サニーサイド・ダークサイドU

@懐かしきレストラン
再び来た道を戻り,阿波連集落を見下ろす,山の上のとあるカーブで車を停めて,対岸の展望台とはまた違うであろう景色を見てみる。左に弧を描く海岸線の向こうには東屋と小高い山も見える。誰も後ろからも前からも来ない。とっておきの場所と言っては大げさだろうが,穴場的スポットだろう。そして,ちょうど真下では十数人の男女が輪になっている。一体,彼らはこれから何をしようとしているのだろうか。まさか,この炎天下で古典的にハンカチ落としか,はたまたどっかの××……。
ところで蛇足であるが,この渡嘉敷島の沖に“シブガキ島”という島があるのをご存知だろうか。あの「トリビアの泉」でも紹介していたし,最近「はなまるマーケット」で布川敏和氏がゲストで出たときも話題になった。島名と布川氏の名前で分かったであろうが,伝説のアイドルグループ・シブガキ隊が解散記念として,その島に渡ってセレモニーだかをやって,3人の胸像まで造ったのだ。
……と,ここまでは美談なのであるが,上記「トリビアの泉」では,その後十数年経過して,嵐やら何やらで頭が吹っ飛んでボロボロになり,中の空洞が露になった胸像が紹介されていた。さらに「はなまるマーケット」では,布川氏が最近自ら島に乗り込んで,ボロボロになった胸像を修理してきたなんてのもやっていたが,どうにも形にはなっていなかったようだ。
その島とは,位置的には今いる阿波連の沖1kmにある島だそうだ。名前は「ハナリ(“離れ”の意)」としかないが,ダイビングスポットにもなっていて,阿波連ビーチからシーフレンドが船を出しているようである。機会があったらボロボロになったシブガキ隊の胸像を見て,過ぎた年月の長さを噛み締めてみるのもよかろう(どこかじゃ)。島には沖縄戦の跡である大砲の弾なんかもころがっているらしい。あるいはサンゴの欠片かと思ったら人の骨なんかも見つかったりして。
さて,あいかわらず水着姿の男女が多い阿波連集落を通過して,次に向かうべきは渡嘉志久集落である。再び山道を登ること数分,その渡嘉志久集落への分岐点の少し前で,行きには見つけることができなかったが,左にコンクリートのデザイナーズハウスみたいな洒落た建物を発見する。決してバカでかい豪邸という感じではないが,ハイセンスな建物である。ガーデニングらしき赤いハイビスカスが,建物にいいアクセントを与えている。
鬱蒼とした森には似つかわしくない(失礼)その建物が気になったので,何気に見てみると,門の表札には「灰谷健次郎」の文字。あの作家の灰谷健次郎……といっても,私は名前しか知らない重ねて失礼なヤツなのであるが,どうやら10年ほど前からこの渡嘉敷島に拠点を移しているとのこと。また,ピースボートと一緒になって島内ツアーなんかもやっているらしい。
分岐点を左折して,一路坂を下っていく。走ること1分ほどで,画一デザインの村営アパートと,レンガ色の「とかしくマリンビレッジ」の建物。なんだ,集落といってもこの二つだけのようだ。そして,防風林のような緑の向こうに見える白砂の海岸こそ,渡嘉志久ビーチである。とりあえず,緑に沿って伸びている道の端にある駐車場に車を停める。阿波連ビーチに比べれば実に整備されていると思うが,車の数がこれまたとっても少なかったりもする。
ま,そんなことはどーでもいいとして,ひとまず緑の中の小道を通り抜けて,ビーチへ入る。阿波連ビーチと同じかむしろやや大きいくらいのビーチだが,人数は阿波連の半分くらいしかいない。ゴミゴミしていないからいい。もっとも,店なんかはまったくない。それこそ,とかしくマリンビレッジ内のレストランで食べるか,あるいは適当に作ってもらうしかないだろう。あるいは島外から持ち込むか……いずれにせよ,何もないごくごくシンプルなビーチである。砂はかなり白い。あまりに白くて人工じゃないかと思うくらいに白い。波打ち際はさすがに水にさらされてベージュ色が少し濃くなっているが,かえってそれとの差が際立ってしまうくらいだ。
そばには山から小さい川が流れ込んでいるようだが,波打ち際数m前で砂に染み込んで流れを止めてしまっている。阿波連ビーチでは,こんなささやかな光景も,目の前に広がる砂浜も,余裕をもって眺めてなんぞいられない。そのそばではチョコボール向井氏みたいな肌の色と体つきをした男性が,大の字になって仰向けに寝そべっている。ホントに私もそんな格好でリラックスしたくなってくる。それくらい静かである。ここも『厳選 沖縄ビーチガイド』に紹介されているが,私は迷わずこっちであろう。南端のウラビーチ(前回参照)も,このビーチも,惹きつけるのは静けさと何もないシンプルさである。
これにて阿波連・渡嘉志久両集落は見終わった。後は渡嘉敷集落に戻るのみ……といったところだが,渡嘉敷集落よりも北側がまだ未踏である。行きとは違う一方通行の道(前回参照)を進み,シーフレンドの建物を一度通過すると,再び上り坂になる。こちらは阿波連に行くとき以上に坂道が急である。一体どんだけの勾配があるのだろうって感じだ。どんなにアクセルを踏んでも踏み足りないくらいにスピードが出ない。下手をしたら後ろに下っていってしまう感覚すら覚える。

その坂の途中に「白玉之塔」というのがあるので寄ってみる。3〜4mの高さの白い角柱の碑が立っている。後ろには戦没者名が書かれている。その隣には「女性の像」という人形が,祠の形をしたショーケースみたいな中に納められている。ここは,さる沖縄戦の最中,この渡嘉敷島で起こった集団自決の犠牲者らを弔うための塔である。
――1945年3月。沖縄戦に備えて結成された沖縄守備軍(以下「守備軍」)は,いよいよ迫ってくる米軍が,まず沖縄本島の南部から上陸してくると踏んでいた。守備軍は当時,七つの海上特攻戦隊を持っており,座間味島に一つ,阿嘉(あか)・慶留間(げるま)島に一つ(二つの島は隣接していて,現在橋で結ばれている),そして渡嘉敷島に一つを置いた。残りの四つは本島南部に移して,米軍が本島上陸をした際に迎え撃つ形にした。離島に置かれた三つの隊は海上から参戦することになって,いわば“挟み撃ち”をする手はずになっていた。
ところがどっこい,そのウラをかく形で,米軍はまず沖縄での戦いの第一歩を,この慶良間諸島上陸から始めることにしたのだ。軍事評論家ではないので詳しくは分からないが,位置的に沖縄本島上陸作戦の補給基地として有効活用でき,また,島々が点在していて湾内が穏やかであるこの地形は,艦船を停泊させておくには格好の場所だったのだという。
同年3月23日。まずは,この慶良間で自分たちの陣地を確保するべく,米軍は数百の艦艇で慶良間諸島に爆撃を行った。対する守備軍の海上戦隊はというと,数的には圧倒的に不利。加えてその特攻艇は何とベニヤ板でできた粗末なものだったという。結果的に,特攻艇は自ら海に沈めるか,米軍に捕獲されてしまう始末となる。それでも,空軍も加わって空と海から攻撃はしかけたものの,大してダメージは与えず,あっさりと米軍の慶良間上陸を許すことになる。同年3月26日には座間味の阿嘉(あか)島へ,そして翌27日には渡嘉敷島にも上陸することとなったのである。
さて,ここからは渡嘉敷島での話。米軍の上陸を許した守備軍と渡嘉敷島民。元々は海上での任務が専門ゆえ,陸上での戦闘は不得手ということで,途中でやられてしまうか,あるいは一緒くたになって山の中に逃げこむしかなかった。そんな中で米軍による容赦ない攻撃は続き,やがて島の北端にある北山(きたやま。あるいは「にしやま」ともいう)に追い詰められた彼らは,パニック状態に陥ったあげく,翌28日に集団自決をしてしまった。その数は329人と言われている。そして,米軍の渡嘉敷島完全制圧は,翌29日になされることになる。
その後,同年8月19日に島内に駐屯していた部隊が降伏して武装解除するまで,生き残った島民は,食べるものもままならないまま,米軍に見つからないように身を潜めて暮らすことを余儀なくされる。近くに生えているソテツなり野草なりを採りに行く――もちろん,食用にするためである――途中に,米軍が埋めた地雷で亡くなるという事故もあったそうだ。また,同年5月には伊江島からの集団疎開があって,やっとこさ戻ってきたら,その伊江島民が残った家に住みついていたなんてこともあったそうだ(ちなみに伊江島からの疎開者は,翌1946年5月に沖縄本島北部に移動させられ,翌々年に伊江島に戻ることになる。「サニーサイド・ダークサイド」第6回参照)。
――話を戻そう。集団自決から丸6年。ちょうど7回忌に当たる1951年3月28日,その集団自決が起こった場所にこの白玉之塔が建てられて,合同慰霊祭が行われた。その後,米軍に土地を接収されてしまったために,今の位置に移動したという。日本将兵76柱,軍人軍属87柱,防衛隊41柱,そして渡嘉敷島民368柱分が祭られていて,今でも毎年3月28日には慰霊祭が催されている。
白玉之塔を後にする。ちなみに,その隣は大きな救急用ヘリポートになっているが,その壁の斜面に山羊がつながれていたのが,何とものどかで……なんて話はどうでもいいとして,さらに勾配のきつい坂を上がっていくと「国立沖縄青年の家」という表示。その門には,17時過ぎだかに閉まってしまう云々と書かれているが,別に警備員がいるわけでもない。誰かが見ているわけでもない。で,もちろんそんなに長居をするつもりもないので,このまま入ってしまおう。
中は典型的な研修施設である。もちろん,目的は青少年育成。宿泊棟やら体育館やら野球グランドやら,いろんな建物なり施設が大きな敷地内に点々としている。そんな中を通り抜けると「→東展望台」「→集団自決之地」などという看板が出てきた。なるほど,こっちのほうにあったのか。とりあえず道を急ぐ。
敷地内に入って数分,多少はなだらかでも,自転車ではとてもキツイ上り坂を走ること数分,その道が途切れるところにあるの東展望台だ。芝生が整えられたその場所からは,北側にある離島・儀志布(ぎしっぷ)島や,無人島だったのが,最近夫婦が移り住んでいることが分かったという前島(まえしま。「管理人のひとりごと」Part11参照)などが見渡せる場所である。人気はまったくないし,波は実に穏やかである。
そして,その手前に左に分かれる道があって,奥にあるのが「集団自決の地」である。目の前の門は閉ざされていて,向こうに行くことができないが,見える限りでは草地になっていて,50mほど先だろうか,ベージュ色の石碑と脇に説明板があるようだ。上記3月28日の夕方,上陸した米軍兵たちは,その付近で何回とない爆裂音に続いて,人のうめき声がするのを聞いた。翌朝その付近に行ってみると,瀕死の重傷を負っている島人の脇に,150人以上の遺体が散乱していたという。
そのような,当事者にとって忌々しくもまた絶対忘れられない場所へは,私のような半分好奇心で来ている人間には入らせないということだろう。いまでも少し荒れた感じがあるが,そのときはもっといま以上に草木がボウボウに生い茂って荒れ放題だったに違いない。とりあえず,門越しに手は合わせておくことにする。それにしても,この地に立てた石碑を動かす羽目にしたという米軍の土地接取というのは,改めてどういう神経をしているのだろうかと思わせてしまう。

@懐かしきレストラン
結局,シーフレンドには15時半に戻る。カウンターで応対してくれた若い女性(前回参照)にカギを返すと,彼女は「距離を確認してきますので,ちょっとお待ちください」と外に出た。この島にはガソリンスタンドという施設はない。よって,走行距離でガソリン代を別途徴収するわけである。一瞬「ついていきゃよかったか」と思ったが,こんな島で“偽り”を起こす必然性もないだろう。
しばらくすると彼女は戻ってきて,計算機をカチャカチャと叩き出す。ふと,ここでもらった地図で確認したら,「50kmまで600円,以降25kmごとに300円」と書かれている。ふーん,いまさら計算するものなのかねー。どう考えても,この島でたかだか2時間半で50km以上も走れやしないのに……と思っていたら,案の定,税込で630円であった。ほら,やっぱり。
さて,ここからは集落内散策になるわけだが,まずはこの建物の中にある歴史民俗資料館に入る。ちょうどシーフレンドとは廊下をはさんで反対側にある。扉を開くと右側に机があり,80歳くらいのオジイが座っている。中ではこれまた甲子園予選のラジオが聞こえている。広さは「どこにでもある小中学校の教室くらいの大きさ」といったところだ。入場料100円を払う。
で,展示物はというと,およそは想像がつくものばかりであるが,昔の農耕具とか,教育勅語とか,はたまた昔はカツオ漁で栄えていたというが,そのころの工場の模型とか……その中でも,圧倒的な存在感があるのはザトウクジラの標本である。幼獣だそうだが,それでも全長5.7m,体重は1tだという。顔と胴体と胸びれの骨格がひもで天井から吊るされているが,後ろにそのザトウクジラのハリボテが飾られていなければ,バカデかい始祖鳥かと思ってしまう。
このクジラは,1998年3月2日,阿波連ビーチ付近に迷い込んでいたところを発見され,一度は漁師たちの誘導で海に戻ったという。しかし,結局同月21日,その阿波連ビーチからいくらも離れていない無人島の海岸で,死体となって打ち上げられたそうだ。後で分かったことは,戻されて間もなく死んでしまったであろうことと,耳から寄生虫が入り込んでしまったために,方向感覚がなくなってしまったのでは,ということだ。その後,解体されて砂に埋められ,現在の標本を作るに至ったという。砂に埋めているときの写真が標本の脇に掲げられている。
建物の外に出る。海から山側に向かって見る景色は,特に沖縄っぽい感じはない。どこにでもある田舎の風景だ。そんな中,太鼓の音が聞こえてくる。そばの渡嘉敷小・中学校からであろう。毎年7月,「とかしき祭り」というのが行われるそうで,今年はさる7月23日(金)〜24日(土)だったようだ。このうち,23日には太鼓フェスティバルがあって,沖縄で有名な舞踊“エイサー”が踊られたようだ。おそらくは,それのリハーサルでもやっていたのであろう。
その学校の壁には“村興し隊”による魚の絵が描かれている。そういや,阿波連の集落にも小学校があったが,ここにも壁画が描かれていた。卒業記念か何かであろうか。島内には小・中学校しかないから,高校生になると島外に出ることになる。あるいは一度出て行った人間が大人になって戻ってきて描いたのか……それにしちゃ子どもっぽい絵だから,やっぱり卒業記念だろうか。
集落に入っていく。先ほどの二股のうち,人間じゃないとできないからってわけじゃないが,逆走ならぬ“逆歩”で進む。車だと通り過ぎてしまう集落も,歩いてみると結構な発見があるわけで……なんて,どこかで書いたような気がするが,まあいい。集落の建物のほとんどはコンクリートの平屋建て。石垣も普通のプロック塀である。
少し進んでいくと,ちょっと広い平屋建て。看板を見ると,どうやら床屋と美容室を兼ねているようだ。中には3人くらいが座れる待合ソファと,洗面台がついたイスと,パーマ当て機が置かれている。日曜日というのに閉まっているが,営業時間は毎週水曜日の8時〜20時とある。まあ,床屋に行くといえば,せいぜい月に1回くらい。何も毎日営業する必要はない。ある意味合理的である。
でも,中年男性と子どもとお年よりはそれでいいとして,問題は島に住みついた若い女性だろう。あるいは若い男性もそうかもしれぬ。この素朴な限りの島で,何をカッコつける必要もないだろうが,やはりオシャレくらいはしたいであろう。ただ,この設備ではたしていまどきの髪型ができる人間がいるのか微妙だ。多分,中年のおじさんかもっと年配のオジイあたりが1人で切り盛りしているのではないだろうか。でもって,できるパーマはせいぜいアフロとパンチパーマとか……。
多分,彼女・彼らははるばる高速船を使って,那覇市辺りのお気に入りの美容室で整えてもらうのではなかろうかと想像する。往復運賃にセット代と食事代を入れれば,余裕で“1本”行ってしまうだろうが,“いろいろな意味”でそうめったに島の外に出られるわけでもないだろうから,そのくらい平気だったりするんじゃないだろうか。無論,想像の域ではあるが。

さらに奥へ入ると,JA渡嘉敷の建物。築数十年の平屋建ての建物である。中は10m四方くらいの大きさであるが,少し薄暗い。生活雑貨が一通り棚に陳列されているが,端っこでは銀行業務も兼ねている。仕切っているガラス窓と木の枠が,いかにもノスタルジックである。窓の脇にはいろいろな申込書も置かれている。窓口の営業時間は8時半から16時までで,為替は14時まで。時間は短いだろうが,おそらく土日祭日とか関係なくやっているだろうから,それなりに便利なものなのだろう。ただし,何気にレジも兼ねていたりして,地元のおじさんが何かを買っているようだった。
ちらほらと置かれているものの値段を見てみる。トイレットペーパー1袋(12ロール)238円,タバコ1個270〜280円,ウーロン茶1本(2l,伊藤園)238円……客が数人いて,あまりジロジロ見られなかったが,トイレットペーパーは本土と大して変わらないのではないのか。タバコは…吸わないから分からないが,少し高いような気がする。ウーロン茶は銘柄にもよるだろうが,少し高いか。でも,いずれも思いのほかべラボーに高いという印象はない。那覇から近い立地だからか。
――蛇足だが,港の近くには「新浜(にいはま)屋」というコンビニもある。JAとは対照的な白を基調とした明るい建物であるが,こっちではガキどもがたむろっていた。JAはさすがに敷居が高い…というか,薄暗くて行く気がしないか。この新浜屋ではトイレを借りた。で,ついでに陳列されているものも見たが,心なしか品数が豊富でキレイに見えてしまうのは,店内の明るさだろうか。ちらっと見た限りでは,80分のMDが400円だったが,東京のコンビニの1割増しくらいか。ただし,ペットボトルの飲料は,本土とさして変わらなかったと思う。
さて,ここで少し話が前後するが,とりあえず集落の一番奥に位置する「根元(ねもと)家石垣」と「渡嘉敷神社」も見た。前者は村指定の有形文化財で,高さ3m×長さは10mほどか。石の一つ一つは結構大きくて,形もまばらなのだが,それらを巧みに組み合わせて,上は美しい直線を描いている。石垣の中の敷地にある家は空家であるが,それを隠すためのヒンプンもまた鮮やかな直線である。脇には祭壇がある。あるいは御嶽になっているのだろうか。この“根元”とは屋号であり,中国に朝貢貿易(「進貢」という)をしていた琉球王朝時代に,船頭役を務めていて繁栄したとされる。そのときの,いわば“シンボル”がこの石垣なのだ。積み上げる技術も相当だろうから,それに対して払った対価もかなりのものだろうというわけだ。
後者の神社は,その近くにある,これまた御嶽っぽい造りだ。一応,入口には鳥居があり,境内には香炉が7つある。それ以外には何もない素朴な限りである。屋根は現在はコンクリートっぽい感じがするが,元々は萱葺きの屋根で,位置もまたズレていたらしい。入口にある鳥居は,1937年に南方漁業に出稼ぎに行った人たちが寄進して作られたものとのこと。境内に奉られているのは,この一体の歴代の祝女とのことである。戦前には出征兵士の祈願や儀式や結婚式なども,祝女(ノロ)が行っていたそうだ。これもまた「神前式」である。
この神社の後ろは,鬱蒼とした森になっているが,これは「クミチジ山」という。標高はたった37mしかないが,この集落にとって聖地とされている。昔は祝女しか立ち入ることができず,島で最大の祭りである種取祭のときには山の頂上で“最も秘儀的な神遊び”を行ったらしい。さらには,この集落の始祖が降り立って住みついた場所ともされているそうだ。
集落の端っこまで行って,今度は一方通行をこれまた逆に行く,すなわち北上して港に戻ろうと思ったが,1本道をズレる。すると,これまた御嶽らしいスペースが現れる。広さは5〜6m四方で,大きな木陰の下に位置している。その一番奥には高さ1.6m×幅50cmくらいの祠があって,香炉も置かれている。そして,なぜか稲が置かれているが,これって豊穣祈願だろうか。名前は分からないが,間違いなく地元民専用の御嶽であろう。
さらに北上していくと,「ジョイフルちんぐし」という建物。2階建てでメゾネット方式のアパート……と思ったら,どうも民宿のようである。失礼ながら,名前の割に意外な使われ方しているものだ。塗装も結構はげていて,やっぱり築数十年なのだろうか。近くには郵便局や保健所・診療所があり,上記JA渡嘉敷も近い。一応ここいらが村の“中枢”といったところだろうか。

そして,そのJA渡嘉敷の隣に建つのは渡嘉敷村役場だ。2階建てだが,これまた築数十年といった年季の入った建物。「うちの近くの公民館は,これよりもずっと立派だ」なんて思ってしまうような感じだ。ちなみに,この建物に入っているのは村長室と総務課,民生課,2階は議場だという。経済課と建設課というのもあるが,こちらは少し離れたところにある空地の一角にちっぽけなプレハブの建物といった状況。うーん,さすがに村長をプレハブに追いやるわけにはいかないだろうが,建増しとか新築にする余裕もないのだろう。村役場の組織図を見ると,一つの課にはかなりの係があるが,職員は65人。あるいは二つ三つ兼務なんて感じだろうか。
この建物は,あるいは「那覇市渡嘉敷支所」ってことになるはずだったのだろうか。さる6月16日,渡嘉敷村議会は,那覇市との合併法定協議会設置の議案を賛成少数――といっても,議会のメンバーが8人で,うち3人が賛成,4人が反対,1人はどうしたのだろうか――で否決した。細かいことは“専門家”に分析いただくとして,那覇市としては,自然が豊かなこの離島との合併に新たな合併の形を見い出していたが,渡嘉敷村としては,あまりメリットのある合併には映らなかったようだ。
このご時世ゆえ,現実路線を取るのはやむを得ないだろうが,つくづく離島は離島のままでいいじゃないかと思ってしまう。“那覇”といえば国際通り,首里,牧志公設市場……でも,決して渡嘉敷というイメージは浮かびにくいと思う。離島はその地理的な理由から好き嫌いが分かれるだろうが,逆にいえば好きな人はホントに惚れ込んで島に入ってくるのではなかろうか。「市」という傘の下に入ったら入ったで,それなりにメリットもあるのだろうが,海を隔てた一定の距離があり「村」であるからこそ,カッコをつければ「渡嘉敷」という“アイデンティティ足り得る”のではなかろうか。
ちなみに,島の人口は多少の増減はあるものの,ほぼ横ばいである。もちろん,出ていく人間もいるのだろうが,逆に言えば入ってくる人間もいるということだろう。例えばシーフレンドのホームページでスタッフの出身地なんかを眺めると,のきなみ本土である。島に住みついた若者だけをピックアップしたら,案外地元出身者は少ないかもしれない。
その彼らは別に,この村がいずれ“那覇市”になることを見越して来たわけではあるまい。あくまでこの島が好きだから来ているのである。行政区分なんてどーでもいい。自然が海が悪い方向に行かなければいい。この島に“不便さ”“不満”を感じ出したときは,すなわち島から離れるときであろう。仮に那覇市になったとして,彼らは何を思うのだろうか。無論,市になったその瞬間に劇的に変化があるわけでないが,彼らは特に何も思わないはずだ。……いや,あえてこう書けば「村だって別にいい」のである。
「足るを知る」という言葉があるが,この島がいまの状況のままで,必要以上に開発とかされなければそれでいいのではないか。そのありのままの状況に惚れ込んでいるのだし,それこそ「あばたもえくぼ」ではないけれど,それは“表裏一体”にある不便さも含めて,すべて受け入れているからこそであると思う。…そういや,先述の根元家石垣のそばの路地では,小さな木陰でオバア数人がおしゃべりしていたが,これまた実にのどかであった。そんな彼女らもまた「すべてを受け入れてこの村に住んでいる」人たちなのだろう。こういう人たちが島から1人たりともいなくならない限りは,行政区分なんてどーでもいいんじゃないかと思ってしまうのである。
――こうして,渡嘉敷港には16時半に戻る。高速船の出航までは1時間あるが,しばし“新ターミナル”になる待合室でテレビでも観ることにする。200席くらいはある広さだ。初めはガラーンとして誰もいなかったが,やがてあちこちから人が入り込んできた。テレビでは「歌の大辞テン」をやっていて,結局全部観てしまったのだが,放送終了後に「しばらくお休みします」なんてスーパーが出た。
そういや,沖縄出身の人気バンド・ORANGE RANGEのメンバーがいつかこの番組で,作品のリリースから数カ月後にテレビが放映されたと話していた。「グータン」(前回参照)はフジテレビ系列で,これは沖縄でも主要な放送局となっているが,日本テレビ系列はそうじゃないから,結果として「しばらくお休みします」となるのだろうか。ちなみに,その代わりに放送されるのは「エンタの神様」のようである。あるいは,波田陽区やハローケイスケもまた,こっちでは数カ月遅れなのだろう。でも,そんな流行すたりなんて,この島に惚れ込んだ者にとっちゃどーでもいいこと……だと思うのだが。

(1)シムクガマへ
泊港行きの高速船は,行きよりも少し多い人数を乗せて定刻に出航。行きと同様に“バッ”という音を立てては,大きく揺れる。この時期にはさすがにいないだろうが,高速船の通り道はまた,クジラたちの通り道でもある。あるいは,ゴールデンウィークに与那国・波照間などとともに,この島に来ていれば……ま,5月でもさすがにいないか。
船内は実に静かだ。先頭にあるテレビで,大相撲の千秋楽で朝昇龍関が優勝したのを見届けると,もうひたすら寝るって感じであろう。順調に那覇へ向かって進み,本島の影がはっきり見えた頃には,今度はジェンキンス氏・曽我ひとみさん一家の日本帰国の中継がテレビで放映される(「管理人のひとりごと」Part15参照)。ちょうど家族4人が羽田の地を踏んだあたりで,我々の乗った船も泊港に到着する。この後20時40分の飛行機で帰京したわけだが,これの影響が出ることはなかった。
泊港の桟橋は人でごった返している。道に出ると,タクシーの待ち場所があって,少しずつ人が並び出しているが,なになにタクシーもかなりの台数があるから,すんなり乗れそうである。締めはやっぱり国際通りである。ここから歩いて15分もあれば行けそうだが,行きに乗ってきたタクシー(第4回参照)の快適さがよみがえり,再びここでもタクることになった。
本来行きたかった場所は,国際通りと沖映通りとの交差点である「むつみ橋」だったのだが,その名前が思い付かず,テキトーに近くにある三越の名前をいうと,運ちゃんはスイスイと裏道を入っていった。大通りでは車が大分混雑しつつあるが,裏道はまったくガラガラであり,タクシーの運転のし甲斐があるというもの。ハイサホイサと車は進んで行き,「裏口で停めますねー」と言われて,ホントに三越の裏側で停車する。ここまで時間にしてわずか5分。900円近く取られたが,汗だくで時間をかけて来るのに比べれば安いものである。
さて,国際通りに半日ぶりに戻ってきた私。あいかわらず店が多くて目移りしてしまうのであるが,再び南下して今回は何となくインスピレーションで「牛屋(ぎゅうや)」という店に入る。これまた前から気にはなっていた店だ。国際通り沿いにあって,黒やこげ茶をベースにした重厚な(に見える?)造りの建物は,いかにもって感じである。その名の通り牛肉がメインの店のようだが,沖縄料理もいろいろとあるようだ。
中に入ると,カウンター席が5〜6席と,テーブル席が10席ほどあるが,私は1人なのでカウンター席である。カウンター越しに厨房と隣接しており,串焼き類を焼く七輪が見える。また,大小さまざまの泡盛を入れる壷が陳列されている。演出はバッチリである。しかし,私の上にはハダカ電球が煌煌と輝く。うーん,クーラーは効いていても,これでは汗が出てしまう。
この店で頼んだのは,まず飲み物として「ゆがふ」(504円)という泡盛とカルピスベースのカクテル。ジョッキにパイナップルのカットが添えられて出てくる。味はそのままだ。私は酒の味がよく分からない人間なので,こんなことを言ってしまうのだが,泡盛のカクテルってやつはウォッカペースのカクテルと似たような味がする。二つとも蒸留酒である点と,アルコール度数が高い点は共通。ウォッカの原料は麦とかトウモロコシ,対して泡盛はタイ米。この差は素人にはよく分からないが,勝手に“遠い親戚”くらいにはなるんじゃないかと思ってしまう。
食べ物は四つ。@石垣牛のたたき(787円),A島豆腐の酒盗添え(430円),Bグルクンの唐揚げ(714円),Cクファジューシー(473円)。これに先付でジーマミ豆腐がつく。ジーマミ豆腐は,ご存知ピーナツ豆腐である。そして,@は肉が8切れ。あさつきが乗っかっていて,しょうが&にんにく醤油で食べる。うーん,普通の牛たたきだ。石垣牛だなんてこれっぽっちも感じない。店側としては有り難くない客であろう。Aは3〜4cm角の木綿豆腐にカツオの酒盗が乗ったもの。泡盛と合わせるとジャストミートだろうが,いささかカクテルではミスマッチだ。酒盗がかなり塩辛く,これで淡泊な豆腐の味を十分補っている。
この二つを「ゆがふ」と一緒に頼んだが,どうにも物足りなくて頼んだのがBとC。Bはごくごくスタンダードな唐揚げ。グルクンではあるが,思いっきり“エビ反り”したやつをポン酢につけて,もちろん頭からガブリ,である。うーん,やっぱりこの魚にはハズレがない。Cは“クファ”が何を意味するのかを知りたかったのだが,若いウエイターに「この“クファジューシー”って何ですか?」と尋ねたら,返ってきた答えは「炊き込みご飯です」。そりゃジューシーが炊き込みご飯だってことぐらい,とっくのとうに知っている。問題は“クファ”が何を意味するのかである。
うーん,1人ではたいして金にならないから,扱いがそんなにも淡泊なのだろうか。後から入ってきて,やはりカウンター席に座った私と同世代のTシャツを着た男性2人組は,さんざんメニューを見たあげく,石垣牛のステーキとライスなんてのしか頼まなかった。酒すら頼んでいなかったから,もちろん私よりは金はかからないはずである。そいつらに比べれば,私は上等な客のはずだ。ひょっとして,それ以前に客の数よりも従業員の数のほうが多かったから,接客のモチベーションが上がらなかったのだろうか。
で,出てきたのは……やっぱり炊き込みご飯だった。それも,こぶとしいたけと肉の欠片とニンジンとあさつきが入ったごくごくスタンダードなもの。ちなみに後で調べたら,漢字で書くと「硬(クファ)ジューシー」となる。しかも「硬(クファ)」はつけないで,単に「ジューシー」という場合もあるという。まったく,ウエイターの言うとおりだったではないか。これにはたくわんが2切れ乗っかってきた。でもって食べたら……やっぱり普通の炊き込みご飯であった。(「サニーサイド・ダークサイドU」おわり)
 
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