沖縄惰性旅

A原風景と巡り合う
歓迎めんそーれ」という出だしで始まる大きな看板まであるそれとは,よく考えてみれば「タダのフクギ並木」である。でも,20台ぐらいは乗用車が停められそうなくらいに大きな駐車場。もっとこの場所は「知る人ぞ知る」みたいな感じだと思っていたら,ここまで観光整備がされていたとはちょっと驚きである。駐車場の周りにも植えられているフクギは,丈夫な樹木であることから,主に海沿いの防風林として植えられたりする。また「福木」ということで縁起もよいとされている。
降り出した雨は,この旅で初めて傘をささせるほど。肝心の並木道に行く前に,木々の向こうに見える海が気になって,隙間から向こう側に出てみたら,左手すぐそばには「ごっつ真っ白」って感じの白砂のビーチがあって,結構人が戯れていた。沖縄記念公園の敷地内にあるエメラルドビーチである。でも,このビーチ,実は人工である。
だって,すぐ目の前の海は護岸がかなりされているとはいえ,結構岩が多い海岸である。100mも離れていないところで,いきなり白砂になるわけもないのだ。彼らはそれを知っているのか知らないのか。知っていてもキレイだったらいいのか。そりゃ,私も11年前に初めて行ったときは,このエメラルドビーチがものすごく美しく見えたが,今はよくも悪くも「こんな人工ビーチ」だと思っている。ま,喩えれば「魚が養殖でも美味ければいいのか?」というのと似たような議論かもしれない。
いざ,並木道へ。これまた分かりやすい「→順路」という札。そして,軽自動車が1台通れるかどうかぐらいの道の両端に,まるで北海道大学のポプラ並木のごとく続いていくフクギ。背丈はポプラに到底かなわないが,緑の濃さはこちらの勝利であろう。下は砂地となっている。入口には,バギーのレンタル業者があった。1時間1500円で,普通免許があれば乗れるらしい。でも,並木道は「歩いてナンボ」であろう。駐車場にあった地図によれば結構長い並木道っぽいが,行ったら行きっぱなしってこともあるまい。何とか帰れるだろう。ということで,ここはひたすら徒歩で行くことに。
並木道は,天気が曇っていることもあって薄暗い。これで晴れていれば,どんなにギラギラの陽射しであっても,優しくて柔かい木漏れ日となって降り注いでくれそうであるが,逆に雨降りであれば雨降りで,しっとりとした雰囲気があってココロを落ちつかせてくれる。普段東京のコンクリートに囲まれた環境にいるからでしょうか。随所に見られる木造・赤瓦の家屋だったり,琉球石灰岩の石垣もまた風情があり,絵画のモチーフにもできそうな「日本の原風景」を作り出す。また,たしかヤギ小屋がある家もあって「メ〜」なんて声を出されると,何とも言えない心持ちになってくる。
また,何箇所もフツーの道と交差するのだが,これがまた迷路のような様相を呈している。順路もひたすらまっすぐというわけでもなく,何箇所も曲がり角があった。おそらく,沖縄によくある魔よけの札「石敢当」の根底にある「“悪魔”は角を曲がれない」という発想,現実的な話では,海のすぐ近くであり,台風がやってきたときなど,強風がガンガン通り抜けないようにして,影響をモロに受けないような工夫があるのだろう。でも,たまに看板が出ておらず,「はて,このまま行ってOKなのか?」と思わせるが,どうやらちゃんと順路を進んでいるらしい。
そんな中で,一つ大きな拝所がある。順路からほんの少し外れるのだが,大通り――といっても,車がギリギリすれ違える程度だが――をバックにコンクリート造りの高さ4m×幅2mほどの社が見える。正面は扉が閉ざされていて,中は見えない。その隣には集会・拝願用のスペースがあるが,屋根には赤瓦が用いられていて,社よりも大きい。こちらのほうがよほど立派な造りとなっている感じだ。そのそばには「備瀬神殿改築記念碑」という石碑。そして,大きな駐車場もあり,車が停められていた。なーんだ,ここから歩いてもいいのか。しっかり,観光地として整備がなされているのである。
再び順路に戻る。歩き出して20分ほどが経ったが,多分いまの拝所が中間辺りだったと記憶する。全部歩こうとすると,かなりの距離なのではなかろうか。“ゴール”なんてあるのかどうか分からないが,いずれにせよ,あんまり行き過ぎると,レンタカーを置いたスタート地点まで戻るのに苦労するので,適当なところで切り上げないといけないかもしれない。
クネクネと道を曲がったりして,再び大通りに出ることになる。反対側の上には,できて間もないような木製の「備瀬フクギ並木通り」という看板。まあ,十分フクギ並木は堪能したことだし,マイナスイオンやらフィトンチッドやらも,相当に浴びたであろう。看板の向こうには海が見えているし,このまま突き当たりの海沿いの道に出てから,駐車場に戻ることにしよう。
海岸に出て右手を見ると,本部半島の突端に当たる備瀬崎までは,行けなくもないけれど少し距離がある感じだ。もっとも,引き返すにもちょっと長くなる感じだが,素朴で人もほとんどいない静かな砂浜がいい感じだし,歩き始めに降っていた雨もすっかり上がって,空にはわずかながらも青空がのぞいている。でも太陽は出ていないから,歩くには困らないコンディションだ。まったく,それにしても今回の旅行の天候はホントに気まぐれな限りだ。途中で海草を獲っているらしき男性の姿も見た。
 
再び駐車場に戻り,ムーブでまずは備瀬崎に向かう。さっき見た大通りもまた,観光客を当て込んだようなお店が転々としていて,これはこれで見所かもしれない。そして,上記備瀬神殿を過ぎると,左手には2階建ての民宿っぽい建物。「レストラン・民宿 岬」と,てっぺんの看板。ここもまた掲示板でよく聞く店である。海産物が新鮮で美味い店という。
……そういや,先日テレビ千葉あたりだったか。たまたまつけた旅番組は,ウド鈴木氏が沖縄を旅する内容だった。その中でこの備瀬も出てきた。彼はたしか海の近くにある,名前は忘れてしまったが,どっかの店で大量に海産物を食べて,お土産までゲットしていた。店の主人が昼寝をしていたところを襲った……いや,単に店の主人のほうが怠惰なだけだったのだが,向こうも向こうで「これも食っていけ! これも持ってけ!」なんて言っていたくせに,いざ「また来ま〜す!」なんてウド氏が調子よく言うと,店主はなぜだか「2度と来るな!」と苦笑いしながら応えていたと思う。
5分ほどで備瀬崎に到着。岩場が多い砂浜といったところか。車が結構置かれているが,どうやら釣り客と海水浴客が半々のようだ。少し先には無人島らしきものも見えている。あるいは干潮になったらば歩いても行って探検できる島だったりするのか。周りは休日の午後らしいとても穏やかで,でもちょっと気だるいような空気が流れている。
さて,備瀬崎からは本部半島を反時計周りに進むことにする。時間は14時20分。ホントはのんびり行きたいところであるが,ここまで来たら昨日入口だけかすめてきた屋我地島にも行きたい。ルートとしては今帰仁村を経由して,昨日も通った羽地内海沿いに走り,国道58号線から屋我地島に上陸するしかない。この場で申すのは観光者のエゴであるとの批判覚悟だが,ワルミ大橋ができていないことがつくづく苛立たしいと思う(第3回参照)。
ま,それはいいとして,ちょっと急ぎ足になって今帰仁村は完全に通過するだけになってしまった。世界遺跡の今帰仁城跡は3年前に見ているし(「沖縄標準旅」第3回参照),この2月に行ってきた古宇利島も管轄は今帰仁村である(「沖縄卒業旅」第2回第3回参照)が,それら以外にも御嶽なんか,結構見所があるようなのだ。例えば,通過した中では植物群落がある「諸志(しょし)御嶽」は,地図にも載る場所だし,琉球松の並木があった場所は「仲原馬場」といって,実際に馬場としても使われた村の娯楽場の跡地。こうしたものを見逃したのは残念だ。
また,お名前は忘れたが,地元の女性が村内の公民館で「カジマヤー」を祝う幟が出ていた。「カジマヤー(漢字では「風車」)」とは,数え年97歳のお祝い。沖縄では「年をとると童心にかえる」と言われ,当人であるご老人が車に乗って風車を持って集落をパレードする。風車とは子どものおもちゃの象徴だそうだ。小さい離島では学校の鼓笛隊なども登場したりと,島ぐるみのお祝いになるらしい。
そういえば,昨日泊まった「ゆがふいんおきなわ」(第4回参照)にあるレストランでも,このカジマヤーのお祝いの予約が入っていたと思う。しかも2組も。東京じゃ,80歳まで生きるのだって難しいだろうに,大したことである。もっとも,彼らより2世代くらい若い現在の沖縄の人はといえば,日本全国に蔓延している「食の欧米化」の影響を例外なく受けているだろうし,特に男性の平均寿命は,47都道府県のほぼ真ん中あたりで,それも順位が下がりつつあるようだから,あと数十年も経てば「カジマヤー」自体がなくなるかもしれない。
そうこうしているうちに,これまた昨日通った羽地内海(第3回参照)を通る。よく見ればヒルギが1本伸びている場所もある。こーゆーのがまたいい。これから立派なマングローブになるのか,はたまたこのまま枯れ果てるのか。あるいは途中で停めてみようかと思ったが,屋我地島に急いでしまった。でも,道が狭いわりに車の量が多いから,なかなか難しいか。それこそ,嵐山展望台(第3回参照)からの「遠景」とセットで見てもよいかと思う。

屋我地島へは何とか,14時台のうちに入ることができた。約3年ぶりである(「沖縄標準旅」第3回参照)。古宇利大橋と古宇利島に行くのだろうか,心なしか交通量が前より増えているように思う。見渡す限り,屋我地島はさとうきび畑ばかりの島であるが,そんな“シンプルな島”の中で同じ方向にこれでもかと車が流れていく光景は,滑稽さすら醸し出している。
やがて,とある十字路で古宇利島へは左へルートをとることになるのだが,私はそのまままっすぐ行くことに。すると,ゲートがあって間もなく公団っぽい雰囲気の敷地内に入り,正面に2階建ての清潔そうな施設を見ることになる。「沖縄愛楽園」である。3年前にもここに迷い込んで,そのまま引き返したと思う。でも,今回はちょっぴり不謹慎ながら,わざと寄ってみたりしたのである。それにしても,ゲートから100mは走ったと思う。かなり広い敷地である。
施設の敷地内にとりあえず入っていってみると,実に穏やかな雰囲気であるが,思いのほか車は多い。でも,当然と言うべきか,地元の車ばかりだ。そして,敷地の端っこには愛楽園付属の准看護学校の跡地と書かれた石碑もあった。ま,そんなに長居する場所じゃないからと足早に帰ろうとすると,たまたま通りかかった中年女性と目が合い,「こんにちは」と声をかけられる。はて,向こうはこんな私を怪しく思わなかったのだろうか。もちろん,こちらも「こんにちは」と返してはおいたが。
さて,なぜこの場所が来るのに「不謹慎」かといえば,ここはハンセン病の療養所であり,すなわち,まったく用のない人間が冷やかしに来る場所ではないからだ。その療養所にスポットが当たったのは今から2年ほど前,今上天皇皇后両陛下がここを訪問された……と私はすっかり勘違いしていたが,実は宮古島にある療養所「宮古南静園」だったらしい。
ま,不謹慎なことを考えた罰が当たったのだろう。ちなみに,ここにも一度,皇太子・皇太子妃時代に訪問されている。1975年,あの「ひめゆりの塔」で危うく事件に巻き込まれそうになった(「沖縄はじっこ旅V」第9回参照)初訪沖のときである。今となっては感染力が弱い病気であることが分かり,過去の隔離政策が不当であるという判決が多くなりつつあるが,それでも現在は橋でつながっているとはいえ,こういう“離島の外れた場所”にあることだけは,紛れもない事実なのである。
来た道を戻ることにするが,古宇利島に行く道に入る前に,さっきの十字路のそばに御嶽が見えたので寄ってみる。20m四方ぐらいの広めなスペースの中に,まずは高さ・幅とも4mほどのコンクリートの神殿。3段ほど階段を上がって中を見れば,石が三つだけ置かれ,端っこになぜか香炉と酒瓶とホウキがあった。その隣には高さを2分の1に圧縮したような「神アシャギ」がある。屋根の裏側には寄進者の名前が書かれた札がビッチリある。そして,その裏にはガジュマル。「御嶽コンボ」とも「御嶽セット」とも言うべきか,典型的な御嶽の一式がそこにはあった。
時刻は15時を過ぎた。いよいよ,古宇利大橋だ。ま,渡ったところで何があるかは,すでに2月に散策済み(「沖縄卒業旅」第3回参照)ゆえに大体分かってはいるのだが,せっかくだから渡ってみるか――私はすっかり古宇利島まで,まっすぐ一本道がつながっているのかと思ったら,さっきの十字路で1回曲がる必要があったり,あるいは曲がってみたら,思いのほか以前に通った素朴な道のままだったりして,少し表紙抜けしたのであるが,それでも今度こそホントの古宇利島への入口では,ちゃんと右折専用車線があったりして,そこだけ道がものすごく整備されていた。
で,この整備されたところを右折すると,まっすぐな道にM字型の起伏が海に突きぬけていく。この橋は「日本一長い無料橋」だ。どっかで道路公団(はもうないのか…)に金を払うために立ち止まる必要はない。ちなみに,法定速度は40km/hであるが,なぜか倍ほどのスピードが出てしまう。だって,前に車がないからしょうがない。でもって,目に入ったカーナビを見れば,海中に“矢印”がズンズン入っていっている。古いんだな,このカーナビ……。
橋を渡って1分ほどで8カ月ぶりの古宇利島上陸を果たす。橋を渡りきってすぐ左の,食事所もある休憩施設の駐車場はすでに満車。そして,渡っているときに見えたが,波打ち際に結構人が多かった。間違いなく人工ビーチなのであろうが,私はどっちみちそういう場所に用はない。上陸時間にしてわずか1分。車から降りることなく,駐車場でUターン。またも“倍のスピード”で屋我地島に戻る。
今度は屋我地島を,反時計周りに1周するルートを取る。前回と同じようなルートだと思う。運天原地区…といっても,見えるのはあいかわらずサトウキビ畑だけだが,集落を抜けると間もなく「→ウランダー墓」という看板が。狭い路地を入っていく格好だが,せっかくなので入っていくと,運天原港に向かって降りていく道だった。その運天原港には,これまた意外なほど車が停まっている。釣り竿のようなものが見えたので,魚釣りでもするのだろう。釣り船っぽい小さい船が数隻泊まっているが,多分,漁港としては機能していないとみた。単なる舟揚場っぽい。路肩にとりあえず車を停めておく。
ウランダー墓は,小さい静かなこの運天原港の脇から崖沿いに小道を歩く。決して濁ってはいないのだろうが,その穏やかさゆえに海の色は濃い緑に近い。しかし,それをかき消すように,蝉と蛙の情熱的アンサンブルが激しい。自然にできたというよりは人の手で掘られたような格納庫っぽい壕もあった。現在は石がギッシリ詰め込まれていて壕の中は見えないが,この雰囲気や地形,間違いなく奄美諸島は加計呂麻島の「呑の浦」に似ていると思う(「奄美の旅ファイナル」第3回参照)。
そして,歩き始めること5分。石灰岩の岩肌の端っこから整備されたコンクリートの階段を上がると,4段ある亀甲墓っぽい墓が,岩の中に紛れ込むように建てられている。墓碑らしき石盤が2枚建て掛けられ,何か文字が彫られているがとても見えない。そばにあるガイドで,この墓の由来を知ることができるが,それによれば,1846年に琉球王国との交易交渉で,フランス船3隻が墓の対岸にある運天港に寄港。1カ月の滞在の間に病気で亡くなったという2人を弔ったものだという。
そう,この「ウランダー」という名称,発音からも見当がつくだろうが“オランダ”のことである。ただし,ホントに風車とチューリップの「ネーデルランド」を指すのではなく,沖縄で西洋人全般を「ウランダー」と呼んでいたことから来ている。あるいは,当時は日本が鎖国をしていた時代だ。唯一の国交を保っていたのがオランダだったことから来ているのか。実際墓に葬られているという2人は役人であるが,国籍は上述のようにフランス国籍である……そういや,第2次世界大戦後,米軍の統治下に置かれたときは,この西洋人全般が今度は「アメリカー」と呼ばれるようになったというから,その辺りも沖縄らしくテーゲーなものであるかもしれない。
そのフランス船が寄港した運天港は,墓の近くに設けられたウッドデッキから臨むことができる。昨日寄った嵐山展望台(第3回参照)からは北へズレるが,これはまた羽地内海のいい眺めである。時間は15時過ぎ。ちょうど,15時半出発の伊是名島行きのフェリーが停泊しているところだった。距離にして,向こう岸までは150〜200m程度ですごく近い距離だが,繰り返すように対岸へは,ぐるっと30〜40分かけて回っていかなければならない。たしか向こうからこちらへは,緑がこんもりと生い茂った感じでしか見えなかったと思う。場所が変われば見え方は変わる。そんな当たり前のことだが,それが分かっただけでもちょっと嬉しくなってくる。

(8)乗れないゆいレール〜エピローグ
さあ,あとは帰るだけだ。名護市内でちょっとだけ渋滞に巻き込まれたものの,高速を使ったこともあってか,17時過ぎには行きと同じ西原インターを降りる。国道330号線もすでに渋滞が始まっていたが,DFSでもらった地図によれば,返却場所とその道中のガソリンスタンドを通る“最適路”があった。そのとおりに,まずはゆいレール・古島(ふるじま)駅を過ぎてすぐの古島インターにて右折。地図にあった通り,交差する通りが高架になっているので,あらかじめ右折車線に入る準備もできた。分かりやすさが光る。これを右折してすぐに左手に出光石油があるから,ここで給油と思ったのだ。
ところが,この出光石油は何とセルフ給油。せっかく上手いこと曲がったのに,こんなの聞いてねー。地図が分かりやすいのはいいけど,セルフって書いとけよーって感じである……もちろん,こちとら自分で給油なんてやったことない。仕方なく,そのまま通り過ぎることにすね。まったく,古島インターまでもしかして上手く行きすぎたのかもしれない。神はこうして試練を我に与えたもう……。
あと近辺にはガソリンスタンドは二つある。一つは,このまままっすぐ行くと,国道58号線との交差点脇にエッソがあるようだ。でも,地図を見る限りではやや交差点より北側に位置していて,那覇に向かう上り車線の車しか入れなさそうだ。もう一つは,DFSから西へ伸びる大通りをまっすく行って,突き当たった国道58号線を左折すると,すぐ右手にENEOSがあるようだ。ただし,右手であるからには逆の名護方面に向かう車線からしか入れまい。
で,結論としてはENEOSを目指すことにした。地図によれば,このまままっすぐ進んで,紳士服の「はるやま」のところを左折。途中でDFSに行けるルートと交差するが,それをそのまま突っ切って,途中から右に折れて西進。テキトーなところで国道58号線に出る……というのを“自分なりの理想ルート”として確立できたからである。ま,どっちみち最後は成り行きなのだが。
とはいえ,DFSと交差する道を過ぎてからは,いかんせん普段通らない道だから,どこをどうやって抜けようか迷ってしまう。道幅も突然狭くなったり,いかにも「開発途中です」という感じで,空地が実に多い。あげくのはてに,一度ヘンな方向に曲がったりもして来た道を戻るハメにもなったが,再び態勢を立て直して再び南下。とはいえ,何とか国道58号線に出たときは,思ったよりも南下していた。
そして,ENEOSで給油してから,いざDFSへ。まず車がいなかったのはラッキーだったが,国道に出てすぐに3車線の端から端へ一気に移動する。間髪入れずにDFSへの一本道なのだ。これを右折すれば,ハイめでたくDFSへ返却……というわけにはいかない。というのも,地図によれば途中からは“混雑予想路”になっているのだが,その手前の“最適路”となっているところからしてすでにかなりの渋滞だ。時間は17時過ぎ。いわば最初から混雑の中に入り込む段取りだったのかもしれない。また,この沿線には大きなショッピングモールもある。そこから出る客もかなり多かった。
そして,ムーブは“最適路”を選ぶべく,途中で目印になっているローソンのところをあえて左折する。地図によれば,次はアーチ状の二重線のところが一方通行になっていて,これを右折するのがルートとなっている。そのアーチはローソンのところを左折してすぐ,大きなアーチ型の歩道橋であることは,すぐに分かった。歩道橋から続く幅広の中央分離帯をはさんで両側が車道になっているスタイルだったのだ。でも,この交差点ではどーゆーわけか,私のように右折していく車よりも,方向転換して来た道を戻っていく車が結構多かった。
それらをかきわけて右折すると,まだ開発中途であることを示すかのように,広い中央分離帯は伸び放題の草地のままだ。周囲に建つ店舗もまだまだ少ない。関東近郊でもよく見かける光景である。しかし,最適路であることを示すように,渋滞はまったくない。ムーブはそのままおもろまち駅のロータリーをかすめていくと,再び上記DFSへの一本道に戻る。しかし,あいかわらず渋滞はまだ続いている。ほんの10m程度走るだけだが,ほとんど車は動かない。たかが10m進むのでも苦労する。はたして,ENEOSから右折して,そのまま一本道を来ていたら,何時に着けたのか分からない。
ようやっと返却場所へ。出発場所同様,大きな車庫となっていた。とりあえず,一番奥まで入っていくと,返却カウンターらしき場所の近くに数台分停められるスペースがあったので,そこにきっちり停めることにする。やがて,私の後ろからも続々と色とりどり車種いろいろのレンタカーが入り込んで,あっという間にカウンターの周囲のスペースは埋まってしまった。こうなると,奥まで順繰りに入り込んできていたレンタカーは,停めようと思っても引き返すわけにいかず,行き場を失ってしまった。私は10分ほどで返却場所から“脱出”をできたが,その10分ほどが経っても,いわば“立ち往生”状態のレンタカー数台がいたと思う。彼らはどのくらい待つことになったのだろうか。
さて,ムーブから降りた私。オリックスレンタカーの人間が来なかったので,勝手に上記返却カウンターらしきところに行く。若い女性係員に書類とカギを渡すと,何やらメモとチェックをしてあっさりと終了。そして,那覇空港までの260円分のゆいレールの切符と,DFS内で使えるという1000円のギフトチケットをもらった。なるほど,DFSだとこういう“特典”がついてくるのね。あ,でもカギはどうするのかしら?――すると,「カギはレンタカーに戻してください」とのことだ。
ということで,ムーブのところに戻ると,別の女性の係員が寄ってきた。「“ガソリン満タン”とか車の傷のチェックは受けましたか?」――どうやら,これらの確認をしてからカウンターに行かなくちゃいけなかったらしく,順番が逆になっていたようだ。女性がさっきのカウンターに書類を取りに行ってくれた。「今日は結構混んでますね」「ええ,一気に返却が集中しているみたいで」――そして,一通りのチェックを受けた(ような感じだったが,向こうがチェックしているだけで,私はただボーッとしているようなものだったが)後で,改めて“解放”と相成る。やれやれ,慣れない場所での返却は苦労するな。
でも,これは明らかに返車が集中したがゆえの混乱だろう。ま,私が慌てたのもいけないのだが,ちなみにこのDFSでレンタカー返却に1時間かかったという話も聞く。その原因は「係の人がなかなか来ない」――今日の“脱出”までの展開が早かったのか遅かったのか,初めて利用する私にはよく分からないが,駐車できずに待たされている光景も見たことだし,なるほどと思える話だ。
ちなみに,もらった1000円のギフトチケットは早速,昨日寄ってTシャツを買った土産物エリア(第2回参照)で,会社の土産用にしっかり使うことにした。買ったものは,1050円の「ちんすこうショコラ」。でも,ホントに1000円分しかなくって,50円だけ余分に現金で取られてしまった。「なるほど,税込じゃなかったのね」って感じだが,個人的にはぜひとも「税込1050円仕様」に改定してもらいたい。そうそう沖縄に来られるわけじゃないし,私と同じく「土産物を買ってキッチリの額で使おう」と考える人も少なからずいるだろう。事実,そのギフトチケットで支払っている人を結構見たし,土産屋自体も他のコスメの店に比べれば結構な人がいたことだし。

さあ,これでやっとゆいレールへ……って,何じゃこの長蛇の列は。おもろまち駅につながるデッキに数十人の列ができている。その上では2両編成のゆいレールが満員の人を乗せて往復する。私は何も知らずに沖縄に乗り込んでいたのだが,どうやら今日は「那覇祭り」というのがあって,ゆいレールはその見学などで満員となってしまい,駅で入場制限がされていたのである。そういえば,那覇祭りというのがあるから,入場制限するなんていう張り紙がされていたのは間違いなく見た。でも,ここまですごいとは正直思わなかったのだ。
駅員が拡声器でいろいろ誘導をやっているが,列は一向に縮まる気配がまったくない。次に行きたいのは国際通り。駅で行けば美栄橋駅ないしは牧志駅。たかだか2〜3駅の移動だが,こりゃあこのまま待っていたら,国際通りはおろか下手すれば那覇空港まで行けなくなるかもしれない。やれやれ,ここはあきらめて,タクシーで行くしかないのか。せっかくゆいレールのタダ券をゲットしたはいいが,こういう展開が待っているとは……仕方なくデッキを降りて,1台だけ停まっていたタクシーをつかまえる。このタクシーもつかまえ損ねていたら,はたしてどれだけ待たされたかと思うと,ラッキーなゲットだったのかもしれない。そして,おもろまち駅での入場制限の有り様に,ふと言葉が突いて出る。
「いやー,ゆいレールが入場制限で乗れなくって……
今日は何かお祭りでもあるんですか?」
「ええ,那覇祭りってのがあるんですが,昼に大綱引
きがあったんですよ。久茂地で」
なーるほど。そういえば,世界ギネスに申請するぐらいの長ーくて太ーい綱を大群衆が取り囲む写真を見たことがある。那覇市内の東西二つの地区に分かれ,国道58号線の久茂地交差点をセンターにして互いに盛大に引き合うという。それが今日行われていたというわけだ。私はてっきり3連休ということで混雑しているのかと思ったが,あるいはこの那覇祭りを島外から観に来た観光客も少なからずいたのかもしれない。こちらはまったく“お祭り”というヤツに興味がないから,そんなイベントなどハナっから頭になかったのだ。
車はいまだに混んでいるDFS付近を抜け出すと,あっという間に国道330号線を南下。大道交差点からはスイスイと国際通りにも入っていけた。何なんだったんだ,あの渋滞は。もっとも,いま入り込んだ国際通りも渋滞っちゃ渋滞である。車の流れが少し悪くなったから……とはいえ,DFS付近に比べればマシである。この流れの悪さを利用してか(?),おもむろに運ちゃんとの会話がスタートする。見たところ40代半ばぐらいの男性だ。
「沖縄は仕事ですか? 観光ですか?」
「あ……観光です。1泊2日で」
「どこに行かれましたか?」
「えーと,昨日は首里そばに寄って北部のやんばるに
行って,今日は水納島に行ってきました」
「え,首里そばですか!? あそこはいいですよー。沖縄
そばっていろいろありますけど,あそこは一番です。佐
藤って人が10点中9点をつけている店ですよ。味はど
うでしたか?」
「ああー……ま,薄めでしたね。でも“上品”って言うべ
きなのかな。そばも日本そばっぽかったし」
「なるほどね〜。ま,味の濃いのが好きな人とかいます
からね〜」
「そうですね。味が濃いほうが好きですね〜」
どうやら,この運ちゃんは首里そばが好きな人らしい。そして,私が首里そばに“曖昧な評価”を下したことを残念がっていたような感じだ。そう,私はどっちかというと,味が濃いほうが好きなのだ。とはいえ,第1回にも書いたように,首里そばの上品さは立派に肯定されていいとは思う。ちなみに,運ちゃんが言っていた人物“佐藤”とは,「参考文献一覧」にも2冊載せているさとなお氏のことだ。ランキングは氏のホームページにたしか出ていたと思う。
「でも,味が濃いのが好きだから,血圧が高いんです」
私がそう言うと,なぜかその会話に食らいついてきた。
「血圧って,いくつぐらいですか?」
「そうですね。上が135くらいで下が70くらい…」
「そんなの普通じゃないですか。私は上が154とかで,
下は90ありますから……薬を飲んでますけど,やっぱ
り高いですよ」
「あー,それはたしかに高いですよね。ま,言っても脂
っこいものが好きですしね〜」
「ああ,そうだ〜。1日2リットルの水を飲むといいそう
ですよ。私も病院でそう言われて毎日飲んでいます。
普段は何を飲まれてます?」
「麦茶とかウーロン茶とか……」
「ああ〜,でも水がいいそうですよ。1日2リットルです」
そういえば,5月に親戚と那須に行ったとき(「管理人のひとりごと」Part44参照),体格のいい親戚の男性が晩飯で,酒と一緒にペットボトルの水を飲んでいたことを思い出した。いわく「血がドロドロにならないで流れるから」とのことだったが,なまじ麦や茶葉などの“不純物”が入っているよりは,ピュアウォーターのほうが何かといいのかもしれない。
国際通りはまだ“祭りの余韻”が残っているようで,小さいトラックの荷台に乗った男性衆が,テンション高く掛け声を上げていたり,最近できたビル「てんぶす那覇」の広場では,旗頭の人たち(と言って適切か分からないが…)によるパフォーマンスが披露されていた。トラックとは何回もすれ違った。そして,三越前で信号が赤になったところで下車。620円。ゆいレールだと200円だから値段は3倍ついたが,今日に限っては時間は3倍…いや,それ以上に早かったかもしれない。

さあ,締めの夕食は3度目の「花笠食堂」としたい(「前線と台風のあいだ」後編「沖縄卒業旅」第4回参照)。基本的には那覇にしろどこにしろ,同じ店には行かずに,なるべくいろんな店でいろんな味を試したいと思っている私だが,何だか今回の旅の締めの晩飯は,ここにしてみたくなったのである。“値段”とか“質”なんかは,失礼ながら今回寄った他の店に比べればもしかして下がるかもしれないが,ここも立派な「グルメの聖地」だと思っている。無論,B級グルメではあるが。
いつもはテーブル・座敷とも結構人が入っているのに,今回はテーブルにかなりの空席があった。あるいは祭りの影響があるのだろうか。もしそうだとしたら,店にとってはアンラッキーかもしれないが,祭りに関係ない私にはラッキーであった。鏡がある壁際の2人席に座ることにする。そういや,一度この座席に座ったことがあるな。
今回頼んだのは「Aランチ」550円。5分ほどでサクサクッと出てきたそれは,直径30cm×20cmほどの楕円形の白いプレートに,ハンバーグ・半月形のポーク・フライドチキン・スパゲティミートソース,サウザンドレッシングがかかった千切りキャベツ,そしてこれまた楕円に型取られた白飯が乗っていた。味うんぬんよりも,懐かしさやホッとした気持ちみたいなものが込み上げてくる。なお,白飯は赤飯か玄米ごはんに替えられるし,定食によってはカレーごはんにもできるというが,前に来たときは,すべての定食で白・赤・玄米・カレーの四つからセレクトができたような気がしたが……あるいは,私の勘違いだったのだろうか。ま,いいや。理由なんて聞いてもしょうがないか。
10分ほどでたいらげて外に出る。裏手に出ることにすると,塞がれた井戸の跡があった。直径1mほどの円形の石。その上には拝所にしているのか,小さい箱が乗っている。その向こうは広大な空地になっている。建物の裏手に回ると,いずれの建物もかなりの年季が入っていることが分かる。国際通りの華やかさや人通りの多さとはある意味対照的な,こういう昔ながらの静かな夜の戸張が降りてくるころの風情もまた,私が那覇市内の路地に吸い寄せられる理由だったりする。
最後には,久茂地にある「パレットくもじ」までプラプラと歩いて行き,沖縄に関する書籍の展示会を見てきた。「沖縄情報IMA」でこれまた宣伝されていたのを見て,ちょうど今回タイミングが合ったこともあり,行くことにしたのである。そして『沖縄拝所巡り300』(「参考文献一覧」参照)なんて本を記念に買って,県庁前駅からゆいレールに乗って…と思ったら,これまた入場制限がまだ続いていた。「15分とも20分とも分からない」と係員。結局,タクシーで空港に行くことになった――こうして,260円のゆいレールの切符は使わずじまいとなった。でも,見れば来年3月まで有効のようだし,この12月にまた那覇に来ることになるだろうから(おいおい),そのときまでとっておくことにしようか。(「沖縄惰性旅」おわり)

第5回へ
沖縄惰性旅のトップへ
ホームページのトップへ