沖縄惰性旅U

(2)“腹ごなし徒歩旅”のオプション
@また一つ“貴重な路線”をつぶす
離島行きラウンジに向かう。途中,制服を着た女子高生と何人もすれ違う。彼女たちの手にはDFSギャラリアの袋。はて,免税ショップで彼女たちは一体,何を買ったのだろうか。私みたいにチケットをもらって,無難にちんすこう辺りでも買ったのか(「沖縄惰性旅」第6回参照)。それにしては袋が小さいから,あるいは高級ブランドものの小物だったりするのか。案外,親に頼まれてきたとか……見た感じでは失礼ながら,どこをどう見たって,ブランドものが似合いそうにないくらいに素朴な感じがする。「CHANEL」なんか買っていようものならば,かえってCHANELに失礼な気すらしてくる。
離島行きラウンジは,思ったよりも人が多い。どうやら,慶良間行きより5分早く出る奄美大島行きに乗る客がほとんどのようだ。私はといえば,手荷物検査場に入る前に買った105円のサータアンダギーの存在が気になっていた。一つしか買わなかったからか,安いわら半紙みたいな紙に入れられたのみ。あっという間に,アンダ=揚げ油が染み出してきていたのだ。ラウンジがある下の階に降りる手前,軽食屋で紙をゲットして袋の周りに応急処置的に巻いてはみたが,それにも染み込むのは時間の問題かもしれない――ところで,なぜここでサータアンダギーが出てきたのかと思われた方がいるかもしれないが,それについては後述することにしたい。
さて,奄美行きの搭乗案内が始まると,続々とバスに乗りこんでいく人たち。ぐっと人数が減るラウンジの中。たまたま私の近くに座った中年夫婦2人は,先ほどキャンセル待ちで一度カウンターに呼ばれ,「お1人でも乗られますか?」と聞かれて「はい」なんて答えていた。そして,再び呼ばれる=正式に搭乗できるのを待っていたが,最後の最後に2人とも名前を呼ばれて“泣き別れ”は回避。「よかったですね〜」などと別の客に言われて見送られていた。
それから待つこと5分。いよいよ,慶良間行きRACへの搭乗である。乗るのは私を含めて4人。いずれも男性だ。私の席は「2B」。4度乗って(「石垣島と宮古島のあいだ」前編「前線と台風のあいだ」前編後編参照),4度とも2列目で,しかも3度目の「2B」である。きっと「一番ウエートが高い」とかいう理由なのかもしれない。なお,隣に座った男性は60代後半ぐらいの白髪混じりの老紳士。本格的なカメラを持って,早くも撮影モードのようだ。後ろには私より少し若い男性と,50代ぐらいの男性。何か意気が合ったのか,一言二言会話している。そして,左前のパイロットは,メガネをかけた“一線”を退いて定年間際っぽい感じの男性。「慶良間に着陸するときに少し横風で揺れますから,シートベルトをしっかりしといてください」と言われた。なるほど。
そして,いよいよ出発。前は計器が丸見え。もっとも,それが何を意味しているのかはまったく分からないが,一つだけエンジンをかけてからなのか,経過時刻が刻まれているヤツがあった。滑走路に出たときに4分台となり,多分フワッと機体が浮いたときには「4:48」ぐらいになっていただろうか。真下に広がるコバルトブルーの海に,隣の男性がしきりにシャッターを押す。所々に浮かぶ誰もいない砂州は,あるいは夏場には遊び場にでもなるのだろう。
さて,上空に上がったときにはすでに見えていた島影。渡嘉敷島(「サニーサイド・ダークサイド」第5回第6回参照)のその島影が目の前に迫るまでには,10分ほどしかかからなかった。一面を濃緑に覆われた山がちな島であることがよく分かる。そして,鋭角に尖った島の先端からわずかに海を隔てた岩のような島「ウン島」では,灰白色の円の中に「H」の文字が見えた。ヘリポートである。そして,その周囲にはテープでつけたような白い道が。こちらは輸送路だろう。島の中にはなかなか平坦な場所ってなかったから,緊急時は多分ここまで患者を運ぶことになるのだろうが,島を渡るのはどうやっているのだろうか。ちと謎である。
そのウン島を越えると,再び島嶼群。これらすべてが座間味村となる。左手に橋でつながった三連の島。このいちばん左が外地(ふかじ)島。ここに慶良間空港がある。真ん中が慶留間島,そしていちばん右が阿嘉島だ。その阿嘉島の周囲にも無人島がポツポツと散らばり,奥に大きく横たわるのが座間味島だ。こういう眺めはなかなか爽快である。我々の乗った飛行機は外地島を左に見て,やがて慶留間島側から大きく旋回してランディングする格好のようだ。
上空から見た感じでは,三連になった島同士はそんなに距離がある感じではない――そう,今日の予定は慶良間空港を降りた後,阿嘉島までひたすら歩くのである。このウォーキングのために,そして外地島は無人島だし,慶留間島にも食堂の類いがないこともあって,朝食をいわば“プランチ”にしてかつヴォリュームを持たせようとしたのである(前回参照)。
いよいよランディング。パイロットの予告通り,ランディング寸前に横風で左に機体がブレたが,無事着陸。“クックッ…”というタイヤの摩擦音がどこか生々しい。ちょっとハンドル捌きがおかしかったら,横転しそうな感じがするが,そこは多分ベテランのパイロットなのだろう,きっちり態勢を整えてターミナルへ向かう。計器の時計は17分台を刻んでいた。11時55分,慶良間空港着。

いっちょ前に赤瓦に白壁で2階建ての空港ターミナル。この1便の往復しかないのだから,平屋の小屋だって十分なはずだが,結構天井は高いしキレイだし,それなりに財政に余裕があったのか。中を抜けると,若い女性が1人ポツンと,10席以上はあるロビーのイスに腰掛けていた。たしか12時20分には折り返して那覇に行くことになるから,帰りに乗せるのは間違いなく彼女1人だろう。二つある自販機の一つは,切り取られた紙でディスプレイが覆われ故障中…ではなく,単に使われていないだけか。どこか虚しくついている感じのテレビからは,フジテレビのニュースが流れる。佐藤里佳アナの声がしていたのは間違いあるまい。
もっとも「那覇―慶良間」のRAC便は,昨年11月に乗った「石垣―多良間」(「石垣島と宮古島のあいだ」前編参照)や「石垣―波照間」とともに,現在廃止対象路線に挙げられている。それがいよいよ現実になれば,この慶良間空港も“単なる廃墟”になってしまうかもしれない。何しろ,この外地島。今でこそ空港の係員――誘導してくれる人とか――や旅人やパイロットなどがいるが,基本的には無人島である。それこそ,この空港に動物が棲みついたりして,“野生の楽園”によくも悪くも帰ってしまうかもしれない。だからといって,そういった諸々のことが惜しくて今回のフライトになったのではないことだけは付記しておきたい。あくまで,今回のスケジュールではこのフライトを利用しないといけなかった。ただ,それだけのことである。でも,貴重な路線に乗れたのは事実だが。
外に出る。少し身体が熱くなっていたので,厚手の長袖を脱いでTシャツになる。道端に人影はない。敷地の端っこにある駐車場には軽自動車が2台置かれてあった。私への迎えは,当然だがない。当たり前だ。もちろん,阿嘉島か慶留間島に宿を取っていて,送迎希望の旨を伝えておけば,多少かったるそーに迎えのアンちゃんなんかがいるかもしれないが,そーゆー類いの手配は上述のような理由で初めっからしていない。
なので,空港から1本伸びる勾配のある下り坂を下っていく。道は車1.5台分くらいの幅だ。周囲はオール緑。見るものなど,ありゃしない。おもむろにケータイを取り出して,電源を入れる――「11:16」。え,壊れたの?……阿嘉港発の高速船は16時。4時間もあれば,さすがに阿嘉島に到達はできるだろうが,時間が気にならないといったらウソになるので入れてみたのだが,こんな逆に戻るなんてことあるのか!? やれやれ,これだと現状に50分近くをいちいち足していかなくては,ホントの時間が分からないのか――そう思っていたら,いきなり時間が「12:08」に飛んだ。多分,飛行機に乗るのに電源を切ったそのときの時間のまま止まっていたのだろう。でも,一体何だったんだろうか。
周囲はソテツとかビロウなどの南国の濃緑の木とともに,風があるからかススキの穂が揺れているのが目に入る。このススキというヤツ,大神島の遠見台(「宮古島の旅ファイナル」中編参照)みたいにとかく寂寞感を演出するものである。ましてや,無人島。人っ子1人いない……と思っていたら,坂の途中に小さいトラックが停まっていて,中年男性2人が何やら作業中のようだ。「玉城電工」と書かれてあるから,配線関係の工事だろうか。
工事中の男性2人を見送って,さらに坂を下るとあっさりと橋が見えた。これを渡った対岸が慶留間島である。距離にして50mぐらいだろうか。学校の校舎と校庭がはっきり見える。まるで田舎の合宿場所みたいだ。海は潮の流れが早い。打ち寄せる波しぶきの音がはっきり聞こえるから,元からというよりも,天候の影響だろう。たまたま見つけたどっかのホームページでは,穏やかな沖縄の海の色をしていたのだ。そして上空を見上げれば,飛行中にはあった青空がすっかり消えて鉛色の雲が覆っていた。そこを飛び交うカラスが数羽……まるで“最果て地”に来たような錯覚すら覚える。
この橋を渡る手前には,左に下る道があるのだが,ちょうど橋の真下を見下ろすと道の終わりに石碑が立っている。その先は海にすべり台みたく突き出た埠頭。周囲には小さい自然な砂浜もあった。多分,以前はそこに慶留間島側から船が渡されていたのかもしれない。橋げたから直接下に降りることはできないので,再び来た道を戻ることになるが,せっかくなので戻ってそちらに向かう。
その碑に書かれていたのは「世界平和記念碑」。土台には「1945年3月26日早朝/太平洋戦争日本国固有領土米軍上陸第一歩之地/米軍第77師団が日本国土で初めて琉球諸島外地島にアメリカ国旗を掲揚して敬礼する」とあった――そういや,外地島には展望台があったはずだが,このときはすっかり忘れていた。もっとも,空港のさらに南で少し歩くような感じだったので,最初っから見過ごしていた感じではあったようだが。
ちなみに,最初の上陸地としては諸説ある感じだが,ホントの意味での「第一歩」は,午前8時4分の阿嘉島のようである。上記第77師団がさらにいくつかの分隊に分かれて,上陸のタイミングがズレているのであろう。8時25分にはお隣の慶留間島,9時に座間味島,そして外地島は9時21分となっている(「沖縄卒業旅」第5回第7回参照)。なお,アメリカ国旗は上陸した各島で掲げられたような感じだ。外地島では碑のそばにある松の木にくくりつけたとのこと。1999年に慶留間島出身の有志が自力でその場所を発見,石碑建立に至っている。

A切り取って持ち帰りたい光景
いよいよ,慶留間橋を渡る。下はあいかわらずの海流の早さ。岩に砕ける白波がはっきり見える。でもって,1分もすれば対岸に渡れた。岩場というかジャリ場というか,橋を渡って最初にあるのはそんな感じだ。その中に明らかに墓と思しきものが埋まっていた。いくら何でもこんなところに…と思ってしまう。もっとも,小さい集落の後ろには高さなぞ大してないだろうとはいえ,ひたすら山が連なっている状態だから,こういうわずかな場所にも必然的に墓ができたのかもしれない。
スロープ状になった橋を下ると,左に3階建ての「ペンション慶留間」。多分,この島で一番高い建物かもしれないし,確認したらバス・トイレやエアコンが完備しているから,夏場はさぞ賑やかに違いなかろう。値段も夏季だと9000円近く,失礼ながらこんな辺鄙な島にしちゃ高い設定だ。でも,今はさすがに季節外れだからか,閑古鳥が鳴きまくりの静けさである。
そして,T字路…いや,性格には斜め右に上がっていく道はあるが,それは多分私道だろうから,やっぱりT字路かもしれぬ。そのT字路の左角,ちょっとした緑地っぽいところに「伊江村民収容地跡記念碑」がある――阿嘉島上陸からわずか20日後の4月16日,米軍は本部半島沖に浮かぶ伊江島に上陸。その後,伊江島は戦地となって悲惨な集団自決などの出来事が起こるのだが,やがて伊江島は米軍によって占拠されてしまう。
そこで仕方なく,生き残った住民2100人は,座間味村に1700人,渡嘉敷村に400人が移されることになり,翌1946年7月まで1年余りの疎開を余儀なくされることになったのだ(「サニーサイド・ダークサイド」第6回「サニーサイド・ダークサイドU」第6回参照)。この小さいわずかな集落にもまた,伊江村民が例外なく住まわされたのである。石碑の「伊江村民が座間味村民にご迷惑をかけながら,耐えがたい日々を共に生きてきた」という健気な文言が何とも印象的だ。
右に行けば海岸沿いを阿嘉島まで向かう道。一方,左は集落への道。周囲はフクギに覆われた天然の木陰。目の前には塞がれた丸井戸があって,隣にはバス停みたいな屋根つきベンチ。そして「琉球新報」「沖縄タイムズ」の新聞受けがある。生活感のある光景。後者はどうやら阿嘉島と慶良間空港を結ぶ連絡バスがここにも停まるらしい。もっとも,周囲に人は誰も見えない。この風と曇天ではさすがに外で活動する気にはなれないか。
港のある方向に進んでみる。一応は慶留間島のメインストリートだろう。途中で砂地の路地を入ることに。平屋建てのコンクリートの家がせせこましく並ぶ。石垣は昔ながらのテーブルサンゴの乱積み。人が何とかすれ違える程度の道幅を20〜30mほど進むと,しっかりした観光施設のそれらしき案内板が見えた。路地を抜けると,こんな狭い砂の道に立派な「→高良家」という看板。
ガイドブックにも高頻度で載る,慶留間島で唯一の観光施設がこの「高良家住宅」だ。琉球伝統家屋で有名な観光地というと,本島は北中城村にある「中村家住宅」(「ヨロンパナウル王国の旅」第4回参照)や久米島の「上江洲家」(「久米島の旅」第1回参照)に行ったことがあるが,それらに比べるとかなりこじんまりとしている。庭が小さいのだ。ま,この小さい島にバカでっかい家屋も不釣り合いな感じだが,それでも周囲の家に比べればその存在はぐっと目立っている。
「ちぶる石」と呼ばれる石を「相方積み」なる積み方で施した石垣。不規則な形の石をどこで見つけたのかと思うほど,パズル方式で見事にあてはめて,線・面ともに定規を使ったように,美しい直線を描いている。色も白や灰色など一つ一つ違うわけだが,太陽が当たっていれば,大理石のように見えるだろう。目隠しのためのヒンプンもまた美しい直線を作っている。そして,幾分だが敷地の中が低くなっている感じがしたが,間違いはなかった。台風から家屋を守るための措置である。
肝心の家は留守であった。三番座の軒下にメモがあって「都合により阿嘉島に出かけるので,住所氏名を記入して料金を料金箱に入れ,キップを切ってご覧ください」とのこと。多分“都合”というのは,メシのことだろう。そういえば,この島に上陸したときに,後ろから「玉城電工」のトラックが阿嘉島のほうに向かって走っていった。既述のとおり,この島には食堂がないし,さらには売店すらもない。何かを調達するには最低限,阿嘉島まで出向かなくてはならないのだ。それだけに,1998年に阿嘉大橋でつながったことは,この島の人にとってものすごく有り難いことだったに違いない。
……と,話がそれたが,今日初めての記名をして入場料200円をブリキの箱に入れる。フタとかいうものはない。誰か人間が,あるいはアタマのいいカラス辺りが盗まないのだろうか…と思ってしまうが,まあそーゆー“システム”ということで割り切る。ブリキの箱には昨日来た人間らしい人の名刺が入っていた。はっきりは覚えていないが,ライターさんのようだ。その脇に100円玉を2枚入れておく。
家のどこかから流れてきているローカルラジオが何とものどかである。チケットを切ってパンフももらっておく。ふと,白い紙が見えたのでのぞいてみると,小さい子どもが書いたらしき三線を手に持ったオジイの絵。多分,孫がおじいちゃんを描いたのだろう。「たけじろおー」と書かれてあったが,後で調べたらどうやらここの管理人さんらしい。そして,リクエストすれば三線を弾いてくれるそうだ。
外から中は丸見えということで,上には上がらずに周りから見ていくことにする。三番座から斜め左のところの角には丸井戸。中をのぞけば10mはあろう深さ。そこから右に石垣沿いに進むと,赤瓦の屋根に木の柱。土台と壁はこれまたちぶる石の相方積み。その中には畳1枚分ぐらいの三つの窪みがあった。“ウワフール”と呼ばれる便所兼豚小屋である。便所となる“受け口”もしっかりあった。それにしても豚小屋にしては,屋根に赤瓦なぞ使ってしっかりした造りである。
ちなみに,母屋は外から入って玄関の後ろが一番座,その隣に仏壇がある二番座,そして受付があるのが三番座。いずれも畳敷きで4〜5畳程度の広さだ。これらの後ろ,ウワフール側に三つの裏座がある。こちらも玄関側から一番・二番・三番とついている。こちらは板敷きで4畳程度。三番座の左隣には土間の台所。なぜかお釜と鍋が置かれてあった。
現在はつややかに建てられているこの高良家。2000年12月に復元が完了したもの。築5年ともあれば,そりゃあキレイなのは当たり前だ。この後訪れた慶留間小・中学校のホームページにある高良家の写真には,復元前の様子が載っているが,屋根は白茶けて石垣も崩れ放題――元々は19世紀後半,当時の琉球王府末期に公用船の船頭職を務めた仲村渠親雲上(なかんだかりぺーちん)が,中国との交易によって得た富で建てられたもの。とはいえ,屋根は元々茅葺きで三番座がなかったというかなり質素なものだったのだ。今の間取りでかつ赤瓦となったのは,カツオ漁で同家が羽振りがよくなった大正年間のことである。
帰り際。さっきから聞こえていたラジオから「1時間に50ミリの雨が降るおそれがありますので,どうぞお気をつけください」なんて女性DJの声が聞こえてきた…いや「聞こえてしまった」というべきか。この曇天に加えて風が強くなってきている中,トドメは豪雨――やれやれ,当初は“晴れマーク”がついていたのに,しまいには豪雨か。もっとも,局地的な豪雨なのだろうけれど,それがどこなのかは知る由もない。あるいは“最悪のこと”も……などと,イヤな予感だけがよぎってしまう。

砂の路地をそのまま海のほうに進むと,慶留間幼小中学校。3階建てと2階建てが1棟ずつ。校庭は50m×100mほどで,陸上トラックの形をしている。ブランコ・滑り台・運艇にサッカーゴールまで一通りある。校舎には明かりがついているから,多分誰か先生がいるのだろう。誰も人がいない校庭の真ん中では,小さい野良猫がこちらを見つめていた。
学校の敷地の脇を通って,公民館の前を通過すると慶留間港。白い埠頭が1本突き出ただけのシンプルさ。レジャーボートが3艘停泊していた。これまた誰もいない静かな……いや,風の音だけがたまーに不気味にしてくる。空もますますどんよりしてきた。歩いて汗をかくだろうからとTシャツ1枚になっていたが,この辺りで再び厚手の長袖が必要になってくる。やれやれ,天気が安定しないな〜。
上記阿嘉大橋ができるまでは,ここが慶留間島の玄関口となっていた。慶留間島と阿嘉島は,距離にして100mほどしかない。これまた「外地島―慶留間島」と同様,泳いで渡ることだってできる距離だが,にもかかわらず,ルートとしては慶留間島の西側をグルッと回らざるを得ない。船の名前は「かりゆし」。ま,集落のそばまで船が来るに越したことはないだろうから,それはそれで合理的だったのだろうが,ひょいとした荒波で船が出なくなることだってあったはずである。今みたいに高速船とかフェリーなんてものがなくて,サバニみたいな船で行き来したころには……「かりゆしのりば」という色あせた看板が,かつてここが人の行き来があった場所であったことを知らせてくれた。
そして,もう一つ。この港が賑やかだったことを知らせてくれる石碑が「蛭子丸組合顕彰碑」。そばにある説明書きによれば,今から120年前の1885年,鹿児島の漁業出稼ぎ者を迎え入れてカツオ漁が始まったのがこの地だとある。1931年には,20トンの漁船「蛭子丸」が独自でパラオ島に向けてはるばる渡航。これによってカツオ漁が一気に発展したそうだ。その後,戦争を経て1967年に過疎化で蛭子丸が解散するまで,この港はカツオ漁の重要漁港でもあったのだ。
この漁船などが出航するときに祈願したのだろうか,港沿いの護岸の向こうに赤い鳥居と白い社が見えた。道らしきものはあったが,途中でゲートのようなものがあってしっかり閉まっていたため,その先に進むことはできなかった。海側からも入れる感じではないので見るのはあきらめる。真上には大きな崖。その下にポツンと,しかしそれは“孤高”とも言うべきか,「ここから見守っているぞ」という安心感と存在感を示すように,その御嶽はたたずんでいた。
さて,港から離れることにするが,その前にさっき高良家に入った路地とは逆方向の路地におもむろに入ってみた。こちらはより鬱蒼とした感じで,空家も目立つ。草やら植物やらが生え放題。そんな中で野良猫3匹が私の姿を見るや,奥のほうに逃げていく。私は別に追っかけるつもりはないのだが,できることなら奥に行きたいと思っているので,結果的に猫の後についていくことになった。猫たちはどんづまり手前で民家の中に入った。なーんだ,ここの家の飼い猫……にしては家の中から物音が聞こえてこない。あるいは,やっぱり捨てられた猫だったのか。
どんづまりは金網で閉ざされている感じだったので,その先にはもちろん行かずに引き返す。岩場のような感じだったので,あるいはガマだったのか――ガマといえば「沖縄戦」がつきまとうが,ここ慶留間島でも,米軍が上陸した3月26日に集団自決が起こっている。“サーバル”と呼ばれるガマに避難していた住民はあっという間にパニックとなり,互いが互いを殺戮する惨状へと突き進んだ……ま,何度となく集団自決のことは書いているので,これ以上触れるのは止めにしようか。
最後。集落を後にする前に,T字路から斜めに上がっていく坂道の終点が気になる。何か“クサイ”のだ。なので,かなり勾配のある坂を上がっていくと,そこは「慶留間神社」という御嶽だった。ちょうど,ここで空からは落ちてくるものが……思わず傘をさしてしまう。鳥居をくぐると,本殿っぽい4〜5m四方×高さ3mほどの赤瓦に白いコンクリート壁の社。その左隣にご神木らしき「ガジュマルfeat.大きくグロく地に生やした根っこ」。さらに左にゆるい上り坂があって,そこにも社がある。本殿…というか,この奥の社のほうが本殿なのかもしれないが,赤瓦の社よりも一回り小さい感じだ。もっとも,見ているうちに雨が本降りっぽくなってきたので,奥の社は手前の社から眺めた程度だったが……。
慶留間港にはかつて巨大な鮫が棲んでいて,地元の人々はこの鮫に苦しめられる生活を強いられていた。それを見て鮫を退治するために慶留間の海に入って鮫と戦った男性がいた。彼は勇敢に戦ったが,無念にも鮫に飲み込まれてしまった……と思ったら,何と短刀でその鮫の腹を割いて退治して生還してきたという。その勇敢な男性を「慶留間氏」として奉ったのが慶留間神社なのだ。そして,その生還のときに小脇に大きなテーブル状の石を抱えて帰ってきたが,その石は「ペンション慶留間」に言い伝えとともに残されているそうだ。

さあ,いよいよ次は阿嘉島だ。島の東部を走る道路は片道1車線の立派な舗装道路。そういや,数年前に台風で崩壊した道路ってのは,この道だったのか……海にモロに面していて,凪いでいるときはこの上なく好眺望のはずだが,いまは突風が駆け抜ける状態になってしまっている。たしか予報では波がこの後小さくなってくれるはずだが,岩場に砕けていく波を見る限りは,はたしてますます天候の悪化が必至な感じすらしてくる。
加えて,本降りに近い雨。ま,土砂降りというわけではないのだが,傘をさしたいのがやまやまな状態であることには変わりない。でも,傘は突風であっという間に裏返ってしまう。100円ショップで買った傘だったらば,ここで思いっきりダメにしても悔いはないのだが,セールだったとはいえ一応3000円出して買ったブランドものだから,ここでダメにするのは何とも惜しい。
そうともなれば,集落で再び着た厚手の長袖シャツがこのまま濡れてしまうと,東京に…いや那覇に帰ってから差し障りそうなので,再びTシャツとなる。幸いというべきか,道路沿いには見所らしきものはない。ホントは崖に走る黒いそして古い地層なんかが,あるいは専門家辺りには格好の見所になるのかもしれないが,今のこの状況では私にとっちゃ何の意義もなさない。
ということで,ひたすら阿嘉島まで雨中ダッシュである。やれやれ,こんなことだったら慶良間に来なけりゃよかったのか。たしかに阿嘉島まで歩くために,ブランチをガッチリ食べたのではあるが,よもや雨中ダッシュは“オプション外”だった。せめてもの救いは,雨が時折止んでくれること。風は時として“天然の乾燥機”になってくれるから,濡れては乾かし…って感じでひたすらダッシュするのみだ。
走り始めて10分くらいだっただろうか,阿嘉大橋が見えてきた。時間は13時ちょっと過ぎ。最初はかなり時間がかかるのかと思っていたが,思いのほか近かったようだ。結果的にはあと3時間も阿嘉島で時間ができそうだが,いまの私がやるべきはただ一つ,雨宿りである。橋を渡ってすぐ下にある阿嘉港ターミナルに急ぐことにしたい。
と,橋に足がかかった辺りで下を見ると,思いっきりエメラルドブルーな海。原生林が海岸線スレスレまで生い茂る島の先っちょに,サザエ辺りの貝の“ベロ”みたいに突き出た白い砂州。その砂州の周りだけは,白い絵の具をかなり混ぜたかのように白い。相当な透明度がある。阿嘉島だけしか行く予定がなかったならば,体調と気持ち次第では,この阿嘉大橋をいちいち慶留間島側に渡ることはなかったかもしれない。慶留間島側から渡ったからこそ見られたものだと思いたい。ましてや,このような雨模様に見舞われたならば,なおさら“気持ちの清涼剤”である。できれば,この砂州と海だけを何か切り取って家に持ち帰りたいくらいである。(後編につづく)

前編へ
沖縄惰性旅Uのトップへ 
ホームページのトップへ