沖縄卒業旅(第5回)

やがて,高速船は大きな緑の島影を左に見ることになる。渡嘉敷島である。前回も書いたが,座間味島に行く道中にあるのに,どうして「座間味島―渡嘉敷島」という船便がないのだろうか。『沖縄の島へ全部行ってみたサー』(「参考文献一覧」参照)では,著者が渡嘉敷島(「サニーサイド・ダークサイドU」第5回第6回参照)に訪れたとき,「(島の西部にある)阿波連ビーチに浮いていれば,(渡嘉敷島の西にある)座間味島に行ける」と旅先で知り合った人に言われたことが書かれているが,ホントにそのほうがよっぽど早いんじゃないかと思えてしまう。
そうそう,このあたりはクジラがやってくる場所である。あわよくば,どこか道中で見られるかと期待してみたが,それは叶わなかった。まあ,高速船のエンジンの音には警戒するだろうから,間違っても近くには寄ってこないであろうとは思っていたので,それならばはるか遠くでジャンプの一つでも…と思ったが,まあ所詮は「期待したから裏切られた」のかもしれない。向こうさんだって,我々のためにこの場所にやってくるわけでもなければ,ましてやジャンプするわけでもないのだ。
そのうち,渡嘉敷島が次第に離れていくと,左にまた別の島が見えてきた。私がまず行く予定の阿嘉島である。しかし,高速船は一旦その阿嘉島を通り過ぎ,右手にこれまた見えてきた緑の島影に向かっていく。こちらが座間味島である。左右に広がる山並みの島の真ん中にまとまって建物が建っていて,そこが座間味島兼座間味村の中心部となっている。クイーン座間味は,この座間味島にまず寄ってから次に阿嘉島に行き,そのまま那覇へ戻る。さしずめ“循環バス”っぽいルートだが,“座間味村籍”の船であろうに,起点が那覇というのが不思議ではある。当然というか,座間味島から那覇へ帰りたい人間は,阿嘉島までは私と一緒に乗船することになるわけだ。
さて,座間味港に入港しようとしたとき,たまたま2隻の茶色い小船とすれ違った。いずれも14〜15人は乗っていて,青いライフジャケットをまとっていた。レガッタ風で「4号」という旗を掲げている。沖縄で「ハーレー」と呼ばれる海上レースの練習かと思ったが,夏の風物詩といわれる催しを今から練習するのだろうか。あるいは,毎年4月に座間味で行われている「浜下り(はまうり)」と呼ばれる催しの練習か。ちなみに,後者はボートを数隻ロープでつないで港内パレードをする行事だそうだが,時期的にいうと後者になるのだろうか。
9時50分,座間味港に到着。私と前方に乗っていたオジさんをのぞいて,すべての乗客が下船。対して,乗ったのは数人。まだ,この時間はさすがに帰るための時間ではないのだ。紺碧の海は,大きな島に囲まれていることもあって実に穏やかである。その穏やかさのまま,10分後に予定通り出航。やがて惰性のようなスピードで進んで,10時10分,阿嘉港に入港。デカいアーチ橋が目の前に広がるが,隣の慶留間(げるま)島とを結ぶ阿嘉大橋である。

(5)阿嘉島へ
阿嘉港ターミナルは,おおよそ小さい島には似つかわしくない鉄筋コンクリートの立派なものだ。まだ建ててそれほど時間は経っていないであろう。とりあえずは,その中にあるチケット売場に入ると,中はインテリアのほとんどない素っ気無いスペースだった。そこに日テレアナウンサー(だった)町亞聖嬢に似た,目鼻だちの整った女性が1人だけいる。
誰か先に客がいたが,その客の応対が終わると早速,11時45分発・フェリー座間味の「阿嘉―座間味」のチケットを買おうとした。しかし「すいません。高速船は隣の窓口になっていまして……ただ,いま担当の者が高速船のほうに行って作業していますので」と言われてしまった。見れば,なるほど荷下ろししている女性の姿が見える。彼女が高速船の窓口担当なのだろう。
そして,亞聖似の女性の隣にはその“別の窓口”らしきスペースがある。ちなみに,私が乗ろうとしているフェリー座間味とは別に,村内の「阿嘉島―座間味島」だけを結ぶ村内フェリーが,1日4便出ている。彼女はこの村内フェリーの窓口担当のようだ。実は15分後ろにずらして,正午にその村内フェリーが座間味島に向かって出るのだが,今日のメインはどっちかといえば座間味に置いている。でも,かといって,6時間余りもいるほどじゃないと思っていたので,誠に失礼と思いつつも,“軽ーく阿嘉島に寄ってみた”次第である。実質1時間ちょいの滞在で,見られるものなどたかが知れているし,これまた失礼な話だが,そもそもこの島に大した見所だってないであろう。フツーの集落であろうことくらい想像できる。そうとなれば,たった15分といえど,結果的には“されど15分”になるかもしれない。なので当初の予定通り,11時45分のフェリー座間味に乗ることにした。
女性からは「出航の15分くらい前に来てもらえれば」と言われた。すなわち,11時半までに買い求めろということだが,まあ私1人くらいどうにかなるであろうし,多分時間は確実に余るであろう。ここで待っていても,貴重な時間が無駄になるだけである。テーブルの上にあった2枚の手書きの地図を両方もらって出発することにしようか。
その手書きの地図とは,「阿嘉島・慶留間島ガイドマップ(以下「ガイドマップ」とする)」「KERAMA ISLANDS」というタイトルのものだ。前者は阿嘉島の集落の地図が細かく載っているので,なかなか使えそうだ。後者は橋でつながった2島プラス,これまた慶留間島の南にあって,橋でつながった外地島(ふかじじま)も含めた全体図となっている。外地島とは慶良間空港がある島。こちらはすべての島に行こうとするときに便利だろう。もっとも,外地島への道中はたしか,昨年9月の台風で崩壊したと聞いているが……。

とりあえずは,港の周囲にある集落へ入っていくことにする。港や阿嘉大橋などといった“玄関”こそ,立派で少々無機質な感じも受けるのだが,一歩集落の中に入ると素朴な田舎道となる。たまたま入ったところは砂の道であり,周囲はビロウなどの林となっていた。道幅は軽自動車が1台通れる程度しかない。全体的には,山林が多い中に海辺の狭いところへゴミゴミと家が集中している感じだ。
やがて,ガイドマップには鳥居の印が出てきた。そして,その場所にあったのは御嶽であった。10m四方くらいの菜の花みたいな黄色い花畑みたいな中に,赤瓦に古い石造りの社がある。中には香炉が二つと,アニメの「ムーミン」に出てくる“ニョロニョロ”みたいなシンボル石があった。赤い鳥居からのアプローチは,花に隠れて見えづらい。とりあえずテキトーに入っていって脇から出てみたが,実際ここで神事が執り行われるときは,どんな感じで出入りするのだろうか。
再び歩く。集落内では工事のトンテンカンという音がしている。納期でも迫っているのか。日曜日なのにご苦労様であるが,この静かな集落には少々“残念な音”である……そんな集落での出来事。1台の軽ワゴンが私の脇を通り過ぎる。中で運転していたのは70代以上のオジイ。ただでさえスピードは出せない中,ホント時速10kmにも満たないようなスピードでゆっくりと通り過ぎていくのだ。ギアは“ニュートラル”にしているに違いない。かえって,そんなスローなスピードではガソリンを食うのではないかとすら思ってしまう。ウンウンとモーターがうなっているのが,あたかも満足なスピードが出せずにフラストレーションがたまっているかのように聞こえた。
そして,次に出くわしたのが阿嘉幼・小・中学校だ。後ろは大きな森となっているから,ここが集落の一番奥に当たるのだろう。2階建ての校舎に50m×100mくらいの広い校庭がある。ちょうど,こちらでもガキがサッカーをしていた(第3回参照)。そして,小道をはさんでその向かいには「うるん(御殿)の木」という木が立っている。樹木の種類は“アカテツ”という木で,高さが13m,枝張が南北13m×東西17m。樹齢は400年になるそうだ。
木の向こうには,その枝よりも屋根が低い御嶽みたいな建物がある。これが“うるん”こと,御嶽である。この御嶽にあるために,樹木は大事に保存されてきて,地元では“ギヌチュ”と呼ばれてきたという。しかし,御嶽へ行くためのアプローチは,工事のオジさんたちが仕事で塞いでいるため,入ることができなかった。はて,御嶽とは勝手にいじくってはいけない神聖な場所のはずだが,行政との“癒着”判断次第では,いじくることもOKなのだろうか。
一方,校舎側のさらに奥にも気になる建物がある。港からも見えるし,およそこの島には似合わない白い鉄筋コンクリートのマンションかリゾートホテルみたいな施設だ。「阿嘉島臨海研究所/AMSL」と,建物の屋上にはある。正式名は「財団法人熱帯海洋生態研究振興財団・阿嘉島臨海研究所」と実に長い。アルファベットは,英訳した「AKASHIMA MARINE SCIENCE LABORATORY」の頭文字だ。その名の通り,この付近のサンゴや熱帯魚とかの生態を研究している場所だ。1泊5000円で宿泊もできるらしい。建物は明かりがついていて音がしているから,何やら“活動”はしているのだろう。
その敷地の隣には,コンクリートの古ぼけた屋根つきの薄暗いスペースがあった。高さも幅も奥行きも3〜4mくらいだろうか。これまた御嶽かと思ったが,中は池のような井戸のような,水がいっぱいたまった貯水場となっていた。左右は人が石を積んだような感じだが,奥は自然の岩のままだ。となれば,水が湧き出る井戸なのだろうか。ちょっと謎なスペースである。その周囲には樹木が数本生えていたが,そのうちの一つの元には拝所らしき石があった。うーん,となると御嶽なのだろうか。突き詰めていけばどこまでも謎は深まるばかりだが,埒もこれまたどこまでもあきそうにない。
再び来た道を戻る。「DIVERS INN OHSIM」「MARINE HOUSE SEASIR」などといった看板を見る。慶良間諸島は,冬はクジラだが,夏はダイバーの島となる。若い人が多く来るのだろうか,素朴ながらもどことなくシャレた雰囲気があると思った。狭い路地の一角には,荷物がたくさん押し込まれて動かなくなった軽トラックの残骸があったが,それすら“オブジェ”に見えてくる。もっとも,いまは「兵どもが夢の跡」って感じで,さしずめダイビング従事者は“冬眠状態”といった感じだろう。ちなみに,前者の看板はどーゆーわけか,かつて大ヒットした「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のロゴみたいなデザインだったが,これは著作権の問題とかには……触れるわけないか,ハハ。
のどかな午前中のアンニュイさが漂う中,島の上空を小さい飛行機が飛んでいく。方角からして久米島行きであろう。てくてくと歩いて,集落の最西端に向かうが,これまた御嶽が二つあった。一つはトタン屋根の小さい小屋で,中は畳の上がりで祭壇があったと思う。そして,前にヒンプンがあった。もう一つは,きちんとというのか,ガジュマルの木の下に赤い鳥居があって,旧正月を意識してか,しめ縄がかかっていた。社は,幅5〜6m×高さ3mほどの一軒家風。中は10畳くらいの板張りで,奥に祭壇があった。掛け軸もかかっていて,なかなか立派な造りである。
そして,いよいよ集落の最西端。結局,1kmも歩かなかったかもしれない。十字路になっていて,真っ直ぐ行くと「天城(あまぐすく)展望台」という盛り上がった岩の上の展望台に行く。その盛り上がった岩を砦に見たてて,かつては「サクバル城」というのがあったらしい。いまは岩に組み込まれるように,亀甲墓が1基あったが……そして,左に行けば阿嘉港へ戻る。右へ行けば,島の真ん中に鎮座する森の中を通って,北西の「後原(くしばる)展望台」という場所に行く。
うーん,せっかくだから天城展望台に行こうかと思ったが,歩いて片道15分かかるようだから,往復で30分。フェリーの時刻を考えて,ここはやめとくことにして阿嘉港に戻る。ちなみに,この阿嘉島と慶留間島には天然記念物の“ケラマジカ”という鹿がいるようで,あるいは右折して森の中に入れば見られたかもしれないし,あるいは天城展望台に行く途中にも見られたかもしれないが,それに気づいたのは,いまこれを書いている最中だったりする。この鹿を見たくてはるばる阿嘉島に来たのに……ってことはあんまりないのだが,動物が特別好きではない人間に対しては,動物のほうからも近づいてこないのかもしれない。そう勝手に思うことにした。

阿嘉港方面に戻るべく左折すると,間もなく砂浜に出た。「前浜ビーチ」と呼ばれているビーチだ。そして,こじゃれたカフェが1軒建っている。いかにも“リゾートオシャレ”なレイアウトは,「ロコモーション」という名前の店だ。「ハードロックカフェ」のステッカーが貼ってあったが,何か関係でもあるのだろうか。まだ開店前のようだが,窓が開け放たれていた。
その店の脇には砂浜に下りる道があった。ここまで来て砂浜に下りないのもバカらしいので下りていってみると,サンゴの欠片やら貝殻やら白砂やら,いろんなものが混ざった砂浜だった。そばには,赤と紫のカヌーが1台ずつ置かれている。ブラッと遊覧するにはいい“海峡”だろう。近くにはベンチもあったりする。夏場はビーチパーティーも行われるのだろう。
海は波こそまったくないが,少しだけ風が出てきた気がする。大したことのない微風程度なのだが,近くにあるノッポのヤシの木が少し揺れている。はて,これから吹く強風の前触れかとヘンに敏感になってくる。ここのところ,2回連続で強風に泣かされているから(「前線と台風のあいだ」および「沖縄はじっこ旅V」参照),どこかトラウマみたいになっているのか。もっとも,前回2回はフツーに立っていられないくらいの暴風だったから,それに比べれば“天と地”ほどの差ではあるのだが。
そのままさらに東進しつつ,気ままに内陸の路地に入ることにする。三角屋根でログハウス風の「ウエストコースト」なんて民宿とか,かと思えばメルヘン洋館チックな「アーマンハウス」など,やっぱり若い人目当ての民宿がある。その一方で,ホントに「ザ・民宿」という感じで,フツーの家に毛が生えた程度のヤツとか,はたまた廃屋みたいな建物があって,誰もいないかと思ったらオバちゃんが草むしりをしていたりと,あらためて“沖縄的チャンプルー空間”を感じていく。
そのまま内陸の路地を進むと,公共機関……なーんて大げさか。あったのは診療所と郵便局だ。前者は「県立那覇病院付属阿嘉診療所」という名前。9〜12時,14〜17時の開業で土・日・祭日は休みである。よって,今日は扉が閉まっていた。平屋建てで,いかにも田舎の診療所だ。「僻地患者輸送車」と書かれた白いワゴンが停まっていたが,早い話が“救急車”で間違いあるまい。多分,橋伝いに慶良間空港まで行って,そこからヘリコプターで運んだりするのだろう。
一方,後者もこれまた平屋建ての建物でポストもボロいヤツだが,看板だけは,日本郵政公社の真新しくてバカでかい看板だ。シャッターこそ閉まっているが,局と一緒くたになっている家の明かりはついているから,誰か人はいるのだろう。そういや,近くに郵貯が建てた建物があったと思うが,考えてみれば小さい離島に銀行なんてヤツはまずないから,郵便局は丸儲けだろう。まさしく“郵政3事業”の天下である。だから,その余った金で公共施設なんかを建てられたりするのだろう。ここの住民は,はたしてそんな恩恵を受けたリッチマンな公務員家族なのか。はたまた委託されているだけなのか。
こうして東進し続けて,11時15分に阿嘉港ターミナルに戻った。見事,予定より15分早い到着である。チャッチャとチケットを買うべく,さっきの窓口に向かうと,なるほど“別の担当”の女性がいた。こちらは,喩えは悪いが某有名女性容疑者似の女性だ。無論,売るチケットは別であっても,中にいる間は“ゆんたく”してばかりいようことは想像できる。だったら,別に違うチケットだって,とりあえず金を預かるだけ預かって後で渡してくれてもいいものだが,そこまでさすがに“公私混同”させないってことか。ま,そんなことはどーでもいいか。フェリー座間味のチケット代200円を払う。たかが10分といえど,乗るのはバカでかいフェリーだ。にもかかわらず,200円とは格安だ。

ちょっと時間が余ったので,ガイドマップに載っているこの港近くの見所を二つ見ておきたい。周囲は公園として整備されていて,滑り台やジャングルジムがある。広さもかなりあり,とりあえずは“場所の有効活用”ができているといえようか。ただし,天気もまずまずよくて時間帯も決して悪くないのに,人影はまったくない。“お上”の考えは,そう簡単に一般ピープルには通じないのかもしれぬ。
さて,まず一つ目の見所だが,慶留間島のほうに向かって歩いた場所にある石碑「米軍上陸第一歩の地」である。その名の通りの意義を持つものだ。1945年3月26日,第2次世界大戦の話だが,米軍はまず慶良間諸島の制圧を沖縄上陸への布石として行った。その中でも一番最初,時刻にして午前8時過ぎに上陸したのが,この阿嘉島だったのである。そして,ほぼ無抵抗なままにこの阿嘉島をはじめとして,座間味村に属する島々は同日中にすべて米軍の手に落ちることとなったのだ。そして,ここから沖縄戦の悲劇のすべてが始まりを告げることになるのだが,機会があれば後で改めてこの旅行記で触れてみることにして,ひとまずはもう一つの見所に話を移していきたい。
そして,そのもう一つの見所なのだが,それは「シロの像」という雄犬の像である。ちょうど,阿嘉大橋のたもとにある。名前とは違ってブロンズ像だが,そんなことはどーでもいいか。2000年11月26日に,残念ながら17歳(人間だと80代半ば)で亡くなっているが,翌年の命日に“シロ記念碑設立委員会”なる会が,この像を建てたということが書かれてあった。
この“シロ”という雄犬,阿嘉島で飼われていたのであるが,“マリリン”という座間味島に住む雌犬を追っかけて,はるばる座間味島まで泳いで渡ったという犬なのだ。それが琉球新報で報じられたのは1986年12月のこと。今から18年余りも前の話だ。たまたま飼い主に連れられて渡った座間味島でマリリンと知り合ったのがきっかけだったようだ。渡ったルートは,阿嘉島の北東にあるニシハマビーチという砂浜から,安慶名敷島(あげなしくじま)という無人島を経由して,座間味島の南にある宇論崎(うろんざき)という場所まで,距離にして3kmほどだ。その宇論崎には,お相手の雌犬・マリリンの像が建っているようである。これは後で座間味島に行ったら見に行こうか。
それにしても,3kmってことは二つの島ってそれくらいの距離しかないのか……という感慨も,これまたどーでもいいとして,このエピソードを映画化したのが1988年に話題になった『マリリンに逢いたい』という映画だ。たしか,安田成美嬢が出ていたと思う。二つの島の間にある海峡は流れが速いそうだが,人間だって3km泳ぐのはトライアスロンに出るヤツでもなければムリな話である。“愛の力”の凄さはすべての生き物に共通であり,そして,それはもう想像を超えるエピソードを作るものなのだ。そりゃそうだろう。当初,2頭の犬の飼い主とも,何で自分の家の犬がいなくなってしまうのか不思議に思っていたようだ。なんで,マリリンの元に来る時はいつもびしょ濡れなのか。まさか,はるばる海を泳いで来たのか……そう,その“まさか”だったのだから,ムリもないことだ。
さらにシロについて,面白い話が二つあるので書き添えたい――一つは,実は当時の阿嘉島は,ネズミを駆除するためにニホンイタチが連れてこられていた。そのイタチを追い払ってしまうということで,犬を飼うのは嫌われていたという。だからか,当時阿嘉島で飼われていた犬はたったの2頭だった。その犬こそ,シロとその弟“クロ”だったのだ。そんな環境だから,シロが「異性を知った」のはすなわち,上述の座間味島に行ったときになる。メスはおろか自分の仲間は弟しかいない。だからこそ“オスとしての本能”に,余計目覚めすぎたのかもしれない。もっとも“近親相姦”にならなかったのだからよかったのか。ところで,弟のクロってその後どうなったの……?
もう一つは,このシロがかなり賢いヤツだったということだ。島に2頭しかいない犬だから,島民に顔が割れていたということか,はたまたそれをシロなりに見越したってことか,座間味島にある村役場の前に17時になると座っていて,阿嘉島から通っている職員の乗る船に便乗して帰ったというのだ。ちなみに,役場が休みのときには定期船に便乗。でもって,たまに乗る船を勘違いしたのか,はたまた疲れて眠りこけたのか,那覇まで行ってしまったこともあったらしい。ところが,翌日の定期船で見事に阿嘉島まで戻ってきたというから驚きだ。愛によって脳までもが活性化されるなんて,“どっかの誰かさん”に聞かせてやりたいくらいである。
――さあ,そろそろ話を戻そうか。そんな楽しい日々がいつまでも続かないのも,これまたすべての生き物に共通なのかもしれない。マリリンはその“愛真っ只中”の1987年,交通事故で亡くなってしまったのだ。シロは当初そんなことを分からず,彼女がいると信じて座間味島中を捜しまくったようだが,やがて“カン”が働いたのだろうか,亡くなってマリリンが埋められた場所を自分で捜し当て,その前にたたずんでいたという。すでに2頭の間には数匹の子犬がいたようで,当初はマリリンが孕まされたことに不快感を示していた飼い主も,そのシロの姿には胸を打たれたようだ。
そして,その後シロは映画で“有名犬”になって取材が殺到したためなのか,ひどく人間不信になってしまったそうだ。2頭の愛の結末は,映画とは裏腹にはたしてよかったのかどうか,ちょっとビミョーである。もっとも,この2頭の“愛の結晶”は,孫の代にまでなっていまも座間味島にて健在とのことだ。なーに,ちゃんと「やることもしっかりやっていた」のだから悔いはねーじゃねーか,このヤロー……って,犬に嫉妬するとはオレも情けないヤツだ。ま,いまは亡き2頭だが,きっと子孫のこれからの繁栄をどこかで祈っていることだろう。(第5回につづく)

第4回へ
沖縄卒業旅のトップへ
ホームページのトップへ