沖縄卒業旅(第3回)
 
(4)古宇利島とは?
@何もない島
いきなりだが,なぜこの古宇利島に来ようと思ったか。それは単純。去年の4月だったと思うが「メレンゲの気持ち」の“通りの達人”のコーナーで,横浜市鶴見区にある沖縄ストリートを放映したときのこと。その中で石塚英彦氏が訪れた店に,ズバリ「古宇利島」という居酒屋があったのだ。たしか,石塚氏が店に入ると店主が三線を弾いていたと思うが,実際に古宇利島の出身で,その古宇利島の特産物を仕入れていることを店のホームページで知り,はてどんな場所なのだろうかと興味が湧いたのである(「管理人のひとりごと」Part8参照)。
そのうち,店のホームページからこれまたズバリ「本家 古宇利島」というホームページに辿りついた。まさにこの古宇利島に関すること細かな内容のページであり,それを見て,沖縄で“神聖な島”として位置づけられている久高島(「沖縄・8の字旅行」中編参照)と同様,なかなか神秘的で不思議な島であることが分かった。それを示すかのように狭い島にもかかわらず,御嶽も多いようだ。
さらには,別名“フイ(恋)島”とも呼ばれるこの島は,2人の男女によって沖縄の島々の人間が作られたという伝説がある島でもある。「縁結びの島」としても島全体が縁起がいい場所とのことだ――元は裸体だった男女2人は,この島で天から落ちてくる餅を食べて裕福な暮らしをしていたが,そのうちに彼らは“蓄える”という知恵を覚えていく。すると,それを知った天の神様は,餅を落とさなくなった。
やがて,彼らは食うため,生きるために働かなくてはならなくなった。そんな働いているときに,沖でジュゴンが交尾しているのを見て,自分たちにも“そういう方法”があることを知る。ふと自分たちの姿を見れば,ハダカである。その瞬間,思わず彼らは自分の陰部をビロウの葉で隠すことになった……まるで「アダムとイヴ」みたいだが,これが“島建て”の話である――そんなこんなのエピソードが,こうしてこの島を訪れるきっかけになったというわけだ。

話を“現代”に戻す。港の周囲はすでに「古宇利緑地」として整備の段階に入っていた。植栽がなされたり,トイレもキレイだったりと,大橋開通・フェリー廃止後の跡地活用は決まっているみたいだ。ちなみに,後でちらっと聞いたところ,フェリーは伊是名島で運搬船として引き継がれるとのこと。経営母体そのものも変わるようだが,内海で欠航率が低いだろうだけにもったいない気もしてくる。
時計の反対回りでテクテク道を歩く。道幅は片道1車線のごく普通の道。島を1周する道である。少し先には話題の大橋が見える。もうすぐ本格的に使われるであろう電光掲示板には,デモンストレーションでなのか,「神と人をつなぐ海の架け橋」と出ている。そばのブルーの看板には県道247号線の表示。「運天原3.4km,国道58号線8.9km」と書かれてあった。
道は古宇利港に招き寄せるようにカーブしている。そして,グルッと島を1周する道路へとつながっていく。島に入ってすぐ左には,出来たばかりのような平屋建てのコミュニティセンター。20台は停められる駐車場が完備され,トイレなどもキレイである。とはいえ,実は自販機があるんじゃないかと期待したのであるが,残念ながらなかった。うーん,かといって戻るのも面倒だし,もしかして……。
周囲はトンテンカン…と,静けさの中に工事の音が聞こえる。ドアが開いていたので,失礼ながら中にちょこっと入ってしまったのだが,紅白の垂れ幕に壇上には金屏風,パイプ椅子がいくつも並べられていたりと,開通記念式典の準備が行われていた。実は,フェリーが運古海峡に出たときに見えたのだが,屋我地島側の橋の出入口にも白いゲートができていて,紅白のテープらしきものがあった。こういう式典直前の準備状況を見るのは初めてなので,ちょっとワクワクしてしまったが,やはり地元や県としても期待は少なからずあるものだろう。
1997年に着工された工事から8年。運天からたかが1.5kmとはいえ,離島は離島であるから,島の人間にとっては,大なり小なり“念願の開通”だ。その全長は1960m――日本に長い橋はいくつも存在するが,いわゆる“タダ”で渡れる橋としては,この大橋は日本で最長となった。これを書いている2月13日現在,新聞報道を見ると,大橋通行はなかなかの盛況であり,古宇利島および経由していく屋我地島では大渋滞が起こっているという。珍しいものゆえにこのくらいはめでたい話である。
そして,古宇利島ではそんな観光客を目当てに地元の農家が出店を出して,自分で栽培している野菜なんかを売ったという話もある。生活面でもフェリーでなく道路で物資が届くことに,橋がつながったことの実感が持てるという感想もある。もっとも,すべてがいいことばかりではなく,まあ予想がつくだろうがゴミを投棄するとか畑の作物を抜くという不届き者も出ているそうだ。
とはいえ,もっと重要な問題がある。それは,この大橋によって今帰仁村方面に行くのに不便が生じていることである。屋我地島から国道58号線まで南下してから,羽地内海をぐるっと回って行くという回り道を余儀なくされるのである。その原因は,中継地点の屋我地島の西部にある我部(がべ)地区と今帰仁村の天底(あめそこ)地区(運天の南)を結ぶ予定の「ワルミ大橋」(仮称)が,橋梁用地の取得遅れによっていまだ完成のメドが経っていないことにある。ちなみに,ワルミ大橋の全長は予定で315m。当然,大橋と同時期の開通を目指していたのであるが,大橋の6分の1以下の長さの場所がつながらないという何とも“滑稽な”トラブルが起こっているのだ。
ちなみに,古宇利島より今帰仁村中心部までは,フェリーを通じてだと約20分かかる。これに対して大橋から羽地内海を通じてだと,倍近い35分もかかるという。これによって急病人が出た場合や火災が発生した場合には,中心部にある救急車両が遠回りを強いられるわけである。もっとも,かつては運天から専用の船でも使っていたのであろうし,橋がないときよりは少しは便利かもしれない。時間がかかったとしても,何たっていつでも行けるのだ。あるいは,フツーの場合に置き換えても,車を搬送する場合は港で多少の待機時間があることを余儀なくされるし,当然だが数千円の金がかかるわけで,それに比べれば“タダでいつでも”は,さぞ魅力的に感じるかもしれない。
でも,古宇利島が属しているのは今帰仁村。大橋で通じる屋我地島や本島地区は,ともに名護市である。そもそも橋ができたのに,自分の自治体の施設に行くのがかえって不便になるなんて,常識で考えても愚の骨頂ではないか。これならば,いっそ古宇利島を名護市に吸収したほうが,施設的にも名護市のほうが何かと“受け皿”は大きいだろうし,案外,名護に行くのと今帰仁に行くのとで,かかる時間はさして変わらないのではないか。名護へはバイパスも走っていることだし,今帰仁村に属するよりもメリットが多いかもしれない。
例えば,古宇利島に唯一あった古宇利中学校は,架橋に合わせて昨年から本島側にある今帰仁中学校に統合しているという。しかし,古宇利島からチャリで通うにはあまりに遠すぎるし――まさか,車や原チャリなんかは使えまい――,フェリーだったら自宅通いができたのに橋ができたらあるいは下宿になるとなったら,島にいることの意味がなくなってしまう。子どもを持つ夫婦は,あるいは通学のために引っ越しを余儀なくされてしまい,訪れる観光客は増えても住んでくれる人間が減るという現象だって起こり得るのである。これによって島の自治そのものも危うくなってくるし,人間が住まなくなることで島が荒れてしまう問題も出てくる。
ちなみに,名護市だと屋我地島にちゃんと中学校があるのだ。ここならば,チャリで十分通えるだろうし,いつでも登校・帰宅ができる。送り迎えはもう楽勝である。さらには,国道58号線と国道505号線の交わる羽地地区にも中学校はある。それらの学校を通り過ぎて今帰仁村までわざわざ行くことが,どれほどバカらしいことかは容易に想像できるというものだ。ま,中学校への通学はホンの一例であるが,病院なんて「村の診療所vs巨大病院」という差であるし,大きな買い物が名護市では可能である。屋我地島と今帰仁村のたかだか300m余りが道でつながらないならば,真面目に名護市への編入を検討したほうがよさそうである。

さて,そのコミュニティセンターの前には「古宇利島村墓」と呼ばれる墓がある。崖の岩盤を墓石に見立てたヤツで,幅6m×高さ5mほど。運天で見た「大北墓」「百按司墓」と構造は似ていると思う(前回参照)。石室は二つあって,片方はフタの隙間が大きい。中に甕が見えてしまったが,間違いなく骨壷であろう。隙間は小さい石で埋めており,それを外して石室の扉を開けるのであろう。
そして,大橋のつけ根から左に分かれている道路に入る。ここが島内を1周する道路の“起点”だと勝手に解釈する。道はそれなりに勾配があった。真ん中に向かって盛りあがっているからだ。そして,墓が多くて遠くに海が見える。以上――見所なんてホントにあるのか。この島に観光に来るからには何か“珍しいもの”がないと,本来は「何もないこと」が島の最大の特色なのに,やっぱり観光客としては「なーんだ,何もないじゃん」って,橋が珍しくなくなったら誰も来なくなるのではないか。観光客は来ないし,人は出ていく……ま,最後は冗談として,島の人間は案外,大橋がそのうち珍しくなくなって車が少なくなって,平穏で静かな島になることを,どこかで見込んでいるかもしれないかも。
ところどころ,内陸にある集落へ入る道があった。いずれも入口には「集落渋滞中。車の進入はご遠慮ください」という看板が出ていた。これって,大橋目当てで入ってきた人間に対するせめてもの“プロテクト”なのだろうか。その一つの道にとりあえず入ってみるが,なるほど軽自動車が1台通れる程度しかない狭さだし,舗装もままならない…って,舗装なんか必要はないということだろう。
集落はギザギザ屋根でコンクリートの家が多い。塀はブロック塀がほとんど。「赤瓦・琉球石灰岩・木造」という古民家は,ホントにたまーにしか見ない。音はなく静かである。そしてテキトーに路地を入っていくと,「うるさい,あっち行け!」というオジイの大声。まるで何かを追い払っているような手の振り方だ。オジイが立ち去った後でその追い払ったであろう方向を見てみると,「アイフル」のCMに出てくるような可愛らしいチワワが1頭いただけだ。オジイは何がウザかったのだろうか。はたまた,しつこく付きまとわれたのか。あるいは幻覚で何か別のものにでも見えたのか。
少し中に入って行ってみる。というのも,自販機を探すためである。あるいは,上述のコミュニティセンターにあるかと思ったが,残念ながらなかった。もしくは集落のどっかに売店があれば,そこにはおそらく自販機があるだろうからと考えていたが,その考えは思いっきり甘かったようで,ホントに「家しかない」状況である。ペットボトルの“まろ茶”を羽田で買って,それはスウィフトにも持ち込んではいたが,車内に置きっぱなしにしてきた。持ってこようか迷ったが,荷物になると思ってやめたのだ。そのうち,集落の奥にある思いっきり急なジャリ道に入りかけた。先には何もなさそうだ。これじゃあまりに1周道路から外れそうだと判断して,再び1周道路に戻る。
大橋に近いところは墓が多かったが,少し勾配が上がった辺りは畑地ばかりになる。拝所が1箇所あるにはあったが,大きな森をバックに小さい香炉があっただけ。はたして,これも立派な“御嶽”なのだろうか。一方の畑地は,お決まりのサトウキビに加えて,キャベツ・ネギ・アロエなどが植えられている。特に,アロエは何箇所も見られたと思う。ちょうどサトウキビは収穫の時期で,何箇所かで根元を束ねたサトウキビがまとまって置かれてある。当然だろうが,島の外にいずれは持っていかれるのであろう。島にはたしか製糖工場はなかったはずだ。実際に収穫している場面にも何度か出くわした。
そういや,たしか1週間ぐらい前に日テレの「冒険CHEERS」のゼロ地点(緯度と経度がともに“コンマゼロ”で交わる地点)を訪ねる企画で,若手タレントの杉浦太陽氏が波照間島(「沖縄はじっこ旅U」第9回第10回第11回参照)を訪れていたが,その中で彼が,たまたま通りかかった農家の人から刈っていたサトウキビを分けてもらうシーンがあった。皮をむしりとって,中の部分をかじると甘い味がするのであるが(細かいことはよく分からん),あるいはこの束ねたサトウキビの1本をくすめとって汁を吸えば,ノドの渇きを潤せるのではないか。どうせ誰も見ていないことだし……。
そうは思ったが,やっぱりこれは立派な犯罪である。もちろん,収穫前のヤツをもぎ取るのは難しそうだし,かといって,しなびていたりするのをもいでまで,水分を取りたいほど渇いているってわけでもない。第一,何か危ない雑菌がついているかもしれない。やれやれ,ここは1周し終わるまで我慢するしかないか。“神の島”で何かをくすめるなんて,罰当たり以外の何物でもない。

Aようやく出くわした史跡
かれこれ1時間ほど歩いて,ようやくというか一つの御嶽に出くわした。階段でわざわざ入れるようになっているが,周囲は自然がなすままに草木がせり出す。そんな中を入ると,数m四方で琉球石灰岩が鍾乳石状に上から下から出ていて,器のような形状をしている。とはいえ,拝所らしき香炉とか石とかはない。名前は……どこにもないが,古宇利島のホームページによればおそらく「プトゥキヌメー御嶽」と呼ばれているものだろうか。
再び歩く。また何もない。やっぱり何もないのがいいのだ,この古宇利島は。そもそも“神の島”なのだから,余計な施設や見所は勝手に作ってはいけないことが不文律になっているはず。だから,この島には多分何の施設もできないだろう。盛況の流れに呑まれて作るなんてことはくれぐれもあってほしくない。せいぜい,出店が自分のトコで作った作物を売る程度だ。さすがに島の人間が作物を売ることは罪にはなるまい。これ停まりだろう。そして,再びこの島は静かになるのであり,大橋は島の人間のために“実用的な存在”へと近づくことになる――ま,そんなことはどーでもいいか。
さあ,なんだかんだで時間は15時前になった。歩き始めて1時間20分。この島で見るのはおそらく初めてかもしれない,景勝・史跡を示す看板があった。この島が「何もない島」である一つの表れかもしれない。白い小さい看板で,そこには「→ポットホール3分」と書かれていた。実は,この島で1番か2番に見たかったのがこれなのだ。早速,それが示す方向に入る。
道は無論,ジャリ道である。入口こそ広くて,自動車が入っていけそうな気がしないでもないのだが,看板にはちゃんと「この先転回できません」とある。こんな看板を見て,「ああ,歩きでよかった」と都合のいい解釈をしてみたりする。単純に「車で回るメリットが少しでも減ってほしい」という“醜い嫉妬”なのかもしれない。いや,それ以前に車で走っていたら気がつかないくらい小さい看板であることに“感謝”しなくてはいけない。単純に島を1周つもりなら,こんな看板は間違いなく見逃すだろう。もしくは,先客がいて入れずに素通りせざるを得ないか。
道の周囲は畑地と荒地のみ。海に向かって緩やかに下っている。途中にあった大きな畑地は,広さが数十m四方はあったと思うが,数人が畑仕事をやっていた。こちらもサトウキビ刈りである。あるいは“援農隊”で来ているのか。はたまた“お隣さんの義理”で手伝っているのか。1周道路沿いで見た中には,明らかに1人だけの物音しかしない箇所もあったが,それでも“そこそこの広さ”はあるから,パッと見では「1人で大丈夫なのか?」と思ってしまう。だが,そこは“餅屋は餅屋”というのか,まあ大丈夫なのだろう。淡々と自分たちの作業をこなすのみといったところか。
やがて,道が左右二つに分かれる。ここまでで“3分”どころか,“7分”はかかったような気がする。そして,左へ行く道も右へ行く道も“道なり”のような気がするが,どっちに行くべきかの看板がない。こういうときに看板がないとつくづく不便だと感じてしまうが,それはあくまで観光客の視点なのかもしれない。くどいようだが,この島に観光客気分で来たならば「何もないじゃん」で終わって,橋を渡ったことだけにしか意義を見い出せないドライブになること請け合いである……話を戻して,とりあえずは右に曲がることにした。根拠は「何となく周囲が拓けていたから」。それだけだ。
とはいえ,この選択は間違いはなかった。やがてドンづまりには入江状の海岸が広がった。下はサンゴが混じった素朴な砂浜で,周囲はゴツい岩に植物がからまっている。入口には白地の看板に手書きで「渡海浜」(とけいばま)と書いてあった。“トケイグァ”と読ませるものもあるが,これは「渡海岸」の当て字かもしれない。ま,いずれにしても海岸であり,ここに“ブツ”があることは間違いない。ちなみに,ここまでで15分歩いた。思いっきり看板に偽りあり。3分ってことは,ひょっとして“ダッシュ”でもしたのだろうか。あるいはチャリで一気に下ったのか。
早速,岩場に向かうと砂浜に近い一つの岩の中に,円筒状の直径50cm大の穴があった。たとえはヘンであるが“10円ハゲ”のような丸さだ。奥の岩には,もう少し大きめの,同じような円筒状の穴があった。これらが「ポットホール」というヤツだ。流れの早い河川の川床,岩盤の割れ目や窪んだところに渦が生じ,そのエネルギーで浅い小さな穴ができて,そこに小石が入って削られ,それを長い年月繰り返すうちに,やがて円筒状の穴となるという。海でも海岸近くの流れの速いところなら造られるそうで,そのパターンがここ古宇利島のポットホールである。日本の各地で見られるようだが,最大のものは直径・深さとも2メートルを超えるものがあるそうだ。
来た道をてくてく戻る。そして……やっぱり気になったので,上述の分かれ道の左方向にも行ってみた。しかし,5分ほど歩いても一向に海岸らしきものは見えず,道は途中から上り坂となって荒地の中でうやむやになってしまった。どこか先のほうから1周道路に戻れるかと思ったが,それも叶わない。やれやれ,こりゃ来た道を地味ーに戻らなくてはならない。まるで,1人で検便を取っているような恥ずかしさである。誰にも見られたくないし,誰かを巻き込みたくもないような感覚だ。しかも,途中で道を間違えて,1周道路に出たときは「→ポットホール」の看板よりも手前に出てしまったし。

さあ,再び1周道路。歩くこと今度は数分で,看板があった。「←スルル洞入口」という看板。進行方向と反対から見ると,二股に分かれているような感じの中心にあった。草木がすぐ後ろに生い茂っていて,看板はこれまたコンクリートの白くて小さいヤツだから,埋もれてしまうこと請け合いである。こちらはその名の通り洞窟である。ちなみに“スルル”とは,魚のきびなごのこと。写真で見る限りは砂浜にある岩場を利用したガマのようで,戦時中に避難壕として利用されたようだ。ホントは行ってみたかったのだが,入っていく道は草木が生い茂って,明らかに“けもの道”のような様相。最後まで景色が開けそうにない感じだったので,やむなくあきらめることにした。
やがて,右前方には大きな陸地と海峡が見え出した。陸地とは本部半島である。早くも島の西部にさしかかっていたのだ。歩き始めたときは3時間で回れるのか不安だったが,あっという間に島の4分の3くらい歩いたのだ。そして,目の前の海峡ではフェリーが1隻通り過ぎた。海との間に森があるので,ときどき樹木に隠れてしまうのだが,そのうち尚円の銅像をモチーフにしたマークが見え,やがて「伊是名―運天港」と書かれた白い方向板も見えた。
私も1カ月前は,行き先こそ伊平屋島だったが,同じ海上にいたのだ(「沖縄はじっこ旅V」第2回参照)。そして,島の裏側(=北側)を見たのであるが,ホントに無人島っぽい雰囲気だった。そんな雰囲気だった場所に今回いるのだから,ちょっと不思議な感覚になる。明日はどうやら風もあまり吹かずに穏やかそうであるが,どうかフェリーが欠航にならないよう祈りたいものだ。
そんな中で,左にまた上がって行ける階段があった。上がってみるが,とんがった石があったのみ。拝所の象徴である香炉だのはなかった。古宇利島のホームページでは「ピジルヌメー御嶽」と書かれた場所っぽいが,よく分からない。また,この付近は「古宇利グスク」というのがあったみたいだ。ということは,“一自治体”として独立していたことの現れだろう。小さいから目も行き届きやすかったのではないか……時期としては,11〜12世紀の“グスク時代”と呼ばれたころのもの。各地域・各島で“按司”が現れて権力争いをした時代である。時期も規模もまったく異なるが,本土でいうところの“戦国時代”みたいなところだろう。ここから南山・中山・北山による“三山時代”となり,やがて尚巴志を初代とする南山の第一尚氏王統が,全国を制圧して琉球王朝の統一を成し遂げるのだ。
やがて大橋の姿が目に入った。集落に戻ってきたのだ。時刻は16時ちょっと前。2時間ちょいで島を1周したことになる。残り1時間は集落をブラブラしながら過ごそうか……早速,その入口には石垣のようなものがあって,中をのぞいてみたら香炉があった。御嶽だろうか。そして,もちろん島で唯一のガソリンスタンド「ENEOS」もあった。“レギュラー”と“軽油”のみで,思いっきり古ぼけたスタンド式給油機だ。しかも“レギュラー”のほうは,表示がアナログ式。機械がところどころ錆びついているのと,いまいち整頓されていないのが,いかにも地方の昔ながらのスタンドって感じである。
さて,1周道路は海に向かって大きく下っていくのであるが,私はというと,車…いや地元以外の車は進入禁止となっている集落の小道に入っている。標高は一番高いところで100mちょっとだそうだが,考えてみれば島の中心までは2〜3kmしかないわけで,それなりの急勾配となる。専門用語でいうと「海岸段丘」というそうだ。そういや昔“河岸段丘”なんてのは習った記憶があるが,それの“海バージョン”といったところか。いま私がいるのは,その海岸段丘の中腹あたりだろう。
その集落の家々は,しめ縄が飾られたままのところが見られた。はて,2月になったのにしめ縄とは,いい加減正月気分から抜けたら…と思ってしまうが,こちら沖縄では中国文化との影響だろう。節分前後の“旧正月”もまた,重視されているようだ。ちなみに,今年は2月9日。詳しいことは分からないが,それを考えればなるほど,しめ縄も納得できる。
そのまま急勾配を島の中心に向かって上がり,島で唯一の古宇利小学校・幼稚園に着いた。ホントはこれに中学校も“セット”になっていたわけだが,上述したように今帰仁中学校に吸収されている。全校生徒といったって,両方合わせても100人はいないであろう。それなのに100m×50mくらいはある広々とした校庭と,1学年で2教室をぶち抜きにしてもいいくらいの大きめな校舎。そして体育館。入口には創立100周年記念で大理石の門。ちょうど子どもたちが校庭でサッカーをしていたが,案外大橋ができたらば,こうやって週末に気ままに遊ぶことなんかもできなくなるのだろうか。否,集落へは観光客は車で乗り入れられないから,この光景はこれからも続いていくのだろう。
来た道を戻って少し東へ歩いていくと,ようやくというか商店が見えた。「与那嶺ストア」という店。日用品・食料品が置かれた店だ。その店頭に捜し求めていた(?)自販機があったので,ここにてアクエリアスの350ml缶を買う。中は…まあ入るまでもないだろう。洗剤と泡盛のビンとスナック菓子と園芸用の種が棚に入っていたのは,外からでも見ることができた。アクエリアスは,ノドがかなり渇いていたようで,グイグイと飲み干してしまった。

こうして,16時15分に古宇利港へ戻る。島に着いたときは急ぎ足だったので見られなかったが,「長い間お疲れ様でした/ありがとう古宇利丸」という小さい垂れ幕が手すりにかかっていた。その脇にはバカでかい10tトラックに,これまたものすごい量のサトウキビ。積載量をオーバーしているんじゃないかってくらいに荷台からはみ出ている。ひょっとして,これが帰りのフェリーに乗っていくのだろうか。そうじゃなきゃ,こんなとこにいないか。ちょっと恐ろしい気がしてきた。
近くにある待合室に入る。中にはオバちゃんが1人。「こんにちは」と声をかけられる。疲れたのでソファに座ってみた。奥は古い型のコピー機の上で雑誌がちらかっていたが,掃除なんてものはもはや必要ないってことだろう。この待合室もあと3日で閉鎖である。後で,近くに簡易トイレがあって「ご自由にお入りください」なんて看板があったので,試しに入ろうと思ったらウ×コだらけ。もっとも,すぐそばにはそれに比べればとてつもなくキレイな公衆トイレがあるのだが,残念ながら閉鎖中だった。多分,古宇利緑地が開園しないとトイレも開放しないのだろう。別に開放してくれたもいいのに。
話を戻す。座った目の前には美川憲一氏のコンサートのポスターが。見るべきものはそれくらいしかない。後は島の地形図みたいなのくらい……特に会話なんかはない。入ったときに「こんにちは」と挨拶をしたのみだ。そして,聞こえてくるのはお互いの息遣い……って,何だかミョーなな雰囲気になってきたので,外に出ることにした。何のために置かれていたのか分からないが,頑丈な古タイヤがあったので,そこに座って風に吹かれることにする。
――しばらくして,NHKの取材クルーがやってきた。どうやら,島の関係者の男性に話でも聞いていたようで,その人とフェリーが出るまでしばし歓談していた。そんな中,1人の作業着姿のオジさんが目の前を通り過ぎた。チノパンの男性(前回参照)は,そのオジさんに声をかけようと駆け寄っていく。しかし,オジさんは立ち止まらずにそそくさとフェリーに乗り込んでしまった。何かを聞き出したかったようだが,男性いわく「船長さん,恥ずかしいって。詳しいことは“小松さん”に聞いてくれって」とのこと。その“小松さん”は,どうやらクルーと一緒に歓談していた男性であったようだ。
そのうち,小屋にいた女性が出てきて,大型トラックの運ちゃんに「乗れるようになりましたけど,乗りますねー?」と声をかけた。おお,やっぱりこのトラックが乗るのか。これ1台で多分,フェリーの車置き場はいっぱいになるだろう。そんなトラックが珍しかったのか。あるいは,他に“撮らせるべき題材”がなかったのを申し訳なく思ったのか。“小松さん”が「何だったら,あのキビを積んだトラックでも撮ったら?」と,カメラを持ったオジさんと若い女性(前回参照)に声をかけていた。(第4回につづく)

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