沖縄卒業旅(第7回)

A嘆きのサイクリング
13時半過ぎ,集落に戻る。空は雨が上がっている。このままチャリを返すのはもったいないので,次は集落の北側にあるという「高月山展望台」を目指すことにする。どっちみち集落の中心部に戻ることになるのだから,チャリがあるうちは徒歩では行けないところを行くことにしたい。なので,集落の西側から北上して展望台に向かうわけだ。民宿とフツーの民家がごっちゃになった住宅街を通り抜けていくと,メシが食える食堂もあって営業していたが,いまさら入っても仕方ない。
やがて,森の入口にさしかかる。ここからは急勾配の坂である。しかもロングときたもんだ。はて,チャリのまま来たことは失敗だったか。でも,いまさら引き返すのも面倒だから,このまま上がっていくことにしよう。後ろからは若い女性2人が歩きで上がってきてくる。まったく,両手がフリーなのがうらやましい限りだぜ。そんな中「↑平和の塔」という看板が出てきた。名前からして検討がつきそうなものだが,とりあえず行ってみようか。ちなみに,上記の女性2人は素通りしていった。まったく,こういう史跡にちっとは目をくれてやっては……って,好みを押し付けるわけにはいかないか。
その「平和の塔」への道は,これまたかなりの急勾配。初めはちゃんとついていた階段も,途中からどっちらけになっている。そんな階段を上がると,10m×30mくらいの広くてならされた土のスペースの奥,樹木に囲まれた中に「平和之塔」と書かれた角すいの塔があった。脇には戦没者の名前が刻まれた波状の石がいくつも並んでいる。そして,やっぱりあったか「世界人類が平和でありますように」の白い棒。最近,こいつがやたら目に行く(が「奄美の旅ファイナル」第5回「沖縄はじっこ旅V」第4回参照),ここについてはもう,そのまんまじゃねーかよって感じだ。
再びチャリを押して出発。さらに勾配を進むこと1分ほどで,看板も何もなく,大きな樹木のたもとにただあるのは小さい石碑と卒塔婆のみという光景。多分,車だったら100%通り過ぎている場所にある。その向こうは大きな崖となって下っていて,大きなすり鉢状の地形になっている。石碑には「村長野村正次郎,助役宮里盛秀,収入役宮平正次郎以下59名,集団自決之地」と書かれてあった――このヘンのことについては,沖縄女性史研究家の宮城晴美氏(みやぎはるみ,1949〜)による著書『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』で,ある程度のことが分かる。実際,座間味島で戦争体験をした母の宮城初枝氏(みやぎはつえ,1921-90)がノートに書き留めていたものを,晴美氏が編纂して2000年に上梓したものである。
それによれば1945年3月26日,米軍はここ座間味島や阿嘉島(前回参照)など慶良間諸島に上陸するのだが,それから遡ること5か月前の1944年10月10日,座間味島に米軍による最初の空爆があって以降,何度となく周辺は米軍による空爆にさらされて,かなりの被害も出ていたそうだ。そして,上陸の前日に座間味島が米軍に完全に包囲されることになると,島民はいよいよパニックとなって逃げていた各避難壕から,村当局の避難壕へ続々と集まってきた。初枝氏もそんな1人だったという。
そこで彼女は偶然にも,村の助役,収入役,国民学校長らが日本軍の部隊長のところに行き,島民を自決させるための小銃弾を要求している場面に遭遇する。助役は隊長に対して「もはや最期のときが来ました。私たちも精根を尽くして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ,老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう,“忠魂碑”の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」と申し込んだのだそうだ。部隊長はその場で申し出を断ったのだが,助役は改めて役場の吏員に「各壕を回って皆に“忠魂碑”の前に集合するように」との伝令を命じたそうだ。すなわち,日本軍の命令というよりは,地元の“お偉いさん”が自決の方向に島民を導く形になったのだ。
ところで,この“忠魂碑”。島を一望する場所に建てられていたというが,紀元2600年(1940年=神武天皇即位以来2600年にあたるという)を記念して,座間味村の在郷軍人会や青年団が,2年後の1942年に建立したものであったという。何でも靖国神社と密接なつながりを持ち,日本軍国主義思想のシンボルといわれたものであったそうだ。座間味島では第2次世界大戦開戦日,すなわち1941年12月8日を記念して,毎月8日に「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」という儀式がここで執り行われ,住民の戦意高揚を図ったという……その前に集まるということが何を意味するか,まだはっきりと「自決」の2文字が出ていない時点でも,すでに彼女にはピンときていたという。
この後で彼女は助役らと別行動を取るのだが,その助役らはこの直後に集団自決したということになるのだろう。一方の彼女はといえば,いよいよ米軍が上陸した後,元々島の女子青年団員として軍に協力する立場にあったこともあり,日本軍が米軍の攻撃で全滅したと勘違いして彼女もまた自決を決意したものの,結局は未遂に終わる。その後,彼女は負傷兵の看護などに務めたが,翌月4月12日に移動中に負傷したのをきっかけに投降することになった。ちなみに,上述の集団自決が起こったことは,彼女は投降後に知ることになったようである。
この事件も含めて,座間味島では結局,379名が集団自決したとされているが,その後彼女は,この集団自決の状況を知る貴重な人間――村の“お偉いさん”が結局みな,この世からいなくなってしまったからだ――として,何度か法廷の場に立つことになるのだが,ここから先のことについては,この旅行記とは直接関係はないので,上記の本を参照いただきたいと思う。

さて,引き続き上り続けていると,右手の樹木が途切れたところに好眺望が開けた。ガイドマップや村のホームページなどにある高月山展望台からの景色と似たような,山の谷間にあるこじんまりとした集落と,遠くに海と離島を望むという構図である。ここからでも十分な眺めなのであるが,せっかくだから展望台まで行ってみたい。
……のだが,再び小雨が断続的に降り出してきた。うーん,このままチャリで上がり続けるのがいい加減イヤになってきたし,下るときの爽快感というメリットは望めそうもない。やむなく,いま来た道を戻ることにする。そして,その雨が次第に本降りになりかけた14時10分,みやむらに戻る。すっかりびしょ濡れになったあげく,結局は2時間の乗車で「ただ元を取っただけ」だった。私の他にも数人,やっぱり雨にたたられて戻ってくる輩がいた。今日は間違いなく,レンタカー日和だったのかもしれない。
さて,ここからどうするか。ひとまず作戦を練りがてら,またどうにも疲労が蓄積していたので,とりあえず,みやむらの2階にある「ラ・トゥーク」に入ることにする。屋外のラセン階段を上がり中に入ると,いかにも南国テイストなインテリア。カウンターはストゥールに萱葺きの屋根。壁には和洋沖縄を問わず酒ビンが並べられている。一方,ホールは4人用の丸テーブルが四つあって,いずれもイスは藤椅子だ。そして,一番奥に掘りごたつ風の座敷がある感じである。
通りに面して丸テーブル席が二つあるが,そのうちの一つは作業着姿の男性3人が座っている。私はもう一方の席に座ることにした。濡れたTシャツのままワサワサと入ってきたので,まずはセーターを着たりして,身支度を整える。髪の毛もすっかりボサボサなので,テキトーに整える。カウンターにいた若い男女の従業員は,さぞ「何じゃ,こいつ」と思ったに違いない。作業着の男性も含めて,この店の“コンセプト”からは完全に外れた客が入っているのかもしれない。
置かれていたメニューを見ると,カレーやケーキなどの喫茶店風なメニューが主である。あるいは飲み物だけでもよかった……というか,飲み物だけに“すべきだった”のだが,その中に“ポーポー”と呼ばれるクレープを丸めたような沖縄独特のお菓子を,オシャレにアレンジした1品があった。こういう珍しいものを見ると,さっき「パーラー座間味」で食べた天ぷらとおにぎりの量(前回参照)が大したことない量だったなんて,気まぐれに脳が働いてしまい,ホントは必要ないはずなのに余計に食欲が湧いてきてしまう。こういうのが「華麗なる“ブタ”へのエスカレーター」となるのだが。
早速,それを頼もうと思ったが,売り切れだという。うーん,売り切れというよりは“やる気切れ”のような……ということで,「焼きマシュマロのバタースティックぞえ」(450円)というヤツを頼む。これにドリンクとしてアイスティーを頼む。ドリンクを頼むと“セット”扱いで790円。考えてみれば,上述の天ぷらとおにぎりでかかった350円の倍以上。パーラー座間味とは200mくらいしか距離は離れていないが,エライ差である。場所代とサービス料の有無の差か。しかも,お世辞にも若い従業員はやる気がありそうに見えない。知り合いみたいな人間とくっちゃべっていたりする。
そして,10分ほどして出てきたものに唖然としてしまった。長方形のプレートに乗って出てきたのは,早い話がグリコの“プリッツ”が10本。そして脇にある小皿には,マシュマロをレンジで“チン”して溶かしてチョコレートのソースとからめたペーストが入っているだけ。これで450円とは,笑わずにはいられない。名前だけ聞けば“それなり”だが,どこにも知恵や工夫を凝らしたような創作性みたいなものがない。原価については,間違いなく“ゼロが1個少ない程度”だろう。
いや,むしろこれを金を取るメニューとして成立させたこと自体が,凄いことのようにすら思えてしまう。そして実際食べてみたが,マシュマロは味が何だか歯磨き粉っぽいミントの味がして,それがヘンに温かくてしかもベトつくし,これをプリッツをからめて食べたところで,特段感動するような味にもならない。そして,これまたプリッツはプリッツで,食べるとカスが歯にくっついて厄介なありさま。よほど,プリッツとマシュマロは,それぞれ単体で食べたほうがマシな気がしてくる。
ここにいても,あまり意味がないような気がして,何とかソースとからめてプリッツを無心で10本食べきり,アイスティーも飲みきって,とっとと外へ出る。中にいるときから見えていたのだが,空は太陽が出て再び明るくなっていた。しかし,雨粒はポツポツと相変わらず落ちてくる。そういや,11年前の3月に沖縄に来たときは今日のような,まるで梅雨時のはっきりしないような天候だったことを思い出す。

Bプラプラと歩いて古座間味ビーチへ
さあ,これからどうするか。少なくとも必ず見ておきたいのは,古座間味ビーチくらいなのだが,ここは集落から歩いて15分ほどで行ける距離のようだ。時刻はまだ14時半なので,集落の中心部を北に向かって少し歩いてみる――まずは座間味村役場。2階建ての鉄筋コンクリートの……とってもボロボロな建物である。玄関のドアから中がのぞけるが,何やら手続関係の窓口が見えた。財政難であることを如実に現すような…というよりは,必要ないから改築しないのか。仮にも観光客が結構訪れる島の中心なのだから,もうちょっと“おめかし”してもいいような気がする。
そのまま北上すると「→大屋小(うふやぐわー)」という小さい木の板があった。人がギリギリすれ違える程度,民家の軒先を入っていくかのような路地の奥に,赤い鳥居があった。小さい御嶽だ。隣接する平屋の民家との垣根ははたしてあるのか分からない。いや,下手をしたら住居不法侵入罪っぽいことをしているのだろうか。サッシを開ける音に思わずビビる。
鳥居の中にある社は3m四方の赤瓦のものだ。そのいでたちからして観光客用ではなく,100%地元の人間用であることの表れであろう。ゴザが敷かれて奥に祭壇と香炉と榊があり,「大屋子宮」という札がかかっていた。そして,その大屋小の入口そばには,島で…というか村で最大の「105ストア」が建っている。中には入らなかったが,生活用品や食料品が置かれたどこにでもあるフツーのスーパーだ。郊外型のスーパーを散々見ている人間としては,ふと「どこが“村で最大”だ?」と思ってしまう。
さらに北上を続けると,白亜の民家のような公共建物のような,立派な建物が見えた。木の掛札には「慶良間海洋文化館」と書かれている。中は明かりがないが,定休日ではなさそうだ。とりあえず入ることにする。サッシは錆びているのか,いまいち動きが重い。多分,古い建物なのだろう。
「すいませーん」
カウンターには誰もいない。入場料500円を取られるのであるが,このまま黙って入っていくのはさすがに気がひけるから声をかけたのであるが,何の反応もない。パンフレットが雑然と置かれ,小さい書棚には資料館のテーマである海洋に関する蔵書が詰まっている。それらの光景が,いかにも文化館を文化館足り得ている。そして,肝心の展示物へはもう一つサッシを開けなくてはならない。はて,無断で開けてしまってもいいのだろうか。
「すいませーん」
とりあえず,もう1回声を出してみる。奥のほうからテレビの音が聞こえてはくる。だから,人がいるのは間違いない。それも割とはっきり聞こえるから,さして遠いところにはいないはずなのに,誰も出てこない。私以外は誰もいないので,フツーだったら声ははっきり通っているはずだ。
「すいませーん」
うーん,何の反応もない。人がいないってことはまずもってあり得ないのだが,これではからかわれているようにしか思えない。試しに1回外に出てから,隣にくっついた民家の玄関を開けてみたが,それでも何の反応もない。もう1回呼びかけて誰も出てこなかったら退散しようか。気持ち今までより少し大きな声を,腹から出してみる。
「すいませーん」
「はーい」
年をとった女性の声だ。おお,ようやく反応が返ってきたぜ。まったく,のんびりしているというのか何というか。ホントに聞こえていなかったのかすら謎だ。もしかしたら,面倒臭くって出ないでいようと思ったら,4回も声がしたので仕方なく出てきたのかもしれない。“根競べ”は私の勝ち…って,それは違うか。そして,間もなく出てきた女性はやっぱりオバアだった。足を少しひきずるように出てきたから,あるいはやっぱり億劫だったのか。
「ああ,今日はね,責任者が出張で那覇に行ってい
ないんですよ。彼がいたら,戦争の展示だとか館内
を説明してくれるんだけど,1人で大丈夫ですか?」
「ええ,大丈夫です」
「そうですか」
彼女は私から500円を受け取ると,そそくさとこちらに出てきて,明かりのスイッチを入れてくれた。彼女の役目は,客からしっかり入館料をゲットしておくこと。明かりをつけてくれたのは,あるいは“オプション”だったのかもしれない。もっとも“資料館”といっても,およそそこの自治体にはそぐわないキレイで豪華な建物というよりは,あらかじめあった倉庫を適宜改装したって感じである。外から見る限りはかなり雑然としたその“資料館”に,早速入ることにする。

倉庫…もとい資料館の中は大きく左右に分かれており,左側の壁際には第2次世界大戦時の資料,右側の壁には座間味島の産業の中心である漁業や,海上交通に関する資料が掲げられている。その中には座間味村の漁業の中心であるカツオ漁の船や資料も置かれてあった。そして,建物の真ん中にはいくつもの船の模型が置かれている。赤い帆があった模型は昔の中国の船だし,木造のオンボロ船はサバニだろう……もう,あまりに雑然としているから,どれが何かというのはいちいち覚えていない……というか,はっきり言って“もう一方”のほうに関心が強いからか,漁業にはあまり興味がなかったのかもしれない。結構,村の成り立ちには大事なんだろうけど。
そして,左側(!)は「米海軍布告第1号」という文書があった。南西諸島における日本のすべての行政権・司法権を停止して占領軍に帰属させるという,当時のチェスター・W・ニミッツ米軍海軍元帥(1885-1966)名義の“ニミッツ文書”である(当然だが邦訳されているものだ)。1945年3月26日午前9時,米軍が座間味島に上陸して間もなく布告された文書である。さっき通ってきた座間味村役場の玄関前に掲示されていたものだ。当時の写真は,『写真記録 これが沖縄戦だ』(「参考文献一覧」参照)にも載っている。
沖縄では,時代を自分の土地を統治する国(家)になぞらえて“ヤマト世(ゆー)”“アメリカ世”などという言い方をする。現在は一応“ヤマト世”になるわけだが,この文書布告こそが,1972年5月15日に本土復帰になるまで27年にも渡った“アメリカ世”のスタートとなるわけだ。ちなみに,港の前にある「なぎさ」という商店脇の木陰には「沖縄戦上陸第一歩之地」という,家の柱みたいな細い碑が立っているが,厳密には阿嘉島への上陸が午前8時過ぎなので,厳密には阿嘉島が“第一歩”であることは,第5回の最後でもちらっと触れた(つもりである)。
さて,その文書の近くには,上陸時の詳細が書かれた地図や資料が置かれてある。前者によれば,ここ座間味島では私が上陸した座間味港や,これから行こうと思っている古座間味ビーチから上陸が行われたようだ。そして,後者についてはすっかり時代の経過で古ぼけているが,コンパス・機関銃・砲弾・爆弾・魚雷などが置かれてあった。
資料館を通り抜けて再び外にある庭に出るのだが,その庭になったところにも,またかなりの資料が展示されている。端っこの一角にサンゴや巻貝,あるいは昔の生活道具や“グレマリンエンジン”なるもの,はたまた庭の中心に,デーンと長さが10mにもなる帆船“ヤンバル船”が飾られていたのはどーでもよくなって,やっぱし目に行ったのは,一番奥に展示されてあった“マルレ(○に“レ”)特攻艇”だろうか。青く塗られたそれは長さ5m×幅1.5mだという。真ん中には幅1mもない,人が寝そべって入り込むと思われるような操縦席があった。どー考えても戦闘には使えそうにないベニヤの船だ。これに120kgの爆薬を二つ積んで,敵方に突っ込んでいったわけだ。
この“レ”とは,1944年10月にあったレイテ沖海戦のこと。この海戦で壊滅的ダメージを受けた日本軍だが,当時の大本営はすでにこの結果を予想して,新たな作戦を計画していたという。その作戦の一つが“マルレ特攻艇”となったようである。慶良間諸島には300隻,沖縄本島南部には450隻が配置された。ちなみに,このマルレ特攻艇は陸軍所属とのことで,海軍所属では通称“マルヨン”と呼ばれる特攻艇が造られた。こちらの模型は,奄美大島の南にある加計呂麻島に,当時使われていた格納庫の中に置かれている(「奄美の旅ファイナル」第3回参照)。
資料館を出る。さっきのオバアはカウンターにいて「ありがとうございました」と言ってくれた。これも“オプション”か……そして,外に出ると天気はすっかり晴れ上がった。まったく,何という天邪鬼な天気なのだ。プラプラと近くにある御嶽に寄ってみたりしたが,いずれも南国の樹木に囲まれた中にある社が印象に残る。以上。そろそろ古座間味ビーチに行きたいので,東進することにした。御嶽や文化館の周辺にはいくつか赤瓦の家があった。海から少し奥まったこの辺りだと,木を腐食させやすい潮風の影響が多少なりとも減るから,このように赤瓦の家が建てやすいのだろう。
さあ,またも山越えである。集落の東北端にある「うりずん」という居酒屋や,「シラハマ アイランズリゾート」というテラスがあっていかにも瀟洒なリゾートホテルを通り過ぎる。すると,一気に周囲は緑1色となる。人影はまったくない。歩いて行ける場所だから,おそらく夏のシーズンには人の往復も多いのだろう。いや,それ以前に送迎バスが何往復もするかもしれない……ちなみに,前回ちらっと紹介した先輩女性のご家族は古座間味ビーチへは,泊まった宿の家族の親類が運転する送迎バスで行ったとのこと。「連れて行かれた“海の家”もどうやら親戚の経営みたいで,全部初めっからつながっていたのよね」と言って笑っていた。ある意味,沖縄らしい“闇カルテル”といったところか。
ところで,こうして話がズレたついでに,思いっきり話をズラしてしまうが,このリゾートホテルのそばにはおよそリゾート島にはふさわしくない,粗末なトタン屋根の鶏小屋があった。中には12〜13羽の鶏がガサガサしていたが,「EM実験養鶏場」と書かれた板があった。この“EM”とは“Effective Micro‐organisms(有用微生物群)”の頭文字。理系でないので詳しいことは分からないが,複数の微生物を共生させることで腐敗などを防ぐ“抗酸化力”を増強させ,これを環境対象物に投入することで,環境の正常化・良質化を促進させるとかいうものらしい。
さまざまな方面で活用可能な技術のようで,ここではおそらく餌にEMを投入したり,小屋に撒布することで,臭いの低減などといった環境の向上と,鶏自身の健康にもつなげている……のだろう。詳しくは「EM研究機構」というところのホームページを参照いただきたい。本部が沖縄にあるようだ。それにしても,どっかで聞いたことがある言葉だと思ったが……ま,ここに書くのは止めようか。

――さて,本題に戻って古座間味ビーチである。てくてく歩いて山越えをして峠っぽくなった辺りで,道が二つに分かれる。目の前は海が開けていた。そして「→古座間味ビーチ」と看板が出ている方向に,勾配のキツイ下り坂を思いっきり下っていくこと5分。もはや何の木かはどーでもいい防風林の向こうに海が見えた。道は南に向かってカーブしていくが,私はまっすぐビーチに入っていく。
ここ古座間味ビーチは,サンゴの欠片がふんだんに混じった白砂である。踏みしめれば“シャリシャリ”という金属っぽい音もする。さしずめ,ここは砂浜ではなくて“サンゴ浜”と言ったほうがふさわしい。サンゴ浜の両端は,多分500mほどあろうか。南端にはログハウス風の海の家があったが,あれ(もしくはその一つ)こそが多分,上述した闇カルテルの“象徴”たる……ま,そんなことはどーでもいいや。
ビーチには私を入れて,たった5人しかいない。シーズンオフゆえの,これでもかというくらいのぜいたくな占有率である。カップルと野郎2人組,そして私だけだ。野郎2人組はどこから持ってきたのか,ビーチチェアの上でくつろいでいた。空は青空が見える反面,北側には黒い雲が近づいている。風が少しあるが,勾配のキツイ坂道を歩いて多少汗ばんだ身体には,とても気持ちいい。
いざ,海岸へ近づいていくと,波打ち際がこんもりと盛り上がっている。見ればすべてサンゴの堆積物だ。標高1.5mほどだろうか。波が寄せたときに流れついたサンゴが,年月を経て堆積していったのだろう。波は皆無だ。アオモも一切ない。ここまでグラデーションがカンペキでキレイなのは,久方ぶりに見たと思う。だいたい海草が生えていたり,岩場があったりするものだが,ここにはそれらが一切ないのだ。ここを勝手に“BEACH OF THE BEACH”と名付けたいと思ったとともに,クレイジー・ケン・バンドの横山剣氏ばりに「イイネ,イイネ,イイーネ!!」と言ってみたくもなったのであった。

(7)エピローグ

こうして座間味島を見終わって,当たり前のように16時20分発の「クイーン座間味」に乗船する。そして何事もなく出発。揺れもほとんどなかった。こんなに穏やかな旅は久しぶりである。ここ半年は台風に脅かされ,最近2回は続けて荒天に翻弄されただけに,少しくらい風があっただけでも「このまま明日はホントに大丈夫か!?」と思ったりしてしまったが,座間味島でちょっと雨にたたられたものの,17時10分,無事に泊港へ到着する。ま,それが当たり前なのではあるが。
“とまりん”でコインロッカーから荷物を取り出して,このままタクって空港へ…と思ったが,時間がまだ少しあるので,もう一つ“アレ”を見ておきたい。なので,歩いて南に向かうことにする。初めは国道58号線を通り,そのうち1本海寄りの路地を入る。いつのまにか,周囲は歓楽街のようになっていた。まだ店は客引きの時間ではないようだが,その代わりに少し道が広いからか,タクシーが客引きのごとく通り過ぎていく。融通が効く点で便利は便利なのだが,時々ウザくなってくる。
そして,見ておきたい“アレ”がある場所に着いた。場所は「大典寺」という浄土真宗本願寺派の寺院にある。本堂はクリーム色をした築地本願寺の本堂に似たような新しい建物だ。どうやら,まだ建立して2年ほどしか経っていないらしいが,これが目当てではない。私が見たいそれは……まあ,こうやってもったいぶって書くのは不謹慎なのかもしれないが,第2次世界大戦時で“積徳学徒”として活動した「積徳高等女学校」の慰霊碑である。1945年3月末,第24師団に従軍看護婦として生徒25人が配属され,戦況の悪化とともに南部を点々としていったのだが,その避難壕の一つであった糸洲壕(ウッカーガマ)は,この1月に訪れている(「沖縄はじっこ旅V」第9回参照)。
さて,肝心の碑は正門を入ってすぐ右側,ヤシの木などの南国の樹木の下に建っていた。バックに浄土真宗…いや,もっと単純に寺があるからだろう,かなり荘厳で立派な石碑である。ちなみに,想像がつくと思うが,積徳高等女学校とはこの大典寺が子女教育の一環で創設したものだ。第2次世界大戦ですべてを焼失してしまったのだが,この石碑だけが,かつてここに積徳高等女学校があったことを証明しているというわけだ。
もっとも,それを知っていたところで訪れる“部外者”はほとんどいないだろう。そして,こんな17時半過ぎになって訪れる人間ともなれば,なおさらいないことであろう。時間帯を差し引いても,幹線道路に近いにもかかわらず,周囲がこんなにもシーンとしているのが何よりの証拠である。それでも今から60年前,この駄文を書き終わった3月20日過ぎ,この付近だけでなく沖縄一帯で戦争にかかわる騒動が起こり出していたことは,紛れもない事実なのである。(「沖縄卒業旅」おわり)

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