ヨロンパナウル王国の旅(全5回)

(6)6時間半のトランジット
13時25分,飛行機は予定通り離陸。39人乗りの機内は8割方埋まっている。東京に帰る連中が,このうちどれだけいるのか分からないが,結構需要が高い路線なのだろう。
途中,気流のせいか3回大きく揺れる。うち1回は,初体験の上下に大きい揺れ。ストンと身体が落っこちるあの感じである。皆,一様にひびったようだった。どうやら本島の南部をぐるっと回るルートだったようで,14時13分,やや遅れて到着する。

@はて,どこに行こうか?
羽田行きの飛行機は20時40分発。「久米島の旅」でも書いたJTAの安い運賃のやつで,それまで6時間半ある。今回のトランジットでは,本島中部まで足を伸ばすことにしたい。
まず,高速バス乗り場へ急ぐが,間一髪で14時15分発の113系統・具志川バスターミナル行きに行かれてしまったようだ。しかし,間もなく隣の乗り場に,同じ高速バスの111系統・名護バスターミナル行きが入ってきた。14時30分発なのでこれがちょうどいい。これに乗ることにする。
さて,今回本島中部で行きたかった場所とは,世界遺産の中城(なかぐすく)城跡と中村家住宅だった。この9月に南部・知念村にある斎場御嶽(せーふぁうたき)とどっちを見るか迷ったあげく,一度“捨てた”場所である(「沖縄・遺産をめぐる旅」第2回参照)。
しかし,プリシアでガイドブックを見ているうちに,もう一つ見たいところができてしまった。それは中城よりもやや西にある宜野湾(ぎのわん)市の,普天間(ふてんま)宮と佐喜真(さきま)美術館だ。前者は,洞窟のある神社という変わったシロモノで,後者は丸木位里(まるきいり,1901〜95)とその妻が描いた『沖縄戦の図』という絵画が展示されている美術館。久米島に行った後,森口 豁著『沖縄近い昔の旅〜非武の島の記憶』(凱風社)という本に出会ったが,その中の「芸術と金網」というエッセイで,この佐喜真美術館と『沖縄戦の図』が登場する。詳しくは本を見ていただくとして,それでこの美術館に興味を持ったのだ。
早速乗り込んでバスの運行図を見ると,付近で停まるのは中城パーキングエリアと喜舎場(きしゃば)バス停。一般道を通ればもっと近い場所を通過してくれるだろうが,那覇バスターミナルまでゆいレールで行かなくてはならないし,高速バスのほうが早く現地に近づけるし,下の道は何やかやと混むのだ
――話を戻そう。地図で見てみると中城パーキングエリアは,佐喜真美術館までいくらも距離がないし,普天間宮も歩ける距離。一方,喜舎場というバス停は,そのものズバリが地図に載っていないが,よく見てみると,北中城(きたなかぐすく)村役場の脇で県道・宜野湾北中城線と高速が交差する場所が,この喜舎場である。ということは,ここにバス停があるかもしれない。ここからは,中城城跡と中村家住宅は1km以上歩くが,歩けない距離ではない。ただし,佐喜真美術館は間違いなく見られないだろうし,普天間宮も中城城跡などから3kmはあるから,時間が不確定であることは否めない。
どちらにするか迷ったが,結局は“初志貫徹”で,中城城跡と中村家住宅に行く。そんで時間が余ったら普天間宮へ行く。もし仮に普天間宮を見られなくても,普天間=宜野湾市に出る。海のある逆方向に出るよりも,那覇に戻るバスの都合が確実につきそうだからだ。

バスは私だけを乗せて14時半に出発。喜舎場まではこの年始に乗った具志川バスターミナル行きのバスと同じルートだ(「沖縄標準旅」第1回参照)。人気のほとんどない国際線ターミナルと貨物ターミナルをぐるっと回って,奥武山(おおのやま)公園の裏手で国道331号線に入る。
すると,昼時というのに車がかなり渋滞している。右手を見れば,無数の人が歩道を走っていて,「第19回NAHAマラソン」というのをやっていたのだ。ホームページを見ると,奥武山公園にある競技場を起点に,国際通りへ一度北上してから南下し,内陸にある東風平(こちんだ)町などを通って,南部の平和記念公園やひめゆりの塔を回って再び北上し,糸満市・豊見城市を通って競技場に戻るというコース。一応42.195kmあるようだ。彼らは次々と奥武山公園の敷地に消えていく。15時までということで,彼らは無事完走する連中のようだ。
しかし,自分の力を出しきって充実感を得るであろう彼らとは裏腹に,私はだんだん心配になってきた。いかんせん,車が動かず,目の前にかかる明治(めいじ)橋がなかなか渡れない。渡ってすぐの明治橋交差点は国道329号線のバイパス,その先の旭(あさひ)橋の交差点は同線の本線。いずれも右折車が多いのだ。ゆいレールができても,あいかわらずなのだろう。
とはいえ,持つべきものは同業者。そしてこちらもプロだ。さらにタイミングもよかった。次の旭橋で我々のバスは右折するのだが,まず,直進車線で何とか橋を渡りきって明治橋交差点に進入する。前では次の旭橋交差点での右折および直進の車列が,明治橋交差点スレスレまで伸びている。一方,隣の右折車線は,対向車線から車が来ているので,信号が赤になるまで動きは取れない。その右折車線の先頭にうまいことバスがいたのだ。同じ会社なのかは分からないが,我々のバスは明治橋交差点でそのバスの前に入って,旭橋交差点で右折を待つ車列の最後尾との間に挟まる形となる。
これ,そのバスが右折するべく,少しでも前に出ていたらできないだろう。こっちが路線バスと分かって,向こうがそういう配慮をしてくれのかもしれない。あるいは,ホントにたまたまだったのかもしれないが,私は,同郷の同業者だからこそできる“技”だと勝手に解釈しておきたい。
そうしてゲットした右折車線を信号4度目にしてようやく右折。那覇バスターミナル到着は15時近かった。後で調べたら予定通過時間は14時45分だったから,10分は遅れていたわけだ。これがゆいレールだったら半分以下の11分だが,乗り換え時間を考えればやむを得まい。ここで数人が乗ってくる。
その中に,鼻や耳にこれでもかというくらいにピアスをしたガキがいた。二十歳くらいだろうか。ジャージ姿のうざったそうな格好で,公衆マナーとは無縁とばかりに携帯を手に取る。「それじゃ,完走したって言っといて」――誰かに伝言すると,とっとと眠りに入ったようだ。格好で人を判断するのはよくないけど,なかなかやるじゃんと思ってしまった。

那覇バスターミナルからはスイスイと進み,高速に乗って一路北上する。これだから,高速バスは便利なのだ。あっという間に中城パーキングエリアを通過し,北中城インターチェンジも通過。実はこのインターこそ,ホントの意味で城跡などの最寄りだ。もっとも,ここからでも1kmはあるのだが,私はすっかりバスがここを停まるものと思い込んでいた。なので,バスの運行図を見て,実は一瞬あせったのだが,地図(と書いたが,厳密にはコピー)を持っていたことが幸いした。運ちゃんにわざわざ聞くのも,どこか面倒くさかったし。
そして,肝心の喜舎場バス停だが,私の予想はドンピシャだった。広い道路が下を通過して間もなくバスは左にそれて停まった。少し北に滑り込んだが,車は急に止まれないから仕方ない。脇にある通路を下り,高速道路の下をくぐると,左には3階建ての古ぼけた北中城村役場があった。
さて,ここからはひたすら南東に進路を取ることに。大通り沿いに行けば確実だが,どうしても遠回りになってしまう。高速の脇を南下し,住宅街の中をくぐりぬけて,当面の目標は北中城中学校だ。コピーの加減で細くて“薄い”道を辿っていくと,一面畑の中になる。目の前遠くには,左右に尾根のような丘が走る。あの辺りがあるいは城跡だろうか。
そして,左後方に学校の校舎らしき緑色の建物が見える。多分,あれが中学校だろう。とりあえず,できるだけ南東=右方向に向かう道を進む。途中,農作業をしていたおばちゃんと目が合い,思わず会釈してしまう。向こうも,(失礼ながら)こんな場所にジャケットを着た輩がなぜいるのかと思ったに違いない。
やがて,車の行き来する広い通り。そして間もなく二股となり,「→中城城跡1.1km」の看板が。道幅の広さもあった一安心とばかりに右に少し行きかけるが,「ん?」と思い地図を見ると,左の細い上り坂のほうが近道であることが分かった。また救われた。早速上っていくと「大西テラスゴルフクラブ」の敷地。左側は打ちっぱなしのエリアのようで,遠くに海を見下ろす。一方,右側はグリーンで人もちらほらいる。正面は橋が見え,その上をカートが走っていたりする。
間もなく,グリーンの端にある茂みの中に埋もれた破風墓を発見。思わず“無断立入禁止”の敷地に入ってしまう。墓石まで4〜5mありそうだが,一面草ぼうぼうだ。ここの家族はどうやって墓参りをするのだろうか。その奥にはさらにデカい,高さ数m・奥行き12〜13mほどの墓。もちろん敷地内だ。中にいた客が少し驚いた顔をしていたが,そりゃそうだろう。どっちが先に出来たかは分からないが,間違いなく異様な取り合わせではある。

A中村家住宅
その上り坂を上りきり,少し坂を下ってから,おもむろに路地を右折。家が立て並ぶ中をくぐり抜けると,正面に中村家住宅がある。もらったパンフレットによれば,18世紀中頃に建てられたものだそうだ。沖縄の民家というと久米島の「宇江洲家」(「久米島の旅」第1回参照)に行ったことがある。重厚感はこちらのほうがありそうだ。敷地そのものも1,557.6u(472坪)というから,かなりの広さだ。
中村家は比嘉親雲上(ひがぺーちん)という人物を元祖に現在まで12代続く名家。もともと11・12代含めた家族で1987年まで実際に暮らしていたそうだ。現在は家屋の全てが公開されているが,現在30代後半の12代も二十歳までここで暮らした。“見学”されながらの生活は決して楽ではなかったという。
そして,その中村家は賀氏(がうじ)という先祖に端を発する。賀氏は,首里王府の初代・尚氏の忠臣で,「沖縄・遺産めぐりの旅」第1回で登場した,護佐丸(ごさまる)の学問の師匠。護佐丸はかつて島の西部にある読谷(よみたん)の座喜味城(ざきみぐすく。ここも世界遺産)に居城していたが,与勝半島・勝連の阿麻和利(あまわり)を警戒して,首里王府を守るべく中城に移動した。そのとき一緒にこの地に移ったという。その後,護佐丸が阿麻和利の策略で滅ぼされ,賀氏は一度離散してしまったが,18世紀前半再びこの地に復活し,代々地頭職(本土の「庄屋」)につきながら土地を広げたそうだ。
ちなみに,何度か記しているように,この家は普通の「中村」姓である。沖縄ではかつて琉球王朝の都合で「中」を姓や地名に使うのを禁じられ,「仲村」とイがつくか,「仲村渠」(なかんだかり)となるなど,改姓させられた過去がある(「久米島の旅」第2回参照)。この家も例外でなく,かつては「仲村渠」となっていたが,戦後に改姓したそうだ。「仲村」「仲村渠」姓がいまだ沖縄には多いことを考えると,名家ゆえのプライドがそうさせたのだろうか。
正門の対面,大きな休憩所の脇にある受付で300円を払う。入口にある石塀は普通の石塀だが,大きさが違うものをうまいこと組み合わせて,上は見事な直線を描いている。沖縄独特の不恰好な石の積み上げ,という感じではない。石張りの通路を通ると,早速目の前に同じ石の壁。これは「ヒンプン」と呼ばれる仕切り。母屋が直接見えないようにするためのもので,宇江洲家にも同様のがあった。高さは私の背と同じくらいだろうか。

ヒンプンの右側の入口より母屋(「ウフヤ」という)の中へ。広さは174.5u(約53坪)。その母屋へは,廊下でつながった「アサギ」という6畳の離れから上に上がれる。廊下を通り,手前から「一番座」(客間),「二番座」(仏間),「三番座」(居間)。明るいところで客をもてなし,自分の生活空間は奥でということか。これら3部屋の裏には4畳程度の「裏座」というのがあり,ここが寝室やときには産室の役割をしたということからも,間違いなさそう。
畳間はいずれも上記のように6畳だが,当時の農民にはその大きさしか許されていなかったためという。なので部屋数で“欲を満たした”のではなかろうか。「アサギ」「番座」「裏座」を含めて,畳間だけで八つあった。
また沖縄の伝統家屋ということで,置かれているものも興味深い。まず「アサギ」でだったと思うが,米軍統治下時代の切手コレクションは圧巻。単位は「セント」。でも,柄は貝や海や沖縄の特産物である。あと「裏座」には,黄色地に鳥・亀・花が描かれた着物(裏地は赤)が飾られている。私の丈よりはやや小さい大きさだが,これは「紅型」(ビンガタ)という伝統衣装である。いわゆる“ハレ”の衣装だ。
畳間を通りぬけて,板の間に入る。台所と隣接しているが広さは12畳。一応「三番座」が居間であるが,ここも居間みたいなものだろう。その奥と「三番座」の前にも板の間で,全部で24〜25畳はあろう。もっとも,奥のやつは壷や甕が置かれた物置であったが,あらためて豪農ぶりがうかがえる。
この板の間は上を見上げると天井がかなり低い。1.8mくらいか。手を伸ばせば楽々天井についてしまう。畳の間は2m以上は有にある。これは屋根裏部分を薪や食料の物置として使用していたためだという。
そして台所(トゥングワ)。火の神(ヒヌカン)をまつって月2回拝んだという。土間となっているので下は一段低くなっているが,ここの天井の高さと板の間のそれとは同じ高さ。屋根裏の収納スペースもかなりの広さがあるということだろう。
母屋の周囲には高倉と家畜小屋がある。高倉は,中は見られないが板張りだという。屋根は神社の本殿の屋根みたいな形で,早い話,屋根裏が傾斜がかっているのだが,いわゆる「ねずみ返し」のためという。
一方,家畜小屋は牛・馬・ヤギと豚で分けられている。前者をメーヌヤー,後者をフールという。メーヌヤーは4頭が飼育できる屋根付きの小屋。2階建てになっており,2階は納屋となっている。そしてフールは,アーチ型で青空の3基連結の石囲い。一段下に掘られたそれは,見様によっては古代ギリシャ建築のようにも見えるし,どこかの王様の墓のようにも見える。豚小屋だなんて,言われなければ分からないだろう,手の込んだ作り方をしている。

ちなみに,沖縄方面の旅行記で毎度登場している三好和義氏の写真集『ニライカナイ 神の住む楽園・沖縄』(以下『ニライカナイ』)にはこの住宅の一番座だろうか,その軒先で三好氏と女優・平良とみ氏がツーショットで写っている写真がある。琉球古民家の軒先にオバアという取り合わせは,結構いいショットだと思う。三好氏が邪魔ということでは決してないが,何だか“落ちつくもの”がある。
こういう古民家は,個人的には金をかけてでもいいから残ってほしいと思う。無論上述のように,持ち主にしてみれば物珍しくジロジロと見られ,プライバシーがなくなってしまう点,複雑な事情はあるのだろう。しかし“機能性”がいつのまにか“均一性”にはき違えられ,結果的に「画」としてつまらないものばかりが増えていく中で,こういう伝統的なものが残っていることは,それだけで“宝”になると思うのだが。(第5回につづく)

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