沖縄A to Z

@集落に向かう
長かった展望台への道は,大きな上り坂を最後に終わる。すなわち,粟国島もこれで終わりだ。この先は何もなくただ荒れ狂う海のみ。ここがマハナ展望台である。島で随一の景勝地とはいうものの,茶色い東屋がポツンと佇むのみだ。右手には大きな白い風車が,これだけの風なのに,なぜか煽られることもまったくなく止まっている。左はひたすら広がる草地と,島の輪郭を縁取るように立てられた茶色い柵しか見えない。
すると,どういうことか,ここで風が一気に強くなってきた。ムリもない。どこにも自分を遮るものがないからだ。展望台に行くまでの道は,進行方向の右側に壁のように立ちはだかる断崖によって,一方からしか風が来ずに済んでいたのであるが,ここは三角形状の突端である。おそらく,気象学的には「南風」の一言で片づけられてしまいそうだが,あらゆる方向から風が吹きつけてくる感覚に陥る。せめてもの救いは雨が降っていないことであるが,空は雲の動きが激しくて,ついぞ青空が視界から消えてしまった。どこをどう眺めても,灰白色ないし灰色しか見えない。
とりあえずは展望台に進もうとするが,身体が風の吹く方向に持って行かれて,なかなか前に進めない。そもそも,かけているメガネが飛んでいくかもしれないという不安にかられてしまう。かといって,メガネを取ってしまうと,0.01あるのかないのかという視力では,目の前は白くボヤーッとしてしまうだけだ。だから,これでは風以前の問題で前に進めない。
それでも何とか展望台に辿り付いた。隣接して案内板があるが,何が書かれていたかは覚えていない。標高が89mということは,書いてあったと思うが,数字自体は後でホームページで確認することができるし,ろくすぽ見ないで通過してしまった。そして,たかだか20〜30段くらいしかないと思われる階段を上がる気力も湧かない。何とも,自然の猛威の前では無力な限りだ。
そして,そのまま勢いで柵の突端まで行く。もちろん,風は容赦なく私を襲い,何となく飛ばされそうになる。メモは……もうどーでもなくなってきた。たしか,前日の予報では風速がせいぜい10m行くか行かないかということだったが,この強さは明らかに15〜20mは行っているはずである。突端に辿りついたが,どうやらなだらかに海に落ちていく地形らしく,真下を見ることはできない。数秒で引き返す。
もはや,この場所にはいられない。とっとと退散するしか術のない集落への帰り道。周囲にあるのは,広大な荒地しかない。ポツンと立つ白い風車やNTTの鉄塔が,かえって寂寞感を増長する。来たばかりのときの晴天は,見事なまでのまやかしだったのだ。この風はまったく予想外である。このときほど,島に渡って後悔したことはなかった。この風のままでは,帰りの飛行機もままならないのか。
とはいえ,明日日曜日はもちろん,月曜日も有休をもらっているから,1泊くらい余計に泊まっても大して差し障りはない。明日か明後日には確実に治まるものではあるが,にもかかわらず,どうにも絶望感がもたげてきてならない。9月には“ソングダー”こと台風18号の影響で飛行機が欠航。そのどさくさと1週間の夏休みを利用して4泊も延泊した身である(「沖縄はじっこ旅U」参照)が,今回は――実は東京で数人に話をして,何人かから「止めといたら?」と言われていたのだ。そんな彼らにどう説明すればよいのか。9月の旅行のときも,実はペンディングでいつ再開するか分からない仕事を抱えたままサマーヴァケーションしてしまったのだが,今回はペンディングのものは一切ない。すべて進行中である。しかも急ぎの仕事もあるだけに,影響が出てしまってはまずいのである。
9月の台風のときは石垣島だったから,物資は豊富にあった。少なくとも,数日は楽しんで過ごせるくらいはあっただろう。しかし,この島には平屋建てのちっぽけなJAが1軒しかないのである。品揃えなぞ,たかが知れているはずなのだ。もちろん,宿泊の予約なんかしているわけがないし,この天候で察してくれるかもしれないとはいえ,急な観光客をいざ泊めてくれるかどうか確証はない。ケータイも虚しく「圏外」だし,時計の役割しか果たしていない。これで空港まであと数km歩いていったあげくに,灰色の「欠航」の2文字を見てしまったら……再び歩く気力なんぞ残っていないであろう。それ以前に,誰かに泣きつける気力があるかどうか。下手をしたら「なんくるならんさ」って感じである。
この島は,今まで歩いて痛いほどよく分かったが,つくづく何もない離島である。都会の人間の哀しさだろうか。たかが1〜2日でも,東京でのモノに囲まれた,あるいはほとんどを会社の人間関係に占められた暮らしを忘れて,すべてから完全に解き放たれて暮らせるほどの気持ちの域には達していなかった。この島の人間は,この程度の風は何事もなく乗り越えられるだろうが,いまの私にはそれが致命的に欠けている。東京では「自分が消えても探さなくて結構です」と言ってはみるが,沖縄に対する気持ちは,強風の前に立ちすくむか,下手したら簡単に吹っ飛ばされてしまう程度の軟さなのである。突き刺さる風とともに,それを痛いほど思い知らされる。
それでも,とりあえずはホントに何もない西部から,どっちみち“何がしかはある”集落に戻らなくてはならない。ブルーな気持ちになりながらも歩いていると,十字路の角にこんもりと台のように盛り上がった一角を見つける。幅は5m四方くらいで,石垣の上は草がボウボウ。その中に入っていってどうこうなんてできないが,これは番屋跡だ。島で一番標高が高くて,マハナ展望台に勝ることプラス7mの96mである。いわゆる周囲の見張り台である。そんな面影は,案内板がなかったら単なる石垣か,廃屋跡にしか見えないであろう。ま,「とりあえず見た」ということである。
案内板などによれば,中国船が通ったときなど,ここから慶良間諸島に松明で告げて琉球王府に伝えたそうだが,何とも呑気なまでに間接的だ。慶良間諸島といっても40〜50kmはあるし,間に位置する渡名喜(となき)島も30kmほどある。慶良間諸島から首里までが50km。ちなみに,粟国島から首里は……80kmくらいあるのだろうか。いずれにしても,ホントに合図できたのかビミョーである。
やがて,周囲に家やら樹木やら,いくつかの“遮るもの”が出現する。たまーに風が凪いだりすると,思わずホッとするのであるが,それもつかの間,今度は自分の歩いている道が風の通り道になってしまって,軽く煽られたりする。東京だったら,間違いなく家の中でじっとしているシチュエーション。普段しないことをするのが刺激的だと言えるほど,自分は行動的じゃないのである。
もうこれで5〜6kmは歩いているだろう。こういうブルーなときや,何もない場所を歩くのに効果的だったのがウォークマンってやつであり,もちろん今回も携帯しているのだが,何しろこの風で気持ちに余裕がないから,いまさら取り出す気力が出てこない。人は多分いるのだろうが,声はほとんど聞こえてこないし,明らかにマメの一つもできていると思われて少し痛い足をナンとかなだめつつ,気がつけばJAの手前から分かれる路地(前回参照)に辿りついていた。

はて,再びJAの前に出ると,左に木の板で「→洞寺1.7km」とあった。「洞寺」で「てら」と読ませる。事前に確認したホームページなどの写真によれば,島の北側の海が見える高台に鳥居があって,そこから地下に向かって鍾乳洞に入っていくようだ。方角的には左手100m先にある村役場をさらに越えていくのだろう。時間は13時25分。まだ3時間近くはあるから,1.7kmの道を行ったところで飛行機に間に合わないということはまずないだろうし,築数十年のくすんだ村役場を見届けた後で路地を北に折れ,とりあえず少しの間集落の中をさまよってみることにする。途中でテキトーに洞寺への道を見つけたら,そこから洞寺に行こうという魂胆である。
集落に入りたかったのは,先ほど探しはぐった「ナビィの家」を探すためである(前回参照)。路地を入ると,白壁に“中華広東料理・沖縄そば”と書かれた「丸三飯店」という食堂があった。入口にオリオンビールの旗があるのが目印。営業しているようだ。ここ沖縄は粟国島で広東料理ってのもミョーな取り合わせだが,後で村のホームページで書き込みを見たら,結構メニューもあって美味いという。その先には,名前は忘れたが商店がある。ひょっとして,こちらのほうがメインストリートっぽいか。
その路地を外れて,別の路地に入る。こちらの集落のほうが家は多いし,見つけられる可能性が高い。海からかなり内陸に入っているからか,「琉球石灰岩の石垣・赤瓦・木造・防風林(主にフクギ)」の“4点セット”も多く見られる……とはいえ,単純に考えれば母数も高くなるから,見つけられる可能性も低くなるが,ひとまず片っ端から当たってみる。
村のホームページの掲示板で確認したところ,ブルーのシートがかかっているそうだが,それらしき家はなかなか見当たらない。一度,集落の一角にあった工事現場の前で,作業着を着た地元のおじさんらしき人が声をかけてくれたが,今から考えれば彼に場所を聞いておけばよかったと,ちと後悔。結局はそれらしきものは見つからなかった。しかし,後で確認したところでは,ブルーのシートではなくサッシだった。となると,それらしきものは数軒見たような気がするが……。
その代わりというか,もう一つ『ナビィの恋』のロケ地を見つけた。それは「大濱公民館」という建物である。ロータリーのように少し広くなった角に,赤い屋根で黄色地の壁というパステルカラーの平屋建ての小屋があった。壁の右上には「昭和52.9.18竣工」と書かれている。中はというと,20畳ほどの畳敷きの部屋のみ。多分,実際は単なる集会所であろう。
その向かいには,なぜか錆び付いたサーター車が置かれている。その前には,これまたオンボロで廃車になった4WDの車があった。脇には何やら板でできた案内板があった。もう何年も前に置かれたのだろう。風雨にさらされたかのようにかなり古くなって,文字はほとんど読めやしなかった。少し読めた限りでは,何かのために保存するとあった。多分,昔の貴重な器具の保存および継承を目的として残されているのだと思われた。だったら,別に記念館というか資料館を建てればいいかと思うのだが,そこまでして守りたいというほどでもないのかもしれない。
話を戻して「大濱公民館」だが,映画では「大濱商店」となっている。実際は沖縄でよく見かける商店のようなセットになっていた。品物のディスプレイがそれなりにカッコつけてたと思う。この前のロータリーは,さながらライブスペースのようになっていて,しばし島人(しまんちゅ)によるパフォーマンスが繰り広げられる。とはいえ,一番印象的なのは島人ではなくて“愛するランド出身”(と,ナビィはいつも言っていた。無論“アイルランド”の間違いである)の男性だ。ひげヅラで,彼の奥さんは地元出身のオペラ歌手とかいう設定である。奥さんはたしか妊娠していたのではなかったか。
肝心のシーンは,どっかの場面と場面をつなぐインタルードっぽいシーン。無論,ストーリーとはまったく関係ない(はずである)。夏の青空が照りつける中,黒いTシャツと短パン(だと思う)の彼が,軽やかに大きなステップ――軽くステップではなくて結構激しかった――を踏みながら,哀愁たっぷりのメロディをレフティのバイオリンで弾くシーンが,とっても強烈だったのである。あるいは,地元の島人ら――パーカッションとベースとオルガンだったか――数人とセッションもしたりする。映画の大きな要素となっている“原色っぷり”を見事に音楽で彩っていると思った。
さて,この集落から洞寺へ抜けたいところだが,出てしまった道は思いっきり空港への道だった。再び集落に戻る,あるいは村役場の方向に戻る気力は,私にはもはやなかった。自分の体力を少し過信したかもしれぬ。風は心なしか和らいだ気がするが,決して弱くなったわけではない。空はどんよりしている。そして,数m先から霧吹きでかけられたら,この程度しかかからないであろう細かな水滴が,ほほを軽くなでてもいる。ってことは,雨が降り出しているのだ。傘は差さなくてもOKだが,いやいや,これでは粟国島では大丈夫でも,もしかしたら那覇では雨の中で行動することになるのか。
ということで,このまま空港に行くことにする。かなりの時間が余るのは想像に難くない。洞寺とは,ちなみに那覇の僧侶が賭けに負けて流刑となり,その洞窟で余生を過ごしたという場所である。でもって,近くには「むんじゅる節之碑」という,沖縄で有名な島唄の発祥の碑がある。いずれも写真でしか確認できないが,チャリだったらば間違いなく行けた場所である。別にサイクリングに不適なシーズンじゃあるまいし,つくづく粟国レンタルバイクサービスを怨むしかない(前編参照)。
道の左には丘があり,右手は畑地。畑地の向こうに工場の煙突が見えたが,島の基幹産業である製糖工場のようだ。そして,いま進んでいる方向の先には粟国生コンの工場がある。こちらもまた,島で重要な雇用を創出しているのだろう。ただし,この二つの工場と周囲に広がる光景だけを見れば,ここが沖縄の離島であることが分からないくらいに,どこにでもある平凡な田舎の光景である。そして,疲労感に退屈感が上乗せされ,足取りは余計に重ってしまうが,地図で確認したら粟国生コンの角で右に曲がれば,粟国空港はもうすぐである。
その粟国生コンのところに着いたのは,まだ14時だ。ここから正面にはジャリ道が1本,海岸に向かってなだらかに下っている。そして,数百m先には3階建ての集合住宅風の建物。前編でちらっと書いたが,島のブランド商品「粟国の塩」を製造している工場である。事前予約すれば見学もできるそうだ。とはいえ,そもそもそれ以前にいまの私には,数百mの道を往復する気力が湧いてこない。なので,この建物もまたあきらめることにする。まったく,最後は不毛な限りである。
ちなみに,向笠千恵子氏の『日本人が食べたいほんもの』(新潮文庫,「参考文献一覧」参照)に,この「粟国の塩」が紹介されているが,それによれば集合住宅風の建物は,立体式の塩田タワーだという。この中には無数の細竹が立てられており,上からは海水のシャワーがかけられる。海水が細竹を伝ううちに,水滴は海からの風で吹き飛ばされて蒸発して濃縮される。この濃縮された海水を結晶化ないしは煮詰めて,塩を作り出しているのだそうだ。

粟国空港に着いたのは14時15分。着いて真っ先に確認したのは,今後の運航状況……ああ,よかった。どうやらすべての便が運航しそうである。これでひとまず無事に那覇までは帰れるし,那覇まで帰れれば東京も帰れるというわけだ。何たって,セスナが飛べてボーイングなんちゃらが飛べないわけがないのである。ひとまずはホッと胸をなでおろす。
しかし,最終便の出発はといえば16時45分だから,何とまだ2時間半もある。いくら,ゆとりある旅行といっても,これじゃボケちゃうぜよ。ロビーは長いすが3〜4脚ある程度。向かって左手奥の長いすにはおばちゃんが数人が座っていた。その壁の上にはテレビがあって,遠くてよく見えないが,ナレーターの声からして,どうやらテレ朝の「解決ビフォアアフター」をやっているようである。
私は支柱をはさんで手前側,中年のおじさんが1人座っている隣の,まだ誰も座っていない長いすに腰掛ける。右手には自販機と,一応は役目を果たしている売店があった。サントリーのロゴが入った自販機が,なぜか圧倒的に存在感がある。何せ,売店の古ぼけたショーケースには,大量の黒糖の袋と,大量の「粟国の塩」の袋と,少数の「粟国羊羹」の箱詰めと,プラスありきたりなスナック菓子というラインナップしかない。このラインナップでは「ぜひ,地のものを買おう」とはあまり思えない。売店では女性2人がヒマつぶしにゆんたくしている。
さて,これだけ早く着いたからには少しでも早い便で…というのが心情。たしか,16時台より1時間半くらい前の便が……あった,15時15分発が。これでもまだ1時間前という,何ともゆとりある到着である。いま吹いている強風は,もしかしたら16時過ぎには治まっているかもしれない。でも,逆にますますひどくなる可能性ももちろんある。いずれにせよ,粟国島の人には申し訳ないが,一刻も早くこの島を出ないと,何か困ったことがあったときには,私のような1人者はものすごく不便するだろう。本島のほうが圧倒的に“対応能力”は高いに違いない。
なので,手続カウンターでとりあえずチケットを変えられるか相談してみる。1時間も前ともなれば,手荷物のゲートも閉まっているし,カウンターにも人はいない。どうやら,今の時間は備え付けの呼び鈴で呼ぶようだ。早速鳴らしてみると,出てきたのはつっかけサンダルに,なぜか上だけはRACの濃い緑地のポロシャツを着た,フセイン元イラク大統領似のおっちゃんが出てくる。あるいは,RACの社員の代わりに留守番でもしているのだろうか。
「すいません。飛行機って今日は,動きますよね?」
「まあ,今のところは」
「あのー……私,実は4時半の飛行機を予約している
んですけど,1本前のに変えることできますか?」
「あー……実は今日は満員なんですよねー。なので,
キャンセル待ちをしてもらうか……」
ありゃま,満員とはイタい。しかも,9人乗りだから空く保証は低いに違いない。後ろにいたおばちゃんの1人がおもむろに「私,キャンセル待ち」と言って,“1”と書かれた緑色の紙切れを差し出す。一緒に座っているおばちゃんは多分,正規の乗客であろう。でも,形だけでもキャンセル待ちにしておく。すると,おっちゃんは“3”と書かれた緑色の紙切れを切り離した。「3時になったら呼び出しますから」と言われ,一旦長いすに戻ることにする。
“3”ってことは,もう1人キャンセル待ちがいるってことだ。そして「もし,最終便のチケットを持っておられるのなら,申し訳ないですけど……」とも付け加えられている。なるほど,あらかじめチケットをちゃんと持っているならば,便をなるべく動かさないでほしいってことだろう。うーん,ますます私が前の便に乗れる確率は低くなってしまうだろう。
外はあいかわらず風が強い。売店の奥にあるドアが開け放たれているのだが,しばしば激しい音を立てて閉まる。もちろん,強風によるものである。そのたびに視線がそっちに行く。私の左にいる中年男性は,漫画雑誌を読んでいる。そして,テレビではあいも変わらず「解決ビフォアアフター」をやっている。それだけ。何とも言えないまったりとした空気があたりを包んでいる。
時間はまだ有に2時間はある。しかし,繰り返しになってしまうが,いまさら「粟国の塩」の塩田タワーだとか,洞寺に行くのもバカらしい。距離的には問題なくても,歩くにはあまりにモチベーションが低すぎるのだ。何でこんな天候を押してやってきたのか……もたげるのは,ひたすらこんな気持ちのみだ。まあ,後は持ってきた文庫本を読んだり,テレビを観たりしてヒマをつぶすしかないわけだが,あらためてあまりに不毛である。
時間が経つにつれて,車が空港に乗り入れて人がぼちぼちと入ってくる。男性が1人,搭乗手続をしていた。また,ある男性はどうやら明日の朝のチケットを求めていた。窓口の対応は,もう少し若くてRACの濃い緑地のポロシャツを着た若い女性と男性が変わっていたが,さっきのおっちゃんもいる。やっぱり,おっちゃんは委託を受けた人なのだろうか。

何やかやとボーッとしていてもそれなりに時間は経つもので,15時になった。すると,さっきのおっちゃんと,若い女性から「キャンセル番号,1番,2番……3番の方もどうぞ」と言われる。やってみるものである。これで早めに那覇に行けることになったのだ。ということは,おばちゃんと一緒にいた女性はどうやら地元の人間だったようだ。なーんだ,紛らわしいぞ。ちなみに“2”のカードを持っていたのは,私の隣にいた中年男性だった。
やがて,女性の誘導で待合ロビーに入れられる。さっき搭乗手続していた男性は,井筒和幸氏をもう少し老けさせた感じ。あとはキャンセル番号“1”を持った女性,“2”を持った中年男性,そして“3”の私。合計4人。あとは……あれ,いないぞ。ってことは,4人だけか? まったく,9人乗りに対して4人しかいないのに“満席”はないだろう。しかも,正規の乗客は井筒氏似の男性1人のみで,キャンセル待ちが3人とはアホらしい――実は,計量器に数箱の「粟国の塩」のダンボール箱が乗っているのを偶然見かけたのであるが,ひょっとしてそのダンボール箱を載せるために,満席と偽ったのだろうか。それでも,占めるスペースはたかが知れていると思うのだが。
ま,何はともあれ,15時20分に無事離陸する。座席は「2A」。隣はキャンセル番号“2”を持った中年男性となった。パイロットはスキンヘッドの少し大柄な男性。元宮内庁勤務の浜尾実氏に似ている。15時を少し回って,予定より数分遅れて那覇からのセスナ機が着たのだが,そこから降りてそのままトイレに行き,即コクピットへ…という,なかなかハードなスケジュールである。帰りの飛行機は心なしか行きよりも左に煽られていた。気流の影響はやはりモロに受けるようである。私の手は25分の飛行の間,ひたすら汗をかきっぱなしであった。

(1)プロローグ
那覇空港には15時50分到着。羽田行きの飛行機は20時50分だから,1時間前に空港に戻るとしても4時間もある。これならば,19時20分の飛行機にしてもよかったかと思うが,まあせっかくできた時間を有効に使いたい。なので,まずは市内で行ったことがない場所だった,海岸沿いの波之上(なみのうえ)宮に行くことにする。ゆいレールの最寄りはとりあえず旭橋駅だが,そこから歩いて距離がそこそこあるようなので,ムリをせずタクる。少し渋滞にはまったものの,10分ほどで到着した。
見た感じは普通の赤い社である。人はほとんどいない。少し雨がパラッときたので,ここで傘を取り出すことにする。熊野権現をまつったものだそうだが,脇にあったシーサーは,かえって違和感がある。ムリに造らなくてもいいような気がした。近くには展望スペースがあって,上に上がると市内を見下ろすことができるが,大して見るものはないと思う。
それよりも,この波之上宮で印象的なショットは,神社の下にある波之上ビーチからの「切り立った岩の上に建った赤い社」という構図だ。いかにも勇壮で,なかなか様になる。そのビーチの前には那覇市内にある大きな港同士を結ぶアーチ橋がかかっている。一度ドライブがてら,渡ってみたい橋である。ビーチは幅が150mほどの典型的な人工ビーチっぽい造り。周囲は建物も多い。しかし,一面のマリンブルーの色がいかにも南国の雰囲気を出す。
その切り立った岩場は内陸に向けて続いており,巨大な緞帳のような感じがする。付近は,ビーチが近いこともあって,トイレやシャワー設備や自販機など,公園としてきっちり整備されている。しかし,その脇では大きなガジュマルが複雑に岩とからまりあって,鬱蒼とした光景を作り出している。“ありのまま”と“人工”の二つが同居するのが沖縄的である。ガジュマルの根は,一瞬見ると枝が下に落ちているのだと錯覚してしまうがごとく,太くて長いものだ。それがあらゆる方向に延びて奇妙な光景となる。そんな場所には…と思って,少し奥まった暗いスペースに入ってみると,やっぱり小さい拝所があった。あるいは,かつては戦争で避難するためのガマにもなったかもしれない。
波之上宮を後にして,中心部に向かってしばらく歩くことにする。雨は霧雨から本降りとなって,いよいよ傘が手放せなくなってきた。とはいえ,突風が吹くこともしばしばあるから,オチオチとさしていられない。かといって,思いっきり濡れるのもイヤである。もちろん,東京からはるばる1000km以上を持ってくるのだから,手動でひらく折り畳み傘である。取っ手を持っていて,すでに数回裏返されていた。だから,根元を持っておくしかない。
この辺りは,たしか作家・立松和平氏が初めての沖縄旅行で,お金がなくなって働きに来た場所。そのことは氏の『沖縄 魂の古層に触れる旅』(「参考文献一覧」参照)に詳しいが,地元の人は“ナンミン”と呼んだそうである。神社があるからには門前町としても栄えたそうだが,その後は遊郭ができたり,立松氏がいた1960年代後半から70年代前半は,アメリカ兵の遊興の場となっていたようだ――いずれにせよ,人が容易に近づけない場末の地区だったわけである。立松氏はこのナンミンにあるバーに,住み込みで1日1ドルのアルバイトとして潜り込み,帰るための旅費を稼いだのだ。詳しくは上記著書を参照されたいが,ちなみに今は,数軒の小さくて古い食堂と,どこにでもある近代的な住宅街が混在し,繁華街にも住宅街にもなれないハンパな一角という印象がある。
そのまま引き続いて大通りに向かおうとすると,右手に真新しい打ちっぱなしのコンクリートでできた資料館の建物があった。これは「対馬丸記念館」という建物。階段を上がるとエントランス。外が雨がちになってきたので,あるいは雨宿り兼見学といきたかったが,時間は16時半を回り,残念ながら受付終了時間を少しオーバーしてしまっていた――疎開児童らを乗せ,長崎を目指して那覇を出発した「対馬丸」は,1944年8月22日,鹿児島県は悪石島の沖合いで米軍の潜水艦によって撃沈される。犠牲者は1418人。たしか,その事件から60年を記念して今年夏にできたと記憶している。
引き続き中心部に向かって歩く。周囲はたまーに食堂が出てくるが,時間帯がどうにも半端なので,営業していても入る気がいまいちしない。あるいはどっちみち突っ切る国道58号線を越えて,国際通りまで一気に行ってしまおうかと考えたが,結局は雨にも負けて風にも負けて,あっさりバスを利用することにしてしまった。バスに乗ったのは,国際通りから1kmも離れていない松山通りにある「商業高校前」というバス停。2年前の大晦日,やはり突然の雨にたたられてしまい,バスに乗って国際通りに戻ったときとまったく同じバス停であった(「沖縄標準旅」第4回参照)。
そして,乗ったバスが識名線というやつで,降りたバス停が松尾というのも,これまた2年前と同じだ。時間にしてわずか5分。この7月(「サニーサイド・ダークサイドU」第3回第6回参照)以来,5カ月半ぶりの国際通り訪問だ。あいもかわらず雑多で賑やかである。とりあえずはプラプラ歩いていく。どこの店に入っても目移りして選べなくなってしまうだけだから,店にはあえて入らない。この人ごみと夜の賑わいを感じているだけで十分である。
雨は小降りになってきていたが,風はあいかわらず強い。でも,大分歩きやすくなった中を歩いて,むつみ橋交差点に着いた。ここからは牧志第一公設市場に通じる市場通り商店街に入ろうかと思ったが,どうせならば行ったことがないところに行きたい。なので,その隣に入口がある細い小路の「平和通り商店街」に入っていくことにした。アーケードがある点は共通だが,市場通り商店街に比べると少し薄暗くて賑やかさも半減してしまう。でも,どっちみち何かを買うわけじゃなのだし,ただ歩くだけだから,そんな比較はどうでもいいことである。
通りを歩くこと数分。ちょうどアーケードが途切れる隅っこあたりに,美味そうなものばかりディスプレーされたレストランのショーウィンドーがあった。上に「花笠食堂」という名前があって,どうやらアーケードの外に店があるようだ。普通のチャンプルー系統の定食や,フライなどの盛り合わせ,あるいは沖縄の食べ物ばかりをちょこちょこ集めたような定食もある。
時間はまだ17時台で少し半端である。加えて,朝は松屋でデミタマハンバーグ定食を食べ,昼は沖縄そばで豚の三枚肉を食べているので(前回参照),できれば夕食は魚類を食べたいところだが,見ると「おきなわ定食」というのが,刺身や天ぷらなど魚類があるようだ。でもって,10品ほどあるのに値段が1000円と安い。それならば,ここに入ることにしようか。

中はごくフツーの食堂とでも言っておこうか。でも,テーブル席が七つに,奥にある座敷にもテーブルが八つと結構広い。飾り気はまったくと言っていいほどないが,シンプルで清潔感がある。中年の女性3人で切り盛りしているようだ。時間帯だからか,あまり座席は埋まっていない。とりあえず,一番奥の2人席に腰掛ける。すぐ左には大きな鏡があって,またも日焼けした顔が映る。
早速,上記の「おきなわ定食」を頼むことにする。出てきた茶色いお茶は紅茶。甘さからいって“午後ティー”にほぼ間違いない。そなえつけのポットの中に入ってのもそうだろう。ちなみに,定食であるからにはごはんがちゃんとつくのだが,“カレー”と“小豆”と“玄米”と“白飯”の中から選べる。ごくシンプルに白飯を選択したが,店の女性は「大盛りにしましょうか?」とさらっと聞いてきた。ホントはダイエットをしなくてはならない身だが,「はい」と思わず答えてしまう。今日はいかんせん粟国島で歩きまくったのだし,それなりにカロリーは消費している……なーんて都合のいいように考えてしまうから,結果的にはやせるどころか太って帰京するハメになるのである。
すぐ隣が大きな座敷なのだが,小さいガキどもが騒がしい。私と同世代くらいの母親が数人と,その子どもたちといったところだ。多分,母親同士が友達なのかもしれない。「後で家に帰ってから」などと言っているから,もしかしたら,ここでは子どもの虫覚まし程度にしておいて,家に帰ってからあらためて夕飯を食べるのだろう。そうじゃないと,オヤジの立場もないというものだ。スパゲティだのハンバーグだの,子どもが好きそうな4種類程度を,1人前ずつしか頼んでいなかったようだし。
10分ほどして定食が出てくる。なるほど,白飯はごはん茶碗に大盛に盛られていた。どんぶりでなくてホッ。これ以外で乗っかっている食材は,だいたいこんなラインナップである。
@天ぷら……なす,えび,白身系の魚。白身系の魚がとても美味かった。グルクンだろうか。
Aラフテー……5cm角のものが1個。ありがちなインゲン・ニンジンなどの野菜類はない。
Bさしみ……マグロのブツ。短い大根のツマの上に乗っかって,あらかじめしょうゆがかかっている。
Cミミガー……ごまドレッシングで味付けされたもの。その通りの味がする。
Dクーブイリチー……昆布とこんにゃくの炒め物。よく,居酒屋で出るお通しって,これじゃないの?
Eどぅる天……田芋をすりつぶして素揚げしたもの,本来のものは,これにしいたけとかまぼこを混ぜ ているそうだが,はて,芋しか入っていなかったような。
Fイナムルチ……しいたけ,かまぼこ,豚コマ,こんにゃくの入った白味噌仕立ての味噌汁。美味い。
Gもずく酢……いわずと知れた,必ずと言っていいほど出てくる代物だ。
Hぜんざい……あずきのぜんざいが,かき氷にかかっているないしは下に沈殿したのが出てくるのが沖縄流と思っていた(「サニーサイド・ダークサイドU」第4回参照)が,ここのは正真正銘のぜんざいのみ。得てして,こんなものなのかもしれない。
食べ終わって,再び放浪する。そのまま少し南に歩いた後で,完全にアーケード街から抜け出して,小さいスナックや飲み屋がパラパラとある狭い通りに入る。これもまた,立松和平氏の上述の本に出てくる「桜坂通り」である。ここもまた,かつては繁華街だったようだが,それがウソのように静かだ。あっという間に広い通りに出てしまったのだが,その入口にあった「桜坂社交街」の看板のポロさ加減が,古の町であることを漂わせていた。名前のように桜が植えられていたようだが,無論,福山雅治氏が歌っているような淡くて美しくメロウな風景は,たとえ朝が明けたとしてもまったくないだろう。間違っても,ここでカップルで記念撮影をしてはならない。
再び国際通りに出る。桜坂通りでは止んでいた雨が再び降り出して,間もなく完全な降りとなった。そして,これまたしばらく止んでいたはずの風までもが,再び強くなってきた。傘ももはや,さしてなんかいられない。土産屋の軒下で雨宿りをしている輩も何度かみかけたが,それすらもままならなくなってきた。再び雨にも負けて風にも負けて,通りかかりのタクシーにあわてて乗り込む。
時間はといえば,まだ18時20分である。予定よりも1時間以上早い切り上げである。これだったら,当初の19時20分の飛行機でも十分だった。その後のことについては,「管理人のひとりごと」Part29を参照願いたいが,前線と台風のあいだにあったもの――それは,雨と強風と疲れ以外の何物でもなかったことだけは間違いない。(「前線と台風のあいだ」おわり)

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