沖縄・ミッションコンプリートへの道(第1回)

(6)沖縄の世界遺産・全制覇に向けて Part2
朝6時半ちょっと前,けたたましいアラームがなる。どうやらM氏の携帯のようで,彼がモソモソと動いている。実は私はかれこれ2時間くらい“ウツラウツラ”の状態で,ちらっとカーテンを開けてみても,外はいまだ真っ暗である。日の出が一番遅い地域なのだから仕方ないが,これではまだ起床時間が来ていないと勘違いしてしまいそうである。
しかし,M氏はもちろん,H氏も目を覚ました。しかも普通はこのまま2度寝に入るところだが,ちゃんと上体を起こしている。「ちゃんと予定が決まっているならば起きられる」とはH氏の言葉だが,そうらしい。もっとも呑んべぇの彼が,昨日はビール1本程度と泡盛の水割りが2〜3杯程度だし,今朝は楽だろう。泡盛は翌朝に残らないというし。
とっとと着替えて,7時ちょい過ぎにレストラン「SERENA」へ。10数年付き合ってきて,この時間に朝食を取れるのが,失礼ながら奇跡のように思えてしまう。中はまだ人の姿がまばらだが,いくらもしないうちに埋まってしまうだろう。
朝食は,ホテルらしく和洋バイキング形式。オムレツやベーコン,納豆,味噌汁,サラダ,コーンフレークにパンとライスなど,ごくごくありがちなものだが,紅芋パンや雑炊といった若干沖縄料理らしきものも含まれている。ちなみに雑炊というのは,単に“沖縄風雑炊”とプレートに書かれていたため。味噌汁っぽくて豆が多く入ったものだが,はたして,プレートがなかったら“沖縄風”だなんて分かりやしないだろう。
それはそうと,3人とも実に朝から食欲旺盛である。H氏は昨日ジューシーとサラダを残したから,ある程度空腹かもしれないが,M氏と私は有に1人前以上の量を食っている(第3回参照)。それでも,プレートいっぱいに食材を盛っては胃袋に入れ,数往復してしまう。私は早食いゆえ,7時半の時点で満腹だったが,“スローフード主義”のM氏はなかなか食べ終わらない。本人いわく「昔,夜は2時間かけて食べた」とのこと。結局,8時ギリギリまでいてもM氏は「まだ満腹じゃないんだけど」と言っていた。

@読谷村と戦争と米軍と
8時半過ぎにホテルを出る。ハンドルを握るのは,予定通り私である。まず向かうのは読谷村だ。スケジュールがタイトなときは,遠いところから“攻めていく”のが鉄則。よって最北の読谷は残波(ざんぱ)岬をまず目指すことにする。天気もいいのでドライブ日和だろう。
道は単純だ。ゆいレールの首里駅そばの交差点を右折して南下し,沖縄自動車道に入り石川インターまで向かう。M氏は,いわく「高速走行は2000年1月のいわき旅行(注・M氏が幹事となり,H氏や私も参加した旅行)が最後」らしい。一方,私はというと昨年9月にこの道を一度運転している(「沖縄・遺産をめぐる旅」第1回第2回参照)ので,「乗り慣れている」とまでは行かないまでも,怖さみたいなものはさしてない。
しかし,車が違うと乗り心地はやはり違う。今回の車は1500ccのカローラだが,何気にアクセルを踏んでいると,120km/h以上は簡単に出てしまう。一方,昨年9月に運転したのは,同じトヨタでも1000ccクラスのヴィッツ。こちらは意識してアクセルを踏んでいなければ,スピードはなかなか出てくれない。しかも,どんなに踏ん張ったとしても105km/h程度だ。H氏も,その辺りは実感したようだ。
そんなスピーディーさも手伝って,20分ほどで石川インターにあっさり着いてしまう。あとは西に向かって県道をひた走る。途中,国道58号線と交差したり合流したりする。この辺の道はちょっと複雑だ。国道は車線が二つあり,一方,県道は1車線。多分,県道がもともとは国道58号線で,後でバイパスを作ったのだろう。
やがて,その国道とも分かれて,県道単独で海岸沿いを走っていく。右には海。いずれ残波岬で間近に見ることになるのだが,今回一番近くで海を見ている気がする。助手席のM氏も海に関心が行っているようだ。
さて,読谷村は名前こそ“村”であるが,人口は3万7000人余。ちなみに,近場の石川市は2万2000人余で,隣接する恩納村は1万人弱だから,村にしてはもったいない人口の多さだ。しかも人口は増加傾向のよう。ご多分に漏れず,その石川市や恩納村あたりと合併話もあるようだ。
でも読谷といえば,これから行く残波岬,その次に向かう予定の世界遺産・座喜味(ざきみ)城跡がある。「むら咲むら」「やちむんの里」なんてのもあり,また「ホテル日航アリビラ」は有名である。さらに女性2人組のKiroroもここ読谷出身だ――要するに,村単独でこれだけメジャーなものがあるのなら,豊見城市みたいに一気に「市」へ昇格してしまってもいいと思うのは,あまりに素人考えだろうか。

残波岬には9時半に到着。失礼ながら,ちょっとちゃちい感じの白い灯台がすぐ目の前に見える。周囲は,ゴツゴツした琉球石灰岩の岩場に,所々緑色のモンパノキが生える。駐車場からはジャリ道になっていて,灯台へはすぐに行けるのだが,M氏もH氏も,一目散に岩場を進んでいく。M氏は実に足元が軽い。あっという間に岩場の先端まで行ってしまって,何だか写真でも撮っている様子だ。その付近で数人が釣糸を垂らしているが,波も風も結構ある。魚が果たして寄ってくるかどうか。
一方の私はというと,こういう岩場の不安定なところは実に苦手だ。適当なところで折り返して,2人が戻ってくるのを待つしかない。天気が実によく,風で空気が淀んでいないからか,北西遠くには島らしき影も見えるが,伊江(いえ)島か。また真西から南西にも島影が見えるが,それは慶良間(けらま)諸島辺りか,あるいは粟国(あぐに)島か。
待つこと数分。ちゃちい感じの白い残波岬灯台へ。200円を払って,狭い階段を上がる。「何段あるでしょう?」なんて入口に看板がかかっていたが,別に賞品が出るわけでもなく,上った段数で“プライド”が満足するということもない。てっぺんに行ければそれでいいのだから,結論は「結構ある」としか答えようがない。中の展示室に答えが書かれているかと思ったが,結局何段かは分からないままであった。
頂上から外へは,腰くらいの高さの小さな出入口から出る。上から見ると,やっぱり景色は爽快である。そして,北に向かっては琉球石灰岩の断崖が幾重にもなって延々と続いていき,対して南には砂浜がこれまた延々と続き,白くて高いホテルの建物が映える。この対照さは興味深い。M氏とH氏がその地形について議論していたが,残念ながらよく聞いていなかった。
ちなみに,北に向かう断崖の光景を何処かで見たことがあると思ったが,沖永良部島の田皆崎(たみなざき)に似ている(「奄美の旅」第6回参照)。田皆崎にも灯台があったが,上から見下ろしたわけではないので,もっと断崖が大きく間近に迫っていると感じた。多分,その辺りの違いは単純に,遠近感によるものだろう。
そして下を見下ろすと,灰色の上に緑が所々かぶっている感じだ。私はもっと緑が一面に覆っていると思っていたが,そうでもないようだ。実は沖縄を訪れるたび,那覇からの戻りはほぼ毎回JTAの夜9時発に乗っていることは何度か書いてきた。そのJTAの機内販売のリーフレットにはいつでも沖縄出身のバンド・DIAMANTESの「ビエントス」というCDが載っている。そのCDのジャケット写真がこの残波岬の写真なのだ。
そこには一面のキャベツ畑みたいな緑の中にバンドのメンバーらしき人物が写っている。これを見て,俄然残波岬に行ってみたくなったというのがホンネである。どのくらいの高さから撮ったのか興味深かったのだが,構図は分からずじまい。あるいは合成でもしたのだろうか。

次いで,座喜味城跡だ。M氏やH氏はもちろんだが,私もこの城跡は初めてである。既述のとおり世界遺産であり,また登場する写真集『ニライカナイ 神の住む楽園・沖縄』にも美しい石垣の輪郭が収められている。
そして,これは個人的な自慢だが,これにて沖縄にある世界遺産・九つのうち八つを“クリアした”ことになる。来月21日にも沖縄を訪問する予定だが,あるいはそのときにここに来る計画があったのは,既述のとおりだ。H氏の“崇高さ”には到底適わないが,あるいは“残り一つ”もあわよくばクリアしてしまえるか。
何もない平坦な土地を走ること数分で目的地に着く。道中に読谷バスターミナルを通過したはずだが,「どこにバスターミナルがあった?」と思わず聞いてしまう。M氏は「車が停まっていたところ」と言ったが,たしかに停まっている車を通り越したが,はて?
さて,ここ座喜味城は,何度か沖縄旅行記に書いている第1尚氏時代の“忠臣”護佐丸が15世紀初頭に築城したものだ。彼が,後に勝連城にいた阿麻和利を警戒して中城城を造ってそこに移ったことも,旅行記で既に述べている(「沖縄・遺産をめぐる旅」第1回「ヨロンパナウル王国の旅」第5回参照)。
駐車場より,ゆるい上りの散歩道を入る。5分ほどで石垣が見えてくるが,どうやら城の裏側から入ってきたようである。さらに5分ほど歩くと,ようやく正面にたどりつく。たまたま中年夫婦の観光ツアーと一緒になり,人数とともに一気に平均年齢も上がる。ここは無人で料金は取られない。それでも世界遺産。何か軽く扱われている気もするが,所詮は歴史の中では中城城がメインになって,座喜味城は“脇役”なってしまうから仕方がない。
高さ2〜3m,幅1mほどの石のアーチ門をくぐると,20m四方程度の二の郭。さらにその奥にあるアーチ門をくぐると,おそらく本殿があったと思われる一の郭。こっちはもう少し大きいか。城郭はこの二つしかない。それでもアーチ門などは,沖縄最古と呼ばれているようだ。もっとも,中城城跡を見ている私としては明らかにちゃちい城に感じるが,よい解釈をすれば“しまってみえる”ということか。
この城跡では,一の郭の石垣に上がることができるが,石垣は何かで丁寧にならしたかのように平坦で幅も広い。人1人がすれ違えるだろう。木の階段がご丁寧についているのも珍しい。中城城跡のそれはとても凸凹していたし,勝連城跡のそれにはとても上れなかったはずだ。
その石垣の上からは,天気がよいこともあってか,ツアーの女性ガイドが遠くに首里城が見えると言っている。たしかにそれっぽいものが見えなくもないが,ちょっと大げさかもしれぬ。もちろん残波岬で見えた島々も,ここから望むことができる。
そしてもう一つ,円形の鉄塔の檻を,これははっきりと真正面に見ることができる。いわゆる「象のオリ」と呼ばれる楚辺(そべ)通信所だ。ツアー客も「あれが『象のオリ』だ」なんて,興味が結構あるようだ。それだけニュースで全国区な認知度なのだろう。

その「象のオリ」は,政治議論が好きなM氏とH氏には訪れておかなければいけない場所(のはず)。もちろん私も興味があるので,一路車を進める。
狭い路地をくぐりぬけること5分,急に視界が開けたら,右側に丸い円筒状の鉄塔が見えた。その周囲はまたフェンスで囲われているので,少し遠巻きに見る格好になる。そばのちょっとしたスペースに車が停まっているので,そこに近づこうとするが,何とまあ偶然にもそこでマラソンが行われている。しかも,よりによってそのスペース付近が折り返し地点になっていて,走者が続々入ってくる。ここまで何km走ってきたのかは分からないが,彼らにスピードを調整させるのは酷である。ここは仕方なく我々がテキトーにスピードを調整して,そのスペースに駐車する。
「象のオリ」は,直径が200m,高さが28mにもなる大きなものだ。上述のように遠巻きで見るので,遠近感でその大きさが分かりにくいが,何もないのどかなさとうきび畑の中で,明らかにその存在は異質だ。その中心にある建物では航行中の飛行機や艦船の通信を傍受しているという。
政治通の方ならご存知だろうと思うが,この“オリ”の中にある土地の所有者の1人・知花昌一(ちばなしょういち)氏は,米軍への賃貸借期限が切れる1996年3月31日をもって賃貸借契約を終え,4月1日以後の再契約はせず,国に土地を返還するよう求めてきた。この“オリ”の中は,約440人の地主が存在するが,彼1人がこの土地の再契約を拒んだ。これに対して政府は,「違法な使い方はしていない」「極東の平和のために必要」「土地所有者にそれ相応の金員を払っている」ので「違法とは言えない」と反論。4月1日以後も,彼を中に入れることを許さなかった。その後,裁判所が仲介に入った結果,彼は同年5月14日,わずか2時間だけ立ち入りが許されることとになった。
これが,我々のよく知っている“事件”の経緯であるが,ここからが何とも微笑ましく,しかし圧巻のエピソードがある。といっても森口豁著『沖縄近い昔の旅〜非武の島の記憶』(凱風社)という本に書いてあったものだが,それは彼の母親の話である。
彼の母親・知花ウメノ氏は,その5月14日の朝,“オリの中でのパーティー”用に食べる弁当を作っていた。自分の家族7人と,友人や弁護士を含めて総勢30人分である。だが,よく見れば折り詰めが32個ある。余分なはずの二つは誰のものか。それは,何と自分たちを監視する役割の防衛施設局職員の分なのだ。「どうぞ,皆さんも召し上がりませんか」――“敵”にまでご馳走を振舞おうとする彼女の行動に,職員は苦い顔をしてそれを払いのけ,森口氏はその寛大さに感動し,「人としての勝ち負けがついた」と思ったという。

話を少し戻せば,残波岬は,米軍が最初に沖縄上陸をした場所。でもって,座喜味城跡はその上陸の日に彼らに接収されて,日本の特攻隊に備えてレーダー基地になった(ここもしばらく米軍に立ち入りを禁じられたそうだ)。また,今回行くことはなかったが,楚辺通信所と同じ集落にある“チビチリガマ”という鍾乳洞では,「米兵に捕まって殺されるなら死んだほうがマシだ」と盲信するあまりに80人余りが集団自決する事件が起こった。そして,それから数十年経って起こった“象のオリ”での出来事……。
まさに,読谷村は典型的な「戦争に翻弄された村」と言える。戦争に翻弄されたのはこの読谷村だけではないが,そんな中での彼女の行動とは何か。まさか実の息子がそういうふうにもてなせと言ったわけじゃないだろうし,当然,彼女にも彼女なりの苦悩が過去にあったかもしれない。
これ,完全に私の偏見だろうが,プライドだとか体裁を超えた,女性にしかできない行為だと思わずにいられない。“真の強さ”とはこのことを言うのだ。あまりにシンプルで,誰にでも分かりやすいことながら,「何をか言わんや」って感じで説得力がものすごくあり,それでいて奥ゆかしい。これはさしもの息子にもできないことだろう。もちろん,「土地を返せ」と国や米軍にひるまずに戦い抜いた昌一氏の行為が称賛に値することは言うまでもない。いや,「称賛に値する」などと,現地から1000km以上も離れている場所でのうのうと暮らす私が,こんな簡単に書いてしまっては,あまりに安っぽくなってしまう惧れすらあるだろう。
さて,これで読谷はひと通り見られた……といっても,既出の『沖縄近い昔の旅〜』を改めて見ると,上述の“チビチリガマ”や残波岬近くにあるという“残波大獅子”など,見損ねた場所も多い。改めて機会があれば訪れたいと思うが,ひとまずは先に進まなくてはならぬ。我々には,時間はあってないようなものなのだ。
しかし,目の前ではあいかわらずマラソンが続いている。ということで,ランナーとそのランナーに伴走する車によって,何もない畑の中の道は突如渋滞になった。追い抜こうにも,反対車線には折り返し地点に向かうランナーがいるから,簡単に進めない。業を煮やした車が時折全速力で追い抜いても,ランナー2人くらいを追い越すのが精一杯。「渋滞になるくらいならば,通行止めにすりゃいいのに」とぼやいたら,「このくらいじゃ,通行止めにしても意味がない」とM氏は言っていた。まあ,郷に入っては郷に従うことにして,途中の二股でマラソンコースが別になるのと同時に,一気にアクセルを吹かしてやった。

その読谷を後にして次に向かったのは,隣町の嘉手納(かでな)町にある「サンパウロの丘」だ。沖縄最大の嘉手納基地が眼下に見下ろせる高台で,または「安保の見える丘」とも呼ばれる。もうここまで来たら,軍事関連の場所を片っ端から見ていこうか。それもまた沖縄旅行らしい。
といっても,そこは3車線ある県道には不釣合いな白いミニ階段が道路脇にあって,その上に何の変哲もない平坦な土があるのみだ。最初,その場所を見逃してしまって,あわててUターンしたくらいにそっけないもの。道路を挟んで反対側に“道の駅”があって,その上も展望台になっているようだ。人が数人こちらを見ている。我々もそこに車を停めて,ここまで渡ってきた。
で,何が見えたかと言えば,遠くに白い建物があり,軍用機が数機いたくらい。M氏やH氏は早速シャッターを切っていた。しかし,上述の森口氏の本によれば,彼は本土復帰前のこの場所で,撮った写真を米軍に何度となく没収されたという。「撮影もしくはスケッチをしたら死刑もしくは懲役刑」なんて書かれた看板もあったそうだ。
今のこの場所は,日曜日の昼間ということもあってか,フェンスの外と同様,穏やかで静かだ。いや,日曜日だから静かなのだ。これが平日だったら爆音だらけだという。「安保が見える」というが,何の目的で軍事演習が行われているのかまでは見えない。かつて,60年前には日本に向けられていたその“刃”の矛先は,いまどこに向けられているのだろうか。(第5回につづく)

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