久米島の旅(第1回)

(1)プロローグ
那覇空港には11時21分着。羽田空港では,休みのため長蛇の列が手荷物検査場にできていたが,もうさして驚かない。結局15分遅れでの出発とほぼ予想通り。結局,そのままの遅れでの到着だが,前回の9月旅行での10分遅れ(「沖縄・遺産をめぐる旅」第1回参照)と同様,ゴールデン路線であることと,今回は2階建てのジャンボ機であったので,十分合格圏内だ。
そもそも今回は那覇でレンタカーをどうこうする必要はないのだ。そのまま久米島行きの飛行機に乗り継ぐ。それも12時30分発だから,1時間の待ちだ。むしろ少し遅れてくれてちょうどいいくらい。とはいえ,空港の発着ロビー付近で過ごすのは退屈だし,昼食がてら一度外に出てみる。
しかし,出た場所が悪かったのかこれといったレストランがない。数軒,弁当を売っている売店があるだけ。まあ,今日は夜を豪勢にしたいと思っているので,結局,その売店の一つで弁当を購入。10cm×15cmほどの小さめなプラスチックの容器に,ゴーヤチャンプルーとトンカツ,ポークの磯辺揚げが1個ずつ,ニンジンと玉子の炒め物がごはんの上に乗って,しめて262円。量の少なさを考えても,拍子抜けするくらいに安い。地元の仕出弁当屋のものだが,東京ではプラス200円は確実。味もまずまず――とはいえ,こうなるのだったら,そもそも外に出なくてもよかったのだが。
再び搭乗口に戻ると,かなりの人。しかも制服の高校生が多い。行き先は東京か大阪か石垣か。ホームページ「美ら島物語 久米島情報」では,久米島にも修学旅行集団が数日前にいたそうだ。そして,現在の彼らの7割はシャツを外に出したりして,すでに“開放的”だ。南国だと,あるいは共学だとこうなのか。個人的には,制服をラフに着るほど似合わないものはないと思う。男子校だった私の学校はみな,修学旅行でもブレザーとスラックスでピシッとしていたものだ。
そうこうしているうちに,久米島行きの飛行機の出発時刻に。機内は満席。那覇では雲のすきまから青空がのぞいていたが,久米島に近づくにつれ,雲が次第に増えて怪しくなってくる。天気予報は今日・明日ともあまりよくないようだ。いままで沖縄では決定的に天気でやられることはなかったが,その運も今回で尽きてしまうのだろうか。特に明日は雨だったら,最悪である。

(2)久米島ドライブ
@旧具志川村
久米島空港には13時5分着。早速,今日と明日レンタカーを借りるニッポンレンタカーのカウンターに行き,手続をする。2日,厳密に言えばいまから明日の15時までの25〜26時間だが,値段は8920円と格安だ。先月,釧路で2日車を借りて1万数千円取られたのだが,それとは対照的だ。
そして車種だが,当初ヴィッツ等の「B-Sクラス」を借りる予定だったが,9月8日時点ですでに満車という状況。代わりに一つ下で,値段の安い「B-SSクラス」になった。しかし,カウンターで言われたのは,「B-SSクラスの扱いは久米島ではありませんので,B-SクラスのヴィッツをB-SSクラスの値段でお貸し致します」――何とまあ沖縄的である。損をするのは営業所のほうだが,いいのだろうか。ちなみに1300円/日で免責保険に入ることもできるが,正直ここに2600円も追加するのはいけ好かないので,今回は入らないことにした。さらに,営業所自体はここから7〜8キロ離れた場所にあるが,空港にて乗り捨ての形を取り,「ダッシュボードにカギとガソリンの満タン証明書を入れてロックしてください」とのこと。
駐車場にあったのは白のヴィッツ。カーオーディオはカセット。那覇で借りたヴィッツはMDだった(上記参照)が,この辺の差は離島ゆえの哀しさ(?)か。

空港を出る。行先表示の看板は進行方向左に出ていたが,行くべき方向が南ゆえ,私は右に折れる。すると,出だしは広い道だったのが次第に狭くなり,締めに待ってたのは,さとうきび畑のど真ん中を貫く緩いアップダウンの一本道。沖縄の田舎らしい光景だが,道は完全に間違えている。それでも何とか広い道に出たが,行先表示の看板が乏しく,どう走っているかよく分からない。
そのうち,右に清水小学校というのが出てきた。さらにはちょっとした街中にも入ってきた。多分,このあたりに私が最初に目指す上江洲(うえず)家があるはずだが,何となくそのまま直進してしまう。「仲里(なかざと)」「仲村渠(なかんだかり)」などの地名がときどき出てきても,はたしてどの辺りを走っているかピンとこない。そのうち道が山の中に入りだした。このままではマズい。
地図をあらためて見てみる。さっきの街中は仲泊(なかどまり)という場所で,ここで進行方向左折しなくてはいけなかった。思いっきり逆方向で行き過ぎていたことが判明し,あわてて来た道を戻る。途中,兼城(かねぐすく)港に寄ると,フェリーらしい船がいた。久米島の海路の玄関口なのだ。ここいらから,とある“奇岩”が見えるらしいが何も見えない。船からでしか見えないのだろう。
港を後にして,例の仲泊の街中に入る。「久米島観光ホテル」なんてのが出てきた。一見大きい宿泊施設かと思いきや,2階建ての,そこいらの国民宿舎だってもうちょっときれいだろうって言いたくなるくらいボロい建物だ。改築する余裕もないのだろう。周囲にはいくつか民宿もあるし,銀行やスーパー,家具屋もある。そして進行方向右折。島の北部に向かう道に入ると間もなく,右上に「具志川庁舎」という看板。しかし,そのたもとには「具志川村役場」と書かれた石が鎮座する。仲泊はかつての具志川村の中心部だったということだ。
「市町村合併」に興味を持つ方ならばご存知だと思うが,昨年4月,島にある具志川と仲里の2村が合併し,一島一村の「久米島町」となった。もともと両村同士交流が多かった中で,1972〜77年にかけて一度合併話が出たものの,諸事情で頓挫。1997年5月,住民発議で再び「合併協議会」ができて,晴れて今度は合併に至ったというわけだ。その中の「合併協定書」によれば,「支所の設置は行わず,当分の間,具志川村役場及び仲里村役場を新町の庁舎として利用する」とある。鎮座する石は,その辺のいきさつでいまだ残っているということだろうか。

間もなく,右に「→上江洲家」の看板。ギリギリ車がすれ違えるほどの狭い農道を上っていくこと数分,肝心の家は,その狭い路地をさらに1本入ったところにあるようだ。その路地の入口に,すでに別のヴィッツが停まっている。後ろに「ニッポンレンタカー」のステッカー。どうやら「兄弟」のようだ。なので,そのわずか先,左に折れる道の角っこ近くに車を置いておくことにする。
ジャリ道を入って1分,広い敷地の中に伝統的な赤瓦の木造家屋。玄関より入ると,迷路のように直角に折れる,ヒンプンと呼ばれる高さ1.5mほどの石塀を通り中へ。と,60代くらいの女性が1人正座でたたずむ。300円の拝観料を払うと,説明を始める。まず,自分の後ろを振り返ると,ヒンプンが切れるところが竹垣になっている。ここは冠婚葬祭のときにしか使わない門とのこと。私が入ってきたのは男性専用,その向こうが女性専用の入口。昔ならではのことだが,今も厳守しているかまでは分からない。
さらに,もう一つ大事なお客さん用の入口も冠婚葬祭用の隣にある。もらったパンフによればこの家,近くにあった具志川城主の末裔であり,地頭代を務めた名家である。ゆえに,そういう“しきたり”が一段と厳しかったかもしれない。
そして母屋の内部紹介。私の足元に長さ1m×30cmほど,ちょうど長崎の対馬島みたいな形をしている石がある。これは,風水で使う石とのことだ。建物の角に「一番座」と呼ばれる9畳の部屋があり,ふすまが全て開け放たれているので,その向こうに別棟の小さい小屋が見える。その小屋は,シエスタしたりするのに使うものなので,その用途からも本来は外からの目に触れられないようにするものなのだが,風水石によってドアを開け放ち,その小屋がいわば“丸見え”になるように配慮されているようだ。さらに9畳という間取り――何気ない数字と思いがちだが,一つ足して10という,いわば“完全にした数字”にしないことで,常に努力する気持ちを忘れないようにする。これもまた風水から来ている――そう,彼女はおじいさんから言われつづけたようだ。ということは彼女も“立派な末裔”。私は初め,ボランティアか何かと思っていた。パンフを見なければ分からないが,それを彼女はおくびにも出さない。まあ,出したら出したでヒンシュクだが,なかなか奥ゆかしい女性だと思ってしまう。
さらにこの家を取り囲む,防風林のような高い木は「フクギ」という樹木。海水を浴びても枯れたりせず,台風でも被害を受けにくい丈夫な樹木とのこと。加えて「フク=福」なので縁起もいい。これもまたおじいさんからよく「フクギのような丈夫な人間になるように」と言われたそうだ。

そんな話を聞いていると,兄弟ヴィッツに乗っていたと思われる金髪のBoys&Girlsの1人が,「すいません,ヴィッツに乗っている方ですか? 何か,トラックが立ち往生しているみたいです」と言ってきた。何であんなところでトラックが,と思って戻ってみると,すでに別の1人が兄弟ヴィッツを動かして脇によけてくれているようで,何とかトラックは通り抜けられそうだ。「何でオレがどかさなきゃなんねーんだよ」という視線を微妙に感じなくもないが,ひとまずは安心である。
戻ると女性いわく,この近くから赤土を運ぶ工事をしているそう。「左に曲がるところに停めたんですけど」と言うと,「その坂の下に堆積場があるんですよ」。どうやら私はトラックを遠回りさせてしまったらしい。もっとも「まあ,ただこの辺の人は,適当に車を停めていますけどね」とのこと。さらに,「この下のほうにも一応駐車場があるんですけど,誰も停めないんですよ」とも。別に気にするほどのことはないのだ。中には上がれないので,普通に見て回る分には15分もあれば見られてしまう。だから,駐車場なんてものはそもそも意味がないのかもしれない。間違っても,いくら広い敷地と言えど50〜60人は一遍に入れない。観光地っぽいたたずまいなど微塵もないのだ。
家の周囲を見て回ることにする。もらったパンフも参照しつつ書くと,家の奥にはその名も「裏座」という部屋がある。大きさはいずれも7〜8畳ほど。表の「一番座」の左側,女性が座っている後ろに「二番座」「三番座」という4畳の部屋が二つあるが,都合五つを「ウフヤ」(主屋)と言うそうだ。そして東側には「トングヮ」と呼ばれる台所があり,隣の土間には大きな釜戸といくつもの甕がある。しめて304.7平方m・92坪というからかなりの広さである。さらに名家につきものの「蔵」(メーヌヤというそうだ)。一言で言うと短足の高床倉庫だ。足は30cmほどだろう。単純に平屋建てと思っていたら2階建てとのこと。あと,これは歩いて回っただけでは分かりにくいが,石塀が北東部分だけ欠ける格好になっているそう。これもまた風水の影響だそうだ。
上江洲家を出て,車を出す。せっかくなのでそのまま車で下る。なるほどショベルカーが停まっていて,赤土が堆積していた。耕地にでもするのだろうか。

再び大きな通りに戻る。間もなく「←馬の角」という看板。興味があり狭い路地を入ると,この角のある家もまた,さらに1本道を入ったところにあるよう。当然だが,車は入れない。近くに停めるしかないのだが,停められるようなスペースがなさそう。仕方なく一度通りに戻ると,川を渡って間もなく今度は,「←ヤジャガマー鍾乳洞」という看板。鍾乳洞はさんざん見ているが,何となく磁場に引かれるように車を左折させてしまう。
周囲はさとうきび畑。所々樹木もあり,その中に破風墓や亀甲墓が多数出現する。場所的にも路地に入っているし,スペース的にもおあつらえむきの場所だ。だからだろうか,2階建てくらいのバカでかいのもある。墓の大きさには,見栄とかステイタスもやはりあるのだろうか。
書いた記憶があいまいだが,沖縄では墓で家族がことあるごとに宴会を催す風習がある。本土のように,寺で湿っぽいお経を聞きながら講釈を垂れられ,墓に線香を立ててお参りしたあと,どこかのレストランで会食するなんてのとは違うらしい。よって,墓にそれ相応の広さがあるわけだが,例えば,数基並んでいる場所で偶然お隣さんと一緒になったなんてときは,それこそ大宴会になったりするのだろうか。ホンネでは「あっちよりも,ウチのほうがデカい」なんて言っておきながら。
さて,肝心の鍾乳洞は,これまた道路より1本入ったジャリ道の奥。下に下っていく階段があるようだが,封鎖されて立入禁止。あっさりと引き返し,再び「馬の角」を見るべく大通りへ。先ほど渡った橋のそばが荒れ地になっている。そこに停められそうなので,車を停めて路地を歩いて入ることに。
その角がある濱川(はまかわ)家は,樹に覆われ少し鬱蒼としている。入口に「入館料200円」とあるが,人気がまったくない。母屋の脇に横長の家があるが,そこも何だか閉ざされた感じ。まったくこれでは入ってきた甲斐がない。見学はあきらめよう。ちなみに後でガイドブックを見たら,18世紀当時地頭代を務めた濱川家の祖先が,琉球王の尚敬から“それ”を与えられたというのがいきさつ。果たしてどんなものだったのか?

さらに北上していく。と,山がちになってきたところで「→おばけ坂」そして「→久米島地鶏牧場」の看板。まず後者についてはその名の通りの牧場であるが,ヒナ自体は九州は宮崎からもらうようだ(宮崎も地鶏で有名な場所)。5000羽のヒナに与えられたスペースは10000坪。2坪/羽という贅沢な環境で,ウコンを混ぜた餌で育てられるようだ。
沖縄の名前がつく肉として石垣牛が有名だが,石垣牛の場合は生まれが石垣で,育ちが九州である(「沖縄標準旅」第7回参照)。こっちはいわばその逆だ。ま,ただそれだけのことだが,ネーミングというのは考えればつくづくバカらしい限りだ。ちなみに,仲里にある「やまさん」という居酒屋では,この地鶏の寿司や油味噌合えなんてのを食わせてくれるそう。こっちはなかなか興味深い話だ。
そして「おばけ坂」である。坂を上っていって上述の地鶏牧場を超えて5分ほど,両側を松に覆われた中にその坂はある。名前の由来はその景観ではなくて,目の錯覚で下り坂が上り坂に見えるところである。
しかし,車が走ってきた方向から見ただけではよく分からないので,とりあえず坂を上って松が切れたあたりにある転回場みたいな荒れ地でUターンする。当然こっちからは下り坂となるわけだが,なるほど車から降りて視線を低くすると,微妙に上り坂に見えなくもない。もっともこれは個人の感覚ゆえ,実際にここに来て試してもらえるとベストである。案外その逆かもしれないからだ。
大きな通りに戻る。淡々と,引き続き見るべき場所を,いわば“処理”していく。そして次に見るものは,「ミーフガー」と「具志川城跡」。間もなく出てきた看板を左に折れる。道は次第に海岸に向かって下っていく格好になる。
数分で,盛り上がった丘の上に石垣が連なっているのを見る。一発で城跡と分かる場所だが,ここへは後で寄ることにして,そのまま下り続けることにする。と,一気に目の前に海が開け,どんづまりの断崖の手前にある駐車場に,バスや車が数台停まっている。あの断崖こそがミーフガーのある場所である。空からは不運にも雨粒が落ち始めてきた。本降りにならないうちに,こっちを見ておきたい。

さて,そのミーフガー。陸地からせり出している断崖が終わる辺りに,縦長のだ円の亀裂ができている。これが「ミーフガー」だ。高さにして断崖は20mほど,亀裂は高さが13〜14m,幅が1〜2mほどだ。亀裂の外(=海)側にある岩が内陸に続く岩に寄りかかっているようにも見えるが,元から一枚岩で,侵食による亀裂のようだ。石ころに足をとられつつその亀裂の中をのぞいてみると,天然の川筋になっていて,サラサラと音を水が流れ込んでいる。
何でもこの亀裂の形が“女性自身”に見えることから,子宝に恵まれない女性が拝むと,子宝に恵まれるという言い伝えがあるそうだ。さしずめ,亀裂の中に流れ込む筋は“産道”というところだろうか。再三沖縄旅行記で紹介してきた三好和義氏の写真集『ニライカナイ 神の住む楽園 沖縄』(「参考文献一覧」参照)にも,ここの写真が載っている。
脇には,コンクリートで固められた大きさ1m四方ほどの台みたいなのがあって,そこに不恰好な石が置かれ,その前にはさい銭が。これでも一応は拝所なのだろう。ホントにそっけなさすぎるが,この辺りが沖縄らしいっちゃ沖縄らしい。ちなみに,先ほど兼城港に寄ったときにある“奇岩”と書いたが,その奇岩とはガラサー(「カラス」の意)山という岩で,こっちは“男性自身”に似たものらしい。
となると,それこそ真剣に子どもがほしいというカップルは,両方セットで拝むためだけに久米島に来るなんてことがあるかもしれない。でも,さすがに産婦人科が旅行会社と手を組んで,そういう「子宝に恵まれるツアー」を催すなんてことはしないのだろうか。無論「それで恵まれなくてもお金は返しません」という条件はつけることになろうが。
車を出して,先ほどの具志川城跡に戻ることに。真達勃期(まだぶり)という按司(あじ。「豪族」の意)が築いたものだが,琉球王の尚真王によって15世紀後半辺りに滅ぼされたという。青磁片が発見されたことから,南方貿易の拠点になっていたとの可能性もあるらしい。雨が降っていたので,丘に上ることはしなかったけれども,それこそ城上から臨む東シナ海は壮大なのだろうと思う。
そして,右に視線をずらすとミーフガー。ふと,城が栄えていたころ,ここにいたさまざまな位の女性陣が,子どもに恵まれるようにとこぞってあの亀裂に向かって拝んだのではないかと勝手に想像してみるのであった。(第2回につづく)

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