サニーサイド・ダークサイド(全4回予定)

@適当にアメリカン
岩だらけのビーチを後にしてひたすら北上する。次に目指すのは「アハシャガマ」というガマ。とりあえず目印は伊江島カントリークラブである。このあたりは見るべきものは何もない。せいぜい,地元農家の方々が畑仕事に精を出しているか,はたまた小屋の中から牛の声が聞こえてくるくらい。天気はあいも変わらぬ快晴で,次第に暑さもジンワリくる。風が少しあって湿気がないのが救いだが,今回は小浜島よりも長く乗る予定(「沖縄はじっこ旅」第1回第2回参照)だから,最終的にはまた“ひと皮むける”ことになるのか。
走ること数分,打ちっぱなしの緑色のネットと事務所らしき建物が見えた。もらったサイクリングマップによれば,ここから少し内陸に入ったところのようなので,とりあえずそのネットと事務所がある敷地とゴルフコースの間を走る道に入り込む。こちらも今までと似たような畑と牛しか見ないのどかなエリアである。農作業をする人の姿も見える。
しかし,樹木が生い茂っている場所は所々見るものの,ガマらしき雰囲気が感じられない。あるいはその中の一つなのかもしれないが,案内板がないとどうにも入りにくいと思うのが,所詮観光客であることの哀しさである。こちらも別に事前に知っていたわけではなく,サイクリングマップを見て初めて知ったくらいなのだ。そんな程度だから,結局は何も見つからず,大きな道にぶつかった。もはや,どこかに通り過ぎてきたのだろう(ちなみに,伊江村のホームページと比べてみたら,若干位置が違っている)。
ちなみに,このアハシャガマもまた,集団自決が起こったガマである。この近辺の住民約20世帯(約120人)が避難していたが,そこへ米軍に追われ逃げてきた伊江島飛行場防衛隊(以下「防衛隊」)が合流する。やがてその防衛隊を追って米軍がアハシャガマの前まで迫ってきた。米軍はガス弾などで攻撃し,降伏するようにと呼びかけた。しかし,誰1人として出ようとしなかったという。理由はチビチリガマと同様に「鬼畜米英思想」からである(第3回第4回参照)。ガマは奥行きが約20mほどあるそだそうだが,逃げ場はなくたちまちパニック状態に陥り,その防衛隊が持ち込んでいた地雷3個で自爆してしまったという。それから二十数年して,ここから百数十体の遺骨が発掘されたそうだ。
さて,ガマを見損ねたので,再び海岸方面に向かいたい。テキトーなところで右折し,畑と牛に出くわしながら,何もない広い空間の中,左右に走る道が目の前に広がった。次に向かうのは,湧出(ワジー)という場所。方向は左折である。走る道は下り坂,ここぞとばかりにスピードを出して思いっきり風を切り,自然のクーラーを浴びつつ大きく湾曲して左折する。こういうときはやはり自転車だ。車が1台も走っていなかったのは幸いだっただろう。
左折して間もなく「→リリーフィールド公園」「→鹿の化石」の看板が出てきた。ここで私がお花好きだったり,考古学マニアだったりしたら右折するだろうが,残念ながら百合も鹿も興味の対象ではない。ここは通過する。
ここからは,しばし上り坂となる。平坦な島の中においてはかなり急な坂だ。当然だが,ここは押して上がらなくてはならない。強くなってきている陽射しの中,ヒーコラ押していると反対車線から軽自動車が軽快に下ってきた。しかも「わ」ナンバーである。ったく,見せつけてくれるじゃん…と思っていたら,開け放った運転席の窓には長細い面立ちにあの満面の笑み。ここで再び布施博氏だ。さすが,芸能人は私みたいな一般ピープルと違ってレンタカーか。滞在時間がないからか。はたまた女優である奥さんの“肌”に気を遣ったのか――って,ホントに布施博氏かどうかは最後まで分からなかったが,あの印象に残る満面の笑みが,いまもまぶたに焼きついている(って,大げさか)。

湧出…の展望台には11時10分に到着。ちょうど,タクシー客らしき老夫婦2組が,展望台で運ちゃんから解説を受けている。何やら崖下を眺めているようなので近づいてみると,緑に覆われた断崖と,岩場のテーブルと,青い海がひたすら遠くへ続いていく。少し“大陸的”な感覚を持つが,砂浜とはまた違う絶景である。湧出とは水が湧き出る泉のことで,この岩場にそれがあるようだ。当然真水であり水質もよく,今でも飲料水として使っているという。
その近くには水道施設みたいなコンクリートの小屋があるが,パイプのような線が見えるので,そこがどうやら取水口になっているようだ。その小屋に向かって向こうから白い筋が走っているが,道が走っているのだ。はるばるどこかから道を入って,そこを下ってくるようだ。車が1台ちょうど停まっている。元は歩いて谷間を下ったそうだが,米軍らの手によって輸送管路が設置されて行き来が便利になったようだ。整備した理由が,私益のためか公益のためかまでは分からないが,ちなみに水道が普及している現在は,本部半島から走っている海底水道がメインのようだ。
さて,ちょうどいま北の端にいる私。このまままっすぐ南下して伊江島空港に……と思って,自分としては道なりに行ったつもりが,いつのまにか西に向かっていたようである。サイクリングマップにテキトーな目印がなく,今となっては一緒に持参していた道路地図を開けばよかったのかもしれないが,この暑い中では極力手に持つものは小さく軽くあってほしかったりしたので,とても道路地図までは考えつかなかったのだ。
そんな中,また“鳥肌実”な世界の建物にでくわした。2本の柱が三角のアーチを描く平屋建てのコンクリートの建物。中は木の床で12〜13畳ほどだが,無人である。灰色の壁には無数のスミの太文字が。隣に普通の2階建ての民家が建っているが,周囲には建物らしきものはなく,その道場と民家のみという異様な取り合わせである。
この建物の名前は「団結道場」という。道沿いの壁には「米軍に告ぐ」というタイトルで,縦書きの文章が数行書かれている。何が書かれていたのかは忘れたが,「他国民に与えた不幸は必ず自国民に返ってくる」というのは記憶にある。その差出人は「伊江島土地を守る会」。そして文章の下には横書きで大きく「演習地を直ちに撤去せよ」と書かれている。
道場を取り囲む低い塀の内側には,“平和を作った偉人”としてリンカーン,ガンジー,バートランド・ラッセル,釈迦,孔子,ソクラテスの名前が書かれている。なお“バートランド”は,現地では“バートフンド”と間違って書かれている。一方で“戦争をつくり亡んだ人”としては,アレキサンダー大王,ジンギスカン,ヒットラー,ムッソリーニ,東条英機の名前。東条英機は“東条”のみ。アレキサンダー大王なんて何者か知ってたのかって感じだし,そもそも“ジンギスカン”は食い物だろ……などと余計なツッコミはこの際不要だろうか。

1953年4月,第2次大戦後の沖縄を統治していたアメリカ政府は,土地収用令を公布して沖縄県下の農民の土地を接収した。伊江島ではこの道場がある真謝(まじゃ),西崎(にしざき)地区が接取された。そして,翌1954年3月からは,米軍はブルドーザーで住宅を壊して農作物を焼き払ったという。また,同年アメリカ政府は,軍用地の使用料を一括払いにするという方針を打ち出した。一度にまとめて使用料を払って,後は無期限に使用しようとする魂胆である。
元々,土地収用令を出す以前に米軍が土地の賃借契約を結ぼうとしたとき,20年という長期契約に加えて,1坪当たりの年間借地料が当時のエピソードで「コーラ1本の代金にもならない」安さだったという。当然,それでは契約にまで至るわけがないから,土地収用令を出して強引に奪っていったという経緯がある。そんでもって,いざ接取した途端に,さらに土地は一括払いで期限は無期限という無茶を言い出したわけだ。
これに対して,沖縄の住民は立法院(当時の琉球政府の立法府)で議決された「土地を守る四原則」を掲げ,島ぐるみでの反対運動を展開していくことになる。その四原則とは,
@一括払いの反対…軍用地の買い上げ,永久使用や借地料の一括買い上げは行わない
A適正補償
…使用中の軍用地は,住民の要求する相応の金額で1年ごとに払う
B損害補償
…米軍が加えた一切の損害は,住民の要求する適正な賠償額で支払う
C新規接収反対
…使用していない土地は速やかに返還し,新たな土地の収用は絶対にしない
というものである。しかし,伊江島は離島のためになかなか支援が得られたそうだ。
少し前に話は戻るが,前回書いた“ヌチドゥタカラの家”設立者の阿波根昌鴻氏は,この土地接取時のことについてこう話している。それによれば,完全武装した米兵300名余りが伊江島に上陸したとき,「この島は(沖縄戦で)アメリカ軍が血を流して,日本軍より獲得した島である。君たちはイエスでもノーでも立ち退かなければならない。君たちには何の権利もない」と言い放ったそうだ。それでも,何とか抵抗して150戸あまりを接取しようとしたのを13戸までにとどめたのだそうだ。
さて,こうなっては島民はニッチもサッチも行かなくなる。そこで1955年7月,阿波根氏や土地を接取された真謝の人間が中心となって,沖縄本島全域で“乞食行進”と呼ばれる行動を起こし,世論に訴え出る。「乞食をするのは恥であるが,武力で土地を取り上げ,乞食をさせるのはなお恥だ」というのが行進の趣旨であるが,この事件が島ぐるみでの反対運動の引き金になったという。
そんな中で,1961年7月に伊江島土地を守る会が設立される。会長は阿波根氏。この会が自分たちの力で土地を守るために学習の場,あるいは村外や県外から訪れる人の宿泊の場として,また米軍に人間教育をするための場として設立したのが団結道場なのである。設立途中には,暴行や監禁など幾多の米軍の妨害があったものの,1970年5月に着工し,9月には完成している。1980年までは,実際に宿泊研修所として使用されていたが,現在は伊江島土地闘争の歴史を語り継ぐ“シンボル”として存在しているようだ。

地図を見れば団結道場から西側に見るべきものはない。南下すると,照太寺(しょうたじ?)という寺があるようだが,ここまで来たら西端にある伊江島灯台まで行ってみたい。ただし,サイクリングマップによれば,どうやら米軍演習場の敷地内のようだ。ま,とりあえずサイクリングマップで点線が描かれているコースに沿って進んでみようか。
周囲はあいもかわらず畑と牛しか見ない。そして,何気に平べったい黄色いポールを時々見るのだが,これは島内を走る伊江バスのバス停である。一度どこかでバスを見た記憶があるが,停まるバス停のどこも時刻表が書かれていない。時刻表のフォーマットがないわけでもなく,文字がかすれているとかでもなく,書かれていないだけだ。ま,地元住民しか使わないのならば,時刻表なんかなくたって分かるだろうということか。あるいは自家用車利用が多くて,ホントにあまり使われていないのかもしれない。
途中で,そのバス通りから外れて路地に入る。灯台にまっすぐ通じる道がもう少し先にあるが,そこから行くよりは,その道に入って途中で左折したほうが灯台に近道だからだ。遠くに緑が左右に防風林のように伸びているが,あれが米軍演習場との境目だろう。手前にはフェンスらしき白っぽいものも見える。しかし,結局はそのフェンスのところまで行ってしまって行き止まり。左にはフェンス沿いにジャリ道が続いているようだが,先がどうだか分からないので,やむなく元の道に引き返す。
そして,当初予定の道から灯台に向かう。途中で“ブーン”というデカいモーターの音がしたので見てみると,20〜30頭はいるであろう牛舎で扇風機を回している音だ。ちょうど牛の背中あたりに当たる格好か。直径2〜3mはあろう巨大扇風機である。湿気は少ないといえど,人口…もとい“牛口”密度は高いだろう。牛1頭あたり,畳1畳ほどしかないと思う。ましてや,我々みたいに好き勝手に動けるわけではないから,自ずと必要となってくるのだろう。常時かかる餌代とは別に,地味だが確実にかかる経費であるに違いない。
その先,道は「用がないだろうから広くすることもない」という感じで狭くなり,間もなくすると,再び閉ざされたフェンスとその上に有刺鉄線。ここで道は行き止まり……ではなく,本来はそのまま続いていて,100〜200mほど行けば白い灯台に辿り付けるようだ。灯台はフェンスの手前からでも見えるが,敷地の緑の蔭に隠れて残念ながら全貌は見えない。ただ,見える限りでは体温計の形状をしていると思った。アスファルトに舗装された道は,別にそのフェンスを境に劇的に変化するわけでもない。だからこそ,何だかその“分かれ目”はあまりに杓子定規的であり,奇妙な感覚にとらわれる。なお,フェンスに沿うように演習場内には道が走っている。
この演習場も,元は日本軍が第2次世界大戦用に作った飛行場である。土地は当然,日本国によってこれまた接取されたものだから,巡り巡れば伊江島民の土地は,本来“味方”であるはずの日本国によって取られたようなものなのだ。そして,防衛隊vs米軍で伊江島内では激しい戦闘が行われ,4700人の死者が出る県下でも最大規模の被害を被った。米兵にもかなりの数の死者が出たそうだが,何よりもこの死者のうち,伊江島民が1500人にもなるのが大きい。上記アハシャガマでの出来事も,この戦闘の中で起こった悲劇である。
そして,結果的には米軍によって伊江島は占領され,本土への出撃基地として使用されることになったため,生き残った住民は全員,島を強制的に追い出される。再び島に戻れることになったのは,終戦から2年余り経った1947年の終わりであったという。

@適当にアメリカン
再び来た道を戻る。そのまま東進すれば既述の照太寺に行けるが,行きそびれた伊江島空港と,隣接する米軍補助飛行場も捨てがたい。なので,さらに来た道を戻り,路地にぐんぐん入っていくと,突然アスファルトの不自然に広い帯が出てくる。周囲には何もない。ここが米軍補助飛行場である。サイクリングマップによれば南北に伸びているようであるが,その両端だけがさらに幅が広く,それを示すかのように,ガバッとそこだけが広くなっている。
とりあえず,この広い帯を南から北へ走っていくことにする。そのど真ん中に車が走る道路があって,たまにそこを自家用車が行き来するが,その道の幅はほぼ車1台分である。そして,残りはひたすらアスファルトである。その帯が両サイドにある森や集落を見事なまでに分断している。ただし,きちっと整備されているわけではなくて,結構剥げていて凸凹している個所も多い。それは北上するほど顕著で,何だか走りにくくなってきたと思っていたら,その整備の悪さで道がガタガタしているのだ。時間はちょうど12時。太陽の光がサンサンと降り注ぎ,私はノドが渇いてペットボトルの水がどんどん減っていくのであるが,そういった体力の消耗だけが走りにくくなる原因ではなかったようだ。
もっとも,米軍としてもあくまで補助飛行場であり,私のように自転車に乗る者のために配慮しているわけではあるまい。大抵は車でシャーッと走ってしまうだろう。事実,このやや炎天下の中で自転車をヒーコラと走らせているのはこの私だけである。おそらくは読谷のそれ(第4回参照)と同様に,パラシュート降下などが目的であろうから,別にきっちり舗装がなされていなくても問題はあるまい。だから自然なままで放置されているのだろう。
15分ほど何もないこの飛行場の“帯”を走り続け,ようやく北端に辿りつく。北端もまたガバッと広くなっていて,そして不自然にその先は途切れている。わずかに東進すると,再び南下。要するに,ぐるっと遠回りしているわけである。ま,湧出からダイレクトに行けたとしても,おそらくはこれから行く伊江島空港と両方行きたくなって,結局はグルグル回ったであろうから,特段に走りすぎて損をした感覚はない。時間からして13時発のフェリーには間に合わないし,そもそも当初は16時発で帰ろうとしていたのだ。あと少なくとも3時間半はあるわけである。遠回りしたほうがよっぽど旅らしいし,いろいろと発見もできよう。そして,のんびりしてよいではないか。
途中,シダ植物のオオタニワタリ栽培の黒いビニールハウス群を通り過ぎ,5分ほどして左にフェンスが見えた。そして,レンガ色の長細い平屋のレストハウスっぽい建物が建つ。伊江島空港ターミナルである。近づいてみると,十数台停まれる駐車場には車は一切なく,建物の中はシャッターが下ろされて閉鎖されている。それもつい最近閉められたというよりは,かなり時間が経った感じである。
ちらっとのぞけたカーテンの隙間からは,なぜか地元ではない工事現場の資材伝票のファイルが見えたが,日付は1998年。もちろん,それが一番最新かどうかなんてのは知る由もないのであるが,あるいは単なる物置と化しているような感じだ。別の角度からはロビーの中を見ることができたが,4〜5m四方の広さにカウンターもあって,とりあえず体裁は整っているようではあったが。
さっき見えたフェンスの向こうには滑走路らしきアスファルトの空地。それほど広くはなく,50m四方くらいに見えるが,一応は1500mの滑走路があるようだ。端っこには,那覇からチャーター機を出しているエアードルフィン社の格納庫が見える。元は1975年に開かれた沖縄海洋博覧会の関連事業で建設され,その当時は全日空や南西航空(今のJTA)のYS‐11機が就航したようだが,博覧会終了後に一時休止。翌1976年の7月に今度は南西航空の小型機が定期運行したものの,米軍訓練空域内にあることによる運用等の制限や,利用客自体も少なくなったことから,わずか8カ月で翌1977年2月に定期便の運航を休止している。
エアードルフィン社のチャーター便の運行は,それから15年以上たった1994年のことである。ちなみに,同社は沖永良部島や,本島西北にある伊是名(いせな)島にもチャーター機を就航しているようだが,沖永良部島へは昨2003年は1万人以上の利用者があったものの(鹿児島経由で行くよりも安上がりだからだそうだ),伊江島に限っては,就航した当時は年間1500人前後まで行っていた利用者数は,昨2003年度は,3分の1以下の430人強。貨物量に至ってはゼロである。伊是名島についても定期的に運行がされていたものの,船による移動が定着していて不定期にならざるを得なかったようだが,ここ伊江島についても那覇泊港から高速船があったり,本部港からフェリーが出ていることを考えると,同様のことが言えるだろうか。
実は,那覇からチャーター機でここに来ることも考えた。飛行機の接続も1時間20分と十分あったのだが,「念には念を入れた」のと,後から北谷・読谷に行きたくなったこともあって,チャーター機をやめた。しかし,この閑散とした場所にホントにきちっと降りてくれたのだろうかと思ってしまう。仮に降りられてもどこかから迎えに来てもらえたのかどうか……肝心のエアードルフィン社はといえば,つい最近サイバーファームという,那覇に本社を持つビジネス・ソリューションをやっている企業の子会社になったようだ。あるいは,今後運航路線を拡大なんてことがあるのだろうか。

空港からさらに南下すると,「→ゴヘズ洞穴」の板の看板。周囲はタバコの黄緑色の絨毯で,見ると畑の一角に木が突き刺さって紙が貼られている。見れば,植付けをした人の名前や日時などが書かれている。ここの畑は植付本数が3025本で,植付日付が2月21日。種類は「第2黄色種」という。紙には「必ずエンピツで記入してください」とあるが,かえってエンピツで書くと(まさかないだろうが)虚偽を書いても消せそうだが,そのへんはどうなのだろう。
ちなみに,この黄色種というのは世界で最も多く栽培されていて,日本でも北は新潟県から南は沖縄県まで広く栽培されているようだが,沖縄ではここ伊江島が随一の産地となっている。収穫した葉を乾燥機の中に吊って,人工的に加熱(37→68℃)し,葉の色を黄色に固定して乾燥を終了するので「黄色種」という。1回の乾燥は吊りこみ点火後,4〜7日で終了するために,乾燥作業に要する労力が少なくて済むそうだ。しかも,植付から半年くらいで収穫するというから,残りの半年は別のものを植えるのか,よそに出稼ぎに行くのか,はたまた何もせずに遊んで暮らすのか。
看板通りその間にあるジャリ道を入ると,草むらがある。草むらの中は道が不安定そうなので,入口で自転車を降りて歩いて入ったのだが,その途中に少し開けた場所があって,そこから草地の中を数m入った先の木の下に,チェーンで囲われた石灰岩と,説明板らしき看板が見える。そこが洞穴の入口であるようだ。ハブに噛まれるんじゃないかと思って,草地の中を入っていくのはやめたが,直径2mの入口から地下へ広がり,複雑に奥へと伸びていて,上の洞が奥行き19m,さらに進むと奥行き35mの下の洞へと続いているようだ。1975年からの調査で,鹿の化石,骨器,人骨や貝殻などが出土したという。
来た道を戻って,さらに南下すると大きな交差点。サイクリングマップによれば,ここを右折すると照太寺方面のようなので,右折する。そしてのどかな田舎の光景の中にある,赤瓦の山門とポツンと立つ寺が照太寺。最近できたと思われる境内は戸が開け放たれて,中は14〜15畳程度の広さか。一応,仏像があったり木魚があったりと,それなりの体裁は整っているようだ。
ここは,1554年に当時の琉球王・尚清(しょうせい)が建立させた臨済宗妙心寺派の寺で,かつては観音堂もあったそうだ。村人の厚い信仰を得て栄え,寺と観音堂をあわせて「権現堂」と呼んで親しまれたが,明治時代に神仏習合(寺と神社の併置)の慣わしが廃止されると,衰退していったそうだ。そして,沖縄戦ですべて焼失。いま目の前にあるのは,1998年に復元されたもの。境内から少し離れたところには観音堂の跡らしきものもあるようだ。そういえば,石垣市には桃林寺と権現堂という建物が隣接しているが(「沖縄はじっこ旅」第3回参照),あれはホントに西の端の離島ゆえに,神仏習合廃止の流れに乗ることがなかったということか。
その観音堂の跡へは,石畳の道が通じている。一応文化財のようなので,自転車を走らせてみるが,途中で脇に茂っている木などからくもの巣が大きく張り出しているのを見て,あえなく引き返す。虫嫌いの哀しさゆえ(?)だが,本来は寺を管理する人間が掃除の一つもしていればこうならないわけで……ってことは,誰にとっても大して見るだけの価値がないということなのか。(第7回につづく)

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