宮古島の旅ファイナル

(3)小さいけど大神島
池間大橋をダッシュでかけぬけ,すっかり車のいなくなった「すむばり」(前回参照)を過ぎる。大神島行きの船が発着する島尻港が次の目的地だ。島尻は県道から入り込んだ場所にある。たしか,池間に向かうときには看板が出ていたと思うが,反対車線からは行けども行けどもそれらしきものに出くわさない。それほど大きくない島といえど,意外に距離があるものなのだ。
で,走りつづけること5分で「←大神島」という看板。なるほど,こんなものがわざわざあったとは親切な限り。その先にも順調に看板が続いていって,結局迷うことなく島尻港に到着する。それなりに広くて駐車場も青空とはいえしっかりある護岸された港に,人の姿はまったく見えない。でも,屋根がある船着場には,漁船を少し大きくした程度の船が停泊しているのが見える。
別段どこに停めようが誰もとがめないだろうが,たまたま置かれていた1台の軽自動車の隣になぜか車を停める。チケット売場らしきものや売店は,見渡す限りはまったく見えない。時刻表らしき看板があるのみだ。定期航路だといっても,やはり行く先は小さい離島。ましてや有名な観光地とか海水浴場があるわけでもないから,これだけ質素でも事足りているのであろう。
ふと,船着場に人の姿が見えた。近づいてみると若い女性だった。船の中には人の姿はない。まだ出発まで20分あるからだろうか。自転車が彼女のそばにあったので,それを持ち込もうということか。「すいません。これって船で券を売ってるんでしょうか?」と聞くと,「……ええ,多分そうだと思いますよ。私も初めてなもので……」だそう。実は,ここに来る途中に運航会社の「大神海運」の事務所の前を通ったのだが,もしかして事務所でしか売られないのかと思った次第。でもまあ,港で売っても差し障りがあるとは思えないし,よしんば「事務所でしか売れません」なんて言われたあかつきにゃ,「ナメとんのか,ワレ〜!?」とブチ切れること請け合いだろう。
ま,そんな妄想を抱いてもしょうがないし,陸側の茂みに何だか史跡の看板らしきものが目に入った。行ってみると,それ自体は色が消えてて何も見えなかったが,そばにある棒には「島尻元島とンナカガー」という文字。「ガー=井戸」ということだが,一体どこにあるのか。上に上がる道があるが,そこには家畜小屋みたいな小屋の姿しか見えない。たしか柵のようなものも見えたと思うが,あるいは牛馬でも飼っていたのか。「飼っていた」と“過去形”にしたのは,鳴き声が一切しないからだ。
そして,もう一つ坂があって,どんづまりの空地から向こう側に行ける感じだったので,そちらに向かうと木で作られた階段が。周囲が荒れ地っぽいのに,なぜかそこだけがきちっと整備されていて,その向こうには砂浜が見えた。階段を降りていくと,いくつもの岩と流木が自然な姿のまま残っている砂浜に入り込む。両端はいずれも岩場となっていて,50〜60mぐらいの幅があったか。施設こそ何もないが,海水浴をするにはちょうどいい場所だろう。「地元民専用のビーチ」といったところか。こんな場所をあえて公の海水浴場として開放する必然性は感じない。波消しの天然の“リーフ”がこの一帯にはないのか,波が次から次へと打ち寄せてくる。
で,奥のほうに岩場が窪んでいる場所があった。そこにあるいは井戸があるのか。しかし,人が“トンボ”で均したかのように,下の砂浜は一切乱されても汚れてもいない。実に滑らかなベージュ色をしているのだ。そこに踏み込んでいくのは何だか気が引けるが,とりあえずズンズンと歩いていく。そこについた靴跡が,キレイな砂浜を思いっきり汚したような気がしてならない。
こんな気持ちで行ったのに,その岩場の窪みは単なる窪みでしかなかった。井戸らしき穴もなければ水もなければ拝所もない。結局「元島」も「ンナカガー」は見当たらなかったが,後で旧平良市のホームページで確認したら確認,前者は私がいた島尻港の一体を「元島」と呼ぶのだそう。ちなみに,方言らしく「ムトゥズマ」と読む。いまある島尻集落の発祥の地だそうだが,全世帯が元島からは離れてしまい,住んでいる人はいない。そして「ンナカガー」は,どうやらこの一帯ではなくて,南に少し行ったところにあったらしい。で,砂浜の名前は「クバマ」という。この「クバマ」については,意外な接点があったりもするのだが,それは後であらためて触れてみたいと思う。
さて,再び港に戻ると人影が少し多くなった。どうやら,乗船が始まっている感じだ。車の数も2台だったのが4台に“倍増”していた。さっき自転車を停めていた彼女も乗り込んでいる。そして,1人の若い女性が,ダウンジャケットを着て切符をさばいている。やはり,ここで切符を買い求めるようだ。往復で買って670円。ちなみに,大神島出発での往復だと少し安くて600円となっている。
それにしても,風速は10mぐらいはたしかにあろうが,すっかり天気のよくなった陽射しの下では,Tシャツもいいぐらいの気温だ。ダウンジャケットを着るほどのものではないと思ってしまった。ま,屋根の下だからよけいに寒さを感じるのかもしれないが,私の前に乗った男性の1人はTシャツ姿。私は薄い長袖のセーター。多分,2人とも本土の人間に間違いあるまいが,男女の違いを少し差し引いても,その服装のあまりの違いが面白かった次第だ。たしか,数人乗った女性はいずれも長袖とはいえ,ジャンパーらしきものは確実に着ていなかったと思う。
1段高い後部の座席はすでに満席…というか,シートに荷物が置かれていたので,前部のほうに移動すると,たしか西平安名崎とすむばり(前回参照)にもいたカップルが乗っていた。まったく,考えることが一緒なヤツはいるものである。近くで見ると,2人ともメガネをかけて切れ長の目をしている。お笑いコンビの「クワバタオハラ」のくわばたりえ嬢に似ているので,以降は彼らを「クワバカップル」と勝手に呼ぶことにしようか。船内は空調がなくて蒸し暑い。たまらずTシャツ1枚になる。
そして,シートには「宮古毎日新聞」が置かれていた。本土の讀○新聞と違って,10ページだけのごく薄いそれは昨日の日付のもの。この10月に島にある平良市・城辺町・下地町・上野村の4市町村と,伊良部・下地島の伊良部町が合併して「宮古島市」となったが,その合併後の初代市長となった伊志嶺亮市長が宮古島市役所に初登庁し,紙ふぶきで迎えられた写真がトップに掲載されてあった。
市の名前が当初は「宮古市」になりかけ,岩手県にある宮古市がややこしくなるから違えてほしいと揉めたことは,「管理人のひとりごと」Part30に書いたと思う。ひとまずは「島」をつけて納得を得,はれて合併に漕ぎつけた。昨日付け(2005.11.22)「宮古毎日新聞」では,その岩手県宮古市の熊坂市長らが表敬訪問なんかをしているから,まずは解決はしているのだろう。でも,例えば新市のホームページなんかはいまだに“工事中”のところが多く,旧市町村のそれがいまだに頼りって感じになっている。新市としての機能はまだまだこれからなのだろうし,もっとマクロな財政の問題をはじめとして,前途はなかなか厳しい合併なのではなかろうか。
話がそれたが,13時に無事出航。何かアナウンスがあるわけでもなく,淡々とした出航。船内はほぼ半分ぐらいの乗船率。地元民らしき人はほとんどいない。みな観光客ばかりである。島尻港からはっきり肉眼で見える大神島だが,「波の高さ4m」という予報はやはり間違いはなかったようで,少しスローに進んでいる感じだった。完全な外洋ではないようだが,あの『桃太郎』の桃が川を流れてくるときの「ドンブラコッコ」という表現がピッタリなぐらいに,大きく船体が揺れる感覚が時々ある。ちなみに,船の名前は「ニューかりゆす」というが,どう考えても「大神丸」である。
揺れるたびに,低くなっている前方がバシャッと波をかぶって洗われていく。それでも舳先には年を取った船員さんが出て作業していたから,海の男はつくづく大したものである。それに比べて前に座ったクワバカップルの男性はシートに横になっていた。女性のほうがフツーに景色を眺めていただけに,何だかその男性がだらしなく見えた…って,単に眠くて寝ていただけかもしれないが。

20分ほどすると,どこにでも見かけるテトラポット群がたくさん見えて,これまた島尻港以上にシンプルな大神港に到着。で,これまたアナウンスなどあるわけでもなく,何となくエンジンが止まった感じで船の後部に移動すると,人が下船していたので,こちらも下船した次第。ま,この小島に着いたことに大げさなアナウンスは,かえったナンセンスだろう。もっとも,グッスリと寝ていたあかつきには,そのまま船内に置き去りにされる可能性は大かもしれないが。
大神島は,その昔は@“海賊”トマス・キッドが宝物を隠したといわれ,かつてはその財宝を探して島を訪れる人も出た「宝島伝説」があったり,A海賊に襲われて,ある兄妹以外はすべて島民は全滅。現在住んでいる人はその生き残った2人の子孫といういい伝え――があったりする。現在は名前のとおりというか,「神の島」として崇められている島だ。島のほとんどが聖域とされ,むやみやたらと入り込んではいけないと言われている。島で行われる神聖な祭りなどには一切人の出入りが禁じられている――と,いろいろなガイドブックやホームページから寄せ集めてみたが,とにかくそーゆー“興味深い島”らしい。「ここに寄らずして…」という気持ちになった次第である。
さて,1人の女性が少し東側にある学校らしき建物の脇にある道を入っていった,片や,男性3人が西側の海岸沿いを歩いていく。はて,どちらに行こうか一瞬考えたが,女性の見た感じが地元民っぽかったので,多分「家に帰る=集落の方向に向かう」と考えて前者を選択するとビンゴ,集落に向かって上がっていく道だった。これからこの道を上がっていくわけだが,見たところかなりの勾配。一番高いところから下に向かって一気にストンと落ちていく地形のようだ。
その入口にある学校は「大神小中学校」。もちろん,島で唯一の学校施設だ。校舎はさすがに2階建てのもの一つしかない。校庭も30m×20mほどとやや狭い。芝生は天然だろうか。土曜日だから多分休みなのだろうが,生徒がいる雰囲気がしないぐらいにガランドウだ。「てぃだ(=太陽)のもと 笑顔輝け 4人の子宝(ルビに“くがに(=黄金)”とあった)」という標語の横断幕はいつのものだろうか。どこか物悲しい気がしないでもない。ちなみに,島の人口は20世帯で45人。そのほとんどはご老人だというから,なおさらかもしれない。ピーク時には,小中学校の生徒が50人を超えていたという話もあるが,いまは全島民でその数を下回っているのだ。
その小中学校の隣には「大神島離島振興コミュニティセンター」という建物。コンクリートの古ぼけ加減と半分閉まったシャッターが,いかにもって感じだ。石原さとみ嬢の“赤い羽根共同募金”のポスターが,かろうじて現在と時間をつないでいる感じがする…と言うのはさすがに大げさか。なお,このセンターの前には直径1mほどの丸井戸があった。深さは3mくらいか,水がたまっていた。
勾配のある道は軽自動車が1台通れる程度の幅だが,それでいて軽自動車の馬力じゃ上がれないんじゃないかってくらいに急である。その周りにポツポツと家が立ち並ぶ格好だが,やがて5分ほどで集落の意味である「まとまって家が建っている」というほうが適している程度の地区に辿りつく。ここに来ると,もはや自動車は入れないくらいに狭く入り組んでくる。そして,火災用の格納庫っぽい小屋にまたも石原さとみ嬢の赤い羽根のポスター。さすが,NHKの朝の連ドラに出ていただけに,ご老人の多い小さい島ではわりと受け入れられやすいのか。
そんな中をモーター音が追っかけてきた。何だろうと思って振り返ったら,ゴルフ場なんかにあるカートが勾配をものともせずに上がってきていた。荷物と一緒に人を運んでいる感じだった。そういや,後で港付近を散策したらカートがたくさん置かれていたが,いずれも“置いてある”というより“捨ててある”っぽかった。あの中から引っ張り出してきた…って,まさかそんなことないか。
で,なぜにこの集落に向かって上がってきたかといえば,島の頂上を目指すためだ。その名も「大神島遠見台」。集落まで上がってきて「←遠見台」という看板のままにやってきた入口は,それまでの集落の雰囲気とはガラリと変わって,ものすごく整備されてあった。下はジャリと土で固めたようなしっかりした遊歩道となっている。最近できたものなのだろうか。
とりあえずそこを通っていくと,土がならされた畑地のようなものを左右に見る。おそらく木々を伐採とかしたのだろうか。途中には高さ10m以上はある円筒形の貯水タンクがある。金網でしっかり囲われているが,これを壊したり中に入ったりすると3年以下の懲役だなんて看板に書かれてあった。いや,懲役――ま,多分“執行猶予”がつくのだろうけど――で済むならまだしも,ここは何しろ神の島だ。身を滅ぼすことになりかねない重大事故が起こるかもしれない。
このタンクを越えると,道は木の階段となる。階段の向こうを見れば,岩肌が露出した崖のような地形になっているのがよく分かる。脇には建設施工会社だろうか,「鞄西建設」が作った青い棒に白抜きで「遠見台」の文字。それを示すかのように,そして,ここにもまたあったか,「世界人類が幸せでありますように」の棒(「奄美の旅ファイナル」第5回「沖縄はじっこ旅V」第4回参照)。そりゃ,神聖な場所には違いないが,誰がどうやって立てるのかつくづく謎である。
それにしても,勾配がきつかった坂以上の勾配だ。周囲はアダンやらビロウやらと,さまざまな樹木が生い茂っている。この山全体が御神体なのか。昔は何もないけもの道だったらしいが,そこを上がっていくのは並大抵のことではなかったに違いない。この階段ができただけでもすごいこと……っていうか,この島の神事を取り仕切るのは老婦人たちだろうから,このような階段は彼女たちに対するだけでなく,彼女たちが祈りを奉げる神に対する配慮にもなるであろう。「神の島をいじくる」なんて言うよりは,むしろ当然の措置なのかもしれない。
左右を樹木に囲まれながら上がっていくと,それが途切れるところがある。すると,左手はるか下に大海原を臨める好眺望。ちょうどそこで中年女性2人が写真を撮り合っていた。それを越えると,右手にさまざまな樹木の枝葉がからまった大きな岩。そのそばにはさい銭箱があって小銭がたくさん置かれてあった。チェーンでその通路から拝所に入れないようになっているが,多分神事が執り行われるときはここに神司が座るのだろう。もっとも,1人が座ればそれでいっぱいなくらいスペースしかないし,高さもかなりあるから,結構怖かったりすると思う。
その岩を右に見て,間もなく頂上に辿りつく。港からまっすぐ来ると,10分ちょっとかかったか。島尻港で自転車を載せていた女性が,一足先に景色を眺めている。幅4〜5mくらいのウッドデッキが展望台。周囲にあるススキの穂が強風になびいて寂寞感を余計に引き立たせる。所々にあるハイビスカスがここが南国だと確認させてくれる。ここが島の最高点。たしか標高が75mだったか。
そして,下を見ると生い茂る緑の向こうに“懲役3年もの”の貯水タンクと,中腹には細々した家々,そして下には大神港と小中学校を見渡せる。これらが現在の大神島に住む人の営みのすべてだ。島の裏手に人の営みはない…はず。見ていないから分からない。やがて,後から“クワバカップル”も上がってきた。彼らとはよく会うな〜って思うが,考えてみればここは島で唯一の観光スポットだ。島に乗り込んだ人のほとんどがここに必ず訪れるだろう。それを御神体岩様はいつもこんな風に見てきたのだろう。「あ〜,今日も来たよ。何もないからとりあえず見とけって感じの観光客が」と。
クワバカップルやチャリの女性をよそに,私はとっとと展望台を後にする。すると,さっきすれ違った好眺望のところに,まだ中年女性2人がいた。よく見れば,彼女たちの透明なバッグに『沖縄 拝所巡り』(「参考文献一覧」参照)の表紙が見える。風が強い最中,何をこんなところにいるのかと思ってしまうが,多分私の動きが早すぎるだけかもしれない。「すいません,写真撮ってもらえますか?」と言われ,海をバックにデジカメで写真を1枚撮る。シャッターを押す場所が分からず戸惑ったあたり,写真と無縁な世界に生きていることを痛感した次第。「よかったら,撮ってあげましょうか?」と言われたが,貴重なデジカメのバッテリーとデータを消耗するだけなので,「いや,いいです」と言っておいた。

再び集落に降りてきたら,時刻はまだ13時40分。帰りの船は15時と17時。もちろん,ここにあんまり長くいると,後の行程に差し障るし,島を見るのにそれほど時間をかけても何だし,15時の船で帰ることにはするが,このまままっすぐ港に戻ってもやることがない。整備された遊歩道は,展望台の入口から東西ともに伸びているようなので,とりあえず東に向かって下っていこう。
左手には樹木が生い茂り,所々ハイビスカスがある。右手は土がならされた畑地…って,決して文章をどこかとどこかでツギハギしているつもりはないのだが,そのくらい単調で何もない島なのだ。もっと人の営みがあってもいいくらいだが,神の島に必要以上な営みはかえって罰となって返ってくるかもしれない。最低限のものさえ整ってあれば,それでいいのかもしれない。あ,そういえば丸井戸が一つあったか。水もちゃんと張ってあった。
と,足元でうごめく紫色の物体が。カニである。手のひらくらいの大きさはあろう。何ガニかは詳しく見ていないので分からない。こちらもビビッたからだ。そそくさと藪の中にもぐり込んでいったようだが,近くに海があるとはいえ,距離にして50mはあるだろうし,まだ標高だって10m以上はあるはずだ。どうやって横歩きだけで登ってきたのか……ま,めったに人が通らずに,彼らを邪魔するヤツなどめったに現われないだろうから,数日かけてマイペースでここまで来たのだろう。
10分もしないで,標高0m地点まで下りてきた。海である。そこには野球グラウンド1個が入るくらいの芝地の公園となっている。身障者用のトイレも備わったトイレがあり,赤瓦の立派で広い東屋には,テーブルが4基備えられてあった。遊歩道ももちろんある。ノドが渇いたので水を飲んだらココロなしかヘンな味がしたので,ホントに一口しか飲まなかったが,水飲み場も蛇口が三つある。
これだけあるのに,人っ子1人いやしない。いや,厳密には私が1人いるのだが,こんなもの,何のために作ったのだろうか。誰かがレジャーかキャンプでやってくるには,設備が乏しすぎる…いや,キャンプなんてたしかできないはずである。そんな広大な敷地に,あいかわらず強い風が吹き抜けるだけである。とりあえず,端っこまで歩いてみるが何があるわけでもない。そして,この公園でもって島の道は終わっている。先にはゴツゴツした大きな岩があるのみだ。
海は実に穏やかである。色が透明でキレイだ。深さもせいぜい,スネとかくるぶしぐらいまでかもしれない。その上に根っこがくびれたノッチ岩が,あるがままに鎮座している。もちろん,邪魔だからといって取り除くことはできまい。その下には多分,「かわいー!!」って感動しちゃうくらいの熱帯魚,あるいは実際美味く食することができるような魚もいるかもしれない。よゐこ・濱口優氏の「獲ったどー!!」という叫び声がピッタリ来るような格好の漁場っぽい雰囲気もある。
そこにまた,クワバカップルが下りてきて,またもすれ違う。間違いなく,彼らもまた15時の船で一緒になるだろう。こうなりゃ,一蓮托生だ。あとは彼らより半歩先に行きたいだけだ。なぜかは分からないが……ということで,公園を後にしよう。門扉があって,そこには「大神島多目的広場」という文字があった。なるほど,“多目的広場”とは何とも都合のいいフレーズである。要は「作ったらどーでもいいや」ってことだろう。
港に向かう道。右手を見ると,岩に自生するソテツやらビロウやらモンパノキやら。自然が織り成すグロい芸術。それが二つ並んでいて,間が鬱蒼と日陰になっている。もしやと思って寄っていったら,拝所になっていた。もっとも,置かれていたものはガラスのコップだけであったが……そして,ふと上を見上げたら,飛行機が宮古島の方向に下降していった。青い空に映えるヒコーキ雲。以上,前後まったくつながりのない文章,一丁上がり。
――で,大神港。時間はまだ14時。こうなれば,当然西進あるのみだ。こちらに来ると,海の色が沖になるほど水色になっている。その向こうには池間島や池間大橋も見える。なるほど,こういう位置関係だったのかと確認したところで,右手に目をやれば木々の間から墓が見える。でも見様によっては御嶽にも見えてくる。そこにたまたま建てた結果,偶然そーゆー風になったのではあろうが,「神の島の自然による演出はダテじゃない」と思わせてくれる。
そんな中,素朴な砂浜が見えた。引き潮なのだろうか,かなり干上がっているこの浜は「タカマの浜」というらしい。小さなヤドカリくんには出会えなかったが,さっき遠見台から降りてくるときに見たのと同じカニを2匹見た。それもすばしっこい動きだ。陸上で動くカニを見たのは何年ぶりだろうか。ましてや3匹もだと,32年生きてきて初めてだろう。
それにしても,多目的広場から一帯がコンクリートで護岸されているのが惜しい限りだ。「昔のことは思い出したくない」と地元の人は言うかもしれないが,昔もっとこの浜が素朴だったころを見ておきたかったくらいだ。そんな道は1kmほど続いただろうか。最後のほうは所々が入江っぽくなっていて,その外側に道をわざわざ作った感じになっていた。しかも,その入江がこれまたエメラルドブルーになっちゃっているから,自然の芸術はすごい限りだ。ちなみに,後で調べたところ,岩をどかせないためにわざと道を海に出す格好にして,そのおかげで島の面積が増えたとか……。
西端に着いたのは14時20分過ぎ。スロープ状になっていて,おそらく船を接岸できるのだろう。はたまた,かつての海賊キッドよろしく,脱出のための“裏玄関”になっている感じもしないでもない。そして,付近の岩の“ノッチ度”はというと,下が薄い板やピンヒールみたいに強烈にくびれていたりする。何とかギリギリ持ちこたえている感すらある。あともう少し波が浸食したら,確実にゴロンと崩れ落ちるだろうが,それでいて案外,あと50年経っても持ちこたえていそうな気もしてくる。
ところで,このように道が1周していないのには面白いエピソードがある。多分,これが理由で間違いないだろうから,引用されていただくことにする。森口豁氏の著書『だれも沖縄を知らない〜27の島の物語』(「参考文献一覧」参照)にあったのだが,それによれば,かつての平良市が,大神島に1周道路を作ろうという話を持ち込んだ。島の神聖さを知る地元の神司をはじめ老婦人たちは「罰が当たる」と,当然のごとくこれに猛反発をしたそうだ。それでも,工事は着工されることになったという。
しかし,ここからがこの島のこの島たるところだ。工事用の機械が,道路に邪魔となるといって削岩機を岩に当てたら,砕かれたのは何と削岩機の刃のほうだったというのだ。それだけならまだしも,作業中にケガ人が続々と出たり,しまいには死者まで出すことになったという。ある意味,神に対する冒涜なわけだから,当然にふりかかってきた災難であろう。
そこで,たまらず市の職員は神司のところにかけよったそうだ。「祈祷してほしい」――普通だったらば中止するところだろうし,神司はじめ島の住民全員がそう思ったところだろうが,市の側もいまさら後に引けない事情でもあったのかもしれない。とにもかくにも,真剣に神司はその現場で祈祷をして作業は再開したそうだが,やはり事故は絶えなかったというのだ。
ちなみに,大神島の周囲は3kmほどという。いまの日本の土木建築技術だったらば,3kmの舗装道路を造ることぐらい,楽勝のうちにも入らないかもしれない。にもかかわらず,この島ではいまだに道は1周できないままである。いま何気に歩いているこの道路が,そんな複雑な事情の上に成り立っているかもしれないことを考えると,所々狭くなった防波堤の上に乗っかって,無邪気に「平均台〜」と遊んでいることなぞ,つくづく恥ずかしいことだと思わずにはいられない。ま,道中に結構ゴミが落ちていたりもしたから,その神々しさも影を潜めつつあるのか……。
大神港に戻ってから,まだ時間があったので,集落に上がっていってみた。一つ気になっていた場所があったのだ。それは島で唯一の商店「久貝商店」。集落の西端,遊歩道が下りかけたところに看板があった。見たところはごくフツーの民家っぽい。ホントは何か飲みものでも買いたかったが,窓が閉まっている感じだったし,ちょうど老人らしき人物が出てきたのに驚いて,引き返すことにした。
なぜここが気になったかといえば,いつだったか,TBSでやっている『ZONE』という番組で,宮古島で「ドクターゴン」として奮闘する医者の回があって,その愛称よろしく,この大神島まで問診のため船で渡って診察に入った家の一つが,この久貝商店の老主人だったからだ。以上。まったく,テレビという道具は,ごくごくフツーの人物をヘンに“スターダム”にのし上げてしまうものだ。もちろん,それは私の妄想の中だけであることを付け加える必要があるが。

こうして,最終的に大神港に戻ってきたのは14時40分。間もなくして,大神海運の人がやってきて船に乗船する。今度は後部座席に座ることにした。前のほうは暑すぎて,やはり皆後部に避難している感じだった。あっという間に座席が埋まり,やはりまたここで落ち合ったクワバカップルは,やむなく前方に行く羽目になっていた。ザマミロ…いや,お気の毒様。
で,ちょうど私が座ったところには「認可運賃表」という白いプレートがあった。人間をはじめとして,何を載せた場合にどのくらいの運賃がかかるかというのが,こと細かく書かれているのだ。しかも,いまどき珍しく手書き。ま,昔からの名残なのかもしれないが,どっかのホームページにも,よほど珍しく映ったのか,これの写真があったりする。ちなみに,原チャリが片道690円,自動二輪が820円。定期券もしっかりあって,1カ月で一般が1万2600円,学生が8400円。ただし,どれだけの人がこの定期券を利用しているのかは,はっきり言ってビミョーなところではあろう。
で,話を戻すと,この内容がなかなか面白い。米・塩・卵など日常必要なものは,店で売られている袋や箱の単位で80〜210円ほどかかるようだ。で,バナナが20kgワンケースで80円,飲み物もワンケースで80円……と,1個1個丁寧に書かれている。一方,デカイものになると,例えば冷蔵庫・テレビ・流し台が800円となっている。もっとも,後者の類いについては,重量そのものというよりは,それを入れる場所に苦労しそうな気がしてくる。
そして,極めつけは動物の類いだ。ヤギが大800円・小350円,豚が大1600円・小580円とあるのだ。人間や乗り物,そして巨大な台所道具を差し置いて,家畜が高額に君臨しているのだ。何せ,人間は往復乗っても,ヤギよりは高くついても豚よりは価値がない…いや,安く済むのである。豚といえば沖縄の食事にはかかせないものだから,それでこれだけ高額になっているのだろうと推測できる。重量も結構あるものだし……でも,この運賃表を作っている中でどんな会話が交わされたか,考えてみるとかなり興味深い。「人間の命は豚よりも軽くていいのか?」などと……。(後編につづく)

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