もちろん,戦況が悪化するに連れて,その状況がさらにひどくなっていったことも。
このガマを知るに至ったキッカケは,集英社新書から出ている『沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕』という本を手に入れたところから始まる。参考文献一覧にも載っているが,著者は石原昌家(いしはらまさいえ)氏という沖縄国際大学教授。彼と彼の“ゼミ生”が四半世紀の時間を費やして,このアブチラガマの中で起こった出来事を,軍関係者,避難民,そしてこれが一番のメインだろうが,野戦病院時代に甲斐甲斐しく負傷した兵士を看病したという従軍看護婦「ひめゆり看護隊」の女性など,様々な人間から証言を取って構成立てされた本である。この本を読んで,すでに行く予定でいたチビチリガマ・シムクガマと同時に,もう一つ行ってみたい候補になっていたのである。
詳細は実際に読んでいただきたいが,最大で1000人近い負傷兵が収容されたというから,それはそれは実際体験した人間には強烈であったようだ。例を二つ三つ出せば,
 中に運ばれてきた後に発熱で脳症になった負傷兵が,気が狂ってあまりに騒ぐので他の兵隊が壕のどこかに連れて行って……後で運び出した人間に「あの患者はどこに行ったのですか?」と聞いたら,返ってきた答えは「大丈夫だ」。その患者は,それっきり姿を見ることがなかった。
 傷口から破傷風菌が入り込んで,破傷風になった負傷兵。血清注射を打てば助かるが,物資が不足してなかなか注射してもらえない。そのうち患者自力で口を開けることすらできなくなるから,ウーウーうめいて意思表示せざるを得なくなる。患者が何をしてほしいかは,中にいる誰もが分かっているが,それができない。看護婦も,そんな人間を何百人も抱えて不眠不休近く看病しているから,さっきまで看病していた負傷兵のことなど忘れてしまう。で,後で気がついたら息絶えていて,その亡くなった患者を運び出すとき,周囲の患者から“何とも言えない目”で見られるのが一番辛かった。
 負傷兵の傷口からウジが湧いてくることは日常茶飯事。ガーゼも絶対数がないから,使い捨てなんてもちろんできない。それでもウジは容赦なく湧きつづける。取っても取っても追い付かない。その様が,束になってパッケージに入っている爪楊枝の“尻”にそっくりだという。助かった従軍看護婦の中には,戦後に偶然その爪楊枝のパッケージを見て当時を思い出し,思わず投げ捨ててしまった人もいるという。

さて,今度こそアブチラガマである。入口は半月形。後でつけたのだろうか階段があるが,身体を反らせたり折り曲げたりしないと入れないくらいの天井の低さである。もちろん,人1人が入れる程度の広さしかない。入って早々,中から冷気が軽く吹きつけてお出迎えだ。天然のクーラーである。温度としては十数℃だろうか。テキトーに両脇の岩場に手をそえつつ,中に入っていく。天井もなだらかならいいが,そうはいかない。ネットが張ってあるのが,せめてもの配慮か。
……なんだこりゃ。ホントに真っ暗で何にも見えねーや。ライトを真正面に照らすと「@順路→」という看板が見える。なので,ひとまずそれを信じて進むしかない。あり得ないだろうが,この看板がイタズラで逆方向に向けられていたりしたら,アウトである。しかも,同時に足元もマメに照らさないと,滑ったりする危険性がある。右手はどうやら後でつけたと思しき手すりにしっかりしがみつく。黒い皮っぽい手すりのようだが,まさか手すりに懐中電灯を照らすわけにもいかない。距離からして,普通に歩けば5分とかからない距離であるが,これでは1mすら満足に進めない状況である。
一応主だったポイントとしては,「入口→@ベッド→A脳傷患者収容所→B破傷風患者収容所→C病棟→D治療室→Eカマド→F食糧庫→出口」などといったコース。入口を入って@に向かうときは二股に分かれるので,行きは進行方向右,帰りはその逆に行くように案内所の女性に言われたが,それはそのとおりできた。しかし,いかんせん中は真っ暗だ。肝心のガマの様子といっても,自然のままなのか,あるいは少し手を加えたのか,せいぜい窪みがあったりするのみ。これといってよく分かるわけではない。「ふーん,ここに患者がいたのか…」と納得するのみだ。詳しい写真は「アブチラガマ」でヤフー検索して適当に探していただきたい。そこに何か“跡”があれば別だが,まさか遺骨や遺留品を残しておくわけにもいかないだろう。いや,あったらこの闇じゃ,完全に失神ものだ。
さて,肝心の脱出は入壕してから25分ほどか。出口は入口に比べて広いし,階段がしっかりしているので安心する。はたして,早いのか遅いのかは分からない。もっとじっくり見ていれば,それだけ時間はかからないだろうし,あるいはもっと運動神経がよかったら,早く出られたかもしれない。しかし,いずれにせよ再三言うように真っ暗である。懐中電灯を試しに消してみたが,完全な闇である。そして,聞こえてくるのは小川のせせらぎくらいだ。ちなみに,壕を実際使ったときに明かりをどうしたかというと,近くにある製糖工場のバッテリーを使って,このガマの中に電線を張ったそうだ。電球は近くの民家からくすねたりしたという。
よく「人間は暗闇に一定時間いると,目が慣れてある程度見えるようになる」と言われるが,そんなのは完全に否定されてしまう。ホントに何も見えない。そうなると,一気に人間の感覚なんてのは麻痺してくることもあるわけで,時間の感覚も分からなくなってくる。もっと長くいたかと思っていたほどだ。気温は,入るときに受けた冷気そのままの涼しさのはずだが,なぜか地上にいるときと同様に汗をかいた。間違いなく,これは“冷や汗”であろう。頭についてはそのうち天井が高くなるから安心なのだが,足元は電灯を照らさないことにはいかんせんおぼつかない。そして,行く方向にも当然明かりを照らす必要があるから,かなりの緊張を強いられる。
いやはや,ホントに怖かった。下手なオバケ屋敷に行くよりも,よっぽど迫力があると思う。再び,先ほど懐中電灯を借りた建物に返却すべく戻ったら,ちょうど20代前半くらいの男性1人と,女性2人のグループが入っていって,私と同様に懐中電灯を借りるところだった。どうやら,1人に2本貸し出すらしいので,単純に私の3倍の明るさは保証されるようだ。彼らももちろん私と同様の説明を受けていたが,もし応対した女性かその3人組が私に話を振ってくれれば,よっぽど中の真っ暗さと恐怖さをアピールしてやりたかったが,そのタイミングはついに訪れなかった。
まあ,こっちとしても「行って試してみたら?」という気持ちがあったから,進んでアピールすることはしなかった。車で出て行く間際には大きな観光バスが乗り入れていて,中から何人もの人間が降りたっていたが,はて,彼らがどんな感想を持ったのか興味深い。少なくとも,無謀にも1人で乗り込んだ私よりは条件がいいはずなのだが。

@懐かしきレストラン
アブチラガマを後にして,目と鼻の先にある糸数城跡に向かう。“玉城3G”の二つ目は,“グスク”だ。舗装部分とジャリ道の混じった坂道を100m程度上がると城跡である。石垣が連なっているのみだが,高さは一番あるところで6mはあるようだ。平均でも3m前後といった感じだ。まあ,世界遺産に指定された四つの城(座喜味・中城・勝連・今帰仁)に比べれば,はっきり言ってちゃちい限りである。たまたま,20代らしきカップルが一足早く乗り込んでいて,手をつなぎながら不安定な足元をスッスと登っていったが,後にも先にも彼らと私の3人しか人の姿を見なかった。
それでも,ただ自然の石をそのまま積んでいく技法の「野面(のづら)積み」と,直方体に切られた石を規則的に積んでいく技法の「布(ぬの)積み」を効果的に使っているという,なかなか評価の高い城跡のようである。築城時期は650年前が有力とされていて,「糸数按司(いとかずあじ)」と呼ばれる豪族が住んでいたとされている。
目の前,直線距離で数m先と思われる城門へのアプローチは,樹木と岩石で紛れてしまっていて,パッと見てどこをどう行けばいいのか分からない。もちろん,直線で行くには岩石がはだかって難しい。とりあえず草が生い茂っていない辺りを遠回りに歩いて行ったら,入口に辿りついた。ただ左右に石が積まれているだけのものだが,ポッカリ開いている上部には櫓がかけられていたとされている。城内は……別に大して何もなかったのでとっとと引き返す。
この城には「比嘉(ひが)ウチョー」という怪力男がいたとされる伝説がある。2トンもある石を持ち上げ,城の裏門の崖に石橋をかけて通り道とし,敵に攻め入れられそうな時はその大石を取り除いて城を守ったそうだ。その裏門の石橋が今も残っているそうだが,残念ながらそれを見ることはなかった。長く平たい石だそうだ。
ちなみに,玉城村は村興しとして,このウチョーをイメージキャラクターにし,毎年行われる村祭りにて「力石(ちちいし)」と呼ばれるかなり重い石を持ち上げるコンテストを2001年に初めて行った。昔から行われていたという,各集落で重い石を持ち上げて叩き落とし,悪魔払いをするという伝統から来ているようだが,何とこの石は,その後誰でも触れられるようにと外に置いていたところ,盗難に遭ってしまったそうだ。「何で盗んだのか分からない」とは地元民。その後の様子は分からないが,祭り自体はどうやら今年も行われるようである。
ちょうど石垣の上にはカップルが上がっている。ここからは海が見下ろせるようであるが,石垣の下には玉城村教育委員会の立て札で「危険ですので上らないでください」とある。私はあくまで委員会の味方……ではないのだが,石垣は水平でなくやや凸凹している。足元が危ういのでここはあきらめる。つくづく小心者である。
ここからは玉城城跡を目指す。糸数城跡へ上ってきた坂道が本来はこのまま石垣の脇を通り抜けられるようだが,ちょうど通行止めになっていて通り抜けできず。一度来た道を引き返し,県道48号線から迂回して城跡に向かう。グスクロード公園という広い公園の脇を抜けて,そのまま真っ直ぐ行くと……どうやら玉城城跡を通り過ぎてしまったようだ。
ま,こちらも似たようなものなんだろうが,円形にもハート型にも見える,自然岩をくり抜いたというアーチ型の城門の写真がホームページに載っている。どうやらそれがこの玉城城跡のようだ。築いたのが琉球の始祖神のアマミキヨとされているが,だとしたらもう少しメジャーになっていてもよさそうな……。また,近くにはミントン城跡というのもあるようだが,こちらは知念さんという方の家の敷地内にあるという。で,アマミキヨの安住の地で,知念さんはその直径らしい。へぇ〜。両方とも地図に載っているのが,せめてもの始祖神に対するリスペクトなのか。
こうなったら,このまま垣花樋川(かきのはなひーじゃー,以下「樋川」とする)に向かうことにしよう。次に行きたかった場所であり,“玉城3G”のシメは泉,すなわち“ガー”となる。途中,樋川への案内板が出ている十字路の角に垣花城跡というのを見るのだが,すっかり森と化していて,所々見える石垣らしき岩が城であったことを物語るのみだ……と思っていたら,立派な石碑もある。しかし,こんな鬱蒼とした森の中に入っていくなんざ自殺行為みたいなものだから,通り過ぎる。四つの城跡とも,その鬱蒼ぶりで拝所とされ,御嶽として崇められているようだ。

垣花城跡から樋川に向かう道は狭く入り組んでいる。看板に沿って進んでいくと十字路。進行方向でその右脇には車が2台停まっている。看板が出ており,ここが樋川の入口である。十字路から樋川には,どうやらこの右の坂を歩いて下って行くようだ。車が停めてあるところの向かいには,プレハブの小さい出店。飲み物なんかを扱っているようだ。ちょうどオバチャン連中がその駐車スペースに車を停めたようで,駐車スペースには私の車が入る隙間はない。仕方なく数度転回して,そばの民家の壁にへばりつくように停める。
樋川へは石畳の急坂が続いていく。石畳といっても,古都にあるような上品なものではなく,ただ単に自然の岩やら石が露出しているようなもの。勾配もあるから,安定感は抜群に悪い。脇に黒いパイプが伸びているが,この先が樋川なのだろう。周囲は木が生い茂り,様々な虫がかけ回る。天敵の蜂もいる。容赦ない暑さで,汗はどんどん吹き出てくるわ,足元がよくないわで神経が疲れる。多分200mほどは歩いたと思うが,30mの高低差があるという。昔はこの坂道を水を汲んで上り下りするのが女性の仕事になっていたようで,ただでさえ重労働なのに加えてこの高低差だ。なので「垣花には嫁をやるな」とまで言われたのだそうだ。
そんな道を10分近くかけて下りると,垣花樋川である。親子連れや観光客で賑わっていて,特に小学生くらいの子どもたちは,ハダカになって水と戯れている。“ガー”とかいうよりは,石造りの立派な貯水施設と言っていいだろう。トータルで広さは十数m四方はあろうか。水は2〜3段になって流れ落ちる。水量も実に豊富で,どこにこんなに水があるんだろうと思うくらいに,水がジャンジャンあふれ出て流れていく。
ちょうど子どもがいる辺りは,後で整備でもされたのか,地面が平らになっている池となっている。大きさは直径が6〜7mほどか。しかし,ここは名前を「馬浴川(うまあみしがー)」という昔からあった場所。その名の通りの由来であるが,なるほど,名前の通り馬でも牛でも1頭がゆったり入れるくらいのスペースはある。さしずめ今は「子浴川(こあみしがー)」といったところか。水が心なしかビミョーに濁って見えるが,見えないガキどもの代謝物がきっとあるに違いない。そこからさらに下に流れているようだが,どうか口にされないことを願う限りだ。
さっきのオバチャン連中は,池の脇から上に上がっていった。私もそのルートを行く。もちろんコンクリートだとか,ましてや場違いな大理石なんかで整備なぞされてはいない。ベースはあくまで琉球石灰石である。よくぞこんなものを作ったものである。さっきの「馬浴川」を一段上がったところには,四方すべてを石垣で囲われた貯水池。大きさは5m×3mほど。そこに向かって,上から石でできた「掛樋(かけひ)」と呼ばれる「凵」型の溝がかかっている。溝の幅は十数cm。そこを伝う水はさらにキレイであり,かつ水流が早い。この溝…というか“流れ”は「男川(いきががー)」と呼ばれる。勢いが男性らしいということだ。水質は圧倒的にキレイだ。だてに「全国名水百選」に選ばれちゃいないのだ。もっとも,ここにガキが踏み込んでイタズラされたら……はたまた,私がここから毒を一滴盛ったら……いかんいかん,バカらしい妄想に囚われてしまった。
その奥はというと,鬱蒼とした森となっており,その中心にミニミニガマがある。見える限りでは,そのガマの中に向かって,上のほうから滝のように水が落ちているようだ。水しぶきの音がはっきり聞こえてくる。掛樋の脇では,50代くらいの女性が手のひらを上に向けて目を閉じている。微動だにしないその有様は,完全に瞑想の世界である。はたまた単なる森林浴か。オバチャンや私がせわしなく移動していくのとは明らかに異質な空気である。
ちなみに,男がいるからには女もいるわけで,別のところからも一筋の流れが生じている(もちろん,この樋川の敷地内である)。ややゆるやかな流れだが,名前はその名も「女川(イナグガー)」。ただし,さっき石畳の坂道で見たパイプでほとんどの水を集落に持っていかれているためらしい。いずれにせよ「男と女の合わせ技」で,滝とはまた違う見事なまでの勇壮さを感じる。昔は,出産から臨終まで事あるごとにこういう湧水が使われたり,あるいは聖なるものとして崇められたそうだが,今はそういった風習は廃れつつあるという。

さて,下ってきたからにはその逆は…もったいぶるまでもなく,上りである。坂道は下りのほうが危険と言われるが,上りは危険でないその分ハードである。先発隊のオバチャン連中は休み休み上っているようだが,彼女らが休むスキに私は1人1人追い抜いて行く。もっとも,途中には休むための石なんかがあったそうだが,そんなものに目をくれているヒマ…というか余裕はない。
駐車場に戻る。次は海岸方面に行ってみたい。漢字にインパクトがあったからというのが理由だが,名前を漢字で書くと「受水走水」。これで「うきんじゅはいんじゅ」と読む。一体何があるのかと思ってしまった次第である。入ってきた狭い路地を正確に戻り,県道137号線に出る。住宅街のようだが,この辺りは百名(ひゃくな)という地名になっている。
国道331号線を越えると,道は急坂となる。そりを下りきると「←受水走水」の看板。そちらに入ると突き当たりにちょっとしたロータリーがあって,ボロい路線バスが停まっている。系統は「39」と書かれていて,どうやら那覇バスターミナルから新原(みーばる)ビーチに行くバスのようだが,ということは,この辺りがその新原ビーチということか。ロータリーの奥に駐車場もあって,おじさんが手招きをしている。ビーチには用がないのだが,念のため車を停める。「ビーチですか?」と聞かれたので,「いいえ,“うけみずはしりみず”とかってやつです」と言うと,「ああ,この奥ですね」と返してきた。そう,このときはまだ,あの漢字の読み方が分からなかったのである……。
ロータリーまでは舗装道路であるが,その奥はジャリ道である。一瞬,入っていいのか迷ったが,後ろから続いていたライトバンが入っていったので,間違いなく入っていけるのだろう。入口は樹木が生い茂って,天然のゲートっぽくなっているが,ガタガタ道を進むこと30秒。その先にはただっ広く畑と土の景色が開けた。畑のあぜ道の脇には,小さくさりげない看板だが「←受水走水」という看板もある。そして右は小屋があって,青空の下に数十m四方の駐車場。車が10台ほど停まっている。さらに奥には防風林らしきもの。小屋には人がいて「有料」という古い木の板もかかっているが,とりあえずここに停めたほうがよさげだ。空いているところに適当に入れる。
急いで防風林のほうに向かうと,1人のオジイが声をかけてきた。はて,小屋にいた人とは別のようだが,たまたま近くから遊びにでも来ていたのか。彼は「海ですか?」と聞いてきた。今度はちょっと端折って「いいえ,“うけみずはしりみず”です」と言うと,「ああ,それは逆ですね」と返してきた。あ,そうだった。なので先ほどのあぜ道を100mほど入っていく。
こちらの畑の奥もまた,鬱蒼とした森となっている。その左のたもとに直径5〜6mほどの池。そこへは水が奥から流れ込んでいる。上記・垣花樋川とは比べものにならないくらいチョロチョロとしたものだが,その奥のほうからピチャピチャと音がする。琉球石灰岩がところどころ露出しているから,まさしく「岩清水」といったところだ。後で調べたら,その辺りが「受水」のほうらしい。少し水が澱んではいるが,池から畑の方にもさらに流れているようだ。
その入口に看板があるので見てみると,ここはどうやら沖縄の稲作発祥の地のようだ。ここに先述のアマミキヨが自ら稲穂を持って来て地元の人間に植えさせたのが始まりとも,はたまた1羽の鶴が近くに稲穂を落とし,先述のアマミキヨがこの場所に植えたのが始まりだとも言われる。でもって,さっきの池は,毎年1月「親田御願(うぇーだうがん)」と呼ばれる豊年祈願のために稲を植える田んぼのようだ。400年も続く伝統行事で,すなわち稲作発祥の地のシンボルである田んぼ。「御穂田(みーふだ)」と呼ばれているらしい。
御穂田とは逆の方向,大きな樹木がある方向にも入っていけたので入ってみると,石片の拝殿があった。いまは土だけだが,こっちがどうやら「入水」のほうらしい。さらに今回行き損ねてしまったが,車で入ってきた道をさらに奥に行くと,「浜川(はまかわ)御嶽」「ヤハラツカサ」などという史跡もある。いずれもアマミキヨにかかわりのある史跡で,さっき書いた繰り返しにもなるが,この一帯がアマミキヨが生活していた(もちろん伝説であるが)拠点であることを物語っている。
受水走水を後にして,せっかくなので海岸のほうに向かう。防風林が天然のトンネルを造っていて,その向こうには海が開ける。所々岩がゴツゴツしていて,サンゴのカケラが混じった砂浜だ。ごくごく素朴な光景。防風林の木陰でくつろいでいる親子連れはいたが,ビーチで遊んでいる人間はあまりいない。さっきのオジイも,奥さんらしきオバアと一緒に砂浜をウロウロしているが,はてこのスキに車を出されて貴重な駐車代を徴収しそびれるのではないかと思ってしまう。
車に戻る。中は想像がつくとおり,蒸し風呂状態だ。しばし涼みながら次に行きたい場所を探しつつ,休憩すること約5分。その時間はオジイが“持ち場”に戻るには十分な時間だったようで,帰り際にしっかりと駐車料金200円を徴収されたことは言うまでもない。(第3回につづく)
 
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